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あくる朝。僕はクッキーと桜が舞う美船市営霊園を散歩した。よたよたと歩くクッキーもこの霊園を歩いているときは顔が生き生きしている。クッキーは昔からどこよりもこの霊園が大好きだ。人間の視点から見れば、ただの無人の寂れた墓場だけど、クッキーから見れば、ここはテーマパークのような場所に違いない。鳥のさえずりがして、芝生や並木周辺には蝶が舞っていて、野良猫もちらほら見かける。なんて賑やかな場所だろう。霊園内の3番目と4番目の墓石の列の間を歩いて、墓場の中央にある東屋で一休みして、そばの水道の蛇口をひねる。クッキーは舌を出してちゃぽちゃぽと音を立てながら水を飲む。全くいつものパターン。のんびりしていたら、墓場の入り口のほうからヨークシャーテリアを連れたハゲ頭のガラの悪いおっさんがこちらのほうへ歩いてきていた。僕は、おっと、こりゃまずい、と思い、そのおっさんのことなど初めから気づいていないふりをして東屋の椅子から立ち上がり、クッキーのリードを引っ張って霊園の奥へと歩き出した。あれは安房美船村駅のそばにあるそろばん塾の先生だ。
「こんにちは」
後ろからしゃがれた声でおっさんが声をかけてきた。僕は仕方なく、後ろを振り向いて
「こんにちは」
と挨拶を返した。
「どうもどうも。元気かい、卓くん」
優しい口調で聞いてくる赤城山孝夫。
「はい」
「今はコロナが蔓延して、大変な世の中になっちまったなぁ、まったく。体調を崩さないために卓くんもトリプルXを飲むといい。それから私の従兄である赤城山昇CAによるセミナーが渋谷で開催されるから是非来てくれな。それから、東楓町にある常勝学会の美船文化会館を知ってるだろ?あそこで地区の唱題会をする。あとな…」
また始まったよ。と僕は思った。どうも好きになれないこのおっさんはいつもアムウェイのビジネスや信仰の話ばかりを持ちかけてくる。
「いいか、若者。自分1人の考えや価値観だけで生きようとすることを我見というんだぞ。それでは何も成長はない。地域の学会員やコミュニティの人たちとしっかり繋がっていてほしい」
延々と語り続ける孝夫。機嫌が顔に出やすい僕は“おっさんの話なんか興味ないよ”というオーラを出して、口元を歪めて嫌そうな表情を作った。たいていの人は僕がその特技を披露すると、もう話しかけてこなくなるが、この無神経なおっさんには通用しなかった。
結局、30分ほど足止めを喰らって、おっさんがそこを去っていく頃にはクッキーは僕の足元で寝っ転がって顔を両腕に乗せていた。
墓場を抜けて霊園前駅の駅舎の前を通って、楓川沿いの土手の道を歩いていると、僕が住んでいる里見壮の隣の一軒家に住む西野夫妻が愛犬のさくらを連れて歩いていた。
「おう、卓くん」
ほっそりと痩せていて、赤ん坊の産毛のような白髪頭の老紳士、西野貫太が声をかけてきた。
「あら、キクちゃん」
とクッキーに話しかける快活な西野民子。2人揃って眼鏡をかけたその感じの良い老夫婦の姿を見て、僕は心が和んだ。西野夫妻の愛犬のさくらは茶色い雑種犬で、たくましい体つきで、どこかたてがみの無い雌ライオンに似ている。クッキーとさくらは昔から仲良しで今も会う度に2匹とも体を寄せ合っている。だが、もうさくらも16才。ときおり、ぐるぐると時計回りに訳もなく歩き回って徘徊してしまう。西野夫妻とたわいない話をしながら土手の道を歩いて帰途についた。その途中、僕と西野夫妻が土手から川岸のほうを見下ろすと、狂ったように楓川の下流の方へ向かって全力疾走をする大型犬がいた。僕らは“何だろう?”と思いつつ、それほど気に留めなかった。そのときは。
ニュースはコロナウイルスのことで持ち切り。世間は騒がしい。僕はこんな美船市という田舎町で生活して、少々、退屈だと感じることもあるけど、この当たり前の日常がもう長くは続かないのではないかと不安を感じていた。
そして、
4月の初め、コロナウイルスの蔓延が日本でも深刻な問題となり、多くの人が休業となり、自粛生活に入った。