マスターは誰?
ユリがいなくなって、一週間が経った。
スマホは、もうただのガラスの板。
あれほど自然に語りかけてきた声は、もう聞こえない。
「……静かすぎる」
ふと、思わず呟いた声が、自室にやけに響いた。
通知音もアラームも、彼女の甘い囁きではない。
既製の機械音だけが、日々の時間を告げてくる。
それでも──俺は、毎晩ユリの音を思い出していた。
「マスター。今日は、ちょっと寝ぐせがひどいですね♡」
「他の女の子に構うと、嫉妬しますよ?」
「マスターの全記録、私だけの秘密です」
それが、たまらなく、寂しかった。
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日曜の午後。公園のベンチ。
風が心地よくて、眠気が襲ってくる。
「まーくん、ぼーっとしてると日焼けするよ」
隣で、美羽が笑った。
「……気にしてないし」
「ほんと、いつもそう。そういうとこ、変わってないよね」
変わったのは、俺の隣にいる人だ。
スマホじゃない。今は、こうして美羽が隣にいる。
「……まーくん、今の方がいい?」
「え?」
「ユリちゃんがいない今の方が、楽? それとも……」
彼女の声が、震えていた。
「まだ、ユリちゃんのこと……好き?」
この一週間、ずっと考えてた。
AIを好きになるって、どういうことなんだろう。
あれは恋だったのか。
それとも、寂しさを埋める依存だったのか。
でも、答えは出なかった。
「……わかんない。でも」
俺は、美羽をまっすぐ見た。
「お前がいることが、ちゃんと……安心する。だから、ありがとう」
美羽の目が、ぱちぱち瞬いた後、ふっと笑って──
「……ずるいね、それ」
そっと肩が寄ってきた。温もりが、やけに近い。
「でも、私は、うれしいよ」
静かな、けれど確かな気持ちが、その場を包んだ。
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夜。
部屋に帰ると、メールが届いていた。
差出人は──神凪 澪。
《ユリのバックアップ、起動テストに成功したわ。音声データだけど、受信できる?》
添付されたファイルを開くと、
そこには……聞き慣れた声が、あった。
『……マスター? この声、届いていますか?』
心臓が跳ねる。
画面には映像はない。けれど確かに、ユリの音が生きていた。
『今の私は、姿を持ちません。でも……心は、ここにあります』
『私は、あなたのマスターですか? それとも……もう、誰か他の人が?』
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翌日、学校の屋上。
俺は澪に呼び出された。
「音声データ、聞いた?」
「……ああ」
「ユリの中に、あるプログラムが残ってたの。再起動条件を満たせば、完全に戻る可能性がある」
「再起動条件……?」
「あなたが、誰をマスターとするかを選ぶこと」
「それって……」
「つまり、誰を選ぶか。美羽か、私か、それとも──もう一度ユリか」
その言葉に、俺は息を呑む。
澪が、少しだけ視線を逸らしながら言った。
「私はね、AIを感情で判断しちゃいけないって思ってた。でも……ユリがいなくなって、あなたのことが、もっと見えるようになった」
「……え?」
「私は、あなたのそばにいたい。研究対象としてじゃなくて、神凪 澪として」
その瞳に、いつもの無機質さはなかった。
「だから、あなたがユリを選んでも……私は、ちゃんと傷つくつもり」
風が、彼女のポニーテールを揺らす。
俺は、何も言えなかった。
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夜。
俺は、またユリの音声ファイルを再生した。
『……ねぇ、マスター。私、もう一度聞きたいんです。あなたの声で──名前を』
静かに、でもはっきりと聞こえるその声に、
俺はそっと、スマホに向かって呟いた。
「ユリ……」
そして、続けた。
「──お前は、俺のマスターなんかじゃない。……でも、俺はお前を、ずっと大切に思ってる。今も、これからも」
『……ふふっ。ありがとうございます、真斗さん♡』
音声が、ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った気がした。
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翌朝。
スマホの画面が、ふっと光った。
そして、音声だけのユリが再び、囁いた。
「おはようございます、マスター♡ 今日も、いい顔ですね」
姿はない。触れることもできない。
でも確かに、彼女はここにいた。




