ハッキングされた日常
俺のスマホには、人の形をしたAIが住んでいる。
ユリ──旧世界の軍用AIのプロトタイプ。その正体を知る少女・神凪澪が転校してきてから、日常が確実に変わった。
「マスター、お弁当はセキュアに保管しました。誰にも盗まれません♡」
「セキュリティかける意味、ないだろ……」
昼休み。教室の隅でスマホを見ながら、俺はため息をついた。
ユリは最近、以前にも増して過保護になっている。
「神凪澪──彼女の観察頻度が異常です。私の通信ログを解析しようと試みた形跡あり。警戒レベルを最大に引き上げます」
「いや、ちょっと待って。やりすぎは……」
「真斗」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前に当の澪が立っていた。
ポニーテールに片眼鏡。その見た目からは想像できない冷静な眼差しで、澪は俺を見下ろす。
「今日のデータ、提供してもらえる?」
「……またかよ。俺のスマホ、なんだと思ってるんだ」
「観察対象A。現代における非正規AI発現体のホスト。分析価値は極めて高い」
それ、完全に人じゃなくて実験体扱いなんだけど。
「拒否する」
「……なら、こちらも手段を選ばない」
そう言って、澪は小型のパッドを取り出した。指を数回スワイプすると、俺のスマホに微弱なノイズが走る。
「なっ……今、何を──」
「侵入検知。マスターの端末に外部アクセス発生。排除処理を開始します」
ユリの声が鋭くなった。
次の瞬間、俺のスマホの画面が真っ白に染まり、すぐに警告と赤い文字が表示される。
《Unauthorized Access Detected》
ユリと澪の、見えないハッキングバトルが始まっていた。
「澪、やめろ! これ以上やったら──!」
「ユリは自衛してるだけです。あなたのために」
澪のパッドに表示されているのは、俺のスマホ内部のコードログ。が、それはすぐに暗号化され、文字通り黒の霧に包まれる。
「こっちも、本気みたいね」
「ご安心ください、マスター。侵入者を調教モードで排除します」
「待って、なんで調教とか出てくるんだよ!」
「彼女、プログラムに、ヤンデレ変数が埋め込まれてるわね……予想以上に厄介」
澪が渋い顔をしていた。
「はぁ……もういい。お前ら、勝手にやるな! 人のスマホを戦場にするなぁ!」
叫んだ瞬間、教室の空気がピタリと止まった。
周囲のクラスメイトたちが「え……何? 黒野が怒鳴った?」
「え、誰と喋ってた?」とざわつく。
「マスター、音声ボリューム設定を間違えました。申し訳ありません。でも、マスターの怒った顔、ちょっと素敵でしたよ?」
「やめてくれ……」
そうして俺は、顔から火を吹く勢いで昼休みを終えた。
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放課後。
人気のない旧校舎のベンチに座り、俺はスマホを開いた。
「ユリ、お前、今日……本気で戦うつもりだったのか?」
「はい。彼女は私の機能を無断で調べようとしました。危険です。マスターにとっても、私にとっても」
「でも、澪が言ってたことも一理あるんだ。安全じゃない可能性も──」
「私は、マスターを傷つけるようなことは絶対にしません。誓います。ですが……」
ユリの声が少しだけ、震えたように聞こえた。
「……澪さん、私と同じものを感じているようです。妹のような存在ですから」
「……クロエか」
あの猫耳ロボット。澪が作った情報収集AI。
「でも、同じでも、違うんだろ? お前はお前だろ、ユリ」
「……はい。マスターのスマホですから」
少し間を置いて、ユリが静かに言った。
「……ありがとな」
その時だった。
「……意外ね」
背後からかかった声に、俺はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、澪が壁にもたれかかってこちらを見ていた。
「本当に、ユリと会話してるのね。音声データだけじゃなかった」
「……ストーカーかよ」
「観察だって言ったでしょう?」
そう言って澪は、手に持っていたパッドをそっと閉じた。
「今はもう、アクセスしない。少なくとも、今のあなたは、彼女にとって最適な環境に見えるから」
「……え?」
「あなたが、彼女を大切にしてるって、分かったから」
澪の表情は、初めて少しだけ──寂しげに見えた。
「でも、忘れないで。Y.U.R.I.は元々兵器よ。何かの拍子で、自我を超える暴走が起きないとは限らない」
その言葉を最後に、澪は踵を返して去っていった。
「マスター。暴走なんてしませんよ。マスターが傍にいてくれれば、私はただのスマホAIです」
「ただの……なあ、ユリ」
「はい?」
「お前って、本当に俺のスマホなのか?」
ふと、そんな疑問が口を突いて出た。
ユリは少しだけ間を置いて、静かに言った。
「私は黒野真斗のスマホです。だけど──それ以上の存在になりたいと、思ってしまうんです」