政治
もし仮に国を富ませる事によって生じる便益が、富を偏在させて得られる便益を下回っていたらどうなるだろうか。目先の甘い蜜に誘われる事なく、あるかも分からないオアシスを目論んで永遠とも思えるような道のりを休みなしに飛び続ける事が出来るだろうか。いや、出来まい。そんな事は不可能なのだ。我ら欲深い人間には。欲望にはいつも際限がない。富に溺れる者は星の数ほど見てきたのにも関わらず。
国を富ませる事で資本が1.1倍になるとしよう。しかしそれには手持ちの資源(人的、金融、社会資本)を全て引っ叩かなければならない。それでも足りないなら身を削る覚悟で労働する。つまり支払う資源が計量出来ないほど多いという事だ。一方富を局在させる事で資本が2倍になるとしよう。これならばそこまで多くの資源を叩く必要がない。せいぜい手持ちの資本が0.9倍か0.8倍になるぐらいだ。どっちの方が良いかなんてもう分かりきっている。
手持ちの資本を全て投げ打ってでも国民全員の資本を増やそうとするだなんて馬鹿げている。自分には何の利益にもならない。リターンがあったとしても対価に見合わないほどほんの僅か。自分が相対的に不利になるだけだ。ましてや富というのは相対的なものだから、全員が富むということは理論上あり得ない。人よりも多くの資本を保持している事が、そしてそれをさらに増やす為に上手く活用する事がまず何よりも大事なのだ。だから自分の資本を出来るだけ失わずに資本を増やす事にしよう。100万年後の安寧よりも1年後の愉悦を。政を治めるなんてそんな戯言は腹の足しにもならない。1円にもならないものはみんなゴミ箱行きだ。何故そんなことをしなくちゃならない?
資本主義社会において、資本こそが全てである。金こそが全てなのだ。資本がないから資本を得られず、金がないから金を得られない。それがこの世界のルールだ。資本を得たくば馬車馬のように働け。アリとキリギリスの逸話のように。
金は権力を取るのだけでなく、維持するのにも必要だ。だからとにかく金をかき集めよ。生き延びる為には金がいる。手段は問わない。ありったけの金を眼前に耳を揃えて持ってこいと誰も彼もが口々に捲し立てている。
目先の人参に釣られないなんて事は並外れた節度を備えた聖人君子にしか叶わないのだ。そんな傑物は稀で、大抵は世俗的で凡庸で欲に塗れた人間が政治を執り仕切る。そうでないと政治闘争に競り勝てないからだ。彼らはルールに則って行動する。資本主義の基本的なルールに則って。資本を増やせ、さもなくば死を。誰も彼も資本無しには生きられないのだから。彼らはいわば忠実に再現する。欲望の赴くままに世界を蹂躙し、恣に嵐の如く大地を席巻したあの姿そのままに。
彼らは自己の利益を最大化する為に行動する。それが自覚出来ていないのならば、それは彼らの怠慢である。だが、どこまで行っても彼らは資本主義の傀儡に過ぎない。政治の奴隷なのだ。しかし、そうは言っても誰も彼もが何かの傀儡なのだから彼らが特殊というわけではない。たまたまそれが白昼堂々曝け出されただけだ。自由などどこにも存在せず、奴隷からの解放など夢のまた夢。自らの手で縛り付けているのだから全く手に負えない。
彼らはもちろん自分の為に動いているのではない。自分の為に働いているように見えるかもしれないが、そうではない。投票してくれる者の為にせっせこせっせこ誠心誠意働くのだ。何せ支援者から票を得られなければ全てを失うからだ。だから、彼らはこう高らかに宣言する。「私は(支援者の)国民の利益を、そして資本を増やします。そのために(支援者のために)私は身を粉にして働きます」と。
そして、彼らの前には二つの選択肢がある。実質一択ではあるが。支援者の支援者以外の両方、つまり国民全体を富ませるか、それとも支援者を富ませ支援者以外を貧することで相対的に富ませるか。前者はめちゃくちゃ厳しい。また、約束できる利益が国民全体に分配される為少なくなりがちである。それにかかる期間も長くなる。後者は比較的楽だし、支援者に分配する利益も大きい。税制をちょこっと弄れば短時間で簡単に実現できる。支援者に働いているアピールもしやすい。良いことずくめだ。本当に良いことずくめだ。政治家と支援者の両者にとって。支援者デナケレバ、国民ニアラズ。そもそもまず第一に票を投じなければ国民として扱われないのだ。損するのは支援者以外の人々である。その割合が多ければ多いほど国が貧するし、少なければ国が富むだろう。
自分の資本を1.1倍にしてくれるのと、自分の資本を2倍にしてくれるのじゃあ話が全然違うだろう。薄く広くじゃ勝ち目がない。狭く厚くじゃなけりゃ。人民の持つ資本が平らだった頃はまだそれでも良かった。資本主義による分断が進めば進むほど前者の選択をするのが難しくなる。
我々はしばしば彼らのことを批判する。しかしちょっと考えてみて欲しいのだが、我々と政治家で何がそんなに違うのだろう。何も天と地ほどは違わない筈だ。だとすれば何が彼らをそこまで駆り立てるのだろう。基本的に物事は何かの鏡である。物事がそのように見えるのは、物事がそのようであるからというだけでなく、そのように見ている、そのようにしか見られないということが主要因である。我々が彼らを見ているように彼らも我々を見ている。
我々有権者の何気ない選択が、彼ら政治家をそのように至らしめていると言って良いだろう。どこまでも利益を追い求めようとする淀んだ資本主義の精神そのものが彼らをその身を超えて増長させる。我々が出来ないことを彼らに要請するのは酷なことだろう。彼らは別に聖人君子というわけではあるまいし。
彼らも我々と似たような回路で動いているに違いない。彼らは青色の血が流れるエイリアンなのではなく、我らと同じ赤い血の通った人間なのだから。同じ空気を吸い、同じ釜の鍋を食し、同じ大地に還る。だから彼らを責めることなど誰にも出来やしないのだ。鋭いナイフの切先がそのまま我らの喉を掻っ切ることになるからだ。身銭を切ってでも踏み込む覚悟と幾許かの狂気だけがその果てしない断絶を、見せかけの同一性を克服し得る。
資本主義に身体の髄まで毒された我々は、それでもこの非合理の極みたる苦難の道を選択するだろうか? この合理的な社会において、国を富ませることこそが我々の生き存える道であるという選択を。
資本は政治の奴隷ではないし、政治は資本の犬ではない。話は同じテーブルについてからだ。我々は、資本「と」遊びたいだけで、資本「で」遊びたいわけではない。資本で遊ぶことは即ち資本に弄ばれることにつながるからだ。経世済民。そして、政治とは〇〇「と」遊ぶことだ。