出発できない
男は、車で旅行に来ていた。
昨夜泊まったのは、海辺の小さな旅館だ。
朝食を済ませてから、荷物をまとめてチェックアウトする。ところが。
車の鍵が見当たらない。
忘れ物をした旨を告げて部屋に戻る。
探してみるが、ない。
そんなに変な所には置かなかったはず。
布団の中に紛れている、ということはないか。
探すが、ない。
風呂に入った時かもしれぬと思い、再び玄関に戻り、説明して風呂場を探させてもらうが、ない。
まさか車に鍵を閉じ込んだか、と思い、駐車場を確認しようとすると、今度は靴が片方無い。
どういうことだ。困った。
出発できない。
………
目が醒めた。
木目の天井板が見える。
まだ旅館の布団の中である。
夢か。いつものやつだな。
男は、どういうわけか、この「旅先の旅館から朝出発出来ない」という夢を良く見るのだ。
夢で良かった。
車の鍵はテーブルの上に財布と一緒に置いてあった。
朝食を済ませてから、荷物をまとめてチェックアウトする。よし、靴も両方あるぞ。
駐車場で自分の車を探す。が、無い。
男が自分の車を駐めた場所には、同じ型だが色違いの車が駐まっている。
男の車は赤だが、この車は黒だ。
車の傍らには、紺のビジネススーツを着た若い女が立っている。美人だが、薄い紫色の口紅をひいた顔は少し青ざめて見えた。
「○○様ですね。お迎えにあがりました。」
いや、迎えなど頼んでいない。人違いですよ。第一、私は自分の車で来ているのだ。それを置いて行くわけにはいかない。
女にそう説明すると、女はくすりと笑って、男にこう告げた。
「間違いではありませんよ。それに、その手では運転出来ませんでしょう?」
何のことだ?
だが、何故か男は急に不安になって、左腕を触ってみた。
無い。
左腕が肩の先から無いのだ。
「私が代わりに運転してお送りしますから。荷物は後ろの席に置きましょう。お預かりしますね……」
待て。「お送りする」って何処へ?
待ってくれ。私はまだやることがあるのだ。それが片付くまでは、
出発できない。
ん?
私は何を言ってるんだ。
………
「先生、意識が戻りました。」
目の前には、看護士の顔が見える。
天井が白い。どうやらここは病院のようだ。
ほどなく、首から聴診器を下げた医師がやって来た。
「気が付かれましたか。良かった。貴方旅館の玄関先で倒れたんですよ。脳梗塞です。危ないところでした。」
どうやら、夢と現実が交錯しているようだ。
何処までが現実で、何処からが夢だったのだろう。
体を起こそうとして気が付いた。左腕が動かない。その事を医師に伝えようとしたが、舌の左半分が突っ張るようでうまく喋れない。
左半身が麻痺しているようだ。
「あっ、無理しないで。今無理に喋ろうとしなくていいです。血栓は何とか取れたようですから、とりあえず命の心配はなくなりました。だから落ち着いて。」
後遺症は?と聞きたかったが、これでは聞けないか。医師の言う通り、とりあえず落ち着こう。
あれは死神だったのかなあ。
美人だったな。
また逢いたいとは思わないが。