第1話 世界はおっぱい
「はぁ……ッはぁッ……ッ! ぅ……!」
浅い呼吸が正午過ぎの裏路地に響き渡る。
苦しそうな呼吸の主、名前は白馬 心。年齢十六歳で性別女性、本来花の女子高生であるはずの心はただがむしゃらにドブ臭い裏路地を走っていた。
どこか少年っぽい雰囲気をまとった顔を汗と苦悶でぐしゃぐしゃにしながら裏路地の地面を踏みしめる。
その度に、デニムのズボンに泥が飛んだ。
白いブラウスは汗のせいでスレンダーな体に張り付いていている。
黒い髪は乱れていて金色の瞳にはぬぐい切れない恐怖が浮かんでいた。
「逃がすな! 捕まえろッ!」
「挟み撃ちだ! 取り囲んで拘束しろ! 勢い余って殺すなよッ!」
男の怒号が響く。
コンクリートの壁すらもかすかに震える声を浴びて、少女はスピードをさらに上げていく。
ごく普通の少女が二人の男に追い回されている。というわけではなかった。
白馬心にはもう二つ、大きな特徴があった。
一つ、頭頂部には三角形の耳が生えていた。イヌ科の獣を思わせるそれは作り物や偽物のそれではない。
ピクリと、時折動いているそれは明らかに体の一部だった。
もう一つ、腰の辺り、お尻の上程から何かが伸びている。真っ黒な毛並みに包まれたしなやかな尻尾であった。
獣の特徴。狼にもよく似た耳と尻尾を兼ね備えていた。
「逃がすかッ!」
「絶対に見失うなよ……! 面倒ごとになる前にとらえるんだ!」
コスプレの会場から飛び出してきたような心を二人の男が追いかけていく。
「ッ! ぅ……! アァッ!」
遂に走り続ける苦痛が声になって外に出た。歯を食いしばるような表情でまるで慣れない機械の操縦のように尻尾を振り回す。
ガシャン! と、派手な音を立ててゴミ箱が横に倒れた。ただそれも大した妨害にすらならないはずだ。
振り向くこともせず走る心は喉の奥に鉄の味が広がるのを感じながらも両足に鞭を打って歩調を速めていく。
体力的にも精神的にも限界はすぐそこだ。
そこに。
裏路地の出口がついに見えてきた。それはまるで光の扉。
大通りに繋がる道だった。
大通りに出られれば人に紛れられる。
人に紛れることさえできれば男たちから逃げられる。
はずだった。ほんの一瞬、心の緊張が途切れた、その直後だった。
「あぁッ! すばしっこいなッ! この……ッ!」
叫び声が響いた。
ズバンッ! という音が響いて青い光が一直線に飛んでいく。軌跡を描きながら弓矢のような速度で飛翔した光は吸い込まれるように心の背中に命中した。肺の空気が全て抜けたような衝撃だった。
激痛を自覚する間もなく地面に転がってそのままもだえ苦しむ。
光は間もなく跡形もなく消滅した。尋常ではない光景だった。
「へっへへ! ワンヒットォ! 今の何ポイントだぁ? おい!」
「ゼロだ。勢い余って殺したらどう責任取るってんだ。あぁ?」
まるでゲームでもしているような軽率な声。
「ぁッ。ヒュ……ッ」
そんな邪悪な声を聞きながら心は腕と足に力を籠める。
体がしびれてまともに動かない。びくびくと痙攣を繰り返しつつも敵から逃れよともがく姿は追い詰められた野生動物のそれだった。
「まぁでも! これで捕まえられたわけだし、結果オーライってことで文句ねぇよなァ! ノープロォッ!」
「はしゃぐな」
声が。声が近づいて来る。
暗闇の中から、男が二人。
テンションの高いやせ型と冷静そうな小太り。年齢はどちらも二十代半ばといったところか。
やせ型の男は手の中に青い光を宿らせて心の背中に足を下した。
全身の内側がきしむような苦痛と、背中を踏みつけられる激痛。全身がどうにかなってしまいそうだった。
過呼吸気味になりながら首だけを動かして振り向いた。
同じコートに身を包んだ男たち。襟元までを覆う黒いロングコートそれ自体にはかざりっけは少なく、
シンプルなデザインだが、胸元には金色のエンブレムが目立つ形で、誇示するように取り付けられている。
T字にも見える十字架にまとわりつくSとCの文字。いびつな紋様をこれ見よがしに掲げる男たちを、心は恨みを込めて吐き捨てるように読んだ。
「死与太珍教団……ッ!」
やせ型の男は手のひらの光を空に向けて解き放った。威嚇射撃のようなものだった。
楽しそうに笑う男は再び光を生み出して手のひらを心に向けた。
「御機嫌よう白馬心氏。本日は大変お日柄もよく……って、くっだらねェ与太話はヤメだヤメ。あほくせぇ。そんな訳で捕まえたぜもう逃がさねぇからなァ!」
白馬心は、いまだ立ち上がることもできずにただ荒れた呼吸を繰り返す。
「無駄な抵抗はやめるべきだ。貴女としても施設に一人残してきた弟が心配で仕方がないでしょう」
心は、震えながらもその場でもがく。動けない心を嘲笑うように、男たちは冷徹な視線を浴びせてくる。
裏路地から出るまで、あと数歩だったのに。もう、その数歩を踏み出すことすらかなわない。
「あと数歩だったのに残念だったよな。まぁどうせこの向こうには俺たちの仲間が待機してるんだけどなぁ! 逃げたって無駄だけどなぁ!」
「この収容都市“ジェイル”で、僕らから逃れられるはずがないだろう? トクに何の力もないお前みたいなやつであればなおさらな」
小太りの男があざけるように告げる。逃げ道はない。逃げる方法はない。
「ッ……!」
いくら歯を食いしばっても、いくら男をにらんでも、目元ににじむ液体は消えない。
「さて……。これから“あの方”のところに運ぶ訳だが……。その前にィ! 俺のお姉ちゃんにでもなってもらおうかなァ!?」
やせ型の男はズボンを縛るベルトを取り去って、それを地面に投げ捨てた。
「疑似おねショタプレイ……。あまりやりすぎるなよ……」
口調こそなだめるようなものであったが、小太りの男が笑っているのが裏路地の暗闇の中でもはっきり見えた。
逃れることはできない……。心は震えながら体をよじらせる。白いブラウスが汚れて、内蔵が絞られるような感覚が吐き気を誘う。それ以上の結果は得られない。
「へっへっへ……。もがくなよ、なァ。お前はこれから俺のお姉ちゃんになるんだからヨ」
二十代半ばの男が十六歳の心に顔を近づけた。
生暖かい吐息も、わずか数センチ向こうにある男の皮膚も、頬をくすぐる男の長髪も、すべてが不愉快だった。
もうダメだ。逃げられるはずがない。
光はない。希望はない。もう、どこにも行けない。
そもそも、逃げたところで無駄だったのかもしれない。
この街でまともに生きていく事なんて出来ない。
世界は、冷たくて、硬くて、暗くって……。
いいや。世界は、硬くて暗いけど……。
(それでも)
心は目を閉じて祈る。どうか……。どうか……ッ!
「だれか……ッ! 助けてッ!」
直後。
ドッガァァアンッ! という轟音が、暗い世界を揺らした。
音の根源は光の先、つまり白馬心の目の前からだ。
「随分と……」
その声は、とてつもなく穏やかで、同時にとてつもなく荒々しいものだった。
少年の声だということだけは分かった。
「随分としけたことしてんなぁ。ジェイルの支配者様がガキ追いかけまわしてはしゃいであがる……。笑い話にすらなんねぇぜ?」
光から、誰かが出てくる。
そして、白馬心の瞳は、その姿をとらえた。
背の高い少年だ。金色の髪をかき上げるようにセットしている。瞳の色は夕焼けのようなオレンジ色。
ダメージの入ったジーンズに黒いジャケット。その中に着たシャツには、でかでかとした文字でこう書かれている。
「巨乳愛」
男のうちのどちらかが、そのバカげた文字を読み上げた。
余りにも現実離れした光景だった。そして、光を背中に立つ男が少女にとっては希望に見えた、紛れもない救いに見えた。
光を背負って堂々と立つ姿。どれだけ奇妙な格好をしていようと、その姿は……。
「ヒーロー……」
心の声が、暗闇に溶けて消えていく。そうしてようやく、時間が動き始めた。そこまでぼーっとしていた、やせ型の男がハッとして叫ぶ。
「な、なんだお前ッ! 何の用だ!」
「あー。ブッ潰しに来たんだ。お前ら、つまり死与太珍教団を」
「なっ……!」
驚愕の声を漏らしたのは他の誰でもない心だった。少年が言っている言葉の意味が理解できない。
今、彼は何と言った。
潰すと、確かにそういったのか? この街の支配者の一角である死与太珍教団を潰すと?
正確にその意味を読み解いた心は思わず目を見開いて、少年の顔を見上げた。
その表情には一点の曇りもない。冗談の類ではなく、本気なのだ。この巨乳愛の少年は、本気でそれを実行しようとしている。
「ふ、ふざけんなッ!」
「ふざけてんのはお前らだろうが。こっちはただでさえ頭に来てるってのに。これだ。いったいどれだけふざければ気が済むんだテメェら……」
巨乳愛の少年は堂々たる態度を崩さない。そして、何かを軽く投げ飛ばした。
何かは馬心の真横を転がる。その何かは、正確には誰かであった。
心を追いかけていた男たちと同じコートを羽織っている人物。完全に、気絶している。
「ッ!?」
「こんな感じだ。お前たち、近日中に壊滅させるから。これ本気な?」
あまりに気さくな口調だ。親しい人物に「ちょっとその辺まで出かけてくる」とでも告げるような気軽さで、とんでもないことを宣言する。
絶句、やせ型の男はただ口をパクパクと動かしながら後ずさった。心を縛り付けていた要素の一つが取り除かれた。
それと同時に、腹の底で渦巻いていた筋肉痛のような精神的な痛みが消えた。
「あ。アンタは……」
「ま、安心しろよ。サクッと助けてやる」
心の真横に立った少年は、まるで当たり前のルールを読み上げるようにそう言った。
その声は何処までも平坦で無機質にすら思えるものだった。
しかし、その平坦な声から感じる絶対的な自信。
無理に体を起こして壁に体を預けつつ心はかすかに息を吐きだした。
「ッ」
やがて、心に背中を見せた巨乳愛の少年は男たちと向かい合って、体中から力を抜くように骨を鳴らした。
「お前ッ! 死ぬぞッ!」
「死与太珍教団に歯向かうって事がどういうことかわからせてやるよ……」
心は、少年の後ろ姿を仰ぎ見る。
「くたばれこのクソゴミがァァァァァァァッ!」
「この街の支配者たる死与太珍教団の力を思い知るがいいッ!」
男たちが飛んだ。
景色がやたらとゆっくりになっていく。そして、白馬心は見る。
少年が、腕を掲げた。
掲げた腕から、巨大な光が巻き起こる。
白い光はまるで火炎のように荒れ狂う。
そして美しい球体へ変化していった。
そしてそれは。
「俺は……ッ!!!」
それは……!
「ドデカイおっぱいがッッッッッ! 好きだァァァァァァァァァァァァァァッッ!!!!!」
叫びと共に解き放たれた。
ドッッッッッッッッゴォォォォォォォォオオオオオオオオオンンッ! と凄まじい轟音が世界を揺るがして、風が、光が、巻き起こった砂埃が、何もかもが吹き荒れる。
そして、気が付けば男たちはその場にたたきつけられていた。
「万乳引力・乳トンッ! 万物が有する引力は質量により決定する。ならばァ! 巨乳は凄まじい引力を秘めている! 引力、重力、その制御! これが俺の異能性癖ッ! これがおっぱいの力ッッ!!」
続く叫びは遅れて響く。少年はその場で体をまっすぐ伸ばして指先を天高くに突き刺した。
「異能性癖者」
心の声は。吹き荒れる風の中に飲み込まれた。。
「巨乳こそ正義ッッッッッッッッッ! 巨乳こそが我が人生! いいや、巨乳こそが世界だッッッッッッッッ!」
そして、少年は一つ、付け加える。
振り向いて心と目を合わせると、開会式の宣誓のように叫んだ。
「俺の名前は立花 明良! 死与太珍教団をぶっ潰すッ! おっぱいってきっと柔らかくって温かいから! そんな感じでよろしくゥッ!」
最低な少年漫画のような自己紹介。愚かとしか表現できない叫び声は、暗闇をたたき割って、いつまでも路地裏に響いているように思えた。