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愛犬のクッキー  作者: Satoru A. Bachman
1/26

1,

 愛犬のクッキー


挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)

僕とクッキー



 主要登場人物

僕こと羽田卓(はねだすぐる) … 田舎者の塾講師

クッキー … 卓の愛犬。本名はキク

倉野由香 … 卓の内気な恋人

赤城山孝夫 … 近所に住むDVオヤジ

赤城山沙羅 … 孝夫の娘

マイク … 赤城山家の犬

西野民子 … 卓の隣人の快活なおばちゃん。元教師

西野貫太 … 民子の夫

さくら … 西野夫妻の愛犬

大橋恵子 … 動物病院の先生

山本貴士 … 警備員。卓の地元の友人

二木隼(あだ名は、ずんさん) … 町のお巡り



 1、


 2020年、3月末。

 寒さも和らぎ、さわやかな香りの風が窓から吹き込む春。沈丁花(ジンチョウゲ)と潮の匂い。森と海に囲まれたこの町の朝はいつだって二度寝してしまうほど心地がいい。僕は肩甲骨周辺に疲労感と少しの頭痛を感じながらも布団から起き上がった。土曜も仕事だったから酷く疲れた。こんな首都圏の辺境の地から千葉市にある個別指導塾ワイズ学院まで働きに行っている。昨日は運悪く、小学校6年生のおてんばな意地悪娘の英語の授業を担当した。年頃のませた女子生徒は男性講師をなじったり、からかったりと、ほとほとうんざりさせられる。“先生、まだ独身なの?”、“先生のスーツ古くない?新しいの買うお金無いの?”、“先生、ジュース奢ってぇ” 生意気なガキンチョたちのキーキー騒ぐ声が僕の頭の中で反響していた。顔を洗って、「おはよう日本」を見ながらパンとシリアルを食べた。チャンネルを変えるとニュース番組はどこも、“ダイヤモンド・プリンセス号乗客がコロナウイルスに感染”だの、“武漢(ブカン)の研究所からウイルスが漏洩”だの、“ロンドンの街でロックダウン”だのと騒ぎ立てていた。

 テレビを消した途端に僕の頭の中からは世界情勢のことなんかどこかへ消えてしまった。そして、のそのそと家を出た。僕の自宅であるそのぼろアパート「里見壮」の1階の階段の真下の部屋には3年ほど前から住んでいる。玄関の真横の犬小屋から飼い主にも負けないくらいのそのそと愛犬のクッキーが出てきて、しっぽを振りながら僕の足に体をぺたりとくっつけた。首輪にリードをつけてやると、いつものように美船市営霊園に向かって歩いた。クッキーは住宅地の塀のそばでしゃがんで小便をし始めた。そして、美船電鉄の安房美船村駅前のロータリーの植木のそばに糞をした。墓場の芝生広場まで我慢できなかったようだ。クッキーは路地の段差を飛び越えようとしたら、転んでしまった。

「おい、クッキー、大丈夫か」

そう言い、体を起こしてやった。体を抱えている間、クッキーは両手を僕の右腕に乗せてきた。温かく、愛しい重量感。元々は茶色い毛だった柴犬のクッキーの顔や体は白くなり、目元にも元気が無い。それも無理はない。クッキーはもう15才の老犬なのだから。

海から吹く潮風と山から降りてくる薫風。この自然に囲まれた小さな町、美船市の南端にある安房美船村と美船市営霊園、それから町の北にある楓沼がクッキーにとっては全世界である。霊園内の3番目と4番目の墓石の列の間を歩いて、墓場の中央にある東屋で一休みして、そばの水道の蛇口をひねる。クッキーは舌を出してちゃぽちゃぽと音を立てながら水を飲む。そして、墓場を抜けると霊園前駅の小振りで上品な木造の駅舎の前を通って、楓川沿いの土手の道を歩く。いつも同じ角で曲がり、大抵は同じ場所で小便をする。この散歩ルートは、クッキーならきっと目をつぶってでも迷わずに家まで帰れるのではないだろうか。犬っころのことだから匂いで分かるに違いない。草むらでまたクッキーは小便をした。用を足して、また歩き出そうとしたらよたついた。ゆったり歩く老いた愛犬に僕はペースをどこまでも合わせてやった。川の向こう岸の先には美船の森スポーツ公園の陸上競技場が見える。高校時代、陸上部だった僕はよくあそこで走った。河川敷は日曜日の朝っぱらから練習に励む少年野球チームやゲートボールをやっている老人たちで賑わっている。

 中国のどこだったか。さっきのニュースで武漢(ブカン)といってたかな。その町から新種のウイルスが漏れて、今、世界は大騒ぎになっている。政府も密閉、密集、密接の3蜜を避けろと言っている。どこの国も医療機関は八方塞がり。致死率99パーセントの流感発生!マザー・アビゲイルのいるネブラスカへ行かなくては!もしくはラスベガスのランドール・フラッグのところへ!今の文明が崩壊し、世界が無法地帯になったら正義の道か悪の道、どちらに走るか。これはS.キングの“ザ・スタンド”の世界。武漢の地下には巨大な研究所があって、新型コロナウイルスの他にもタイラント・ウイルスの研究開発がされていた。それは阻止しなくては!「アンブレラをぶっ潰すのさ!」と僕は馬鹿な妄想をしてひとりごちた。なんて、ふざけていられる状況ではないことは分かっている。でも、きっと今の世界で起きていることを目の当たりにして、「ザ・スタンド」や「バイオハザード」を連想した人間は僕だけじゃないはずだ。

 なのに、この千葉県南部の田舎町、美船市の静けさときたら何だろう。普段と変わらない日常が流れている。ポケットからスマホを取り出し、なんとなく画面を見てみる。由香からLINEのメッセージが届いていた。“おはよう!12時頃に楓沼駅に着くよ(スマイルマーク)” 僕はすぐに返信をした。“OK、俺もその頃に駅で待ってるよ!” 彼女と会うのは1カ月ぶりくらいだ。久々のデートで嬉しいと思いたいところだが、祖父母と一緒に暮らしている彼女を密室には連れていくことは出来ない。老人はコロナウイルスに感染するとマズいらしいから。つまり、しばらくはホテルもお預けということだ。やってくれたぜ、コロナ。今月の初めにも由香と玉寺アーケードにある隠れ家風のパブでピザを食べに行く予定だったのに、密室は避けたいとのことで中止になってしまった。





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