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黒猫物語

作者: 水野 蛍

 三沢由紀は今朝秋田から新幹線で上京してきたところだ。18歳の由紀は、この1年間の猛勉強の成果が出て、今春無事に東京の大学に合格した。今は高校生としての最後の春休みを秋田で終え、たった一人の身寄りである祖母を故郷に残し、入学の準備をするために一人で上京してきたのだ。

 実は由紀は生まれは東京で、外科医師である父棚橋健太郎と高校の英語教師である三沢華子の長女として生まれた。3歳下に次女の美紀がおり、二人姉妹として裕福な環境で幸福な生活を命一杯享受して育った。が、それも9歳の秋までだった。健太郎の運転で東北地方に夏休みの家族旅行に出かけていた棚橋一家は、マナーの悪い隣の車線の車が彼らを追い抜こうとしたときに追突され、車は大破、健太郎と華子は即死、由紀と美紀は重態で病院に運ばれたが、妹は手当ての甲斐なく死亡、由紀だけが3日間生死の境をさまよった挙句、無事に意識を取り戻した。しかも、身体的な後遺症は何も残らなかった。

 だが、一度に家族と生活手段を失った由紀には、たった一人秋田で農業をしている母方の祖母しかいないので、東京を去らねばならなかったし、PTSD、精神的ショックが残っており、まだ幼い由紀は最初は繰り返し悪夢に苛まれた。

 それは弱冠9歳の女の子にとっては重い荷物だった。しかし、由紀を引取ったコウばあちゃんが何くれとなく世話をしてくれたし、元来が朗らかで健康的な女の子なので、いつしかショックを乗り越え、たくましい田舎の少女に育っていった。

 9歳までは白いワンピースにリボンつきの麦藁帽子という服装で、バレーにピアノといったお嬢様教育を受けていたのに、コウばあちゃんがまったくそういう世界とは無縁の人だったので、その後の由紀は短パンにTシャツという格好で、友達と野山を駆け巡る元気一杯の女の子に育った。それは周囲の他の子達となんら変わるところはなかった。

 由紀はまず、コウばあちゃんと一緒に農作業、特に土いじりをするのが大好きだった。よい香りも悪い臭いも混じりあい、掘り起こすたびに変化する、しっとりとした黒い土が大好きだったのだ。

 雑草抜きや間引き、肥料撒きなどはあまり面白い作業ではなかったが、由紀にとってはそれはごく自然の、当たり前のことだった。コウばあちゃんがそういう風に育てたからだ。

 ただ、由紀が他の子と異なっていたのは、身体ではなく、精神というより頭脳のほうだった。コウばあちゃんの質のよい本だけは大量に図書館から借りてくるという教育方針も関係があるかもしれないが、由紀の学業成績は抜群だった。少なくとも秋田県の中ではトップ1・2位を争うほどだった。

 しかし、本当に由紀が優れていたのは、文章を書くという才能だった。彼女は弱冠13歳にして創作活動を始めた。最初は和歌や俳句、詩など短いものから始め、次第に散文、長い物語へと移行していった。想像力が弱いために長いものが書けず、スランプに陥った時期もあったが、最近ようやく何とか50枚程度は書けるようになった。

 ただ、由紀の場合はまったくの独学で、感想を述べて指導してくれるような人間が周りにいないので、困っていた。それで高校の国語の先生に相談したら、コンテストに応募してみたらと言われたので、由紀は勇気を奮って応募してみたら、最終までとは言わないが、二次選考まで残った。

「すごいことだよ」と山本先生は言ってくれた。「今後君はおばあさんと地道な生活を送るつもりだったかもしれないが、それでは才能が泣くよ。ぜひ上京して勉強を続けるべきだ」と忠告までしてくれた。 

由紀としては、ずっとばあちゃんと暮らすつもりだったから、青天の霹靂のように驚いた。しかし、ともかく尊敬する先生の言うことなので、一応コウばあちゃんにご託宣を伺うことにしてみた。

 由紀から話を聞いたコウばあちゃんは言った。

「もしお前がこのばあちゃんを一人にしたくないなんて馬鹿なことを考えるならわしはお前を許さんし、逆に離れたくないなどと甘い了見を起こすなら、わしはお前を追い出すからな。いいか、由紀。お前はこれから耕されるのを待っている肥沃な畑じゃ。東京に行けばきっと、種を撒いて、雑草を抜いて、肥料をやってくれる人たちがいるに違いない。いいか、本当にお前の一生に関わることじゃから、真剣に考えることじゃ」

「でも、ばあちゃん。お金はどうするの?」

「奨学金をもらうんじゃ。後はばあちゃんの仕送りとお前自身の頑張りに頼るほかはない。確かに都会のアルバイトなど、ずっと農業に携わってきたお前に合わんかもしれん。それは心配じゃ。じゃが、まあ何とかなるじゃろう。何せお前は一人生き残った強運の持ち主なんじゃから。案ずるより生むがやすしじゃ」

 こうして今日3月10日、三沢由紀は、ちょうど午後の3時ごろに東京駅をぶらつくこととなった。秋田を出るときは、あえてばあちゃんが見送りに来てくれないのが寂しかったが、今後の生活に対する希望と期待のほうがはるかに勝るので、すぐに忘れてしまった。

 由紀は今18歳。ということは、約9年ぶりの東京なのだが、懐かしいという気は少しもしなかった。まったく見知らぬ世界だった。人が多すぎるし、皆すごいスピードで歩いており、その上おしゃれでスマートだ。由紀は圧倒されてしまった。

 結局、由紀はこの9年の間に完全に秋田の子になりきっていたようだ。氏より育ちという。私はこれから一人で大丈夫だろうか、と気になってくる。とはいえ、とにかく新居を探さねばならない。いろいろ訪れてみたい場所はあるが、由紀はとりあえず中央線で新宿に出て、行き当たったビジネスホテルにチェックインした。

 これで明日から下宿先を探すのに専念できる、とほっとした由紀は、ブラブラと歌舞伎町の界隈を散歩しはじめた。見たこともないネオンサインの洪水に目がくらむように感じた。しばらく歌舞伎町という巨大歓楽地の空気を吸って、群衆の動きに流されながら、その空気に身をひたし、体に染みつけてしまいたい、と由紀は思った。何となく東京駅付近のツンケンと冷たく取り澄ました空気よりも、こちらのほうが自分に近い気がした。

 まっすぐ一番街を抜け、裏道をウロウロしていると、小さな公園があった。足が疲れてきた由紀は公園のベンチに腰を下ろした。すると、ベンチの真下から何かガサコソという音がする。

 音の出所を探った由紀には、すぐにそれがダンボール内に閉じこめられた捨て猫だということを理解した。

「あんたも私と同じで一人ぼっちなんだね」

 由紀はそのチビ猫を抱き上げ、撫でてやった。チビは嬉しそうにミューミューと鳴いたが、腹もゴロゴロさせている。どうやらお腹を空かしているらしい。

 由紀は近くのコンビニで小さな牛乳パックを買って、持ってきたコップに並々とついでやった。チビは嬉しそうにピチャピチャ舐め始めた。

 由紀もコンビニで買ったコロッケパンを残りの牛乳で胃袋に流し込んだ。

「さて、お前をどうしようか」

 ミューミュー擦り寄ってくるチビにすでにかなり情が移ってしまった由紀は、はたと考え込んだ。

 実は由紀は秋田では2匹の猫を飼っていた。武蔵と小次郎と名づけていた。武蔵は黒白のぶち猫で、小次郎は茶色のトラ猫だった。2匹とも10歳を過ぎても健在で、食事時にはお互いに相手を追い出そうと喧嘩するし、由紀が何もしていないときには由紀の膝に競って乗りたがるのだった。

 懐かしいなあ。そう思った途端、この哀れなチビ猫が急に愛しくなった。よし、連れて行こう、と由紀は決意した。

 チビはチビなのだが、そのうち大きくなるだろうし、尻尾の先を除くと全身真っ黒なので、クロスケと名づけることにした。

 その夜、由紀はひそかにホテルまでクロスケを連れて帰り、一緒に眠ることにした。一日の疲れがどっと出て、すぐに眠りに落ちた由紀だった。


            ☆        ☆        ☆


 明くる朝、由紀はミューミューニャーニャー鳴く声で目が覚めた。

「お前、起きるの早すぎ」

 時計を見たらまだ朝の4時だった。迷惑なやつじゃ、と思いつつ、つい頭を撫でてしまう由紀だった。早速近くのコンビニでまたミルクを買い、ホテルのコーヒーの受け皿に入れて飲ませてやった。ピチャピチャピチャピチャ元気のよいことといったらない。逆に由紀のほうがお腹が空いてきた。由紀もついでに買ったカレーパンを食べる。

 今日は新居を探すつもりだった。入学する大学に合わせて、中央線沿線がいいと思っていたが、月額5万の予算ではとても難しいことが分かった。それでも、妥協せずに不動産屋を駆けずり回ったおかげで、吉祥寺で月額6万3千円という物件を見つけた。予算はかなりオーバーしているが、駅から歩きで40分、キッチン・バス付という条件が大いに気に入った。コインランドリーは近いし、井の頭公園も通学路に入る。ボロボロの築30年の木造アパートだったが、角部屋でしかも比較的綺麗だった。不動産業者にはこう言われた。

「お客さん、運がいいですよ。3月にも入ってこんな物件が残っているなんて。3月下旬だったら、絶対無理だったでしょうね」

「私は強運の持ち主なんです」由紀はにっこりと頬を赤らめた。

 大家は望月さんといって、同じ敷地内の母屋に住んでいる一家だった。挨拶に行ったら、快く迎えてくれた。老夫婦に娘夫婦が一緒に暮らす二世帯住居からは、大らかで裕福な暮らしぶりが覗われた。望月さんによると、学生限定で離れを賃貸ししているらしい。

 こうして由紀は、クロスケとともに松風荘の住人となった。望月さんは、クロスケのことを認めるどころか、大層可愛がってくれ、クロスケもそんな望月さんたちによくなついて、しょっちゅうお宅までお邪魔するようになった。

 さて、松風荘とはどんなところなのだろうか?1フロアに4世帯で、2階建てだから、8世帯住宅である。その住人全員が学生で、それぞれ1Kの部屋で寝起きしている。かなり自由が利き、ペットも楽器も異性の友人もすべて持ち込みOKである。望月さんいわく、「学生時代は人生の黄金期だから」と。

 気になるのは他の住人たちだが、204号室に入った由紀たちの他に、どんなたちの人間が住んでいるのか、由紀は興味津々だった。早速秋田名物のきりたんぽの包みを手土産に、全世帯を巡ってみる。すると、いるわいるわ、いかにもという感じのボヘミアンな美大生の金子くん、恋人と同棲しているコギャルの西表はるかちゃん、掃き溜めに鶴という感じのスタイル抜群のお嬢様の相沢祥子ちゃん、7年も留年しているというむさくるしい無精ひげの30男、村野光太郎氏、インテリめいたきざっちい理系の大学院生の東海林みつをくんといった、個性的な人材の坩堝であることがわかった。このときにはいなかったが、他にもう一人きわめて普通の女子大生の緑山栄子ちゃんという子がいるらしく、隣の203号室であることも聞いて、由紀は安心した。残りの一部屋は、今リフォーム中ということで、空き部屋になっているとのことだった。

 とりあえず由紀は東京での生活をこの松風荘で、落ち着いて迎えることができそうだった。クロスケもすぐに慣れ、あちらこちらの部屋に出没するようになった。

 そして、その住居費を捻出するために、由紀は早速近くのコンビニでバイトを始め、真面目に取り組んだので、4月になる頃にはすっかり仕事を覚え、新しい学生生活に向けての準備は完全に整ったのだった。


          ☆            ☆              ☆

 

 大学1年の夏学期が始まって1ヶ月が経過した。その間、由紀とクロスケには、取り立てていうような事件は何も起こらなかった。あえていうならば、国文科の新歓コンパで由紀が酒豪の異名を取ったことと、由紀を中心とする5人組のグループが生まれたことだろう。由紀が酒豪なのはコウばあちゃんの英才教育(?)の賜物であって、大したことではなかったが、由紀にこんなにも早く複数の親友ができようとは、由紀自身が思ってもみないことだった。

 それはこういうことだった。まず、同じ秋田県出身ということで一番最初に打ち解けたのが島村果歩で、果歩はまれに見る真面目な努力家の秀才だった。次は同じお笑い好きということで仲良くなった、大阪出身で関西弁丸出しのお調子者、吉井裕也である。そして、3人目は話していて気持ちよいくらいはっきりとNOを言ってくる、クールな東京人でNOといえるお嬢様こと八代楓、4人目は日本文学については誰よりも詳しく、静岡県出身で特に川端康成をひいきにしている、いかにも文学青年といった感じの白皙の美男子森田明だった。これに由紀自身を加えた5人組は、その新歓コンパの夜のうちにとことん文学について語り合い、意気投合したのだった。

 果歩は昨今の日本やアメリカのポップ文学についてなかなか詳しかったし、裕也はSFとミステリーが大好きだった。楓は現代の外国文学、特にフランスとドイツについて造詣が深かったし、明は川端はもちろん、三島、太宰、谷崎、横光等、明治から昭和にかけての文豪たち、そして古くは王朝物と江戸物についても通じていた。そんな情報通の彼らのおかげで、由紀は大いに啓発されるところがあった。由紀自身についていえば、ほとんど夏目漱石しか読んだことがなかった。たまに太宰や安吾も読んだが、あまりしっくりこなかったのだった。

 ただ、由紀の場合、創作という行為に関してだけは誰よりも一歩先んじていた。何せ由紀が書き始めたのは、もう5年も前のことだったから。そして、由紀は受け手であるよりも、作り手であることを望んでいた。ほかの4人は、むしろ研究者か評論家を目指しているように見えた。

 しかし、大学入学というより、東京に越して以来、由紀にはなかなか筆を執る時間がなかった。学校の勉強の予習と復習、バイト、家事と並ぶと、とても自由な時間を作る余裕はなかった。サークルにも部活にも所属していないのに、日々の生活はまるで戦争のようだった。

「これが私の青春か…」とため息をつくこともしばしばだったが、もう少し様子見をしようと考える由紀だった。

 そんなある日のことであった。突然由紀の部屋に押しかけてきた人間がいた。崩れたサラリーマンのようなうらぶれた感じのする大男で、何か暗い陰を帯びていた。男は何も言わずに名刺を差し出した。


「大熊探偵事務所 調査員 柏倉権三」


 男は黙ったまま、じっと由紀の表情を観察している。由紀は面食らって言った。

「一体、何の御用でしょうか。私は三沢由紀、N大学国文科の1年生です。何もお話しするようなことはないと思いますが」

 柏倉は殊更恐縮するように、腰を低くしながら言った。

「実はあなたをめぐって一つの事件が起こりそうでしてね。我々はさる筋からの重要な情報を受けて動いているわけなんですが、私は前もってあなたに忠告をしに上がったわけなんですよ。へへ。これはあなたのためを思って言っているんですが、どうか今後一切危ない橋を渡るような真似はしないと約束していただけないでしょうか」

 由紀はすぐに反発して言った。

「私にはあなたのおっしゃる意味がさっぱり分かりませんが、単なる脅しなら、一歩も引くつもりはありませんよ。そもそも一介の学生にすぎない私に何があるというんですか」

「あなたには重大な過去がある。違いませんか?」柏倉はイヒヒと下品な笑みを浮かべながら言う。「しかも、あなたには書く才能があるらしい。我々は、あなたにそうした過去の話を文章化されては困る立場にあるんですよ。今のところ、それ以上のことは話せませんがね。とにかく、何が起きても我関せずの態度を貫いてください」

「それであんたは私にどうしろって言うわけ?この私がそんな脅しに屈するわけはないでしょう」由紀は怒って、思わずきつい口調になった。

 すると、柏倉は真面目な顔に戻って言った。

「では、ここに300万円あります。これと引き換えにということではどうでしょう」柏倉は少々得意げに、銀のアタッシュケースから札束を取り出して、由紀の目の前にドンと置いた。「どうです。これでも駄目ですか?」

 由紀は言った。

「駄目とかそういう問題ではないの。私は将来作家になるのだから、こういう取引に応じることはできません。表現の自由は守らなくてはならないから。それに、何が起こるか分からないのに、最初からしり込みするなんて、臆病者のすることです。私は自分を金で売ることなんてできません」

「いや、すべての未来はあらゆる偶然性の複合体であり、その意味では最初からすべて予定されているというべきかも知れませんよ」

「確かにそういう考え方もあるかもしれない。でも、私には通用しないの。どうかお引き取りください」由紀は強い調子で言った。

「冷たい女性だ」柏倉は名残惜しげに禿げかかった頭に山高帽をかぶり、ベージュのフロックコートを羽織った。くたびれたサラリーマンのような格好だが、目だけは油断なく炯炯と光っている。

 これは厄介な人間とかかわってしまったな…由紀は心の中で舌打ちした。

 柏倉が去っていった後、由紀はすぐに部屋中の窓を開け、換気扇を回し、玄関には塩を撒いた。由紀はこれでもまだ足りないと思ったが、後は掃除をすることぐらいしか思いつくことはなかった。「やれやれ」その晩由紀は、クロスケとともにぐったりと横になったのだった。

 しばらくは何事もなく、夏学期が終わった。

 レポートをすべて提出し終えて、秋田に帰省しようとしていた由紀は、ある准教授から呼び出しを受けた。それは文章術を担当するH氏だった。

「君の作品を読ませてもらった。なかなか面白かった。夏目漱石のパロディーなんだろうが、ほんの一言しか言及しないで、後はひたすら秋田弁の語りが続く。その無意味な饒舌さ、「惑溺」とでもいうような、がなかなか大胆な感じを出していていけると思ったね。君にはどこか光るところがあるよ。これからもぜひ書き続けるといい。私自身は書き手に成れなかったが、これでも名伯楽としての自信はあるんだよ」

「私は真面目に四角四面な文章を書くのが苦手なんです。それと、想像力が貧困で、事件性のある、スピーディで波乱に富んだストーリーがどうしても思いつかないんです」

「だが、君はどこか変わってるんだろう。普通に書いてもどこかずれていて、ユニークに思えるよ。なかなか機知には富んでいるしね。自信を持って、ぜひ頑張りなさいよ。それと、君はまだ学部の1年生だが、特別に大学院のゼミの聴講を認めよう。先輩たちから、いろんなことを吸収するといい」

「ありがとうございます」

 由紀はひたすら恐縮し、H氏に対して深々と頭を下げてから、H研をいそいそと退出した。

 そして長い夏期休暇に入った由紀は、この嬉しい知らせと一緒に、クロスケを連れて秋田に戻った。

「ばあちゃん、只今」

「お、帰ったか。どうじゃ、少し痩せたかのう」

「そんなことないよ。ばあちゃん、私はつくづく元気だよ」

 コウばあちゃんのほうが、むしろ一回り小さくなったように見えたが、ばあちゃんはちっともめげておらず、元気そのものだった。

 由紀は心配しなくてよかったと、ほっと安堵のため息をついた。もちろん、毎週ハガキを書いていたから、大丈夫だろうと高をくくっていたということもあったのだが。

 由紀はばあちゃんにほぼすべてのことを話した。もちろん、まずは大学院のゼミの聴講を許可された話をしたのだが、ばあちゃんはほかの話、クロスケとの出会いやら、松風荘の人たちの話とか、5人の文学グループの活動内容やら、すべてのことにふんふんと耳を傾けてくれた。そして言った。

「ほんにお前は恵まれとるのう、由紀。神様に感謝せねばなるまいて」

「うん、そうだね、ばあちゃん」

 由紀はばあちゃんにも自分自身にも一先ず満足した。そして、久しぶりの田舎生活を満喫することにした。由紀にはたった一つ話せないことがあり、その長逗留の間、とうとう仕舞いまで言い出すことは出来なかったという反省はあったが、その間、由紀は新しい作品、『猫の、猫による、猫のための物語』という作品を書き続けることで、十分にそのフラストレーションを回避することが出来た。

 ただし、またも言わずと知れた漱石ネタだったことに、由紀自身が苦笑いを禁じえなかったが、そこはやはり親しんできた歴史がものを言ったと達観することにした。友人たちの影響で少しずつ世界は広がってきているのだが、まだまだだな、と由紀は自分を振り返りつつ、笑みを浮かべるのであった。

由紀は一ヶ月ほど秋田に残ったが、秋休みには再び上京した。都会の空気・文化の香りが恋しくなったのだった。また5人組の連中と連絡を取り合って、居酒屋文学談義にふけったり、松風荘の面子とバーベキューパーティーを開いたり、と自由気ままな休暇を過ごした。そしてやってきた冬学期。

 由紀は夏休みに書き上げた作品を院のゼミで発表した。すると、叩かれること、叩かれること。生意気な1年生をのさばらせてなるものか、という上級生たちの意気込みが生々しく感じられるような、ものすごいバッシングを受けた。たとえば、ストーリーの展開があまりにも突飛で不自然だとか、会話の部分が多すぎて、しかも一つ一つがあまりにも短く、まるでドラマのシナリオのようだとか、社会性が完全に欠如している、社会的常識がないなどという、根本的な批判ばかりだった。経験の少ない由紀には、一々もっともに思われ、反省の連続だった。ただ、そんな素直な態度に好感を持ってくれる人物もいて、先輩後輩関係ではあったが、由紀はそうした新しい仲間とも一緒に飲みに行ったりするようになって、ますます由紀の世界は広がっていった。

 そして、いよいよ運命の季節がめぐってきた。由紀は次の春、最新作『行く人、来る人』をある大手の出版社に送り、由緒あるコンテストで見事佳作に入賞したのである。弱冠19歳での偉業だった。5人組のメンバーや院の先輩たち、教師陣はみな心から喜んでくれた。マスコミにも由紀の名前が取り上げられはじめた。それは由紀にとって人生のうちでもっとも輝かしい季節であった。由紀はクロスケとともに祝杯を挙げ、コウばあちゃんにはハガキで一番に知らせておいた。楽しい日々の始まりが待っている予感がする由紀であった。これでいよいよ作家としての人生が始まると、身震いとともに大きな期待でいっぱいになった由紀は、しばらく落ち着いて眠ることができなかった。クロスケだけがそんな由紀を淡々と等身大の姿で見つめているのかもしれなかった。


        ☆              ☆             ☆


こうして由紀は作家としての第一歩を順調に踏み出したかのように見えた。しかし、そこには大きな障害も待ち受けていた。

 それはジャーナリズムという巨大な見えない敵だった。どこで調べてきたのか、由紀の若さと幼時の事件のことがことさらに取りざたされ、まるで由紀の作品がすべてその後遺症の賜物であると言わんばかりの論調が席巻した。悲劇から生まれた奇跡、とさえ呼ばれる始末だった。

 しかし、そうした流れがまた思わぬ方向に由紀を導くことになる。ある日、由紀は謎の電話を受け取った。それは落ち着いた声の、おそらく年配の女性からのものだった。

「あなたの作品を拝見しました。あなたに私の半生の体験記を代筆していただきたいんです」その声は言った。高くもなく、低くもない、澄んだ声だった。

「つまり、私にゴーストライターを引き受けろ、ということですね」由紀は念を押した。

「お金は十分にお支払いいたします。どうか私の無念を払ってください。それにはあなたしかいないんです。それと、このことは誰にも話さないでいただきたいの。あなたの一命に関わることですから」

「それは脅しですか?」由紀はもう一度確認した。

「いいえ。逆です。あなたの身を案じてのことです」

「分かりました。それであなたのお名前は?」

「正確なところはお教えできません。X夫人とお呼びください」

「X夫人?何ですか、それは」由紀は思わず頓狂な声を上げた。

「まあ、よろしいじゃありませんか。たいしたことではありませんわ。それより、そのうち私のほうからあなたをお招きして、話を詳しく聴いていただきます。よろしいですね。それでは」

 謎の電話はガチャンと切れて、それきりだった。

 一方的にかかってきたものが、一方的に切れた、ただそれだけのことだったが、由紀には何のことやらさっぱり分からず、首を傾げるばかりだった。まったくの冗談かもしれなかった。しかし、考えてばかりでも仕方がないことなので、由紀は気持ちを切り替えて、早速新作の構想に取りかかり始めた。時はあっという間に過ぎていった。

 だが、例の電話の一件は決して冗談事ではなかった。その1週間後、由紀は屈強なボディーガードに目隠しをされたままハイヤーに乗せられ、X夫人邸とおぼしき広壮な屋敷に連れて行かれた。そして、そこで長い身の上話を聞かされた。それはある政治家の一生についてだった。

 X夫人の最初の夫は北海道の山間部の出身だった。そこで牧畜農家の息子としての教育を受けたが飽き足らず、親の反対を押し切って東京に飛び出して行った。弱冠17歳のときのことだった。そこである有力な政治家の付人となり、やがて第1秘書にまで抜擢された。そこからが彼のサクセス・ストーリーの始まりであった。まず彼は、そのボスの娘であるX夫人と結婚し、家庭を持った。そして地元の北海道から衆院議員選挙に出馬し、一回で見事に当選した。それからは地元と東京を行き来しながら、ボスと行動をともにし、ボスが首相になったときには閣僚の一人に選ばれた。そして、若手の風雲児として、並み居る官僚たちをうまく束ね、改革を成功させて、広く名を馳せた。

 ところが、である。政界とは恐ろしいところである。昨日の味方が今日の敵、彼はある国際会議に出席した際に毒を盛られ、あっけなく死亡した。しかも、表向きは持病の発作として片付けられ、真実は国民にはまったく伝えられなかった。なぜなら、そこには国家の外交問題とも絡んだ大々的な政治的策謀が裏で糸を引いていたからであった。 

 実は彼のボスが、彼のライバルであった第二秘書と結託して、彼の抹殺を図ったのであった。彼は手ごわい親中派であり、革命的思想に賛同するところがあった。しかし、ボスは元々こてこての親米派であり、保守派であった。そして、彼の改革路線が次第に目障りになっていたのであった。まして、彼が勢いづいてボスにはむかうような姿勢を見せ始めたこともボスには気に食わなかったのだ。

 何も殺すこともないではないか。娘婿であるのに。という声も上がるかもしれない。しかし、政治家とは一切私情を挟まない、人の形をした魔物である。そして、ボスは第二秘書に地盤を継がせたかったのである。この第二秘書の男は、絶対的なイエスマンであり、しかも裏工作の巧みな策謀家であった。

 ボスは結局、白よりも黒を選んだのである。そして、その必然的結果として、X夫人はその男を第二の夫とすることを強制され、愛のない生活を送る羽目になった。そしてどら息子を3人生むことになった。

「ここまでは私の愛した人と私自身の話でしたが、これからあなたとあなたのご家族のお話になります」そう言って、X夫人は話を続けた。

 実は10年前の棚橋親子の死亡事件は、X夫人と二番目の夫との間に生まれた3人の息子の中の、次男が引き起こしたものだった。そのときのどら息子は、ひどく泥酔しており、とても運転などできる状態ではなかったのだが、付き人とともに高速運転していた。そしてその強気が裏目に出て、あの悲惨な事故を呼び起こしたのだった。

 だが、その事実はどら息子の父によってもみ消された上、由紀のわずかな親戚も金と脅迫で口を封じられ、由紀は孤児となる運命を余儀なくされた。コウばあちゃんだけが脅しに屈せず、由紀に手を出させない代わりに沈黙を守る、という条件で由紀を引き取ったのであった。

 由紀はこの真相を聞いて、大きな衝撃を受けた。ただの不幸な事故ではなかったのか、と愕然としたのである。しかし、なぜ10年も経った今になってこの話が蒸し返されるのか、と由紀はX夫人に尋ねた。

「それは、現在夫が死の床に伏せっているからです。私は元々今の夫も息子たちも全然愛していないのでね、やっと真相が語れると思って、かえって喜んでいるんですよ。私も長い間、前の夫に対し、あなたたちに対し、罪の意識に苛まれてきたんです。今さら許してほしいとは言いませんが、どうかこの話を私の名前で公表してください。きっとあなたも長い間のトラウマから解放されることでしょう」

 由紀はこれを聞いて、最初のショックから立ち直り、じっくり考え込んだ。

「しかし、奥様。実は私にはすでに魔の手が伸びているのです」由紀は柏倉権三の一件について告白した。X夫人は言った。

「それはまずいわね。死の床にあるあの人に、まだそんな余力があるとは思っていなかったわ」

「そうなんですよ。それでこの話を実名で公表されるおつもりですか?私もあなたも危険な立場に追い込まれると思うのですが」

「そうね。実名にしたいと思っていたのだけれど、今の話が事実なら、フィクションということにしていただくほかはなさそうね。そうすれば私はともかく、あなたの危険も少しは軽減すると思うのだけれど」

「分かりました。でも、もうひとつ気がかりがあります」

「何でしょう」

「このスクープをマスコミが放置しておくとは思えないのですが」

「そうね。でも、それこそが私の狙いだったのに。私は今の夫を憎み倒し、呪詛してきたから、彼が引退に追い込まれることを本心から望んでいるの。だから、どうしてもこの件は成功させたいのだけれど。でも、そうねえ、私がここまでこの問題にこだわるのは、本当はあの人というより、父の命令に逆らうことのできなかった弱い自分自身が断罪されることを望んでいるからかもしれないわ。私にとってはどちらにせよ、大きな差はないけれど。あの人の終わりは、私の終わりでもあるから」

 由紀はここまで夫人の告白を聞いて、とりあえず恐縮してX夫人邸を辞去した。

 さて、どうしたものだろうか。一人になった由紀は考えた。引き受けるかどうか、ここは考え物であった。柏倉の口ぶりを思えば、危険なことは確かだった。しかし、コウばあちゃんの人知れない苦労を思って涙すると、正義を追求することが由紀自身にとっての絶対的な使命であるような気がしてきた。やはりフィクションにせよ、この話を公にするしかない。由紀はそう決意した。


           ☆           ☆          ☆ 


 由紀の書いた作品は、X夫人の名前で小説として公表された。そこには○元首相とX前大臣の汚職が、フィクションとして名を変えてはいるが、明らかにそれと分かる形で克明に描き出されていた。そのスキャンダラスな内容のせいか、由紀の筆力のせいかは分からないが、その本は飛ぶように売れ、ミリオンセラーとなった。

 由紀自身は売れる・売れないは関係なく、自分自身の鎮魂と正義の追求のために書いたつもりだった。そして、X夫人も主に懺悔の気持ちで由紀に代筆を依頼したのだ。しかし、その結果、X夫人の読みどおり、世論の圧力のせいで、○元首相は引退、病気療養中だったX前大臣は議員辞職を余儀なくされた。一方で、自分の家庭の醜態をことさらに明るみに出したX夫人の思惑については、さまざまな憶測が飛び交った。しかし、X夫人はそれらすべてに対し、一切沈黙して口を開くことはなかった。

 由紀としても、これ以上政治の世界に足を踏み入れるつもりは、毛頭なかった。両親と妹の墓に詣でながら、由紀は大学2年生としての務めを怠らないことと、作家としての再出発を誓った。

 ところが、困ったことに、今度のミリオンセラーの真の作者は由紀である、という噂が流れ出した。文体が由紀のデビュー作に酷似しているという指摘がなされたのだ。そして、また脅迫の季節が巡ってくる。例の柏倉から電話がかかってきたのだ。

「あれだけ忠告したのに、やっちゃいましたね、三沢由紀さん。どういうことになるか覚えておくといいですよ」今度は一切笑いもなかった。

 由紀はさすがに怖くなった。何しろ若い身寄りのない女の子が一人でボロアパートに住んでいるだけなのだから。いや一人ではない、クロスケと一緒なのだが、そのクロスケが実は一昨日から姿を見せないのだ。そこで由紀が思い当たったのは、柏倉の仕業に違いないということだった。

 その後も嫌がらせは続いた。松風荘の由紀の部屋の扉に「死ね」とスプレーで落書きしてあったり、N大学の由紀のロッカーが荒らされていたり、ワープロで書かれた誹謗中傷の手紙が届いたりと。

 しかし、ここまでくると、由紀はむしろ恐れより怒りを感じるようになった。やってしまったことはやってしまったことで仕方がないが、クロスケにだけは手を出してほしくなかった。クロスケの安否が心配で、夜も眠れない日が続いた。

 しばらく由紀は、自力で周辺から洗ってみることにした。詳細なポスターとチラシを作って、松風荘の近辺で消息を求めた。しかし、まるで情報はなく、やはり柏倉の手で連れ去られたと思うしかなく、気が気でなかった。

 ニャオーと近寄ってくるときの安心しきった灰緑色の瞳、そこだけが色の違うピンクの鼻、洗ってやったことなどないのにつやつやした真っ黒な毛並み。美しいとはいえないが、愛嬌のある猫だった。食に淡白で、品もあった。あの猫が自分のせいで辛い思いをしているとは、考えたくもないシチュエーションだった。何しろ上京したその日に出会い、ずっと寝食をともにしてきた運命共同体なのだから。

 仕方がないので、ついにX夫人に相談してみることにした。X夫人は柏倉という男のことを直接には何も知らなかったが、「何らかの形で御礼をしなければと思っていたので、できる限り協力しましょう」と言ってくれた。 

 その直後、またもや柏倉から電話がかかってきた。

「どうです、三沢さん。へへ。お困りのご様子ですね。どうかされましたか?」

 怒鳴りつけたいところを我慢して、由紀は言った。

「私の猫を返してちょうだい!」

「猫?はて何のことでしょう。猫のことなんて知りませんぜ。何かのお間違いでしょう。当方としては、変な中傷を受けるいわれはまったくありませんな」

「嘘よ。なら、何で電話してきたのよ」もはや抑えきれなくなった怒りが爆発する。

「実はですねえ。ああいった本を二度と書かないと約束していただきたいんですよ。というか、もう二度と本を書かないとね」

「何言ってるの。私に物書き以外の生き方があるわけないでしょう」

「金は払います。一千万でどうでしょう。文筆業だけでそれだけ稼ぐのは難しいと思いますが」

「とんでもない。とにかくクロスケを返しなさい」

「となると、猫だけではなく、あなたご自身に危害が及ぶかもしれませんよ」柏倉は捨て台詞を吐き、そのまま電話を切った。

 結局、由紀はクロスケを失ったまま、念のためしばらくX夫人邸に厄介になることになった。もちろん、毎日大学の授業には通った。そして、クロスケが戻っていないか確かめるために松風荘にも立ち寄った。しかし、依然としてクロスケの消息は不明だった。そしてついに、由紀自身がX邸と大学との行き来の間に誰かにつけられるという事件が起きた。

「政治家って言うのは怨念の塊ですからね。一度目を付けられるとなかなか厳しいわね」X夫人は、由紀を宥めるように言った。

 しばらく由紀は、クロスケ不在のまま、恐怖と怒りと闘いながら生活しなければならなくなった。

 

           ☆        ☆        ☆


 クロスケ騒動が続いているころ、由紀は一方大学で新たに文学サークル「星和」を立ち上げる運動を起こしていた。

 「星和」には、天界の星々のように自ら輝き、また下界の人々を照らす存在になるという願いが込められていた。

 メンバーは、もちろんいつもの5人組、果歩・楓・裕也・明・由紀が主体だったが、他に院ゼミのメンバーも少々加わっていた。そして、この星和会は毎週一回会合を持ち、一回につき一つの文学作品を取り上げ、全員で精読することとなった。その際、発起人として由紀が主宰者となることも取り決められた。

 さて、第一回目の会合は、由紀のたっての要望で、漱石の『猫』が取り上げられることになった。司会者の由紀はその導入に当たって言う。

「なぜ今さら『猫』なのかと申しますと、まずは個人的に思い入れが一番深い作品だからと言えましょう。私はこの作品のパロディーから自らの創作活動を始めました。その意味で、忘れられない作品なのです。そして、第二にこの方がもっと大事でしょうが、この作品が古典として、現在にあってもその価値の薄れない、実に魅力的な名作だということです。これはどなたも否定できない事実ではないでしょうか。それでは、討論を始めたいと思います。皆さん、どしどし意見を述べてください」

 まず、最初に森田明がもっともらしい意見を述べる。

「この作品の面白さは、やはり苦沙弥先生としての漱石自身が、猫の視点から相対化されてかなり滑稽な人物として映るところにあると思います。僕は鼻毛を抜くくだりとか、相当受けましたよ。細かい観察者だなあと感心もしました。徹底的に自分を茶化す姿勢、イロニーがこの作品の通奏低音になっていると思います」

 これに対して司会者の由紀は言った。

「この森田君の意見に対して、何か言うべきことのある人は?」

「はい」と楓が元気よく手を挙げた。

「私、『猫』を読んだのは、まだ2回目くらいですけど、その自虐的な面白さ―これでしょう、森田君が言いたかったのは、まあいいや―とは別に、当時の漱石やその友人、門下生などの生き様が実に生き生きと描かれていることに感銘を受けました。たとえば私のお気に入りの寒月君とか、モデルが誰だか忘れちゃったけれど、後は詩人の書生さんとか、とにかくいかにも本当に存在していた人のように、リアルに描かれている点が面白かったですねえ」

「なるほど、確かに。でも、作品解釈を現実世界と直接リンクさせるのは、色々と理論上問題もあるので、今回はできるかぎりそれ以上掘り下げるのは止めようかと思うのですが、どうでしょう」由紀が言った。

「僕も言っていい?」吉井裕也がしゃべり始めた。「僕は、基本中の基本、語り手が猫であるという点が、当時としてはやはり革命的に斬新だったということに着目したいんです。しかも、その猫が人間の言葉をしゃべりながらも、徹頭徹尾普通の猫であるという点も面白いですね。想像力のふくらみを感じました」

「そうそう。三毛子さんとか、車屋の黒とか、仲間もいたでしょう。それから餅を食べて踊っちゃうところとか、おっかしいよね。作者だけでなく、語り手である猫自身も相対化されているんだよね」果歩も挙手して発言した。

 こうした発言が相次ぎ、討論はなかなか実り豊かに進んでいった。最後に由紀がまとめる。

「もう他に意見のある人はいませんね。まだまだ突っ込みどころ満載ですが、初回としてはもう十分でしょう。お疲れ様でした」

 こうして星和会の第一回読書会は散会となった。

 由紀はメンバーに尋ねた。「どうだった、今日は?」

「うーん、そうだなあ。大枠というか、構造的な問題関心ばっかりだったから、もう少しミクロな視点があってもよかったんじゃないかな。たとえば何で猫に名前がないかとか、個々の登場人物の小説内での位置価についてとかなんかね」「私はもっと社会文化史的な背景に触れるべきだったと思うわ。そうしたら、作品理解がもっと深まったでしょう」「なるほどね」由紀は一々納得した。

 執筆も大事だが、そればかりでは読書にかける時間が減る。やはり読まなくては書けないものだろう。その意味でも、由紀にとっては有意義な時間だった。由紀は早速次回のお題は何にしようと考え始めた。


            ☆         ☆         ☆


 クロスケが姿を消してから3ヶ月が経過した。その間、クロスケの消息が明らかになることはまるでなかった。しかし、ついにクロスケを見かけたという人物が名乗りでた。

 それは、永田春乃さんという花屋の若い店員だった。

「ポスターの画像にそっくりの、全身真っ黒で尻尾の先だけ白い猫が、ベージュのフロックコートに帽子を目深にかぶった怪しげな中年の男に首根っこをつかまれて、どこかに連れ去られていくのを目撃しました」

 由紀ははっとして尋ねた。

「それは一体いつのことでしたか?」

「2週間ぐらい前です」

「場所は?」

「うちの花屋に近い、三鷹駅の近辺でした」

「どんな様子でしたか?」

「ぐたりとして、まるで死んでいるみたいでしたが、本当のところはよく分かりませんでした」

「それじゃあ、猫がその後どうなったか、まるで分からないということですか?」

「ええ。申し訳ありませんが、そうなんです」

「そうですか。しかし、本当にありがとうございました。今の情報だけでも十分です。今まではほかに一切情報がなかったもので」

「そうなんですか。早く見つかるといいですね。きっとどこかで生きてますよ」

「ありがとうございます。私もそれだけを祈っています」

 初めて消息を得られたことはうれしかったが、ほぼ絶望的な内容であったので、由紀は言葉とは裏腹に、かえって衝撃を受けていた。目撃者の口ぶりからすれば、それが柏倉とクロスケであることは間違いないようだったが、クロスケがすでにその場で死んでいたとしたら…考えるだけで苦しかった。

 その晩、初めて由紀は泣いた。

「クロスケ、ごめん。私が安易にあんな仕事を引き受けたせいで、あんたの身にこんなことがおきてしまって…」

 しかし、泣いたからといって、事態が変わるわけではない。とにかくまだ諦めないことにしよう、と由紀は涙をぬぐって思い直した。きっとクロスケはどこかに監禁されているのだ。そして助けを求めているに違いない。そういう思いで、由紀は再びX夫人を頼った。

「私はとにかく、裏で糸を引いていると思われる、柏倉のボスの○元首相と会ってみなければなりません。どうかそのセッティングをお願いします」

 由紀は無謀にも命懸けでクロスケのために立ち上がるつもりになったのだった。必死にX夫人の前で頭を下げた。

 X夫人は言った。

「父に会いたいのね。気持ちは分かるわ。でも、父は引退したとはいえ、いまだに影のドンであることに代わりはないし、あなたがあの本を書いたことはよく知っているだろうから、あなたにそれは勧められないわ。危険だと思うわよ」

「構いません。私はこのままじゃ、諦め切れないんです。それに、つまらない人間の権力闘争のために、か弱い一匹の猫の無辜の命が失われるなんて見過ごせません。あまりにむごいです」

 X夫人は苦笑いしながら言った。

「それじゃ、何とかしてあげる。でも、あまり期待しないのよ」

「分かっています。でも、私は昔から強運の持ち主だから、きっとうまくいきますよ」

 由紀はX夫人の言葉を受け、何倍もの勇気を得たかのように、力強く言った。

それから20日あまりたったある日、X夫人から直接電話があった。

「明日、あなたを父の屋敷に案内します。私は立ち会うつもりはないから、覚悟を決めて、しっかり頑張りなさいよ」

 X夫人の励ましに勇気を得て、由紀は元気よく返事した。これで、さいは振られた。私はやるだけのことはやってみよう、と由紀は新たな決意を胸に秘めた。

 翌朝早く目覚めた由紀は、戦闘服で身を固めた。真っ黒なTシャツ(「吾輩は猫である」というロゴ入りだった)、穴の開いたブルージーンズ、ナイキの白いスニーカー。一国の宰相に会うにはこれに勝る格好はないと、よくよく考えた末の選択だった。

 10時にX夫人の乗ったハイヤーが松風荘に立ち寄り、由紀を拾った。そのまま車は元麻布へと向かう。○御殿と呼ばれる広大な屋敷に到着したのは、ちょうど正午を回ったころだった。

 X夫人は言った。

「私はこのまま帰りますから、あなたは一人で思い切り父とぶつかってきなさい。嫌な人だけれど、立派なところもあるから、どうにかなるかもしれないわ」

「はい」由紀は悄然と頷いた。

 由紀が門前で2人のガードマンに名前を名乗ると、門番は黙って由紀を通してくれた。3メートルはあるかと思われる巨大な鉄柵が後ろでギーと鳴って閉まる音が聞こえた。由紀は少し気圧され、しばらく敷地の大きさに驚き入りながら、銀杏並木の並んでいる道をまっすぐに進んでいった。玄関にたどり着くまでたっぷり5分はかかった。やはりそこはまさしく屋敷であり、御殿であり、城館だった。由紀はなおも驚きを新たにした。

 しかし、一旦見慣れれば大したことはない。ただ大きいというだけなのだから。由紀は覚悟を決めて、インターフォンを押し、名前を告げた。しばらくして、玄関の扉が開き、黒いモーニング姿の執事が現れた。

「三沢由紀様ですね。ご用件は伺っておりますので、どうぞ付いていらしてください」そのままニコリともせず、正面の赤毛氈の螺旋階段をしずしずと上ってゆく。由紀も慌てて後を追う。

「本当はエレベーターもございますが、特別なお客様と御前様ご自身とご家族の方しかご利用はできないことになっております」

 そういう執事は、40がらみの、頭を7:3に分けてポマードでカチカチに固めている嫌味な男だった。由紀は皮肉に言葉を返した。「どうせ私はただの平民ですからね」すると執事は言った。「そのとおりでございます」由紀は腸が煮えくり返ったが、黙って一言も口を利かなかった。

 階段は6階まで続いた。小さなビルのようでもあった。その最上階に○元首相、つまり御前様がいらっしゃるわけだ。由紀はすっかり汗をかいてしまったので、Tシャツでよかったと改めて思った。

 いよいよご対面かと思ったとき、執事が言った。

「本当にそんな服でよろしいのですか?御前様に失礼ですよ」

「これがあたしの一番自然な姿なので、ほっておいてください」由紀は半ば叫ぶように言って、執事をにらめつけた。

「しっ」執事は唇に人差し指を当てて言った。「どうかご静かに。お眠りになっているかもしれませんから」

「はいはい」由紀はいらつきながら、仕方なく頷いた。

「それでは、どうぞ」

 執事はそう言って、コンコンと濃緑色の重たげな扉をノックした。答えがないまま、執事はノブを回し、カチャリと音がして扉が開いた。

 だだっ広い大理石の広間の中心に、真紅の唐草模様の天蓋つきの豪華なベッドが置かれており、そこに豪奢なエキゾチックな感じの絹のガウンを身にまとった、恰幅のよい、70がらみの老人が横になっていた。

 いぎたないところのまったくない寝姿の老人は、パッと目を開けて言った。

「何の用じゃ」

「お嬢様のたってのお願いでアポを取りました、例の生意気な作家の卵の女でございます」

「ああ、三沢とか言ったな」

 老人は鷲のように鋭い視線を由紀に向けた。由紀は一瞬ひるんだが、動じなかった。

 由紀はこういう場所のほうがかえって安全であることを本能的に知っていたし、コウばあちゃんのしつけの一つに「たとえ天皇陛下が相手でもびくついちゃならん」という教えがあったのだった。

「ほう、なかなか気骨のある娘のようじゃが」

「生意気な平民の女でございます」

 老人は一旦目をそむけて、サイドテーブルの上のコーヒー茶碗に手を伸ばした。

「もう冷めておりますが」と執事が言った。

「よいよい。それよりこれからしばらくこの娘とわしを二人きりにしてくれ」

「危険とは申しませんが、お疲れになりますよ」

「いいのだ。ほんの10分かそこらだから」

「承知いたしました」執事はそこで踝を返し、引き取った。後手に扉がパタリと閉じる音が聞こえた。


「それで何の用じゃね。この無力な老人に」と老獪な○氏は言った。

「あなたがいまだに影の支配者であることは分かりきっています。そんな見え透いたことを言わないで」

 由紀は○老人をきっと睨んで言った。

「まあ、そう言っている人間がいることは知っているが、改めて言おう。わしはもうただの老いぼれの隠居じゃよ」老人はにやりと不気味な笑いをたたえながら言った。

 由紀はぐっと歯で下唇をかみ締めた。

「分かりました。それはそれでよいことにしましょう。でも、私にはあなたにどうしても聞いてもらいたいことが2つあるんです」

 老人の目が一瞬、稲妻のようにひらめいた。

「お嬢さん、一体何かな」

 由紀は思い切り息を吸い込んで言った。

「なら言います。まず一つは、私の家族の死に対し、あなたの孫に謝罪をしてもらいたいということ、もう一つは私のクロスケを私の手許に返してほしいということです」

 由紀は一息で言ったので、少し息が苦しくなった。老人はまったく顔色を変えずに返してきた。

「あんたの家族の事故はむごい事故であったと聞いている。しかし、わしの大次郎にそんなことができるとは到底思えん。あの子はあれで気が優しい子なんじゃよ。それと、クロスケとは一体何者かな?」

「クロスケは猫だけど、ただの猫じゃないの。私の東京での唯一の家族で、運命共同体なの。そのあんたの大事な孫の話は、本人がここにいないから仕方がないかもしれないけれど、クロスケの件は絶対譲れないからね」

 由紀は次第にため口になっている自分に無意識で、無我夢中でしゃべっていた。

「それで、わざわざその猫のためにわしのところまでやってきたのか?いくら暇だとは言え、猫ごときでわしを起こさないようにしてもらいたいものじゃ」

「でも、私にとっては唯一絶対の生命なのよ」

「じゃが、困ったのう。知らないものは知らないんじゃよ」

「それでは、柏倉と名乗る男についてはどうなの?奴がクロスケを連れ去ったことに関しては、証人もいるんだから」

「柏倉か…ああ、その男なら、わしの娘婿のXの元で働いている探偵じゃよ。一度会ったことがあるが、つまらない男だ。貧相で感じの悪いこと、この上なかった」

 由紀は最後の息を振り絞って言った。

「どうか、その柏倉にクロスケを返すように命じてください」

「それくらいのことは何とかなると思うが、本当にそれだけか?」

「それと、できれば亡くなった家族への謝罪を」

「やはりそれか。分かった。あんたのご家族のご冥福はわしも祈ろう。本当に大次郎が起こした事故だというなら、ちゃんと詫びもさせよう。とにかく真実を知らねばならん。まずは調査からじゃな」

「本当ですか…」由紀の口に声にならない声が上った。

「ああ。猫のほうも、生きていたら何とかするから、心を大きくして待っていなさい」

「はい」由紀は力尽きて、その場に崩れ折れた。


 由紀は気づくと、真っ白な広い部屋のベッドに寝かされていた。そこは三方を窓で囲まれ、日差しが強く、また壁紙もカーテンも全部真っ白だったので、まぶしかった。

「お目覚めですか?」

 いつの間にか先ほどの執事が由紀のベッドサイドに立っていた。

「ここはどこ?」由紀は尋ねた。

「三階の医務室でございます。よくお休みになれましたか、三沢様」

「ええ」

「お嬢様が下でお待ちかねですよ」

「X夫人?」

「その通りでございます」

 心なしか、執事の態度が以前より丁寧になっている気がしたが、由紀は何も言わず、慌ててベッドから起き上がった。

「大丈夫でございますね。それでは下に参りましょう」

 再び由紀は執事の導きで赤毛氈の螺旋階段を下りていった。玄関までたどり着くと、そこにX夫人が立っていた。

「大丈夫?倒れたと聞いたけど」

「はい。お恥ずかしながら、あなたのお父様に気圧されてしまって」

「まあ、そりゃあ、父は怖い人だから。でも、いいたいことは言えたのでしょう?」

「ええ。思う存分」

「それならよかった」

 そこへ執事が割って入った。

「それでは、お嬢様。三沢様をお返しいたします。御前様がしっかりお送りなさるようにとおっしゃっておりました」

「分かったわ。よかったわね。由紀さん。お父様はあなたが気に入ったようよ」

「そうなんですかねえ」まだ先ほどの夢のような寝心地から覚めないでぼーっとしている由紀だった。

 由紀は玄関まで来ていたハイヤーにX夫人と乗り込み、○御殿を後にした。

 X夫人には吉祥寺まで送ってもらい、そこからは久々に松風荘まで一人で歩いて帰ることにした。歩きながら考えをまとめるためだった。

 由紀は今日のことを振り返った。一つ、○老人はなかなか好感を持てる人物に見えたこと。一つ、○氏の孫がどんな形で詫びてくるのかということ。一つ、本当にクロスケが無事に帰ってくるのかということ。

 もしかしたら、老獪な○氏にただ丸め込まれただけかもしれない。何しろ一国の宰相だった人物なのだ。それぐらいお手の物だろう。しかし、それは由紀が一番恐れていることであり、また悔しいところでもあった。今の由紀には老人を信じるほかに道はないのだった。老人のほうが何倍も役者が上だったのだから、仕方がないのだが。しかし、由紀は考え直した。あの老人が理由なく嘘をつく言われもない。それに私はいつだって強運の持ち主なのだから、と。

 1時間以上をかけて松風荘にたどり着くと、みんなが「お帰り」と待ち受けており、話を聞きたがった。大家の望月さんはもちろん、隣室の栄子、東海林くん、村野氏、などなど、暇人がみんな集合していた。

 由紀は○邸が御殿のように素晴らしい場所であったこと、○老人が想像以上に気さくな人物であったこと、そして事故の謝罪とクロスケの返還もおそらくかなうはずになったこと、をみんなに話した。

 みんなが口をそろえて「よかったね」と言って来る。特に美大生の金子君などは感極まって、「君の猫をぜひ僕のモデルにしたい」などと言い出したし、大家の望月さんの奥さんは「クロちゃんに何かおいしいものを用意したいわね」などとすっかりはしゃいでいる。みんな、すっかりお祭りモードだった。

 しかし、その後しばらく○老人から音沙汰はまるでなかった。X夫人に問いただしても、何も分からなかった。

 ただ、あれから2週間あまり後、由紀の口座に1千万円が振り込まれていた。振り込み人は不明だった。そして、カードが届いた。

「俺は自分が悪いと思ってはいないが、爺さんに言われたから金はやる。あんなとんでもない本を書いたんだから、それでチャラだと思うんだな」

 何て反省のない、失礼な奴なんだと腹は立ったが、これはこれで筋は通ったので、もう関わりになるのはよそうと思い、由紀はこの入金と謝罪(?)の手紙のことを父母の墓前で報告した。

 そして、待ちに待ったさらにその2週間後、ついに見るからに弱り果てた、ボロボロで汚れきった黒猫が松風荘に姿を現した。

「クロスケ!」  

 由紀はすぐにクロスケを抱きしめた。そして、その変わり果てた、ゴツゴツの姿に涙を流した。でも、無事に帰ってこれたのだ。よかった。涙はすぐに嬉し涙に変わった。これで全てが元に戻ったのだ。私の強運はまたしてもここで役に立ったのだ。そう思うと、感極まる由紀だった。

 由紀はそれからすぐに、クロスケに好きなだけミルクを飲ませてやり、そしてゴシゴシと盥にお湯を張って洗ってやった。痩せてはいるが、昔のままのクロスケであることがはっきりした。

「クロスケ、よかったね」

 松風荘の人もみんな抱きに来る。

「ちょっと疲れているみたいだから、そっとしておいてやってください」

 由紀はそう言って、クロスケと二人で、久しぶりに自分たちの部屋に引き取った。

 満月が夕方から姿を見せ始める、静かな晩だった。


            ☆          ☆          ☆    


 その後一度だけX夫人と会う機会があった。X夫人はまたハイヤーで由紀を迎えに来、今度は自宅ではなく、高輪の高級マンションに立ち寄った。

 その29階が彼女の次男、大次郎の家だった。X夫人は前もって言い聞かせていたのであろう、大次郎に一言だけ言わせた。

「あんた、辛い目にあったようだな。悪かったよ」

 由紀は驚いた。あの傲慢な男から、こんな殊勝な言葉が聞けるとは思っていなかったからだ。しかし、これで本当に溜飲が下がった。そして、棚橋一家の死亡事故事件はこうして完全な終着を見たのだった。

 クロスケ失踪事件については、まだその全容が究明されていない。クロスケがどうして姿を消したのか、永田春乃に目撃されるまでどこにいたのか、そしてその後は解放されるまで誰にかくまわれていたのか、まるで謎だった。しかし、由紀は信じている。柏倉が由紀の脅迫のためにクロスケを誘拐し、自分の隠れ家でろくに世話もせず、ほっておいたのだ。そして、○氏の命を受けて手放しはしたものの、どこか遠く離れた場所で逃がし、クロスケが自力で松風荘に帰り着くのを、当てにしていたのだと。

 こちらから柏倉と連絡を取るすべはないから、事件はお蔵入りだった。しかし、由紀としてはもうあのような物騒な男とは関わりたくはないし、クロスケが無事だったということで満足することにした。

 その後、由紀はまた執筆活動を再開した。今度は純文学の私小説的な書き方にこだわらず、社会的な問題意識も念頭に置くように努めた。由紀は人間的な幅も広げようと思っていたのだ。そして、由紀のそうした努力は徐々に認められ、書き手としても広く受け入れられるようになっていった。まだ弱冠大学4年生だが、就職もせずに、文筆業一本でやっていけそうな見込みもついてきた。

 こうしたことをコウばあちゃんに報告したら、ばあちゃんは我が事のように喜んでくれた。

「お前は辛い目にもあったが、そのおかげで畑は無事に耕され、種も撒かれた。後はスクスクと新芽が育つのを待つばかりじゃ。どんな収穫ができるか、楽しみじゃのう」

 星和会もまだ続いている。執筆活動が忙しいので、主宰者は明に代わってもらったが、あれからもう17回も会合は開かれ続けている。今度は久しぶりに由紀の発案で、ペローの『長靴を履いた猫』が取り上げられることになった。由紀は冒頭で発言した。

「猫は賢いといわれますが、それだけではなく、猫は幸運を運んでくる生き物なんです。そして、飼い主とは主従関係にはならずに、対等な立場を結びます。それだけ独立心が強いということです。この物語はそういう意味で、他の動物では成り立たない話だといえると思います。「長靴を履いた馬」とか「牛」ではだめだということです。「犬」でもだめでしょう。私はそういう猫という個性的な生き物が大好きなんです」


 今も机に向かって執筆をしている由紀のひざの上に、クロスケが安心しきった顔で、ちゃっかり横になっている。そんなクロスケを無上の優しさで眺めている由紀は、我知らず温かい微笑を浮かべていた。

 やがて訪れる春の気配が、冬枯れの木々にも命の力強さを芽生えさせている、そんな冬の最後の一日であった。立ち昇る太陽は二人の姿を永遠に照らし続けていくだろう。そんな予感が立ち込める、陽気な夜を、二人は誰からもどこからも離れて、永遠に見つめ続けるのであった。


                                         完 



 ブログで連載した始めての投稿作品でした。今後も精進を重ねて、表現力をアップさせていくつもりです。どうか温かい目でご覧ください。

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