ただひとさじの、わがままを
彼が美味しいって食べてくれる、それが嬉しかっただけなのに。
「お前、またブロッコリーかよ」
蒼真が不機嫌そうに、眉をひそめる。私は「でも」と言う。
「栄養いいって聞いたから……」
「俺嫌いって知ってるだろ? 他のものにしてくれよ」
「ごめん」
私が謝ると、蒼真は苛々したまま、箸を動かし始めた。
「勘弁してくれよ、俺、ただでさえ睨まれてるんだから」
私は黙り込む。睨まれてる、とは、彼の部のマネージャーだ。
蒼真の入っているバスケ部は、去年インハイに出場した。その立役者が、マネージャーの沢渡先輩だっていうのは、高校きっての噂だ。彼女はプロのトレーナーになるのが夢らしくて、部でそれを徹底していた。そして、彼女は自分の才覚でもって、弱小だったバスケ部をインハイ出場にまで導いたのだ。
部での信頼は絶対だった。私は俯く。
「桂木くん、お弁当?」
「あ、はい」
ある日のことだ。蒼真とお弁当を食べていると、沢渡先輩が背後にやってきていた。私の作ったお弁当を見て「うーん」と首を傾げる。
「ちょっと糖質オーバーかな。あと、タンパク質足りてないね」
「すみません」
蒼真が謝る。私は身を小さくして、そして「すみません」と謝った。それに対し、沢渡先輩は、少し困った笑みを私に向ける。「なんであなたが謝るの?」そんな顔だった。
「桂木くん、意識がたりなくない? これから夏に向けて、何をすべきかもう少し考えてね」
そう言って、先輩は鞄から小袋を取り出した。
「とりあえず、サプリ飲んでおいてね。今日のところは」
蒼真に渡すと去っていった。蒼真は、恥ずかしそうに俯いていた。それからだった。
蒼真が、私のお弁当にケチを付けるようになったのは。
「俺、先輩のメニュー食べないってだけで、相当睨まれてるんだぞ」
それが口癖になった。
沢渡先輩は、家庭の事情などで栄養管理のおぼつかない部員たちの為に、お弁当の差し入れを引き受けているらしい。もちろん材料費は取っているけど、破格の値段で、栄養面も完璧で、何よりすごく美味しいらしかった。一度、同じクラスのバスケ部の子のを見たことがある。売っているものみたいに完璧で、私の自信なんてものは、ぺしゃんこになった。
蒼真には事情はないけど、沢渡先輩に買われていて、お弁当作りを申し出られたらしい。
私なりに、栄養面を気にして勉強したり、工夫して作ってみたりするけど、蒼真には不評のようだった。
私は、蒼真が好きだし、彼女だから、私も力になれることを示したかったのかもしれない。けど、蒼真の評価は下がる一方だった。
よく考えれば、そりゃそうだよね、という話だ。
だって、部の信頼あつい沢渡先輩のお弁当を断って、彼女の私のお弁当だ。角が立つに決まってる。
けど、私はこのとき、完全に意地になっていて気づかなかった。何としても、私のお弁当が必要だって、蒼真に言ってほしかったのだ。
沢渡先輩に、恥を忍んで聞きに行ったこともある。沢渡先輩は、苦笑を浮かべて、
「まず、マネージャーになってくれる? 話はそれからかな」
と言った。私は恥ずかしかったし、何故だか無性に悔しかった。私は蒼真の彼女なのに、なんであなたの下につかなきゃいけないの。私は沢渡先輩が大嫌いになった。
◇
「もういい加減にしてくれよ」
蒼真に言われた。
「もうお前のワガママに付き合ってられない。俺、本気だから」
そう言って、振られた。私は呆然だった。ただひたすら、中学の時のことを思い出していた。
「めっちゃ美味しそう」
私が友達とクッキーを食べているとき、蒼真が声をかけてくれた。
私は忙しい両親の代わりに、家の食事を一手に引き受けていた。大変だったけど、弟たちが「おいしい」と言って食べてくれる、それが何より生きがいだった。
蒼真は、地味で目立たない私に、友達以外で気づいてくれた初めての人だった。料理が出来ることは、友達にも家族にもありがたがられたし、褒めてもらえた。でも、蒼真がほめてくれた時、自分が何か大きく開けた気がした。蒼真に料理を作って、「美味しい」って食べてもらえると、何だか知らないところへ連れて行かれる、そんな気がしたのだ。
それは『家族』とか、そういうものかもしれない。私は蒼真との未来を、自分の料理の先に夢想していたのだ。
けれども、その夢想は破られてしまった。蒼真の未来は、沢渡先輩の方へ開けていたのだ。沢渡先輩が、蒼真の夢なのだ。どんなに辛くても、沢渡先輩に腐されても、負けじと料理を作ってきたけど、もう限界なのだ。蒼真にとってそれは、迷惑だったのだから。
私は自分が悪かったんだと、反省しようとした。でも、それはいつも失敗に終わった。どうしても沢渡先輩のことが嫌いだったし、自分を弁護したかった。
友達にも、「あきらめなよ」と、言われた。けど、どこか皆、「莉子にも問題あるよね」という顔をしていて、そこが辛かった。誰か一人でも、私のために同情して、怒ってくれたら。そしたら、私も反省できるのに、そんな気持ちで、いっぱいだった。
◇
莉子と別れて、わかったことがある。俺は、莉子が好きだったのだ。
莉子は、頭が良くて、よく見れば、きれいな顔をしていた。面倒見がよく、グループでもしっかり者って顔をしてる女子だった。
「莉子のクッキー美味し〜」
莉子の友達が、莉子のクッキーを美味しそうに食べてる。その時、莉子は安心したみたいに、嬉しそうに笑ってる。その表情が、普段のキリッとしたイメージから離れてて、何だか惹かれた。
だから俺は、とっさに莉子に声をかけたのだ。莉子は、驚いた顔をして、それから「ありがと」とほほえんだ。俺はそれに、それをワクワクした気持ちになったのを覚えてる。覚えてたはずだった。
莉子と付き合うようになって、頼んだら莉子は毎日お弁当を作ってきてくれた。
「毎日ありがとう」
と言うと、「自分のも作ってるし」と言った。俺はそれにちょっと興が削がれたけど、「蒼真に作るのは特別だから」と、はにかんで言うので、すごく気分がよくなった。俺は莉子にとって、莉子を喜ばせられる人間なんだ。それが嬉しかった。
「桂木くん、いつもの」
沢渡先輩に手を差し出されて、俺は鞄の中を漁った。そして、茶封筒を差し出す。
「いつもすみません」
「こういう時は、ありがとう、ね。でもまあ、私がしたくてしてることだから」
そう言って薄く笑うと、先輩は去っていった。すらりとして、すごい美人の先輩は、ただ歩いているだけでも迫力がある。俺はその背を見送り、鞄を見下ろした。
お弁当にこれだけお金がかかってるなんて、知らなかった。皆によるとこれでも破格らしいのだ。はじめ、俺はお金がかかることを知らなくて、お金を用意していなかった。それで、先輩にも周囲にも呆れて引かれた。恥ずかしかった。
莉子には、お金なんて、言われたことなかったな。
別に、お金が惜しいんじゃない。ただ莉子は、いつも俺が「美味しい」って言うと笑ってくれた。そのことが唐突に身にしみてきた。
莉子はあれから、俯きがちに、思い詰めた顔をして、過ごしているようになった。莉子の友達にも、俺はよく睨まれてる。「気持ちはわかるけど、莉子の気持ちわかってやって」と言われた。
知らねえよと思った。女、面倒くせえなって。俺の部活での立場より、彼女の立場かよ。まあ、女友達ってそんなもんか。
俺の友達には、「まあ、よかったじゃん」というやつと、「もうちょっと話し合えば」というやつで半々だった。俺が「そんな暇ねえよ」と言うと、もう何も言われなかったけど。
莉子は何で、あんなに意固地になったんだろう。何で俺のこと、考えてくれなかったんだろう。
莉子らしくなかった。莉子はいつでも、ちゃんとしてて、しっかり者で、優しかったのに。お弁当のことになると意固地で、それで、部活の話もしづらくなった。入った部活は厳しくて、俺は莉子に一番に応援してほしかったのに。莉子といるなら、頑張っていけると思ってたのに。
◇
あんまり辛いから、別の人と付き合おうって考えた。でもまだ気持ちも冷めないし、そんな状態で付き合うのも不誠実な気がしたから、遊んでそうな人と付き合おうって思った。
「久慈先輩、お弁当食べてくださーい」
「ありがと、うれし〜」
久慈先輩は、学校で一番モテてて、浮き名を流してる人だった。脱色した髪がふわふわ、甘い目元に揺れている。蒼真とは大違いの、軟派なタイプの人。
そんな人が、何だって私みたいな人間に声をかけてきたのかわからないけど、その分、私は気が紛れた。
先輩はいつもご機嫌な人で、私に声をかけてきてても、にこにこ他の女の子たちからの差し入れも受け取るし、「可愛い」って言う人だった。けど、そこがよかった。私は、先輩に声をかける女の子ぶんのいちだし、そう思うと、最早苦行だったお弁当作りに気楽に取り組めるようになった。
「莉子ちゃんのご飯おいし〜」
「よくそんなに入りますね」
「俺、大食いなんだよね〜」
幸せそうにお弁当を頬張る先輩を、何となく、くすぐったいような気持ちで見てた。そうだ、私は、こんな顔が見たくて、料理してたんだなって、思い出した。
◇
莉子が、男と付き合い出した。それも女癖が悪いことで有名な、久慈先輩に。久慈先輩はバスケ部の先輩で、実力はあるけど沢渡先輩の言うことを聞かないので、沢渡先輩と折り合いが悪かった。沢渡先輩と言い合う(っていうより、沢渡先輩が怒ってるんだけど)たび、部活の空気が氷点下に達するので、皆、久慈先輩のことは迷惑に感じてた。皆、頑張ってるんだし、先輩なんだから、ちゃんとしてくれりゃいいのに。そう思うと苛ついて、なのにその久慈先輩と莉子が? 意味がわからなかった。
俺は動揺した。だから、莉子と先輩が一緒にいる所を見に行った。そしたら、何だか、莉子は別に楽しそうじゃなかった。暗い顔をしてるのを、先輩に強引に構われてた。
何だ。
俺はひどく安心して、それから莉子が心配になった。莉子は、今荒れてるってことだよな……俺と別れたせいで。
自分の影が、黒く伸びた気がした。莉子の笑顔が、思い出されてならなかった。
莉子に話をつけようと思った。話を聞いてやって、立ち直らせてやりたかった。弁当のことは、また頑張られても困るけど、莉子ともう一回付き合ってもいい。莉子が元気になるなら――そう、思ったのに。
◇
「どういうこと」
校舎裏、壁際。蒼真に問い詰められて、私は黙り込む。蒼真は焦れたように重ねた。
「何で久慈先輩なんかと。お前そんなやつじゃないじゃん」
私は唇を噛む。
「……俺のせい?」
蒼真の遠慮がちの言葉に、私は顔が真っ赤になった。
「桂木くんには関係ない」
とだけ言った。すると、今度は蒼真が真っ赤になった。壁に手を叩きつける。勢いの強さに私は圧される。こんな乱暴なこと、する人だっけ。
「関係ないわけないだろ、心配なんだよ!」
私は、目に涙が滲むのがわかった。今までで一番、痛い言葉だった。
「そんな心配いらない! 放っといて!」
「だから、放っとけるわけないだろ!?」
「何で!? 私のこと、いらないって言ったくせに!」
私は耳をふさいだ。もう何も聞きたくない。蒼真は、驚いているようだった。そりゃそうだと思う。私はいつも、みっともないところを見せないように気を張っていたから。
――もう、離れてほしい。なのに、私の肩の近くにある、蒼真の腕が熱い。顔を見ると、どうしようもなく、蒼真が好きだった。だから、この場から、離れなきゃいけなかった。
「ごめん」
蒼真が私を抱きしめた。初めて感じる蒼真の温度に、私は驚いてしまう。
「いらないなんて、言ってない。莉子が好きだ」
涙がまた、溢れる。
「嘘つき」
「嘘じゃない。そりゃ、弁当には困ったけど、莉子が嫌いになったわけじゃないよ」
蒼真の抱きしめる腕は、固く優しかった。私は悲しく温かい心地になる。
「莉子が不幸になるのは見てられない。だから、もう一度付き合おう」
私は泣いた。泣いて、蒼真の肩口に身を預けた。許せないと、思ったはずだった。なのに、どうしても蒼真から離れられなかった。
先輩には、ちゃんと謝った。先輩は、「そっか、残念」と言って「さみしかったら遊びに来てね」と笑って去っていった。最後までご機嫌で、優しかった。私は先輩に、心のなかで「ありがとう」を繰り返す。先輩がいたから、私はまた蒼真とやり直そうと思えた。私は蒼真の待つ、中庭へ向かう。お弁当を二人分、鞄に入れて。
◇
莉子と復縁して、一週間後。莉子は相変わらずお弁当を作ってくれている。俺が「美味しい」と言うと、笑ってくれる。ただ、
「沢渡先輩は、大丈夫?」
そう何度も尋ねてくれるようになった。俺は、「大丈夫」と返す。莉子は顔を俯かせた。
「無理して私のお弁当、食べなくていいよ」
「え」
「私、もうちゃんと、わかってるから」
そう言って、莉子は自分のお弁当を見下ろした。悲しげな横顔だった。
「ううん。やっぱり、付き合うのもやめよう」
俺の中の時が止まった。
◇
蒼真が戻ってきて、わかったことがある。私はやっぱり間違ってた。意地になって、蒼真のこと、何も考えてなかったんだと思う。蒼真が私を好きって言ってくれたから、ようやく反省できた。私はプチトマトを食べる。
「もういいから。私、嬉しかった」
それでも、お弁当を作ると、すごく息がつまった。沢渡先輩のことが、ずっと頭にちらついた。また駄目だしされるかなって、苦しくてうんざりした。
「だから、さよなら」
私はお弁当のフタを閉めた。もう、お腹がいっぱいだった。立ち上がり、その場を後にする。蒼真は、追いかけては来てくれなかった。蒼真が好き。けど、一緒にいて気付いた。私はもう駄目だ。
◇
莉子に振られた。
どういうことだ? 意味がわからない。何で莉子は、別れたいなんて言うんだろう。俺は弁当も食べてたのにどうして。何で、「無理しなくていい」なんていうんだろう。そりゃ、無理してないなんて言ったら嘘になる。お弁当を断った時の、沢渡先輩の追及は凄まじかった。「ちょっと小遣いが厳しくて」と説明して、ようやく納得してもらえた。それでも、サプリは毎回渡されるので、莉子に隠れて飲んでた。久慈先輩は変わらず、女子からたくさん弁当もらってた。莉子に手を出しておいて、そんなこと何もなかったようにヘラヘラして。なのに、先輩は実力があるから、勝手しててよかった。
俺はまだそんな実力もないから、そんなにデカい顔をするわけにはいかない。
何がいけなかったんだろう。何でだよ。意味がわからなかった。何がしたいんだよ。
怒りたいのに、手が震えていることに気付いた。俺は、莉子に振られたのか。
◇
「もういい加減あきらめなよ」
「合ってなかったんだよ」
友達にも言われる。女友達の正論は時々つらい。「莉子は恋愛絡むとわりに面倒くさい」って言われてるのも知ってる。私を省いて、ガス抜きしてるのも知ってる。私だってもうこんな自分は嫌だった。つらかった。元の自分に戻りたい。苦しくて、だから私は友達に相談するのはやめた。平気なふりして、一人になって泣いた。一緒にいるのも疲れて、だから、皆といるのも億劫になった。
恋愛一つで、ここまで私の人生は駄目になるんだなと思う。弟たちにも、「お姉ちゃんどうしたの?」って、聞かれてしまった。
「疲れてるなら、ご飯いいよ」
と言われて、
「そんなわけにもいかないでしょ」
って言ったら、カップラーメンを差し出された。本来なら、頼もしく思うところなのに、そんなことにさえ、こたえてしまった。
私は誰にも必要とされてない。そううずくまってしまった。
勉強もうまくいかなくて、先生にも叱られたし、もう自分のことを捨てたかった。毎日フラフラ歩いて、どこにいるかわからなかった。
私は呆然とおにぎりを食べた。友達とじゃなく、ひとりで食べるのは最近クセになっていた。何もする気が起きなくて、冷やご飯を握っただけのおにぎり。食べるのも億劫で、私はお茶で流し込んだ。ぼんやりしていると、影がさした。見上げると、蒼真が立っていた。
◇
「蒼真」
莉子が、呆然と俺を見上げていた。莉子はやつれてて、目元にはクマが浮いていた。そのことを痛々しくも、同時に希望に思う自分もいる。
今までの俺なら、「やせてる」って、莉子の目元を指せたのに、なのに俺は、釘付けになったみたいに、その場に立つしかなかった。
莉子に戻ってきてほしい。その一言が、ものすごく遠い。
沢渡先輩の言葉がよみがえる。
「また作ってほしい?」
沢渡先輩が顔をしかめる。
「どういうこと? いらないって言ったよね」
「すみません」
「すみませんじゃないの。どういうことかって聞いてるの」
ぱん、と沢渡先輩はボードを机に打ち付けた。
「あのね桂木くん。こっちは自動販売機じゃないの。『作って、作らないで、また作って』じゃとおらないの」
「すみません、やっぱり……」
断ろうとすると、沢渡先輩の目がいっそう厳しくなる。
「あのね、桂木くん。私がいやっていったらやめるの? その程度の気持ちで頼んできてるの?」
「いやでも」
「何、私のせいなの?」
沢渡先輩が声をとがらせる。高くなった声は、体育館中に響いていた。
「もっと自覚もとう? 自分が何をしたいか、もっと自分の頭で考えてよ。私は忙しいの、皆忙しいの。君の都合でふりまわしていいものじゃないのよ、わかる?」
言葉もなかった。俺はただ小さくなって、「はい」と頷いた。周囲も、俺のことを小馬鹿にしてるのがわかった。実力も伴ってないくせに、彼女のことでもめてるダサいやつって思われてる。
それだけの犠牲を払ってるのに、何で莉子はわかってくれないんだろう。何で、そんな怒るんだ。
「放っておいて」
「だから、放っておけるわけないだろ」
「いいから」
莉子は膝のうちに、上体を伏せた。俺はカッとなる。何で莉子は。
「だったらそんな不幸な顔するなよ!」
莉子は顔をあげる。ぼうっとした目が見開かれる。
「何なんだよ、意味わかんねえよ! 弁当食べても駄目、食べなくても駄目って、あげく別れるって、何がしたいんだよ!」
莉子の目に涙が浮かぶ。そのことに痛む胸があっても、もう止まらなかった。
「結局、自分の思う通りにしたいだけだろ! 付き合えねえよ!」
「――だったら放っといてよ!」
莉子が叫んだ。
「放っとけるわけないだろ!?」
「落ち込むくらい、好きにさせてよ! 私のことわがままとしか思えないなら、付き合えないって思うなら、私のことくらい無視してよ!」
こんなに泣くやつだったっけ。俺は呆然とする。莉子は身を震わせて、全身で泣いていた。
「そうだよ、私がワガママだよ! 蒼真だけじゃない、皆言ってるもん! 私が全部悪いんでしょ!」
「思ってもないくせに言うなよ!」
「なら、どうすればいいの? 何もできないくせに!」
あまりの言いように、カッとなった。莉子の両腕を引っ掴んで、壁に押し付ける。莉子が一瞬ひるんだのに、こっちもひるみそうになる気持ちはあった。けど、俺は止まらなかった。
「だから、弁当食べてやったろ! 俺が、どんだけお前のために……!」
莉子の目から、また涙が溢れた。それから呆然と表情を凍らせる。濡れた頬に、涙がまた、新しく伝っていた。
「ごめんなさい」
莉子は呟いた。
俺は言う。
「思ってもないくせに」
莉子は何も言わなかった。
◇
言いたいことはたくさんあった。言わなきゃずっと言えないままだってわかった。けどもう、何も言いたくない。疲れていた。
だからこそ、私は終わりのつもりで、言葉を紡ぐことができた。
「それで、私はどうしたらいいの」
蒼真は不可解そうな顔をした。
「元気にしてれば、蒼真は満足?」
「だから、」
「私とやり直したいなんて、思ってもないくせに」
「だから!」
蒼真が声を荒げる。
「何でそうなるんだよ! 俺はお前が……!」
「うそつき」
私の頬に、また涙が伝う。蒼真の目が見開かれ、それから険しくなる。
「本気で言ってんのかよ」
「言ってるよ。先輩に逆らう度胸もないくせに」
蒼真が息を呑む。
「それが本音かよ」
私に失望してるのがわかった。私は続ける。
「そのくせ、私のお弁当、断る勇気もないくせに……」
私はうなだれた。
「私がおかしいことくらい、わかってる。でも、蒼真のお弁当、私が作りたかった。マネージャーでも、嫌な気持ち、聞いてほしかった。ちゃんと私に謝って、話してくれたら、私だって、こんなムキにならないで、我慢できたよ……」
「だってそれは」
「わかってる。部活のためだって言うんでしょ。でも私は嫌だった。私はたしかにワガママだよ。でも、私のこと好きなら、話くらい聞いてほしかったよ」
沈黙が広がる。殴られるかと思ったけど、蒼真は何も言わなかった。私は鼻をすすり、涙をぬぐった。みっともない、わがままで身勝手な自分。でも、もうつくろえなかった。
結局、押し付けてただけ。私だけじゃない、蒼真も。私達の関係を続けるには、もう我慢の上にしか成り立たないんだ。ならもういい。
「さよなら」
私は今度こそ、蒼真を振り払った。
◇
去っていく莉子を、俺は呆然と見送った。追いかけられない。そうするには、気持ちに嘘が混ざりすぎていた。けど、悲しげな、疲れ切った莉子の顔が、頭から離れなかった。
◇
初めて蒼真にお弁当を作った日のことを思い出す。
「すげえ。俺これ食っていいの?」
蒼真はびっくりしながら、私のお弁当に手を伸ばした。子供が欲しかったおもちゃにこわごわ手を伸ばすような、そんな手つきで、私のお弁当を両手で包むと、愛おしげに見下ろした。
「すげー嬉しい。ありがと、莉子」
そう言って、私に笑ってくれた。
蒼真はいつも喜んでくれた。食べるのを惜しんで、写真を撮ってくれた。そんな風に、私の料理を扱ってくれた人は初めてだった。私が特別だって、言ってくれてる気がして、私はもっと、蒼真の中に入りたくて、思い出になりたくて――いつも楽しくていつも必死だった。
私は空を見上げる。青い空に雲が一つ、おっとりと浮かんでいた。風が吹いて、私の頬を乾かす。
無理しすぎた、我慢しすぎた。今だけは、自分のことを全力でかわいそうに思ってやりたかった。だってそれは、私にしかできないから。そして、そうしなきゃ、いつまでも反省なんて、できっこないから。
私は蒼真に無理してほしいわけじゃない。無理して、部内での立場を悪くしてまで、私のお弁当を食べてほしいわけじゃない。私だって、蒼真を応援したかった。
じゃあ何故、あんなにムキになったんだろう。蒼真のことが好きだったから? ちょっと違う。ただ、私は蒼真に、私のお弁当を、私を惜しんでほしかったのだ。
「いちばんは莉子のお弁当だ」
って言ってほしかった。「好きなのは莉子だ」って、そんなワガママ、正しくないって思ってたけど、私は蒼真に、私だけの人になってほしかった。私が何度すねても、何度だって、何度だって、好きだよって。
「ワガママだなあ」
自己弁護する。私はそんなワガママじゃないって、でも結局、これが本音だった。ちっぽけで、ずるい私の本音。それを隠して結局、こんなに面倒くさくて。
こんな自分、蒼真に好きになってもらえるわけがない。振られて当然だ。そう思おうとしてやめた。
だって、半分も納得できていないから。蒼真だって悪い。そうしてくれなかった、蒼真だって悪いって、私はすごく恨んでる。だから嘘はつかない。これ以上、ずるくなりたくないから。
蒼真の馬鹿、浮気者、薄情者、嘘つき、臆病者――あらん限りの罵倒を空に投げかけた。ぐるぐるになった心の果てに、見えたのは蒼真の笑顔。
でも好き。蒼真のことが、すごく好き。だから、私の言う事、聞いてほしかった。ずっと好き。私のこと、好きって言ってくれた――
そんな奇跡を、いつの間にか、蹴飛ばしていた。ああ、けど、次は――次のことは浮かばないけど。でも、次は絶対、そんな私を受け止めてくれる人と一緒にいたい。
最大級のワガママを、私は心の真ん中に置いた。
◇
莉子は、あれから、いつもの莉子に戻っていた。しゃんとして、グループのまとめ役に戻った莉子は、皆にクッキーをすすめてた。その笑顔に、前みたいな寄る辺なさはなかった。何かひとつ、胸をはっているように、強く見えた。
莉子は久慈先輩と付き合い出したみたいだった。久慈先輩が猛アプローチしたみたいで、皆、意外だって言ってた。
莉子は先輩にお弁当を渡す。
「ありがと、莉子ちゃん」
先輩は、嬉しそうにお弁当を見下ろす。その表情を見上げる莉子は、幸せそうだった。
「桂木くん」
彼女に呼ばれて、俺は慌てて向き直った。丁度、先輩と莉子が付き合い出したとき、アプローチしてきてくれた子だった。俺には勿体ないくらい、いい子だった。
莉子と違って、面倒なこと言わないし、待っててくれる。応援してくれて、自分をしっかり持ってる子。
友達たちは皆、「彼女はいい子だ」ってほめてくれた。「元カノ、合ってなかったよ」って言ってくれる。そのたび、俺は自分の選択が間違ってなかったって思える。
でも、莉子の楽しそうな顔が、ずっと胸にちらついていた。
◇
久慈先輩と付き合い出したのは、本当に偶然だった。あれから、先輩は私に声をかけてくれた。
「悪いと思ってるなら、お弁当作って」
って、私に言った。私は、あてもなく先輩のご飯を作ってた。先輩が何を考えているか、全然わからなかったけど、先輩はお弁当を食べる間、私のそばにいてくれた。それが、とても安らいだ。
私も何か自分に芯を作りたくて、とりあえず勉強を頑張り始めた。その矢先、先輩に告白された。
「一生、俺のそばで笑ってて」
買い物の帰りで、先輩は私の買い物袋を持っていた。私はぽかんとしてしまった。
「何でですか?」
思えば、酷い返しだった。先輩は真剣な目で、
「莉子ちゃんが好き。俺には莉子ちゃんが必要なの」
と言ってくれた。全然わからなかった。だって、私のどこがいいのか全然わからない。
けど、私は先輩の顔を見てると、なんだか呆然としてしまって、その目を離したくないと思ってしまった。だから。
先輩を好きかもわからないのに、頷いてしまったのだ。
◇
彼女に振られた。
「一緒にいる意味が感じられなくなったから」
と言われた。全然わからなくて、なのに、「何で」と問うことも出来なかった。彼女は「聞かないんだね」と悲しげに言った。
「もういいよ」
そして、去っていった。
次に出来た彼女は、他にやりたいことがある子で、すぐに別れた。
「恋人作るなとは言わないけど、あまりナメないでね」
と、沢渡先輩に叱られる。俺だって、何でこんなに付き合って別れてを繰り返すのかわからない。ただ、一人でいるのがひどく堪えた。やさしくて、完璧な彼女はたくさんいる。友達だって惜しがって、でも「もっと合うやついるよ」って言ってくれる。けど、友達が、影で「あいつ何がしたいんだろ」って言ってるのも知ってる。
何で俺が。俺はこんなやつじゃなかった。もっと真面目にやってきたのに、今や俺の評価はとんだ遊び人だ。肩書だけ見れば。
なのに、俺はやめられなかった。心の中にある痛いものに、触れたくなかった。
廊下を歩いていると、職員室から人が出てきた。
「失礼しました」
莉子だった。思わず立ち止まって見てしまう。莉子はポケットから、スマホを取り出すと、嬉しそうに笑った。誰を思ってるかなんてすぐにわかった。
莉子が顔を上げる。俺を見て、驚いたように目を丸くした。
「桂木くん」
俺の中で、何かが切れた。
◇
「離して!」
手首を掴む手は緩むことはなく、私は人気のない校舎裏に連れられていた。
「痛い、なんなの?」
私は手を振りほどこうとする。蒼真は振り向かず、ずっと私に背を向けていた。
久しぶりにちゃんと見る蒼真は、なんだか荒んでいて、違う人に見えた。少し怖くなって、私は身を固くする。何とか、離れたかった。手の中で、スマホが震える。その瞬間、蒼真の力が強くなった。
「なんなんだよ」
蒼真が振り返った。その目はわなわなと見開かれ、私を不安定に映していた。
「楽しいかよ、俺だけこんなにして……」
私はいっそう身を固くする。今の蒼真は普通じゃない。怖い。私は逃げようと手を引いた。
「何言ってるか、わかんない。離して」
声が、自分でも驚くほど震えてる。私は怯えている。蒼真にもそれが伝わったらしい。蒼真は愕然とした顔になり、それから叫んだ。
「何びびってるんだよ! 俺がそんなにおかしいのかよ!」
怖い。蒼真の手の力は強くなる一方だ。涙が勝手に滲んだ。どうしちゃったの? 何で蒼真は。蒼真がわからなくて、怖くて、私はひたすら掴まれていない方の手で、顔を隠した。スマホが震える。
先輩、先輩。助けて。
私はスマホに視線を向けた。その時だった。蒼真に強く引き寄せられた。
◇
気づいたら、俺は莉子を抱きしめていた。
もうボロボロだった。莉子は俺を、おそろしいものを見るような目で見た。そのことが悔しくてやるせなくて、俺は怒鳴り散らした。さらせるだけの醜態を、すべてさらして。俺はそれでも、止められなくて。
目の前で、莉子が泣いてる。
その時、莉子の笑顔が、脳裏に浮かんだ。その瞬間、俺は。
◇
「そばにいてくれ」
蒼真が泣いてる。
「お前のせいで、俺はめちゃくちゃだ。責任取ってくれ」
蒼真の声はかすれて、弱々しかった。
「蒼真?」
「好きだ。お前がいないと、駄目なんだ……」
蒼真の肩口は、少しすえた汗の匂いがした。蒼真らしくない、熱の匂い。胸が痛くなった。どうしようもなく、切なかった。
「無理だよ、蒼真」
「お前じゃなきゃ駄目だ。俺は莉子がいないと、何も出来ない」
蒼真の涙が、肩に染みる。
「俺には莉子が必要なんだ」
蒼真の心は、ひとつずつ私の心にしみていった。私の中の、ずっと泣いていた私に、届く。私は目を閉じた。
◇
「ありがとう」
莉子は言った。泣いているのか、一度だけ、鼻をすすった。それから、大きく息を吸う。
「その言葉が、ずっと欲しかった」
俺は目を見開き、体を離して莉子を見つめる。莉子は、頬にひとすじ涙を伝わせていた。けど、しっかりした顔付きで、俺を見ていた。
「でも、私、蒼真とは付き合えない」
息が止まる。俺は莉子を見つめる。
「何で」
「私は、先輩と生きてくって決めたから」
「何で」
「何でも」
「部活のことか? それなら俺……」
「蒼真」
莉子は首を振った。
「そうじゃないの。ただ、私の生きていく人はもう先輩なの」
何を言っているのかわからない。ただわかるのは、莉子は俺を許してはくれないということだ。莉子は微笑した。
「蒼真に、必要って言ってもらえて嬉しかったよ。でも、その時、全部もう終わったんだってわかったの。今、蒼真とやり直しても、恋じゃない」
◇
蒼真が私を求めてくれた。その時、癒やされた気がした。けど、私にとってすべて終わったことだった。蒼真をそばに感じる。痛いほど好きだってわかる。そう、好きだった。
どんなに胸が痛くても、それは今を生きていくためのものじゃない。離れがたくても、名残惜しくても、私のそばにいる人は、もう蒼真じゃない。
「さよなら」
私は告げる。
「今度こそ、本当にさよなら」
蒼真の腕から力が抜ける。私は抜け出して、歩き出した。目に涙がにじむ。
ありがとう、蒼真。ワガママ聞いてくれた。本当にありがとう。
私は涙をふいて、歩き出した。
「莉子ちゃん」
校舎裏を出ると、先輩がもうすぐそこまで来ていた。手には、スマホが握られている。
「どうしたの?」
泣いてる私を見て、先輩は私の顔を覗き込む。私は先輩の腕の中に飛び込んだ。
「先輩」
先輩が、驚きに息をつめたのがわかる。それなのに、おずおずと私の背に手が回される。
「先輩」
私はもう一度、先輩を呼んだ。先輩のあたたかな胸に、耳を押し付ける。たしかな鼓動が、私にシンクロした。
「ずっとそばにいてください」
「莉子ちゃん」
「先輩が好きです」
まわされた先輩の腕が、熱を持ち、そして強くなる。
「うん」
先輩は応える。
「ずっといる。離さないから」
私は笑って、幸せにまどろむように、目を閉じた。
《了》