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ただひとさじの、わがままを

 彼が美味しいって食べてくれる、それが嬉しかっただけなのに。


「お前、またブロッコリーかよ」


 蒼真(そうま)が不機嫌そうに、眉をひそめる。私は「でも」と言う。


「栄養いいって聞いたから……」

「俺嫌いって知ってるだろ? 他のものにしてくれよ」

「ごめん」


 私が謝ると、蒼真は苛々したまま、箸を動かし始めた。


「勘弁してくれよ、俺、ただでさえ睨まれてるんだから」


 私は黙り込む。睨まれてる、とは、彼の部のマネージャーだ。

 蒼真の入っているバスケ部は、去年インハイに出場した。その立役者が、マネージャーの沢渡(さわたり)先輩だっていうのは、高校きっての噂だ。彼女はプロのトレーナーになるのが夢らしくて、部でそれを徹底していた。そして、彼女は自分の才覚でもって、弱小だったバスケ部をインハイ出場にまで導いたのだ。

 部での信頼は絶対だった。私は俯く。


「桂木くん、お弁当?」

「あ、はい」


ある日のことだ。蒼真とお弁当を食べていると、沢渡先輩が背後にやってきていた。私の作ったお弁当を見て「うーん」と首を傾げる。


「ちょっと糖質オーバーかな。あと、タンパク質足りてないね」

「すみません」


 蒼真が謝る。私は身を小さくして、そして「すみません」と謝った。それに対し、沢渡先輩は、少し困った笑みを私に向ける。「なんであなたが謝るの?」そんな顔だった。


「桂木くん、意識がたりなくない? これから夏に向けて、何をすべきかもう少し考えてね」


 そう言って、先輩は鞄から小袋を取り出した。


「とりあえず、サプリ飲んでおいてね。今日のところは」


 蒼真に渡すと去っていった。蒼真は、恥ずかしそうに俯いていた。それからだった。

 蒼真が、私のお弁当にケチを付けるようになったのは。


「俺、先輩のメニュー食べないってだけで、相当睨まれてるんだぞ」


 それが口癖になった。

 沢渡先輩は、家庭の事情などで栄養管理のおぼつかない部員たちの為に、お弁当の差し入れを引き受けているらしい。もちろん材料費は取っているけど、破格の値段で、栄養面も完璧で、何よりすごく美味しいらしかった。一度、同じクラスのバスケ部の子のを見たことがある。売っているものみたいに完璧で、私の自信なんてものは、ぺしゃんこになった。

 蒼真には事情はないけど、沢渡先輩に買われていて、お弁当作りを申し出られたらしい。

 私なりに、栄養面を気にして勉強したり、工夫して作ってみたりするけど、蒼真には不評のようだった。

 私は、蒼真が好きだし、彼女だから、私も力になれることを示したかったのかもしれない。けど、蒼真の評価は下がる一方だった。

 よく考えれば、そりゃそうだよね、という話だ。

 だって、部の信頼あつい沢渡先輩のお弁当を断って、彼女の私のお弁当だ。角が立つに決まってる。

 けど、私はこのとき、完全に意地になっていて気づかなかった。何としても、私のお弁当が必要だって、蒼真に言ってほしかったのだ。

 沢渡先輩に、恥を忍んで聞きに行ったこともある。沢渡先輩は、苦笑を浮かべて、


「まず、マネージャーになってくれる? 話はそれからかな」


 と言った。私は恥ずかしかったし、何故だか無性に悔しかった。私は蒼真の彼女なのに、なんであなたの下につかなきゃいけないの。私は沢渡先輩が大嫌いになった。


 

「もういい加減にしてくれよ」


 蒼真に言われた。


「もうお前のワガママに付き合ってられない。俺、本気だから」


そう言って、振られた。私は呆然だった。ただひたすら、中学の時のことを思い出していた。


「めっちゃ美味しそう」


 私が友達とクッキーを食べているとき、蒼真が声をかけてくれた。

 私は忙しい両親の代わりに、家の食事を一手に引き受けていた。大変だったけど、弟たちが「おいしい」と言って食べてくれる、それが何より生きがいだった。

 蒼真は、地味で目立たない私に、友達以外で気づいてくれた初めての人だった。料理が出来ることは、友達にも家族にもありがたがられたし、褒めてもらえた。でも、蒼真がほめてくれた時、自分が何か大きく開けた気がした。蒼真に料理を作って、「美味しい」って食べてもらえると、何だか知らないところへ連れて行かれる、そんな気がしたのだ。

 それは『家族』とか、そういうものかもしれない。私は蒼真との未来を、自分の料理の先に夢想していたのだ。


 けれども、その夢想は破られてしまった。蒼真の未来は、沢渡先輩の方へ開けていたのだ。沢渡先輩が、蒼真の夢なのだ。どんなに辛くても、沢渡先輩に腐されても、負けじと料理を作ってきたけど、もう限界なのだ。蒼真にとってそれは、迷惑だったのだから。

 私は自分が悪かったんだと、反省しようとした。でも、それはいつも失敗に終わった。どうしても沢渡先輩のことが嫌いだったし、自分を弁護したかった。

 友達にも、「あきらめなよ」と、言われた。けど、どこか皆、「莉子(りこ)にも問題あるよね」という顔をしていて、そこが辛かった。誰か一人でも、私のために同情して、怒ってくれたら。そしたら、私も反省できるのに、そんな気持ちで、いっぱいだった。



 莉子と別れて、わかったことがある。俺は、莉子が好きだったのだ。

 莉子は、頭が良くて、よく見れば、きれいな顔をしていた。面倒見がよく、グループでもしっかり者って顔をしてる女子だった。


「莉子のクッキー美味し〜」


 莉子の友達が、莉子のクッキーを美味しそうに食べてる。その時、莉子は安心したみたいに、嬉しそうに笑ってる。その表情が、普段のキリッとしたイメージから離れてて、何だか惹かれた。

 だから俺は、とっさに莉子に声をかけたのだ。莉子は、驚いた顔をして、それから「ありがと」とほほえんだ。俺はそれに、それをワクワクした気持ちになったのを覚えてる。覚えてたはずだった。

 莉子と付き合うようになって、頼んだら莉子は毎日お弁当を作ってきてくれた。


「毎日ありがとう」


 と言うと、「自分のも作ってるし」と言った。俺はそれにちょっと興が削がれたけど、「蒼真に作るのは特別だから」と、はにかんで言うので、すごく気分がよくなった。俺は莉子にとって、莉子を喜ばせられる人間なんだ。それが嬉しかった。


「桂木くん、いつもの」


 沢渡先輩に手を差し出されて、俺は鞄の中を漁った。そして、茶封筒を差し出す。


「いつもすみません」

「こういう時は、ありがとう、ね。でもまあ、私がしたくてしてることだから」


 そう言って薄く笑うと、先輩は去っていった。すらりとして、すごい美人の先輩は、ただ歩いているだけでも迫力がある。俺はその背を見送り、鞄を見下ろした。

 お弁当にこれだけお金がかかってるなんて、知らなかった。皆によるとこれでも破格らしいのだ。はじめ、俺はお金がかかることを知らなくて、お金を用意していなかった。それで、先輩にも周囲にも呆れて引かれた。恥ずかしかった。

 莉子には、お金なんて、言われたことなかったな。

 別に、お金が惜しいんじゃない。ただ莉子は、いつも俺が「美味しい」って言うと笑ってくれた。そのことが唐突に身にしみてきた。

 莉子はあれから、俯きがちに、思い詰めた顔をして、過ごしているようになった。莉子の友達にも、俺はよく睨まれてる。「気持ちはわかるけど、莉子の気持ちわかってやって」と言われた。

 知らねえよと思った。女、面倒くせえなって。俺の部活での立場より、彼女の立場かよ。まあ、女友達ってそんなもんか。

 俺の友達には、「まあ、よかったじゃん」というやつと、「もうちょっと話し合えば」というやつで半々だった。俺が「そんな暇ねえよ」と言うと、もう何も言われなかったけど。

 莉子は何で、あんなに意固地になったんだろう。何で俺のこと、考えてくれなかったんだろう。

 莉子らしくなかった。莉子はいつでも、ちゃんとしてて、しっかり者で、優しかったのに。お弁当のことになると意固地で、それで、部活の話もしづらくなった。入った部活は厳しくて、俺は莉子に一番に応援してほしかったのに。莉子といるなら、頑張っていけると思ってたのに。



 あんまり辛いから、別の人と付き合おうって考えた。でもまだ気持ちも冷めないし、そんな状態で付き合うのも不誠実な気がしたから、遊んでそうな人と付き合おうって思った。


久慈(くじ)先輩、お弁当食べてくださーい」

「ありがと、うれし〜」


 久慈先輩は、学校で一番モテてて、浮き名を流してる人だった。脱色した髪がふわふわ、甘い目元に揺れている。蒼真とは大違いの、軟派なタイプの人。

 そんな人が、何だって私みたいな人間に声をかけてきたのかわからないけど、その分、私は気が紛れた。

 先輩はいつもご機嫌な人で、私に声をかけてきてても、にこにこ他の女の子たちからの差し入れも受け取るし、「可愛い」って言う人だった。けど、そこがよかった。私は、先輩に声をかける女の子ぶんのいちだし、そう思うと、最早苦行だったお弁当作りに気楽に取り組めるようになった。


「莉子ちゃんのご飯おいし〜」

「よくそんなに入りますね」

「俺、大食いなんだよね〜」


 幸せそうにお弁当を頬張る先輩を、何となく、くすぐったいような気持ちで見てた。そうだ、私は、こんな顔が見たくて、料理してたんだなって、思い出した。



 莉子が、男と付き合い出した。それも女癖が悪いことで有名な、久慈先輩に。久慈先輩はバスケ部の先輩で、実力はあるけど沢渡先輩の言うことを聞かないので、沢渡先輩と折り合いが悪かった。沢渡先輩と言い合う(っていうより、沢渡先輩が怒ってるんだけど)たび、部活の空気が氷点下に達するので、皆、久慈先輩のことは迷惑に感じてた。皆、頑張ってるんだし、先輩なんだから、ちゃんとしてくれりゃいいのに。そう思うと苛ついて、なのにその久慈先輩と莉子が? 意味がわからなかった。

 俺は動揺した。だから、莉子と先輩が一緒にいる所を見に行った。そしたら、何だか、莉子は別に楽しそうじゃなかった。暗い顔をしてるのを、先輩に強引に構われてた。

 何だ。

 俺はひどく安心して、それから莉子が心配になった。莉子は、今荒れてるってことだよな……俺と別れたせいで。

 自分の影が、黒く伸びた気がした。莉子の笑顔が、思い出されてならなかった。

 莉子に話をつけようと思った。話を聞いてやって、立ち直らせてやりたかった。弁当のことは、また頑張られても困るけど、莉子ともう一回付き合ってもいい。莉子が元気になるなら――そう、思ったのに。




「どういうこと」


 校舎裏、壁際。蒼真に問い詰められて、私は黙り込む。蒼真は焦れたように重ねた。


「何で久慈先輩なんかと。お前そんなやつじゃないじゃん」


 私は唇を噛む。


「……俺のせい?」


 蒼真の遠慮がちの言葉に、私は顔が真っ赤になった。


「桂木くんには関係ない」


 とだけ言った。すると、今度は蒼真が真っ赤になった。壁に手を叩きつける。勢いの強さに私は圧される。こんな乱暴なこと、する人だっけ。


「関係ないわけないだろ、心配なんだよ!」


 私は、目に涙が滲むのがわかった。今までで一番、痛い言葉だった。


「そんな心配いらない! 放っといて!」

「だから、放っとけるわけないだろ!?」

「何で!? 私のこと、いらないって言ったくせに!」


 私は耳をふさいだ。もう何も聞きたくない。蒼真は、驚いているようだった。そりゃそうだと思う。私はいつも、みっともないところを見せないように気を張っていたから。

 ――もう、離れてほしい。なのに、私の肩の近くにある、蒼真の腕が熱い。顔を見ると、どうしようもなく、蒼真が好きだった。だから、この場から、離れなきゃいけなかった。


「ごめん」


 蒼真が私を抱きしめた。初めて感じる蒼真の温度に、私は驚いてしまう。


「いらないなんて、言ってない。莉子が好きだ」


 涙がまた、溢れる。


「嘘つき」

「嘘じゃない。そりゃ、弁当には困ったけど、莉子が嫌いになったわけじゃないよ」


 蒼真の抱きしめる腕は、固く優しかった。私は悲しく温かい心地になる。


「莉子が不幸になるのは見てられない。だから、もう一度付き合おう」


 私は泣いた。泣いて、蒼真の肩口に身を預けた。許せないと、思ったはずだった。なのに、どうしても蒼真から離れられなかった。


 先輩には、ちゃんと謝った。先輩は、「そっか、残念」と言って「さみしかったら遊びに来てね」と笑って去っていった。最後までご機嫌で、優しかった。私は先輩に、心のなかで「ありがとう」を繰り返す。先輩がいたから、私はまた蒼真とやり直そうと思えた。私は蒼真の待つ、中庭へ向かう。お弁当を二人分、鞄に入れて。




 莉子と復縁して、一週間後。莉子は相変わらずお弁当を作ってくれている。俺が「美味しい」と言うと、笑ってくれる。ただ、


「沢渡先輩は、大丈夫?」


 そう何度も尋ねてくれるようになった。俺は、「大丈夫」と返す。莉子は顔を俯かせた。


「無理して私のお弁当、食べなくていいよ」

「え」

「私、もうちゃんと、わかってるから」


 そう言って、莉子は自分のお弁当を見下ろした。悲しげな横顔だった。


「ううん。やっぱり、付き合うのもやめよう」


 俺の中の時が止まった。



 蒼真が戻ってきて、わかったことがある。私はやっぱり間違ってた。意地になって、蒼真のこと、何も考えてなかったんだと思う。蒼真が私を好きって言ってくれたから、ようやく反省できた。私はプチトマトを食べる。


「もういいから。私、嬉しかった」


 それでも、お弁当を作ると、すごく息がつまった。沢渡先輩のことが、ずっと頭にちらついた。また駄目だしされるかなって、苦しくてうんざりした。


「だから、さよなら」


 私はお弁当のフタを閉めた。もう、お腹がいっぱいだった。立ち上がり、その場を後にする。蒼真は、追いかけては来てくれなかった。蒼真が好き。けど、一緒にいて気付いた。私はもう駄目だ。




 莉子に振られた。

 どういうことだ? 意味がわからない。何で莉子は、別れたいなんて言うんだろう。俺は弁当も食べてたのにどうして。何で、「無理しなくていい」なんていうんだろう。そりゃ、無理してないなんて言ったら嘘になる。お弁当を断った時の、沢渡先輩の追及は凄まじかった。「ちょっと小遣いが厳しくて」と説明して、ようやく納得してもらえた。それでも、サプリは毎回渡されるので、莉子に隠れて飲んでた。久慈先輩は変わらず、女子からたくさん弁当もらってた。莉子に手を出しておいて、そんなこと何もなかったようにヘラヘラして。なのに、先輩は実力があるから、勝手しててよかった。

 俺はまだそんな実力もないから、そんなにデカい顔をするわけにはいかない。

 何がいけなかったんだろう。何でだよ。意味がわからなかった。何がしたいんだよ。

 怒りたいのに、手が震えていることに気付いた。俺は、莉子に振られたのか。



「もういい加減あきらめなよ」

「合ってなかったんだよ」


 友達にも言われる。女友達の正論は時々つらい。「莉子は恋愛絡むとわりに面倒くさい」って言われてるのも知ってる。私を省いて、ガス抜きしてるのも知ってる。私だってもうこんな自分は嫌だった。つらかった。元の自分に戻りたい。苦しくて、だから私は友達に相談するのはやめた。平気なふりして、一人になって泣いた。一緒にいるのも疲れて、だから、皆といるのも億劫になった。

 恋愛一つで、ここまで私の人生は駄目になるんだなと思う。弟たちにも、「お姉ちゃんどうしたの?」って、聞かれてしまった。

 

「疲れてるなら、ご飯いいよ」


 と言われて、


「そんなわけにもいかないでしょ」


 って言ったら、カップラーメンを差し出された。本来なら、頼もしく思うところなのに、そんなことにさえ、こたえてしまった。

 私は誰にも必要とされてない。そううずくまってしまった。

 勉強もうまくいかなくて、先生にも叱られたし、もう自分のことを捨てたかった。毎日フラフラ歩いて、どこにいるかわからなかった。

 私は呆然とおにぎりを食べた。友達とじゃなく、ひとりで食べるのは最近クセになっていた。何もする気が起きなくて、冷やご飯を握っただけのおにぎり。食べるのも億劫で、私はお茶で流し込んだ。ぼんやりしていると、影がさした。見上げると、蒼真が立っていた。



「蒼真」


 莉子が、呆然と俺を見上げていた。莉子はやつれてて、目元にはクマが浮いていた。そのことを痛々しくも、同時に希望に思う自分もいる。

 今までの俺なら、「やせてる」って、莉子の目元を指せたのに、なのに俺は、釘付けになったみたいに、その場に立つしかなかった。

 莉子に戻ってきてほしい。その一言が、ものすごく遠い。

 沢渡先輩の言葉がよみがえる。


「また作ってほしい?」


 沢渡先輩が顔をしかめる。


「どういうこと? いらないって言ったよね」

「すみません」

「すみませんじゃないの。どういうことかって聞いてるの」


 ぱん、と沢渡先輩はボードを机に打ち付けた。


「あのね桂木くん。こっちは自動販売機じゃないの。『作って、作らないで、また作って』じゃとおらないの」

「すみません、やっぱり……」


 断ろうとすると、沢渡先輩の目がいっそう厳しくなる。


「あのね、桂木くん。私がいやっていったらやめるの? その程度の気持ちで頼んできてるの?」

「いやでも」

「何、私のせいなの?」


 沢渡先輩が声をとがらせる。高くなった声は、体育館中に響いていた。


「もっと自覚もとう? 自分が何をしたいか、もっと自分の頭で考えてよ。私は忙しいの、皆忙しいの。君の都合でふりまわしていいものじゃないのよ、わかる?」


 言葉もなかった。俺はただ小さくなって、「はい」と頷いた。周囲も、俺のことを小馬鹿にしてるのがわかった。実力も伴ってないくせに、彼女のことでもめてるダサいやつって思われてる。

 それだけの犠牲を払ってるのに、何で莉子はわかってくれないんだろう。何で、そんな怒るんだ。


「放っておいて」

「だから、放っておけるわけないだろ」

「いいから」


 莉子は膝のうちに、上体を伏せた。俺はカッとなる。何で莉子は。


「だったらそんな不幸な顔するなよ!」


 莉子は顔をあげる。ぼうっとした目が見開かれる。


「何なんだよ、意味わかんねえよ! 弁当食べても駄目、食べなくても駄目って、あげく別れるって、何がしたいんだよ!」


 莉子の目に涙が浮かぶ。そのことに痛む胸があっても、もう止まらなかった。


「結局、自分の思う通りにしたいだけだろ! 付き合えねえよ!」

「――だったら放っといてよ!」


 莉子が叫んだ。


「放っとけるわけないだろ!?」

「落ち込むくらい、好きにさせてよ! 私のことわがままとしか思えないなら、付き合えないって思うなら、私のことくらい無視してよ!」


 こんなに泣くやつだったっけ。俺は呆然とする。莉子は身を震わせて、全身で泣いていた。


「そうだよ、私がワガママだよ! 蒼真だけじゃない、皆言ってるもん! 私が全部悪いんでしょ!」

「思ってもないくせに言うなよ!」

「なら、どうすればいいの? 何もできないくせに!」


 あまりの言いように、カッとなった。莉子の両腕を引っ掴んで、壁に押し付ける。莉子が一瞬ひるんだのに、こっちもひるみそうになる気持ちはあった。けど、俺は止まらなかった。


「だから、弁当食べてやったろ! 俺が、どんだけお前のために……!」


 莉子の目から、また涙が溢れた。それから呆然と表情を凍らせる。濡れた頬に、涙がまた、新しく伝っていた。


「ごめんなさい」


 莉子は呟いた。

 俺は言う。


「思ってもないくせに」


 莉子は何も言わなかった。



 言いたいことはたくさんあった。言わなきゃずっと言えないままだってわかった。けどもう、何も言いたくない。疲れていた。

 だからこそ、私は終わりのつもりで、言葉を紡ぐことができた。


「それで、私はどうしたらいいの」


 蒼真は不可解そうな顔をした。


「元気にしてれば、蒼真は満足?」

「だから、」

「私とやり直したいなんて、思ってもないくせに」

「だから!」


 蒼真が声を荒げる。


「何でそうなるんだよ! 俺はお前が……!」

「うそつき」


 私の頬に、また涙が伝う。蒼真の目が見開かれ、それから険しくなる。


「本気で言ってんのかよ」

「言ってるよ。先輩に逆らう度胸もないくせに」


 蒼真が息を呑む。


「それが本音かよ」


 私に失望してるのがわかった。私は続ける。


「そのくせ、私のお弁当、断る勇気もないくせに……」


 私はうなだれた。


「私がおかしいことくらい、わかってる。でも、蒼真のお弁当、私が作りたかった。マネージャーでも、嫌な気持ち、聞いてほしかった。ちゃんと私に謝って、話してくれたら、私だって、こんなムキにならないで、我慢できたよ……」

「だってそれは」

「わかってる。部活のためだって言うんでしょ。でも私は嫌だった。私はたしかにワガママだよ。でも、私のこと好きなら、話くらい聞いてほしかったよ」


 沈黙が広がる。殴られるかと思ったけど、蒼真は何も言わなかった。私は鼻をすすり、涙をぬぐった。みっともない、わがままで身勝手な自分。でも、もうつくろえなかった。

 結局、押し付けてただけ。私だけじゃない、蒼真も。私達の関係を続けるには、もう我慢の上にしか成り立たないんだ。ならもういい。


「さよなら」


 私は今度こそ、蒼真を振り払った。



 去っていく莉子を、俺は呆然と見送った。追いかけられない。そうするには、気持ちに嘘が混ざりすぎていた。けど、悲しげな、疲れ切った莉子の顔が、頭から離れなかった。



 初めて蒼真にお弁当を作った日のことを思い出す。


「すげえ。俺これ食っていいの?」


 蒼真はびっくりしながら、私のお弁当に手を伸ばした。子供が欲しかったおもちゃにこわごわ手を伸ばすような、そんな手つきで、私のお弁当を両手で包むと、愛おしげに見下ろした。


「すげー嬉しい。ありがと、莉子」


 そう言って、私に笑ってくれた。

 蒼真はいつも喜んでくれた。食べるのを惜しんで、写真を撮ってくれた。そんな風に、私の料理を扱ってくれた人は初めてだった。私が特別だって、言ってくれてる気がして、私はもっと、蒼真の中に入りたくて、思い出になりたくて――いつも楽しくていつも必死だった。

 私は空を見上げる。青い空に雲が一つ、おっとりと浮かんでいた。風が吹いて、私の頬を乾かす。

 無理しすぎた、我慢しすぎた。今だけは、自分のことを全力でかわいそうに思ってやりたかった。だってそれは、私にしかできないから。そして、そうしなきゃ、いつまでも反省なんて、できっこないから。

 私は蒼真に無理してほしいわけじゃない。無理して、部内での立場を悪くしてまで、私のお弁当を食べてほしいわけじゃない。私だって、蒼真を応援したかった。

 じゃあ何故、あんなにムキになったんだろう。蒼真のことが好きだったから? ちょっと違う。ただ、私は蒼真に、私のお弁当を、私を惜しんでほしかったのだ。


「いちばんは莉子のお弁当だ」


 って言ってほしかった。「好きなのは莉子だ」って、そんなワガママ、正しくないって思ってたけど、私は蒼真に、私だけの人になってほしかった。私が何度すねても、何度だって、何度だって、好きだよって。


「ワガママだなあ」


 自己弁護する。私はそんなワガママじゃないって、でも結局、これが本音だった。ちっぽけで、ずるい私の本音。それを隠して結局、こんなに面倒くさくて。

 こんな自分、蒼真に好きになってもらえるわけがない。振られて当然だ。そう思おうとしてやめた。

 だって、半分も納得できていないから。蒼真だって悪い。そうしてくれなかった、蒼真だって悪いって、私はすごく恨んでる。だから嘘はつかない。これ以上、ずるくなりたくないから。

 蒼真の馬鹿、浮気者、薄情者、嘘つき、臆病者――あらん限りの罵倒を空に投げかけた。ぐるぐるになった心の果てに、見えたのは蒼真の笑顔。

 でも好き。蒼真のことが、すごく好き。だから、私の言う事、聞いてほしかった。ずっと好き。私のこと、好きって言ってくれた――

 そんな奇跡を、いつの間にか、蹴飛ばしていた。ああ、けど、次は――次のことは浮かばないけど。でも、次は絶対、そんな私を受け止めてくれる人と一緒にいたい。

 最大級のワガママを、私は心の真ん中に置いた。



 莉子は、あれから、いつもの莉子に戻っていた。しゃんとして、グループのまとめ役に戻った莉子は、皆にクッキーをすすめてた。その笑顔に、前みたいな寄る辺なさはなかった。何かひとつ、胸をはっているように、強く見えた。

 莉子は久慈先輩と付き合い出したみたいだった。久慈先輩が猛アプローチしたみたいで、皆、意外だって言ってた。

 莉子は先輩にお弁当を渡す。


「ありがと、莉子ちゃん」


 先輩は、嬉しそうにお弁当を見下ろす。その表情を見上げる莉子は、幸せそうだった。


「桂木くん」


 彼女に呼ばれて、俺は慌てて向き直った。丁度、先輩と莉子が付き合い出したとき、アプローチしてきてくれた子だった。俺には勿体ないくらい、いい子だった。

 莉子と違って、面倒なこと言わないし、待っててくれる。応援してくれて、自分をしっかり持ってる子。

 友達たちは皆、「彼女はいい子だ」ってほめてくれた。「元カノ、合ってなかったよ」って言ってくれる。そのたび、俺は自分の選択が間違ってなかったって思える。

 でも、莉子の楽しそうな顔が、ずっと胸にちらついていた。



 久慈先輩と付き合い出したのは、本当に偶然だった。あれから、先輩は私に声をかけてくれた。


「悪いと思ってるなら、お弁当作って」


 って、私に言った。私は、あてもなく先輩のご飯を作ってた。先輩が何を考えているか、全然わからなかったけど、先輩はお弁当を食べる間、私のそばにいてくれた。それが、とても安らいだ。

 私も何か自分に芯を作りたくて、とりあえず勉強を頑張り始めた。その矢先、先輩に告白された。


「一生、俺のそばで笑ってて」


 買い物の帰りで、先輩は私の買い物袋を持っていた。私はぽかんとしてしまった。


「何でですか?」


 思えば、酷い返しだった。先輩は真剣な目で、


「莉子ちゃんが好き。俺には莉子ちゃんが必要なの」


 と言ってくれた。全然わからなかった。だって、私のどこがいいのか全然わからない。

 けど、私は先輩の顔を見てると、なんだか呆然としてしまって、その目を離したくないと思ってしまった。だから。

 先輩を好きかもわからないのに、頷いてしまったのだ。



 彼女に振られた。


「一緒にいる意味が感じられなくなったから」


 と言われた。全然わからなくて、なのに、「何で」と問うことも出来なかった。彼女は「聞かないんだね」と悲しげに言った。


「もういいよ」


 そして、去っていった。


 次に出来た彼女は、他にやりたいことがある子で、すぐに別れた。


「恋人作るなとは言わないけど、あまりナメないでね」


 と、沢渡先輩に叱られる。俺だって、何でこんなに付き合って別れてを繰り返すのかわからない。ただ、一人でいるのがひどく堪えた。やさしくて、完璧な彼女はたくさんいる。友達だって惜しがって、でも「もっと合うやついるよ」って言ってくれる。けど、友達が、影で「あいつ何がしたいんだろ」って言ってるのも知ってる。

 何で俺が。俺はこんなやつじゃなかった。もっと真面目にやってきたのに、今や俺の評価はとんだ遊び人だ。肩書だけ見れば。

 なのに、俺はやめられなかった。心の中にある痛いものに、触れたくなかった。


 廊下を歩いていると、職員室から人が出てきた。


「失礼しました」


 莉子だった。思わず立ち止まって見てしまう。莉子はポケットから、スマホを取り出すと、嬉しそうに笑った。誰を思ってるかなんてすぐにわかった。

 莉子が顔を上げる。俺を見て、驚いたように目を丸くした。


「桂木くん」


 俺の中で、何かが切れた。



「離して!」


 手首を掴む手は緩むことはなく、私は人気のない校舎裏に連れられていた。


「痛い、なんなの?」


 私は手を振りほどこうとする。蒼真は振り向かず、ずっと私に背を向けていた。

 久しぶりにちゃんと見る蒼真は、なんだか荒んでいて、違う人に見えた。少し怖くなって、私は身を固くする。何とか、離れたかった。手の中で、スマホが震える。その瞬間、蒼真の力が強くなった。


「なんなんだよ」


 蒼真が振り返った。その目はわなわなと見開かれ、私を不安定に映していた。


「楽しいかよ、俺だけこんなにして……」


 私はいっそう身を固くする。今の蒼真は普通じゃない。怖い。私は逃げようと手を引いた。


「何言ってるか、わかんない。離して」


 声が、自分でも驚くほど震えてる。私は怯えている。蒼真にもそれが伝わったらしい。蒼真は愕然とした顔になり、それから叫んだ。


「何びびってるんだよ! 俺がそんなにおかしいのかよ!」


 怖い。蒼真の手の力は強くなる一方だ。涙が勝手に滲んだ。どうしちゃったの? 何で蒼真は。蒼真がわからなくて、怖くて、私はひたすら掴まれていない方の手で、顔を隠した。スマホが震える。

 先輩、先輩。助けて。

 私はスマホに視線を向けた。その時だった。蒼真に強く引き寄せられた。



 気づいたら、俺は莉子を抱きしめていた。

 もうボロボロだった。莉子は俺を、おそろしいものを見るような目で見た。そのことが悔しくてやるせなくて、俺は怒鳴り散らした。さらせるだけの醜態を、すべてさらして。俺はそれでも、止められなくて。

 目の前で、莉子が泣いてる。

 その時、莉子の笑顔が、脳裏に浮かんだ。その瞬間、俺は。



「そばにいてくれ」


 蒼真が泣いてる。


「お前のせいで、俺はめちゃくちゃだ。責任取ってくれ」


 蒼真の声はかすれて、弱々しかった。


「蒼真?」

「好きだ。お前がいないと、駄目なんだ……」


蒼真の肩口は、少しすえた汗の匂いがした。蒼真らしくない、熱の匂い。胸が痛くなった。どうしようもなく、切なかった。


「無理だよ、蒼真」

「お前じゃなきゃ駄目だ。俺は莉子がいないと、何も出来ない」


 蒼真の涙が、肩に染みる。


「俺には莉子が必要なんだ」


 蒼真の心は、ひとつずつ私の心にしみていった。私の中の、ずっと泣いていた私に、届く。私は目を閉じた。

 


「ありがとう」


 莉子は言った。泣いているのか、一度だけ、鼻をすすった。それから、大きく息を吸う。


「その言葉が、ずっと欲しかった」


 俺は目を見開き、体を離して莉子を見つめる。莉子は、頬にひとすじ涙を伝わせていた。けど、しっかりした顔付きで、俺を見ていた。


「でも、私、蒼真とは付き合えない」


 息が止まる。俺は莉子を見つめる。


「何で」

「私は、先輩と生きてくって決めたから」

「何で」

「何でも」

「部活のことか? それなら俺……」

「蒼真」


 莉子は首を振った。


「そうじゃないの。ただ、私の生きていく人はもう先輩なの」


 何を言っているのかわからない。ただわかるのは、莉子は俺を許してはくれないということだ。莉子は微笑した。


「蒼真に、必要って言ってもらえて嬉しかったよ。でも、その時、全部もう終わったんだってわかったの。今、蒼真とやり直しても、恋じゃない」



 蒼真が私を求めてくれた。その時、癒やされた気がした。けど、私にとってすべて終わったことだった。蒼真をそばに感じる。痛いほど好きだってわかる。そう、好きだった。

 どんなに胸が痛くても、それは今を生きていくためのものじゃない。離れがたくても、名残惜しくても、私のそばにいる人は、もう蒼真じゃない。


「さよなら」


 私は告げる。


「今度こそ、本当にさよなら」


 蒼真の腕から力が抜ける。私は抜け出して、歩き出した。目に涙がにじむ。

 ありがとう、蒼真。ワガママ聞いてくれた。本当にありがとう。

 私は涙をふいて、歩き出した。


「莉子ちゃん」


 校舎裏を出ると、先輩がもうすぐそこまで来ていた。手には、スマホが握られている。


「どうしたの?」


 泣いてる私を見て、先輩は私の顔を覗き込む。私は先輩の腕の中に飛び込んだ。


「先輩」


 先輩が、驚きに息をつめたのがわかる。それなのに、おずおずと私の背に手が回される。


「先輩」


 私はもう一度、先輩を呼んだ。先輩のあたたかな胸に、耳を押し付ける。たしかな鼓動が、私にシンクロした。


「ずっとそばにいてください」

「莉子ちゃん」

「先輩が好きです」


 まわされた先輩の腕が、熱を持ち、そして強くなる。


「うん」


 先輩は応える。


「ずっといる。離さないから」


 私は笑って、幸せにまどろむように、目を閉じた。



 《了》

 

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