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作者: 世良玄凪

「おい!セイカ!遅えよ!早く!」

なんで、こう、俺の周りって男堅気な女が多いんだろう…。母親もそう、こいつもそう。立ちこぎで加速するあいつの背中は、少し汗ばんでエロい。いつも俺はあいつの背中を追っていた。いつも追いつけなかった。「お前は男なんだから、ナツに負けてんなよ」なんて時代錯誤なことも大勢に、たくさん言われた。まぁ、それがすこぶる嫌だったって訳じゃないけど。

「おい!足に力入ってんの?まだ骨折したの引きずってんのかよ!だっさw」

一昨日ギブスが取れたばっかだ。まだ少しジンと痛む。右ペダルを踏み込むたびに、骨と筋?がきしむ。が、俺はあいつについていかなきゃならんのだ。あいつに並べれば、見える世界も変わるんじゃないかってそう思うんだ。


 「ナツカさん、すごい!また百点!文字も綺麗に書けてるね!素晴らしい!」と、小学五年生の時の担任の先生はテスト返却の度に海城ナツカを褒めちぎった。

対照的に俺はできた”子”ではなかった。まぁ小学生にいがちな、やんちゃ?わんぱく?系みたいな感じ。


今みたいに、スマホが溢れてるわけでもないその時代は、四季折々、何かに夢中だった。 

春だったら秘密基地を作ること。夏だったらノコギリじゃなくて、ヒラタ、あわよくばオオクワガタと、でっかいカブトを捕まえること。秋だったら落ち葉をいっぱい集めて、焼き芋を作ること。冬だったら、大量の雪でかまくらを作ったり、二チームに分かれて雪玉を投げ合うこと。


昔は一つの画面に集中することはなかった。携帯はただの通信機器で、でんわ、だった。それでよかったのに、と今でも思う。


話が脱線したが、先述の通り、俺は勉強が得意ではなかった。

「御山クン…もうちょっと頑張ろうか…」と先生は笑って俺の頭をなでるのが常だった。

そして決まってナツは俺に綺麗な解答用紙を見せに来た。

「おい!セイカ!お前何点だよ?ねぇ見て!私百点!」

「知ってるよ!てかお前いちいち見せに来なくていいから!うぜぇんだよ!」と返したら、んだとこら!と睨み、取っ組み合いになるのも常だった。その最中で綺麗な解答用紙はぐちゃぐちゃになったが、あいつはそれを気にしなかった。


帰り道は方向が同じで、ナツと一緒だった。特に喋ることはなかった。時たま、小石を蹴り合うくらいだった。

ある時ナツが、

「セイカ、知ってる?彼女と彼氏って夜に裸で一緒に寝るらしいよ」と言った。

「なにそれ、キモ…」とだけ返した気がする。

「私もよくわからないんだけどさぁ、こないだやってた海外の映画でそんなシーンがあったんだ。もう寝るころだったけど、それを見かけたから親に、この人たち何してんの?って聞いたら子供はもう寝なさいって言われた。変だよなぁ、十一歳って大人じゃないのかなぁ。けど弟の前では、お姉ちゃんでしょ、我慢しなさいって言うんだぜ。大人ってなんか変だよなぁ」そんなことを言うナツが少し大人びて見えて、それはそれでキモかったので、ふーん、とだけ返してその日は帰った。

中学校に入っても俺とナツの関係性は変わらなかった。二つ離れた教室にも関わらず、ナツはよく俺のクラスに乱入してきた。

セリフは決まって、「セイカ!見て!私百点!」だった。逆に訪問回数が少ない時には、あまり出来が良くなかったんだろう、と推測できた。(それでも俺よりも点数は取っていただろうが)

話は変わるが、中学時代俺は少しモテた。オラついてたのが要因だろう。それがかっこいいと思ってたし、中学生という大人はそういうもんだと小学生の時には思っていた。

おかげで告白してくれた女の子は数人いたし、チョコも毎年いくらかもらった。しかしそのどれにも、俺はピンと来なかった。

彼女らはあまりにも『女の子』だったからだ。それには不慣れで気恥ずかしかった。付き合ったとして、周りにどやされるのが嫌だった。ナツとぎゃいぎゃいやってる方が性に合っていた。

けどあまりそうも言ってられず、勉強しなきゃいけない時期は来る。中三だ。

俺は出来ないから、担任に地元で三番目に偏差値の低い高校を勧められた。三者面談時には、あーそうなんだ、俺はそのレベルなんだって思った。母親は複雑な顔をしていたが、私立に行かねぇんだからいいだろ、とそのくらしか考えてなかった。

自分が馬鹿で負けず嫌いだと知ったのはもう少ししてからだ。

三者面談最終日の翌日、ナツはいつも通り突然俺を訪ねた。

「セイカ!私、白筆受けることになった!すごいだろ」私立白筆高等学校と言えば、都内の私立黒筆高等学校と対をなす存在だった。つまりは超優秀。県内ではもちろん、東北地方で一番。全国で方手番目の学校だった。

すげぇだろ、なぁすげぇだろ?とにやにや笑うナツがムカついて、「俺もそこに行く!」と言ってしまった。ナツは笑い顔のまま硬直、周りの人間も静まり返った。ナツの背中にある窓の中で、牡丹雪がちろちろ舞っていた。

沈黙を破ったのはナツで、

「へ、へぇ…すげぇじゃん…」とだけ言ってすごすご帰っていった。バタッ、とドアが閉まった後、また騒がしくなった。

「セイが白筆ぇ?絶対無理じゃん!」「お前こないだのテスト全部合わせて280点だろ?俺の百点も下じゃねえか!」と、皆に笑われた。すごく恥ずかしかったのを覚えている。その日はいつもみたいに午後の体育の授業でふざけれなかった。

帰り道、所詮弱小サッカー部は地区大会二回戦どまり、部活はとっくに終わっていた。ナツはバレー部だったが、こちらもそれは同じで部活は引退していた。

ある中二の夏の練習後、それまで女子バレー部は目立った成績を挙げていなかったので、ナツはバレーが下手なんだろうと思って体育館まで一度冷やかしに行った。やめとけばよかった。信じられないくらいジャンプが高くて、スパイクもえぐいのを撃っていた。噂によると全国大会常連校に二年生の頃からすでに声がかかってたらしい。県大会でギリギリ優勝を逃してしまったのが大勢に悔やまれていた。

ナツと合流するのは、いつも学校から二つ目の信号のところで、どちらが先にそこに着いたとしても、そこで待っていた。

その日の帰り道俺はナツに会いたくなくて、学校周りをうろうろしてた。けど、結局は帰路につくわけで。俺たちの家の方面は絶対に二つ目のあのやけに青になるのが遅い信号を渡らないと帰れないから、いつも通りそこに向かった。

遠目からナツがいるのが分かった。押しボタンの柱にもたれかかって、ナツも遠くを見ていた。

「なんで帰ってないんだよ」と、少し威張って言うと、やっと来た、と言ってナツは笑った。

仕方ないからそこからは一緒に帰る。信号を渡り切ってからナツは口を開いた。

「昼の話、本当?」ナツらしくない細い声だった。俺は何も言えなかった。いつもみたいに笑い飛ばされると思っていたからだ。そしたら、

「私、勉強教えてあげてもいいけど」と言ってきた。

俺はまた恥ずかしくなって、

「は?いらねぇし!別に俺一人で出来っから!お前に関係ねぇし!」と怒鳴った。そしたらまた珍しく、突っかかってくるでもなく、「そっか…」と一言呟いて会話は終わった。

変に決まりが悪くなって、それから俺たちは何も話さず家に帰った。

家についてすぐ、白筆に行くならとりあえず勉強をしなくては、と思い立って遊戯王のノーマルカードが散らばりまくった机をまず片づけた。

まずは今週の手つかずの課題。数学のワーク、訳が分からない古文の現代文翻訳、英語のカテイカコカンリョウ?の復習。

シャーペンを二、三回振って長めに出た芯を、ノートで押し戻して、まずは数式を書き出してみた。しかし横に散らばったカードが邪魔だ。茶色、緑、紫の色が目障りだ。結局その日何かできたかというと、まぁそんなことはなく。遊戯王カードを無造作に引き出しに入れたので、部屋が幾らか片付いただけだった。

夕飯を食って、風呂に入ってその日を見返し、俺はひどく赤面した。学校のあれは、いわゆる黒歴史ってやつで、ナツをつっけんどんにしたのもおそらくそれだ。

俺が白筆を志望する。それはなんだか絶対に許されない行為に思えた。俺みたいなやつがしちゃいけないんだと、心の中で勝手に決めつけた。そうすれば諦められるかな、と思ったからだ。

ただそんなに甘いことはなく、追い出そうとするも無謀な発言はずーっと頭に張り付く。

俺は元来、怒られたり、喧嘩したりしたらしばらくそれを引きずる性格だ。そんなことを知っていながら大見得を張ったのは、もう馬鹿としか言いようがなかった。

 風呂から出てタオルを首にかけたまま、受話器を取って、かけなれた番号を入力した。四回、五回コール音が鳴って、

「セイ?」もしもしも無しに俺の名前を呼んだ。

俺はややあって、

「高校のことだけど、誰にも言うなよ」

「昼間大声で宣言したの誰でしたっけ」

「うるせぇよ、マジで黙ってないとぶっ飛ばすかんな」

どうせ殴んないくせに、とナツが笑ったのがムカついて、じゃあなと切ろうとすると待ったがかかった。

「セイカさ、本気で白筆受けんの?」

「だったらなんだよ」

「私だって受かるかどうか分かんないとこだよ」

「だからなんだって聞いてんだよ]次の言葉は予測できた。眉をひそめてそれを待った。

「本気だったらさ、私も頑張るから、一緒に頑張ろうぜ」

じゃぁ、と言って電話は切れた。ツーツーの『切れましたよ』の合図がしばらく続いた。

何か吹っ切れて、さっきと同じ番号を入れた。

今度は二コール目で繋がって、勉強を教えてくれと頼んだ。ナツはそれを快諾した。


結果から言うと、俺たちは白筆に受かることはできなかった(一応滑り止めも受けていたので浪人することはなかったが)。お前だけじゃなく、ナツカも?と思うだろう。俺たち二人は高き壁に阻まれた。

ただ不審点が一つあってナツは受験直前の模試で、白筆でA 判定を取っていたのだ。それでも落ちてしまったのだから、これは大きな不審である。

数年ぶりにうちの卒業生から白筆生がでると待ち望んでいた教師陣はかなりやられてしまったらしい。

周りでも海城が受かんないなら誰が受かるんだ?と騒いでいた。

俺の判定は、まぁ俺では健闘したほうで、

D 判定だった。母はそれでも大いに喜んでいた。

 結局俺たちは同じ県立高校の入試を受けることになり、今度こそ晴れてそこの高校に進学することになった。県はおろか東北地方の公立高校ではかなり上位の方の学校だったので、母は泣いて喜んだ。どうせヤンキー校にうちの息子は行くんだろうな、と見限っていた父は合格の知らせを聞いた瞬間絶句したそうだ。

 合格したのは間違いなくナツのおかげだった。毎日図書館に通い、演習、答え合わせ、復習の日々にナツは一日も欠かさず付き合ってくれていた。

不合格になったのは間違いなく俺のせいだった。

合格発表の日、家に帰ってから母は、「うまいご飯作ってあげっから家でゆっくりしてな!」と言って小躍りしながらスーパーへと向かっていった。

西日が差し込む廊下で俺は受話器を取った。ノータイムで番号を打ち込むとすぐコール音が鳴り、七回目でやんだ。

「ナツ?」と声が聞こえた。俺は何にも言えなくて、ん、とだけ呟いた。喉の声帯?の辺りがきゅっとして、うまく機能しなかった。

「受かって良かったなぁ。私これ受かってなかったら高校浪人だったわ、あはは」

いつも通りの変わらない声が逆にうざくて、今度は目の奥に針が刺さった気がした。

俺はまだ何も言えない。白筆からの不合格通知が来てからもうしばらくたったのに。

セイ?の呼びかけも無視するしかなかった。ちょっとして、じゃあ切るよ、とだけ聞こえてぶつり、と切れた。『話してねぇじゃん』と受話器はなじる。

ボロボロ泣けてきた。今までに感じたことのない、屈辱、挫折の様な何か。何よりもナツへの申し訳なさが大きかった。俺の強がりがなければ、ナツは絶大な尊敬と、学校への恩恵を一手に出来たのだろう。『もう家に帰してくれよ』と言ってるように受話器は鳴り続ける。

ぼーっとした状態は、家のチャイムで断ち切られた。

袖でごしごし顔を拭ってから玄関を開けると、すらっとナツが立っていた。

「なに、泣いてんの?男だろ?泣くなよ」と声を震わせながら言った。

俺はとうとうキレた。キレたという表現が合っているのかは分からないが、とにかく俺は咽び叫んだ。

涙と鼻水とガチャガチャの声で、俺が何を言っているのか分からなかっただろう。

一通り叫んだ後、ナツは目を開いたまま涙だけを流した。俺みたいに言葉に詰まる風ではなく、ただ涙だけをするりと流した。

まずは、はっとした。俺だって男だ。どんなに情緒不安定でも女子を泣かせたら流石に慌てる。どうしたら泣き止んでくれるか、でかい声を出しすぎたか、少しなじりすぎたか、そんなことを考えて、何もできず、指先を見つめていると、ナツの空気がふわりと向かってきた。

「…は?」首筋から肩甲骨の辺りにかけて、二本の温もり。胸には胸の膨らみ(柔い)。

ナツはぎゅうと俺に抱きついていた。離れろよ!と、さっきまでの焦りとかその辺を忘れて、照れだけで突き放そうとした。

「ごめん」

空気でそう聞こえた。

「セイカのせいじゃない。私のせい。私が弱いから、私がどうすることも出来ないから、

セイカは何も悪くない。ごめん、セイを白筆に行かせられなくて、ごめん…。ごめんなさい…」そう言って、またぎゅうぎゅう締め付けた。

 こんな時どうするのが正解なんだろう。俺は分からない。今も分からない。その時は確かそのまま腕をだらんとさせて、耳越しの雲の流れを見ていた。どのくらい経ったのか。ナツはするする自分で作った堅結びを解いていった。

じゃあ、入学式でと言ってナツは鼻をずびずびいわせながら帰っていった。学ランのぽっけに入っていたポケットティッシュだけ渡すと、ちょっと笑ってティッシュの片手を挙げて帰っていった。


入学式の日、二人で決めた。俺たちは東大に入る。この挫折をばねに日本で一番になってやると。

遠い高校からの道の途中、町を見下ろせるほど高い場所にある公園があって、そこに寄り道した。ナツが早く来いと言う。俺は坂でへとへとで、どろどろになりながらナツを追った。

「セイ、私たちは東大に行くぞ」

「えぇ?なんて?」夕日が刺しているナツの表情は暗くて見えない。俺の返事に答えずあははと笑う。

「セイ、タイムカプセル埋めようぜ」

「なんの、ために?」

「野望のため。私たちのため。三年後に開けるタイムカプセル。三年前から私たちは努力したんだぞって、証。ね、いいっしょ?」

こうなると大体俺はナツに従うしかない。めんどくさい、という理由の他に否定する理由がないからだ。

うん、とうなずくと、よし、とうなずいて、じゃあ早く帰ろうと俺をせかした。

「今日埋めんのかよ」

「うん、今日じゃなきゃダメ。明日にしたらその明日って無限に続いちゃうでしょ?今日しか行動できないから、今日やるんだ」

ここまで家からざっと四十分。往復八十分。タイムカプセルに入れるものの準備二十分。

百分。まぁいいかと、サドルに跨って豆粒になったナツを追いかける。そんな春。


ある程度頑張った俺とナツは高校である程度の学力を有していた。まぁナツと俺の間にはそれはそれは大きい差があったのは言うまでもない。

ナツは新しい学校でも無敗だった。たまに理系教科で順位を落とすだけでその他は誰にも負けなかった。

 五月が過ぎ、ほとんどのクラスメートが部活に入っていても俺は入部届を出さなかった。ナツも出さなかったらしい。バレー部の顧問は海城がうちに入学すると聞いて嬉々としていたようだが、本人から入らない旨を聞くと肩を落としてしまった様だ。ただ今でも諦めてないらしく、廊下ですれ違う度スカウトされるらしい。困っちった、とナツは笑っていた。

最初の定期テストが六月の初旬に行われ、中旬ごろに結果が開示された。

二百八十人中俺は三十七位、ナツは堂々の一位だった。唯一、理科基礎だけナツに勝った。それを聞いたナツは悔しそうにするよりかは、嬉しそうだった。

夏、俺らは電車で片道一時間程の塾に夏期講習を受けに行くことにした。始業時間が十時だったので、始発で最寄り駅まで向かい、駅近のマックで朝飯&勉強をしてから塾に向かった。十八時に講習が終わり、その後二十二時まで自習室で勉強した。終電で帰って、寝る前に英単語を復習した。そんな日を夏休み中繰り返した。

その甲斐あって夏休み後の定期テストで、俺は三位をマークした。ナツは一位だった。今度は理科基礎だけでなく、数学もナツに勝った。

「ナツ!見ろ!数学九十四!」と帰り道の高台で自慢すると、ナツはあっけにとられた後、安心したような顔をした。夏休みあんだけ頑張ったからな、と言って俺は鼻を高くした。

その定期テストの週末、初めての模試を行った。第一希望には東京大学理科三類のナンバーをマークした。ナツは文科二類をマークしたそうだ。どうやら経済がやりたいらしい。

俺は、といえば特に将来やりたいことはなかった。でかい目標に打ち勝てばあとはどうにかなるもんだと思っていた。だから嬉しそうに将来やりたいことを語るナツが大人に見えてうざかった。

俺に敗北を認めさせる場所は高台の公園だった。

結果を見せあう度にナツはいつも、どうだすごいだろ、とほくそ笑んだ。俺はその度に、はいはいと受け流した。中学の頃に比べてずいぶん落ち着いたと、高校に入ってから母に言われた。俺もそう思う。

それでもナツは自分の順位よりも俺の順位のほうを良く気にかけた。科目別で二位の時は飛び上がって喜んだし、逆に順位が落ちた時は答案を穴が空くほど見つめて改善点を見つけ出してくれた。

そんな日々の結果か前期評定の平均は四・八くらいでそれを母に見せたらしばらく固まっていた。解凍された後よく頑張った、と言って五千円を差し出した。俺はそれをありがたく頂戴して、財布にしまった。

「私は評定オール五だぜ」電話口でそう言われた。流石だなと思いつつも、やっぱり悔しいのはナツのおかげだろう。

「まぁけど、セイにしてはよく頑張ったじゃん、ほめて遣わすよ」とかなり上からものを言われるのがむかつく。俺の通知表を見て俺より喜んだナツの顔を写メしとけばよかったと、今になって思った。

俺たちは高校に入ってからは、家電ではなくガラケーで電話をするようになっていた。

高校生になれば、携帯を持つのは普通だったし、そこは自然に事は運んだ。

携帯は便利だ。電話番号をいちいち覚えていなくとも、名前の部分をクリックすれば、すぐにコール音が鳴りだす。

メールアドレスを登録しておけば、好きな時にいつでも手軽に手紙を送ることができる。

一度、『御山って海城と仲良いよな、もしかして付き合ってたりすんの?(笑)』と、クラスメートにメールされた時には困った。その時は、ただの幼馴染と返答したが、それが本当に合っているのかは微妙なところだ。

彼女ではもちろんないし、かといって友達でもない。家族?、否。

なんだかよく分かんなくなって、ナツに聞いてみたら、「馬鹿じゃん」と言われた。ますます分かんなくなった。


時間が思った以上に過ぎるのは早い。小学校の六年間は時間が無限に感じられた。それなりに楽しかったが、まぁ今よりは暇だったのだろう。

十月なんてとっくに飛んでいき、十一月。すこしおかしなことが起きた。

いつものように、ナツを待っていても家から出てこない。公園着いて振り返ってみても、誰かが来る気配はない。巻いてるマフラーに深く、深く顔をうずめ逆風の中、学校への坂を上がっていった。

「海城だが、風邪をひいたらしい。肺炎らしいから、それなりに長引くそうだ。お前ら風邪ひくなよ。んじゃ、一限目の準備」担任はホームルーム後にそう事務的に話した。皆、「海城が休むなんてめずらしいな」といった風だ。

珍しいどころの騒ぎではないのだ。ナツは、小学校も中学校も、部活のすべてに至るまで皆勤だった。そんな彼女が休む、という事実が俺には到底理解できなかった。

六限まで、無味な時間を過ごし、帰りのホームルームが終わった直後、図書館には行かずに、ナツの家へと直行した。もちろん、見舞いの品々も忘れずに。

チャイムを押しても返事がない。いつもは怖くないドアノブが、なんか怖い。

恐る恐るで玄関を開けた。見慣れた廊下の先は暗く、生活感がない。

「おい、ナツー?大丈夫か?」靴を脱がないで呼びかけても何も帰ってこない。意を決して勝手にお邪魔することにした。先に断っておくが、俺もナツも昔から互いの家には勝手に入って遊んでいたので、家に上がることは俺たちの間ではそこまでおかしなことではないことを、認識していただきたい。

一段一段、慎重に階段を上がり、登り切ったところの正面のドアに近づいてノックした。もう一度呼びかけてから耳をノブの近くにペタッとくっつけると、中からもぞもぞと布ずれの音が聞こえた。少し古めいて、きしむドアとともに入ると、ちいちゃくなったナツが、赤い顔でこっちを向いた。

「あれ…なんでいんの…」と、声をゼハゼハさせながらナツは言った。適当にかばんを置いて、ベッドの横の床に腰掛けると、ナツは、ん、と俺の後方をあごで示した。積み重なった、丸太の輪切りみたいなクッションをひっつかんで尻に敷いた。

「なんでって、ナツが風邪ひいたっていうニュース初めて聞いたから…。物珍しさみたいな?」

「なにそれ、か弱くなった私を心配したんじゃねーのかよ」とやはりゼハゼハ言った。

 その日学校でやったことを一通り話すと、特にやることもなくなった。そのまま帰ろうとも思ったがその雰囲気をだすとナツが少し不機嫌そうにしたので、適当に本棚を漁ることにした。

ここには少女漫画はない。すべて少年誌、もしくは青年誌のものばかりだ。しかし漫画はごく少数で、小説や新書のほうが圧倒的に棚を占めていた。適当に一冊取ってから、丸太に腰掛けて読み始めると、ナツがあぁそれか、と呟いた。

「それね、すっごく変な本。けど面白いよ」

「へぇ、どんな話?」

ナツは、布団から起き上がって、机の上のノートを取った。ノートを抱えたままするすると、またベッドに戻って、えーとどこだっけな、と言いながらページをめくる。

 「あった、その本はそれまで全然知られていなかった作家さんが書いた本なんだ。結構いろんな賞をそれで受賞して、期待の新人か?とか言われてたんだけど急にいなくなっちゃったの。話自体は恋愛系なんだけど文体がふわふわしてて少し読みにくい。けど恋愛の感じの淡さとか、苦さとかが絶妙に描かれているの。おすすめ」

 そんな風に語るナツは少し珍しかった。

「そのノートは?」と尋ねると、読書感想文、とナツは答えた。

「私、こう見えて結構本読むんだ。読み終わったらもったいないから、読み味を覚えている間にそこにいろんなこと書くの。セイもやってみれば?」俺はいいや、と答えると、まあセイらしくないか、と赤い顔して彼女は笑った。

「その本が変な理由はね、主人公が死んじゃうの。急になんの変哲もなく、急に。それについての説明は一切ないし、もとから主人公なんていませんでしたよ、みたいな顔して最後まで続くの。変でしょ」

 ナツの話を聞きながら、ページをめくると、一文目に、『僕はそれを拾ってきれいにした』と言われてしまった。ん?と思っていると、ね?変でしょ?とナツが言ってきた。小判をぶらさげられた猫みたいな顔をしていたんだろう。

もう少し読みやすい本ある?とその本をぱたっと閉じて聞くと、ちょいと待ってろ、と言って再びナツは立ち上がった。ふらふらしておっかなかった。

本棚の腹をなでながら、ナツは、

「その主人公が消える直前のページでね、一ページまるまる使って、主人公と彼女がキスしてるの。長いやつ。ハリウッドみたいな。そんなのあり得ないよね」

ナツから、キスなんて単語を聞いたので俺は吹き出しそうになった。ナツは、はぁ、と一息ついてから、はいこれと俺に新しい本を差し出してきた。その刹那。受け取ろうとした瞬間、本は俺の太腿に落ちた。そして、ナツも落ちてきた。

何が起こったのか分からなくて、俺はとりあえず、ページの曲がった本を正した。それからナツの肩を叩いて名前を呼んだ。ナツは何も言わない。手を置いた肩は異常なほど熱く感じた。呆気に取られているところではなく、俺はすぐに119を呼んだ。


 「セイちゃん、ほんとにありがとね」病室の外でナツのお母さんは、珍しいまでの低いテンションでそう言った。

「でも、ナっちゃん大丈夫?体調崩したなんてこと今まで聞いたことないけど…」と隣で俺の母親が言った。救急車を呼んだあと、どうしたらいいか良く分かんなくて母に電話したのだ。

ナツの母曰く、ナツの肺炎はただのものではなく、マイコプラズマウイルスの感染によっ合併して起こるマイコプラズマ肺炎なるものであった。一般的な肺炎とは違い、高温な発熱が起こり、中耳炎、心筋症といった症状も併発するという。ナツが倒れた原因は、その高熱による眩暈と貧血によるもので、別に救急車を呼ぶほどのものではなかったらしいが、目の前で人が倒れたら誰だってそうするだろう。

その後はナツの顔を見ることなく、母のフィアットに乗って家に帰った。途中母が買い物があるといってスーパーに寄ったので、ハーゲンダッツの抹茶を頼んだら、太腿の辺りを叩かれた。冗談である。

スーパーの明りに照らされたフィアットの中で、現代版蛍雪により英単語帳を開いた。二週間後、英検の準一級をナツと受けようとしていた。ナツは受験できるのであろうか。

今一つ身が入らずスーパーに出入りする人をぼーっと見てると、携帯のブザーが呼んだ。かばんの中をまさぐって取り出すと、案の定ナツからだった。

『今日はごめんね』という一文だけだった。すぐに、『気にすんな、早く体治せよ』とだけ送ると、またすぐに『了解』と送信されてきた。そのメールを見終わって携帯を閉じると、ほぼ同時くらいに車のドアが開いた。

「ハーゲンダッツすげぇ安かったから買ってきてやったぞ!二割引き大好き!」と六個入りのパックを二つ見せつけながら、母は上機嫌だった。


なんにもない、暗い夜道。フィアット500のお世辞にもいいとは言えない目が前を照らす。

暗闇の先には、田んぼや畑があり、もっと奥の方を見ると、背が高い針葉樹林がざわついていた。

「セイ、あんたファインプレーだったね」

ハンドルを握る母は跳ねるように言った。

 「たまたまだよ、なんとなく心配になって家に行ってすこししたら倒れちゃうんだもん…。お陰で、英検の勉強できなかったし」

 気恥ずかしさで口を尖らせると、すぐ母の手が飛んできて、ぱしん、と音が響いた。そういうこと言わないの、と母もおんなじ風だ。

「しかし、あんたの口から英検なんて言葉が聞けるはね…。前は、ほら、ひどかったじゃん」と、母。黙ってると、ナっちゃんのお陰だね、と続けた。

「あたしの父さん、あたしがちっちゃい頃に事故で死んだって昔言ったの覚えてる?」

うなずくと、

 「母さんが言うには、大きな事故だったらしくてね、バスの事故だったんだけど、大勢の人が怪我をした。あたしの父さんもけが人の一人だった。父さん若い時に自衛隊に勤めてて、医療班に入ってたから、必死に他人の応急処置をしたんだって。止血とか、怪我の状況を診たりだとか。自分もまぁまぁな出血をしてたはずなのにね。死因は頭を強く打ったことによって起こった脳溢血だった。十…三人だったかな…。それくらいの人を診てから急に倒れたんだって」ばすばすばすばす…ブゥーンン…

「あたしね、あんたがナっちゃんを助けたって聞いて、もちろん心配したよ?けどうれしかった。ちゃんと、受け継がれてんだなって。いい子だね、あんたは」

母は俺の頭を適当に撫でた。そん時だけ、その時だけ俺はなでられ続けた。


運ばれてから大体二週間程経ってから、ナツは学校に再現した。

不幸にもその一週間後には中間テストがあって、ナツにいままで煮え湯を飲まされてきた学年の連中は躍起になって勉強した。今ならこのタイミングなら、もしかしたら海城に勝てるかもしれない!彼らの目は少し飛んでいた。ちなみに俺もその内の一人であることは言うまでもない。

察してくれるとうれしい。海城ナツカは『最強』だった。

後年、俺らの間でこの出来事を『海城効果』、または『海城メソッド』と呼ぶようになった。

ナツが病気になっている隙に学年の猛者は猛勉強を繰り広げた。そのおかげか、学年の成績は前回の定期テストに比べて信じられないほど上がった。

煮え湯は重湯に変わり、彼らの喉を潤わせた。「あぁ、なるほど」と、皆が諦めた。海城には勝てない、その文面が俺らの体に入れ墨みたいに刻まれた。

「まぁ、皆と違って授業なかったし、病院の中は割と暇だったから勉強してただけだよ」と、飄々とナツは言った。それを聞いて、クソが!と歯を食いしばる人間は一人としていなかった。


ただ、それからのナツは少し変わった。長引く肺炎のせいで体が弱ったのか、階段を登っただけで一息つくようになったし、体育にはほとんど参加しなくなった。前より本を読む姿を見るようになったし、少しだけ、ほんの少しだけおしとやかになったようにも思える。

そのギャップのせいで、なんかナツはモテたらしい。

「めんどくさいから全部フッてるけど」とブランコに揺られながらくすくす笑うナツがかわいらしく思えたのはきっと。

十一月の夕焼けがナツを燃やしている。ナツは、ねぇねぇよい、と話しかけてきた。

はい、と、応答するとナツは一枚のプリントをかばんからひらひら出して見せた。

「来月の末にさ、東大模試あるんだよね。それ、受けようぜ」

ナツが渡してきたプリントは学校が発行したもので、希望者に対してどっかの予備校が主催している模試を受けさせてくれるらしかった。受験料は学校負担だが、交通費は自分で払えとの事だった。

「仙台だったら新幹線使えばすぐ行けるし、勉強のためとか言えば親も交通費とちょっとの小遣いくらい出してくれるっしょ。やろうぜ、なぁ!」ブランコからぴょいと降りて、俺の顔を覗き込んだ。

確かに一年生の末くらいになればセンター試験の範囲は終わる。模試までに過去問の対策をすれば十分に対応可能か…と顔が赤くなるのを極力無視して、頭の中でぐるぐる考えた。

俺は首を縦に振った。ナツは「やりぃ!」と満足気だった。

「ではお姉さんがジュースでもおごってやろう」とナツは公園の入口の方で輝いている自販機の方へ駆け出して行った。

「年変わんねーぞ、おい」に、へらへら手を振り返した。

模試、よりナツのことを考えていた。正直模試はどうでもよかったかもしれない。

ナツは前、「馬鹿」と言った。俺たちの関係性の件だ。当時はそれが理解できなかったが、少しずつつかんできた。

恐らく、俺はとても長いことナツに思いを馳せていた。

叫ぶナツ、笑うナツ、泣くナツ。走って胸が揺れているナツ、横から見たナツ。かっこいいナツ、エースのナツ、弱いナツ。熱くて、まぶしくて、誰もを分け隔てなく照らして、高い雲で、たまに怒って、目を背けたくなる夏。

盛夏と夏華、二つの夏はこんなにも違う。彼女の気温に焦がされ、焦がれていた。

「お待たせ、はい、ライフガード。好きでしょ?」ナツは遅めに帰ってきた。片手には一口飲んである三ツ矢サイダー。

ん、と受け取って俺はすっくと立ち上がって、とりあえず言葉を発することにした。ライフガードのウサギは何を思ったのだろう。「なにをあほうなことを」と思ったかもしれない。けど俺は伝えるべき言葉を伝えようと思った。今度はナツの顔がよく見える。


ナツはカラカラ笑った。そのままお腹を抱えてうずくまった。

目からまず火が吹き出して、鼻から熱湯がぼたぼた流れる。耳には栓をしてしまった。一息に顔が暑くなる。呼吸を忘れていたので、口からは冷却のための空気を吸い込んだ。

「おまっ…なにっ…?急に…っはは!」

ウサギは「ほれみろ、あほが」と馬鹿にしたように笑う。

ナツはまだお腹を両の手で抱えたまま、俺と同じところにまで顔の位置を戻し、涙を拭った。ナツの目は見ていない、見れない。

はぁあ、笑った、とちょろでてきた涙を拭ってナツは俺の前に立った。

一歩ずつ、

近づいてきて、

どうなっただろう。

いつかの時みたいに、ナツの空気がふわりと俺を包んだ。やさしい湿った空気だった。空気は俺の体にまとわりついて離れようとはしない。

『みんなには、ひみつだよ?』とくうきが、耳に流れ込んできて、ナツは無理やり俺のドアを開けた。

おや、と思った時にはもう遅い。

甘い、さわやかな三ツ矢の味。ナツは俺と口を合わせた。何秒そうしていたのかわからない。気づけば俺は地面にへたへたと座り込んでいて、ナツは俺を見下げた。

膝をついて俺に馬乗りになって、また俺を抱きしめた。両腕でそっと俺の頭を包みこうように。必然的にナツの胸が顔に押し付けられるが、その時の俺はそんなことを考える暇をかばんの中にいれてはいなかった。

「私、ずぅっとこうしたかったの。セイが好きだもん。ちいちゃい時からずっとだよ?」ナツは右ほっぺを頭に擦りつける。もう一度ぎゅって抱きしめてから、ナツは離れた。

へへへ、と赤く染まった顔で鼻をすする。

「けど私、セイの彼女にはなれないなぁ」

「…え?」

「彼女ってさぁ、イチャイチャしたり、エッチしたり、デートしたりするでしょ?私たちのイチャイチャは喧嘩だし、エッチは…ね?デートだって、多分マックの勉強会がいいとこでしょ」たった今キスして、抱きしめてきたのは誰だっけ。初めてのキスと、否定に頭の中が散らかる。あれ、明日提出の課題やったっけ。

「だからね」ナツはその散らかった部屋の奥にさらに土足で踏み込んでくる。

「奥さんにしてよ」

「…奥さん?」話が飛びすぎている気がしないでもなかった。

「そう、奥さん。奥さんだったらイチャイチャも正当だし、エッチだって子供を作る為っていう目的があるし、デートだって、旅行とかいいよね。うん、私奥さんがいい」奥さんって何だっけ。

「セイ、私ね。私たちはもう彼氏と彼女とか、カップルだとかの垣根はもう超えてんじゃないかって思うの。だってそうじゃん。いままで付き合ってる人何人も見てきたけど、誰もが大変そうだった。皆、片っぽを離したくなくて、けどそのうち離れちゃう。何故かっていうと彼女たちは付き合ってる、っていう紐でくくられてるから。離れちゃってもまた新しい紐を作ってくくって生きていけばいいだもん。けど私たちは違う。だってもう離れられないもん。私セイがいない世界なんて生きていけないもん…」そこまで言ったところでナツは潤んだ。

とりあえずどうしたらいいか分からなかったので、頭を撫でて今度は俺から抱きしめてみた。

彼女は嬉しそうに身を預けた。夕日はとっくに沈んでいたのに、二人の顔は林檎みたいに、真っ赤だった。ナツから感じたのは、酸っぱい好意ではなく、落ち着く母性であるようだった。


模試の結果だが互いにあまりいいとは言えないものだった。もちろん、まだ高一だし、実際の受験生に勝てるわけないのは自明であったがそれでも俺らは深く落胆した。

しかし、高校生の時間はそんなにたくさんあるわけではない。

落胆したのもつかの間、結果が担任から渡された帰りにマックへ直行。

俺が席を取っている間に、ナツはレジへ。 五分ほどして、二人分のビッグマックと一五ピースのナゲットが二人の前へ。飲み物は基本買わない。水筒で十分である。

片目でハンバーガーの包みを解きながら、失点箇所の見直し。次に感覚でナゲットをひっつかみ、何故間違えたのかを、事細かに問題冊子へ記入。水筒をかばんの中でまさぐりながら、互いに解法ポイントの意見交換。最後の一口を放り込みながら、復習、解きなおし。

次、全く同じ問題が提示されたら確実にできるように俺らは復習に復習を重ねた。


一月、センター試験を解き、互いに自己採点と結果を出す。英語、社会、国語はナツの勝ち。理科と算数は僅差で俺が勝った。全教科で満点が取れるようになるまで解きなおし。過去十年分のセンター試験も時間を測って解いた。

二月、模試と定期テストのオンパレード。模試の復習に追われながらも、定期テスト範囲の教科書をなめるように見回し穴が内容にした。結果、定期テストは総合でナツが一位、俺は七位だった。

三月、二人して赤本の購入。まだまだ先の話だがモチベーションの向上のため。分厚くて重い赤本は、俺たちに改めて挑戦の厳しさを分からせた。

四月、もちろん二年生になって、クラス替えで俺とナツは同じクラスになった。互いに喜ぶようなことはなかった。

五月、下旬に模試と定期テストがあった。ナツはどっちも学年総合一位。俺は、定期が五位で、模試が六位だった。マックで復習。

六月、二人で話し合って予備校に行くことに決めた。いつか夏期講習を受けに行った予備校だ。マックに週三で行っていたので、その日と予備校の日程を合わせた。

時間は過ぎる。

その間、俺たちは何もなかった。マック以外に出かけたことはないし、ハグもキスもなかった。まぁ、今まで通り生きてきたわけだ。

別段不便はなかったが、ないものねだり的にうずうずもやもやすることが多かった。

七月、定期テストと模試があった。ナツは言うまでもない。俺は定期四位、模試が二位だった。ナツは公園で俺の結果を見てぴょんぴょん喜んだ。


七月には様々な授業でもう演習をおこなっているわけだが、体育は他の学校と変わらずに進んでいた。体力テストとか、ソフトボールとかを経て、その時はバスケをやっていた。

正直バスケは苦手だった。ワンピリオドの間ずっと全力で走りっぱなしだし、何よりも経験者勢がうざい。背も高いし。

それでもやっていると、少しずつ楽しくもなってくる。右側に相手がいるから、左から抜けるか…けどゴール手前に味方がいるからそこまで思い切りパスをだすか…。激しく動いているその一瞬で考えをまとめ、行動に移す。それが成功すれば自分の動きに大きな丸がつくし、間違っていれば修正する必要がある。トライアンドエラーの具合が勉強と似ている気がした。

バスケの授業になって五回目の授業。準備体操やシュート練がすこしずつおざなりになってきた頃。

体育教師のホイッスルの音は『そろそろ試合初めていいよ』の合図で、それが聞こえると男子達は蜘蛛の子散らしたように準備に向かう。

タイマーをセットして控えてる奴らがそれをスタートさせる。

その日、俺がいるチームは初戦で現在バスケ部に所属している奴のチームにあたってしまった。今のところ無敗でどこのチームにもぼろ勝ちしている。

そんな具合なので初めてそのチームに勝てば、絶大な賞賛と黄色い声援が獲得できることは間違いなかった。

俺たち対最強は回を重ねるごとに点差が縮まっていってた。特に前回は俺が終了間際にやけくそに投げたボールがストンとリングに吸い込まれていったのもあって、二点差にまで彼らを追い詰めた。

今日こそは!そんな気持ちがもうもうと俺らの間に巻き起こっていた。

いざ勝負!

ボールはまず相手側に渡った。すぐにディフェンス態勢に入り、パスカットを伺う。仲間がゴール右側でボールをゲットしたのを確認して、すぐに体を前に向ける。かなり攻め込まれていたので、相手側にそこまで人はいなかった。右後方から、「セイカ!」と呼ぶ声が聞こえたので右手を挙げて答えた。飛んできたボールを極力優しく受け取れるように意識する。少し乱れたが無事受け取ることに成功し、一気にゴール下まで向かう。もうちょいで打てる、そう思ってシュートレンジに入り構えて少し跳んだ。

後ろからすさまじい風圧を感じた。それと同時にあぁ、これが経験者とそうじゃないやつの違いか、そう思った。それでも無理にでもリングの方までボールを届ければ点数に繋がるかもしれない。気圧されて無理な体勢からボールを放った。ボールの軌道を目で追っていると、すぐに目の前から人が消えた。地面に足がついた瞬間、聞いたことのない音が頭に流れた。


 ぼーっと天井の黒い不規則なぼつぼつを数えても、途中からどこまで数えたか分からなくなる、その繰り返しだが他にやることがないのだ。仕方がない。

「そんなに体育でマジになんなくていいのに」とナツは丸椅子に座りながらぽてぽて怒って?いる。

真っ白い殺風景な病室に運ばれたのは確か二時間前。

医者曰く、当日だけの経過観察のための入院だそうだ。

無理はするものではない。俺の右足首の靭帯はきれいに切れてしまった。

着地の瞬間を足の側面で対応してしまったのが原因だ。確かに馬鹿な事をした。しばらく予備校には通えないだろう

グキィという音ではなかった。ダツッ…といったような張りつめていた何かが切れたような音が微かにまだ耳に残っている。。

「どうする?私、おぶってこうか?」

よろしく頼む、と言いたいところだがそれは丁重に辞退した。「冗談だよ、バカ」と笑われた。

「とりあえず早く復帰しろよ。あんま授業抜けるとけっこーきついよ?」とナツは後ろ手に言ってから帰っていった。

見送ってからもやはり暇で右足を動かそうとしてみたり、ぼつぼつを数えなおしてみたりしたが、右足は不思議になんとも動かないし、数えきることもない。

頭の中で、スヌーピーの絵でよく見る、黒いぐるぐるが回っているとまた引き戸が開いた。ナツかな?と思ったがそこにあったのは少し薄目なピンクのシャツだったので、一瞬で彼女ではないことが伺えた。

診察を受けた時に、医者と一緒にいた看護師さんだった。

「さっきの海城さんだよね、でていったの」

「知ってるんですか?」

「だって彼女が入院した時の担当、あたしだもん」ネームプレートには三田、と書かれていた。

「三田…さん、これってチャリが漕げるようになるまでどれくらいかかりますかね…?」

「んー、とりあえず歩けるようになるまで二、三週間ってとこだね。チャリは…ひと月半後とかかな?だんだんリハビリもしてくからそんな焦んなくていいよ」と三田さんは、右足の腫れを見ながら言った。そうですか、と返すと三田さんは、海城さんと付き合ってんの?と聞いてきた。

「そんな訳ないじゃないですか!」思い当たる節がありありで答えた。

三田さんはこの嘘つきめ、という顔でにやにやしていた。

「普通同級生が怪我で一日だけ入院って時に見舞いに来る人なんてそういないよ?」と告げられて、シーツで顔を覆いたくなる。

三田さんは、ふふっともらす。

「彼女、優しいもんね。病気が良くなって、経過観察してる時にわざわさ小児病棟に行って小っちゃい子たちと遊んであげてたんだよ、あの子。自分だって全快してないのにね、いいお母さんになると思うなぁ、海城さん」


次の日の昼頃に、赤いフィアットの奇怪なエンジン音が駐車場の方から聞こえてきた。ばすばすばす…といつ壊れてもおかしくない。それでも一生懸命に走り続ける丸目はかわいらしい。

「どうもお世話になりました」と告げて、母に支えてもらいながら病院を出た。松葉杖を使うのは初めてだったので何度もよろけた。

フィアットの精度の悪いサスのせいでずきずき足が痛む。額に汗が浮かんだが、我慢した。母はずっとからから笑っていた。大切な息子が結構大きめの怪我をして何がそんなに楽しいのか。ずっとパート先のおばさん先輩の話を続けていた。

そんな話を、「うん…うん…へぇ…そう…」と適当に受け流していると、ねぇ聞いてる?と飛んできた。聞いてない、と返すと、このやろと右の太腿をひっぱたいた。足には響かない程度だったが痛むふりをして少し心配させようとした。しかしそれは無意味で、母は何にも気にしない風であった。

メールの受信欄を見ると、数人の友達からのものが届けられていた。その中にはナツのものもあって、俺は真っ先にそれを開いた。

その瞬間フィアットがくぼみを攻めて跳ねたので、やっぱりひどく傷んだ。

母は、「わり」と気にしていない。

横目で睨んでからメールの方へ目を移す。

『セイ、足大丈夫?なんか困ったことあれば私に言えよ!ノートとか見せたげる。お礼はハーゲンダッツでいいよ。ストロベリーね。帰ってきたら連絡おくれ。んじゃ』

友人が自慢で彼女とのやり取りを見せてきたことがあったが、それはもっとカラフルだった。こんなモノトーンではない。だがそのモノトーンが心地いい。

適当に返信してから他のメールも確認する。ほとんどが怪我の事なんかについて書かれていない。馬鹿話ばっかりだ。それらも十分に面白い。

なに笑ってんの、と聞こえてきたので中高生特有の便利な言葉を使う。『別に』、である。「ぬぁにが別にぃ、だよ」とトンガッテあそばせられる母。気持ちフィアットの揺れが大きくなった。

『そっか良かった。チャリは漕げる?(笑)』とバイブレーションとともに画面に表示される。漕げるか馬鹿、とまた軽く返信。そのやり取りはフィアットがスーパーに着くまで続いた。

 ハンドブレーキを上げながら、

「なんか色々買ってくるけどいるもんある?ほら酢昆布とか」と母。酢昆布はいらない。

そうだなぁ…と逡巡して、

「やっぱハーゲンダッツかな!イチゴの!」その日一番の声量でそう告げた。


それからのリハビリはそれなりにきつかった。痛いし、思うように動かないし、疲れるし。たまぁにナツも一緒に来て手伝ってくれたりもした。

三田さんとナツはすごく仲良さげで、同年代の女の子が話している感じだ。ナツ曰く、三田さんは二五歳らしい。

七月の上旬に怪我したこともあって八月の中旬から下旬にかけてギプスを取る予定と医者は言っていた。思った以上に怪我の治りが早いらしい。

学校、リハビリ、勉強のバミューダトライアングルをぐるぐる繰り返しているとだんだん眩暈がしてくる。

そんな眩暈を感じるようになってからひと月ちょっと、終にギプスを外すことになった。

その日は今までに感じたことがないほど、うっきうきに高揚感で自らナツを呼び出したほどだ。

そうして固まった石膏を取り去って見た足は、青白く細かった。ナツは、「鳥のあしかよ!」と爆笑。母は、しみじみその足を眺めている。

なんだろう、この解放感。圧縮された布団が開封される時もこういう感覚なのだろうか。とにかくすごく気持ちいい。

「この後少しマッサージしてから歩行練習をします。それで血色は元に戻ると思いますよ」と三田さん。


「うわぁ…気持ち悪…」

チキンレッグをじろじろ見なければいいのにナツは死人みたいな足をいつまでも見続けた。

壁伝いであれば少しずつ歩けるようになってきたところだ。三田さんに片っぽを支えてもらいながら進む。ナツは少し離れたところからそれを眺めている。

右足に少しずつ熱が入ってくるのが伝わる。血が回る。

「さっきより赤いじゃん」とペットボトルのお茶を三本持っている母。

ゆっくりと着実に俺の足は膨らんでいった。

リハビリを二時間ほど行った後、再び医者に見せると、もうリハビリには来なくていいとの事だった。日々をある程度安静に暮らしていればそれが自然とトレーニングになるらしい。心配なようだったらまた診せに来て、とも言ってくれた。


三田さんに病院のエントランスで別れを告げ、フィアットに三人で乗り込む。ナツが先に助手席を占拠したので、仕方なく運転席側から、ワンマイルシートもかくやと叫びたくなる後部座背に乗り込んだ。

きゅうきゅうなフィアットは、ばすばすばすばす、走り出した。

前側が嫌に騒がしい。男勝りな女が二人、話も合うだろう。彼女らはそんなに大した話をしていない。母に至っては、パート先のおばさん先輩パート3を話し出した。ナツは上手く合いの手をうち頷く。

そんな時間、悪くない。せませまなフィアットにからから二つの声色。弾む赤いボディ、さぁ進め。


「あちゃー、こらまいった。やっぱイタ車はだめだねぇ。全くぼろ儲けだよ」

フィアットはこんこんとグレーの煙を吐く。

ボンネットを開けてレンチ片手の母は、流れる汗を軍手で拭う。おかげで額が黒くなった。

コンビニが最後に見えたのはいつだったか。はるか後方のさらに先に煌煌と光っている白と緑とオレンジの光を想像する。

「こりゃレッカー呼ばないとダメかもですねぇ…」とナツ。

「ナっちゃん、携帯生きてる?」

「残念、死んじゃってます。セイは?」

「俺も。そろそろ寿命だな」

万事休すである。八方ふさがりである。五里霧中で馬耳東風。あれ?

日はだいぶ傾き、東側から紺からオレンジのグラデーション。

「この先なにかあったかなぁ」

「いやぁ、多分なんにもないですよ」

「なんでよ」

「だってド田舎ですもん」

「確かに」あっはっは、と楽天家が二人。潮の風が少し鼻につく。

「まっすぐ歩いてって一番最初にあった家に電話を借りよう。親父にも電話して…ナツの家にもか」

「だいぶ遠いと思うな。セイあんた行ってきて。ナっちゃんと私でガールズトークしてっから」と人使いの粗い。今日がリハビリ上がりだ。

「私、セイと一緒に行きます。足のこともあるし。なのでエミさんは車見ててください」

「えぇ、ナっちゃんと話したかったのに」

さっきまで十分に話してなかったけ。

「んじゃ、セイ行くよ」とナツは俺の手を取った。半ば無理やりに連れていかれたので、右足が痛んだ。

気をつけろよー、と伸びた声が聞こえてきたので振り返ると母は片手にオレンジ色の蛍みたいな光を携えて手を振っていた。

行ってきまーす!とナツは元気よく答えた。

二人でぷけぷけ歩いていると空のパレットは紺一色になった。日は奥の方で緑色に光っている。

歩きながらナツはどれだけリハビリに付き添うのが大変だったかをくどくど言った。

ナツが勝手にやりだしたんじゃん、と文句を言ったらめんどくさそうなことになるので、アリガトウゴザイマシタとロボットになると、けつの辺りに軽い蹴りが入った。

一通り話すと二人は静かだった。ナツは両手を頭の後ろに置き、俺は周りの暗い風景をきょろきょろ眺めながら歩いた。

街頭がひとつ、ふたつ、ゆっくり頭上を抜けて後ろに下がっていく。

三つめがはるか先に見えた頃、ナツが「なぁ」と話しかけてきた。

「私たち、だいぶ頑張ったよな」

「なに、急に…」風が少し冷たい。夏らしくない涼しさに悪寒を覚える。山のふもとだからであろうか。

「私ね、たまに思うの。あぁもういいやぁって。こんなド田舎に生まれてさ、いままで頑張ってきたけど、なんの為にやってるのかなぁって。もちろん大学に合格したいのはもちろんだけどその先に何があるんだろう。私は女。どれだけ胸を張っててもね。いろんな制限をこれから受けちゃうでしょ。ニュースで自殺の話を聞いたりしたら遣る瀬無くなる。私は何もできないのに。変じゃない?何もできないんだよ、なのにいっちょ前に悲しがって、馬鹿みたい」声を震わせるよりかは、むしろせいせいした、という風にナツは言った。

ささぁーん、ささーん、と海が聞こえる。海岸が近い。

「私、すっごく海が好き。セイはどう?見るだけなのに、なんか楽しい。この音も好き。色も、砂浜も。人間は水の中で生きられないのに、なんかその中で自由に生きたいなぁって思う時がたまにあるの。けど私、海が怖く思う時もある。底が見えない感じとか、生き物の得体の知れなさとか…」

自分が考えたことのないような事をナツは考えている。大学の先とか、日本の凄惨なニュースの事とか。

俺は、『倫理』という言葉が嫌いだ。倫理的に考えたら、全ての今ある問題が否定される気がする。ある意味で考えることを放棄してしまっているとも感じる。

ただそれは逆で、俺が『倫理』に対してしっかりと向き合わず、めんどくさくなっているだけなんだろうなとも思う。

ナツは恐らくそうでない。身近にある困りごとを全て解決してあげたいと思うのがナツだからだ。

遍くモノをしっかりと向き合って考えるナツは大人で、羨ましく見えた。

また少し黙った後、俺の足に何か当たった。そこまで大きくはないが丁度いい重さの小石だった。

それをナツへパスすると、ナツはそれを少し先に送ってから俺に返した。

「懐かしい」ぽつりナツが言った。

「いっつもこうやって帰ってたね」コツン。

「用水路とかに落としたら家まで荷物持たせたりしたな」カツン。

「あれ覚えてる?」カラツン。

「何を?」タッタカラカラ。

「セイと…あれはタツヤか。夏祭りの次の日、学校のプールを金魚だらけにしたの」カツ。

「五年生のときだっけ。ナツもやったじゃん」コツ。

「私はあんたらを止めたの。それなのに振り切って行っちゃったんじゃん。祭りの金魚はかわいそうだ、広いところで泳がせてやるんだ、って」カッカッカッコロカラ。

「プールに塩素入ってるの知らなかったからなぁ…」

「みぃんな死んで浮かんでた。あれは地獄だったよ。すんげぇ怒られてたよね、セイ。あれ石どこに行った?」

「あそこ」

「ほんとだ。けどセイその時絶賛反抗期だったから先生の顔見ようともしないでさ。タツヤはちゃんと謝ってたのに」コツン。

「懐かしいなぁ…」コロコロ、サササ、ぽちゃん。

「あ」

「はい、セイの負けぇ」ナツはⅤサインを作って見せつけた。

「罰ゲームとして、この先まで走って誰かの家もしくはコンビニを見つけて来てください。私はゆっくり歩いてくので」と悪戯っ子ぽく言うナツはやはり子供なのか。

了解しました、と仕方なく痛む足を無視して走り出そうとすると、視界に何かがよぎった。暗闇の中で目が及ぶぎりぎりの範囲に薄ぼんやり光る暖色系の明り。それを「あれ…」と指さし振り返る先にナツはいない。俺の横を風と共に飛んでった。慌ててそれを掴もうとするも、ナツは向こうの方。


「いやぁ助かりました、本当にありがとうございます」三人で口々に優しそうなおじいさんに感謝を述べた。

それでは気を付けて、と言って俺らが乗ってきた軽を見送る。

「親父、仕事終わり次第迎えに来てくれるって。レッカーも親父が呼んでくれた」

そう報告すると母は、よくやったと頭を撫でてきた。それを右手で払う。俺は高校二年生だ、男の子だ。そんなお礼を受け取っていられない。そう思ってたら、ナツは俺の分もぐしゃぐしゃに撫でられ、「あうあう」とアシカみたいな声を出している。

フィアットの煙は落ち着いたが、今度は逆に母が煙を出し始めた。足元には数本吸い殻が転がっていた。

しゅぼっとマッチが文明の光を吐く。口元の紙煙草にそれを近づけ、煙草が生まれたころ、あちち、とマッチは役目を終えた。

母の手に蛍が飛んできた。

「もう何本目だよ」

「しらーん。ありゃこれ最後の一本だった。もうちょいゆっくり吸えばよかったなぁ」

「エミさん何吸ってるんですか?」

「ラクダ」

「おいしいの?」

「おいしーよー。吸ってみる?」

「おい、大人」

「冗談じゃん、セイ。ジョーク通じないなぁ」

「エミさんってかっこいいですよね。なんか大人の女って感じ。ただの女じゃなくて、カタカナのオンナな感じがする」

「あれ、そんなに色気でてる?ポスト峰不二子感出てる?」

「母さんはジョークが通じないなぁ」

「なにをっ?」

そうして掴みかかってこようとした母をするりと躱す。母の攻撃をすり抜けたと思えば、後ろから体が固定されて動かない。

ナツに羽交い絞めにされた俺はすぱんと母に引っぱたかれた。

母は最後の火をアスファルトで消し、吸い殻を全てフィアットの灰皿にいれる。

全て片づけ終わって、母が

「あんたらは幸せになんなよ」とぽつり言った。

「エミさん幸せじゃないの?」とナツが言うと、うんにゃ、めっちゃ幸せ。煙草吸えるし。と返した。

なんだそれ、とナツが笑う。潮風が鼻につく。


 その後、来た道の方から大型のレッカー車がきてぼろぼろのフィアットを連れ帰った。 レッカー車が帰るのとすれ違いにもう一台車が来た。見覚えのあるヘッドライトが俺たちを照らす。

「よう遭難者」と親父が窓から身を乗り出してなじる。

末代まで語り継がれるフィアット事件はこうして幕を閉じた。

車の中で、フィアットなんか買うべきじゃなかったと訴える親父と、可愛いからいいだろ、と外見だけを褒めちぎる母の二人の口論を後席から二人で延々聞かされた話は、ここからさらに長く語ることになりそうなので割愛する。


 次の日の朝、メールの着信音で目が覚めた。同時に外から、ちりンとベルがなる。カーテンを開けてウザイ日の光を目に入れる。窓を開けて外を見ると、すでに汗ばんだナツが家の前にいた。時刻は八時半、まぁ丁度いいかとOKサインをナツに向けてから、俺はカーテンを閉めた。


 「おい!セイカ!遅えよ!早く!」

なんで、こう、俺の周りって男堅気な女が多いんだろう…。公園に向かう急な坂は、足に対してスパルタなリハビリを強いた。

「おい!足に力入ってんの?まだ骨折したの引きずってんのかよ!だっさ」

昨日ギブスが取れたばっかだ。もちろんジンと痛む。右ペダルを踏み込むたびに、骨と筋?がきしむ。が、俺はあいつについていかなきゃならんのだ。母が言った、「あんたらは幸せになんなよ」の言葉が頭から離れない。汗が目に染みて痛い。

 ナツも汗だらだらで、シャツの奥から透ける下着の紐?がエロい。

やっとの思いで公園に着くも、そこは灼熱の地獄。屋根なんか無く、日陰を探すならトイレの下にしかない。

タオルで顔を拭うと、ナツは貸してとそれをひったくり、不快な汗を拭き去る。おい、女子、と突っ込みたくなるが以前ここでキスした手前、わざわざそれを指摘するのも気恥ずかしい。

サンキュ、と投げられたタオルを受け取ると、また「お姉さんがジュースおごっちゃる」と言って駆け出して行った、と思ったら一度止まってゆっくり自販機の方へ歩いて行った。

「同い年だろ」とあの時と同じことを言った。

高校はもちろん夏休み真っ盛りで、幸いうちの学校には夏期課外というものがない。生徒の自主性を育むためにプログラムは用意しないのだ、という教師陣の発言は一理あるが、友人たちは皆、先生も休みたいだけだろう、と考えている。

代わりと言っては何だが、教室は夏休み期間中、お盆を除いて常に開いている。

勉強や教えあいの場として、生徒限定に開放してくれているのは、図書館などの公共施設に比べてプライベート性が上がるのでありがたかった。

ナツからのメールの内容はそれへの催促だった。

ただし、夏だ。絶賛熱帯な日本である。ノンストップで学校に向かえば校門に入った瞬間に二人してぶっ倒れるのは、あの憎き高温の太陽の火を見るより明らかだった。

学校のシステムは生徒にとっても教師にとっても少しブラックであるように思われる。中学校なんかは特にそれが顕著だ。

強制される部活動、指導する顧問には満足のいく給料が支払われることはない。しかし顧問は平気で休みも取らずに練習試合や、一日練習を設定する。先生よ、家族サービスはしなくていいのか。

高校に入るといくらかはゆるくなるように感じる。部活は強制じゃないし、靴も真っ白の運動靴に限定されない。エアマックスの新作を履いてくる人がいれば、サンダルで来る人もいる。(サンダルに関してはグレーゾーンだ)しかしながら頭髪や制服、ピアス、メイクの禁止などなどの校則という、ある意味で法律よりも厳しく感じられるルールを押し付けられる。

『生徒の自主性』を重んじる為であればこの辺は解禁するべきなんではないかと思う。

 俺はもちろんメイクなんかしないし、髪も派手にしたくない。ファッションは好きだが、毎日服を考えるのはめんどくさいのでその点は助かっている。ただ、不満がたまっている人も、もちろんいるようだ。

ある時、テレビ電話でオーストラリアの提携校の生徒と英語で会話をしてみよう、というイベントがあった。

「なんで皆同じ服で同じ髪色なの?」という青い目をしたブロンドの髪をもつ女の子がそう聞いた。彼女の目から見れば明らかに異質なのは俺らの方だった。

民族の多種性や、個性のぶつかり合いが未だ少ない日本という国。この国は他の先進国と歩調を合わせるべきなのか、それともこのまま歩み続けていいのか。それは俺には分からない。

ナツはどう考えるのだろう。


そういえばナツが帰ってくるのが遅い。何を買えばいいか悩むなら悩みすぎている。ライフガードで!と伝えるべきだったかもしれない。

日射病でぶっ倒れたか、と心配になり自販機の方へ向かうと、ナツは座り込んで胸を、いや上半身を上下させて咳き込んでいた。右手を口に左手を地面についている。

「ナツ?」ごほっごほっ、といった聞きなれた咳ではなく、ケンッケンッという甲高いものだった。

ナツの背中に手をおいてさする。数分間咳が出続けてやっと収まった。はぁーはぁーとゆっくり大きく呼吸をしている。

「最近ね、咳がひどくて、止まらないの、これ、すごく、きつい」

苦しい、ごくありふれた言葉だがナツの口からのものは重く刺さる。

水をナツに買って渡すと、彼女らしくない静かな動きでそれを飲んだ。

「去年のあれからしばらく落ち着いて、たんだけど、一か月前くらいかな、咳が出始めて…。私、弱くなったなぁ…」へへ、と赤い顔でナツは笑む。

「どうする?学校行ける?」

「もち」とⅤサインを向けた。なんだか弱弱しく見えたピース。ナツに肩を貸して立ち上がらせて止めているチャリの方を見る。

眼下に広がる街の上に黒雲がのしかかっている。急がなければ雨が降る。しかしナツが学校に着いたときに再び咳き込まないようにもしなければならない。

雨に降る前に学校に到着することを諦め、途中の閉まっている煙草屋で降りだしたら雨宿りしよう、と提案すると、ナツはそれを了承した。

雨がトタンを叩く。

そんな、二〇一〇年の夏。


ナツは休んだり休まなかったりを繰り返した。ただテストの時には必ず来て、見事一位をかっさらっていった。不屈である。

高二も秋になり、いよいよ周りも大学はどうするか、どういう勉強をしたらよいか、参考書は何がおすすめか、といった情報を否が応でも共有せざるを得なくなった。

そこで白羽の矢が立ったのはナツ、ではなく俺だった。なんでも海城の姿を一番近くで見てるのは御山なんだから色々知っているだろう、との事だった。

ナツに勝った気がして少しうれしくて、俺は必死に皆の質問に答えるために様々な事を調べた。

大学選びの方法、各参考書の強み、科目別の苦手な点の克服方法、エトセトラ。

割といいアドバイスになったらしく、教師からの評判も上がった。

「御山って先生とかになるのか?」と担任に唐突に言われた時には少したじろいだ。

微塵も自分の将来の姿を思い描いたことはなかったし、今までの生き方、特に小、中の姿を知っていれば、教師なんてもってのほかだった。それを伝えると、

「そうか。まぁまだ分からないよな。ただ御山は何かモノを教える事は他の人よりも上手いし、それは社会に行ってもいいアドバンテージになる。誇っていいと思うよ」と言ってくれた。

かなりうれしくて、その日家に帰って公立教師の平均年収を調べたほどだ。

こんな値段であそこまでやってくれているのか、と愕然とし、もっと稼げる職業がいいなぁ、と早々に教師の道は閉ざした。


あれ?秋っていつ終わったっけ?と思うほどに葉が色づき落ちるのは早い。ここ数年春と秋が消え失せつつあるように思える。

この間まで首元に吹き込んでいた小さな風が心地よく感じたのに、今はもう耳を凍らしている。

マフラーに顔をうずめ坂道をぎこぎこ漕ぐと、体表は冷たいのにヒートテックの中は汗ばむ。温度が良く分からなくなって風邪をひきそうになる。

三連休のせいでナツにしばらく会ってなくて一度電話をかけてみた

元気だよ、とけほけほ伝えられた。エミさんによろしく言っといてぇとも、こほこほ頼まれた。


「ナっちゃん最近どうなの?」ナツからのよろしくを伝言すると母は心配した。

「学校には来たり来なかったり、できる限り来ようとしてるけど、一度咳き込みだすともう止まらなくて早退してる」食卓の中央に鎮座したチキンカツに目を向けながら答えた。

「かわいそうに、ナっちゃんのことだから勉強面は心配ないけど…。単位とかは?どうなの?」カツに醤油をだばーっとかける母。眉をひそめると「何だよ」と母。「別に…」にらみ合いが続き拮抗を破ったのは母の左手に握られた醤油差しで、俺のカツも半分醤油に染まった。

ソースと醤油の縄張り争いは僅差で醤油の勝利だった。

食ってみ、と母は醤油カツを顎で示す。恐る恐る口に入れる。

「え、うま」

「だろ」母は破顔した。

「単位に関しては学校側も配慮してやってくれてるらしい。なんとか留年しないですむかなって本人が言ってた」ざくざくカツを砕く。

「だったらいいけど…いつになったら元気になるかなぁ。またバレーしてるとこ見たいなぁ」しゃきしゃき千切りキャベツをつまむ。

「ナツのバレー見たことあるの?」

少し驚いた。まさか母がナツの試合を見に行っていたなんて!

「うん、ゆっきに誘われて。最後の大会見に行った。かっこよかったよぉ、アタックが相手のコートにバァン!って。いやぁあれが頭に当たったら死ぬわ」

もう少し早く話すべきであったかもしれないが、ゆっき、というのはナツの母親であり、かつ母の中学以来の親友である。俺とナツが幼馴染である所以はここにある。

「へぇ、そう」と適当に返したが俺はそのアタックもとい、スパイクを知っている。俺もその会場にいたからだ。

誰かにバレたくはなかったが、一人で行ってもつまらないので、クラブチームでバレーをしている友達を連れて行った。

彼は最初行くのを渋ったが、海城ナツカが出場することを知ると、今度は逆に俺を引っ張っていった。

彼は目を輝かせて、ナツのスパイクはもちろん、サーブ、レシーブ、ミスのカバー、メンタリティその全てを見ていた。はたから見たらストーカーであった。

もちろん俺もそのプレーを拝見した。とてつもなかったとだけ言っておく。他はもう何も認めん。

「とにかく、あと一年ちょっとか?二人ともがんばんなよ。大学行くんだろ、あたしは大学とか、そういう、あの、頭痛くなる系統のやつに関しては詳しくないけどさ」

「元ヤンだからだろ」

「あんた、ほんと可愛くないよね…。あーあナっちゃんみたいな娘が欲しかったワ」

「ごちそうさま、醤油カツ美味かったよ」食器を片づけながら可能な限りのおべっかを言うと、母はうれしそうに足をぱたぱたさせた。


完全に街が、「あ、もう冬だね!じゃあ冬の装いをしなくちゃいけないや!」の雰囲気になるくらい冷え込むようになると、俺らの地方にはどかどか雪が降る。秋田とか、山形とかそっちの方よりはマシだけど、全国放送のニュースのお天気情報を見るたび吹き出す。

おい、東京。お前らはまだ秋衣装だろ?と。

そんな感じだから、チャリで坂を登るのは当然きつい。きつい、というかタイヤがアイスバーンとこんにちはして、重力に引っ張られて後ろ向きに坂を下ることになってしまう。それが意味するのは、まぁ、死、だろう。

なので基本は母が登下校の送迎をしてくれる。当然ナツも乗っていく。わざわざ体を動かさないで学校に行けるようになったので、少し前よりかは欠席が少なくなった。

フィアットは毎朝、冷え切ったエンジン室内をキーが回ったと同時に、ばたばた頑張ってあっためる。

「この一生懸命なとこが可愛いよね」と母はご満悦だが、正直さっさと出発できる日本車がうらやましい。

調子が悪いと走り始めはがたがた騒がしい。じいちゃんの軽トラみたいな乗り心地に似てる。あまり、気持ちいい走りとは言えない。

しかし、母はがたがた不調を訴えられても、「おいおい元気だなぁ」とステアリングをさすさす撫でる。そういうことではないのだ。

 ナツの体調は改善に向かっているように思えた。咳の調子も少なからず良くなり、苦しそうな顔をすることも減った。俺の前で急にぶっ倒れた日の、その前にナツは戻っていっているような、そんな感じがした。

それは非常に喜ばしいことで、クラスメートも教師陣も、部への勧誘に失敗し続けているバレー部顧問も、もちろん俺も、気分が上を向いた。ナツはそういうヤツなのだ。

ナツが元気なだけで、周りも否が応でも元気になる。そのあっけらかんとしたパワフルさがナツの取柄であり、俺が思うに一番の長所だった。

それが途切れることなく、ずっと続いて行って欲しい。恥ずかしいからそんなこと本人の前で言えないけど、そんなことだって頭のどっかで思い続ける事は大切なのだ。

あっけらかんとしたパワフルな海城ナツカのことを、俺はいつのまにかだったが、不覚にも、なんでだかよくわからんけど、大好きだったんだと、そう思う。



季節は、刻々と勝手に回る。私たちが頑張って生きてようが、頑張って死のうとしようが、特に何もせずにいようが。

私の名前は夏真っ盛りな感じで、夏が大好き!みたいなそういうイメージを持たれがちなのだが、私はどちらかというと冬派だ。

なんでだろう、夏でいさせられてしまうことからの反骨精神?憧れ?可愛らしい優しいちびっちゃい男の子が、いつのまにか不良にあこがれるように、私は冬に憧れをもっていた。どこまでも空は透き通り、いい意味ですっからかんとした日も、曇ったとたんに陰鬱にだるげになる空気感が好きだ。

そういった気分の高揚からか、私の体調はだんだんと良くなっていった。これには自分でもびっくりした。

一生この状態が、いうなれば虚弱体質的なものが続くのかと思いきや、そうではなくなりそうなことが何よりうれしかった。なんだかんだまたバレーもしたかったし。


私とセイは冬から、梅の花が芽吹いてくる暦上の春へと歩いて行った。しかし、一度立ち止まってもよかったのかもしれない。

私たちは順調に、模範生のごとく勉強しそれに呼応するように点数はあがっていった。一度、学内で全教科セイが一位を取ったことがあった。当然私は負けた。私はそれを、結構すんなり受け入れた。受け入れられないのは周りのほうだった。担任は何度も成績の帳票を見直したし、クラスのみんなも文字通り目がテン、だった。

「御山が、今回のテスト、全教科で一位だ」

それがクラス中に徐々に浸透してくると、じわじわとざわめき、それは阿鼻叫喚に変わった。気づいた時には、セイは皆に祭り上げられていて、もう少しで胴上げをされるとこまで行った。胴上げをしようとしたところで、いやこれは危ないな、蛍光灯でも割ったらどうしようと皆が思い、なるほど、落ちて腰でも打ったら大変だ、とふむふむ頷いたところで、それぞれがそれぞれの席に返っていった。

セイは非常に満足そうに、その様をながめていた。

その時セイはたまたま私の隣に座っていたのだが、椅子に座って私の方にぐるりと顔を向けた。さきの顔とは違ってひどく真剣な顔だった。

「これの分析を頼む」そういって、セイは黄金色の成績表を手渡してきた。何も分析することがない旨を伝えても、頑としてセイは引かなかった。それを、ある種おそれおそれ頂戴してかばんにしまうと、それを見て再びセイは満足気な顔に戻った。

月が変わり名実ともに春になった。学校内は三年生の大学二次受験の結果に関する面談と卒業式の準備に追われ、なんだか私たちの担任も、忙しそうに走り回っていた。教師が実際に走ってあくせくしているのだから、ほんとの師走は三月だな、と思った。

最高気温が二けたに達しようとしたころ、セイがインフルエンザにかかった。少し季節外れの様にも思えたが、学年にも複数人出席停止を食らっている人がいたのでまぁ妥当か、あとでメールしといたろと考えるくらいであった。確かに、セイが体調を崩すことは稀だったが、インフルが都内でも猛威を振るっているという全国ニュースを見て、納得した。

返信されたメールの文面には、『大丈夫、三日後には復帰する』と端的に書いてあった。

『了解、あったかくしてなよ』と私も一文で返すと、それへの返信はなかった。

メールのやり取りがあった二日後、学校が職員会議だかなんだかで、早めに終わった。生徒への情報漏洩を厳重に防ぐべく、私たちは全員帰らされることになった。担任は自習室を私たちに使わせてあげることが出来ないことを詫びた。そして話終わったと同時に大きなため息をひとつホームルーム後のけだるい教室に吐き出して、頭を抱えていた。

どうしたんですか?と一人尋ねると、

「会議なぁ…嫌なんだよなぁ…生産性なくて…」とだけ言って、んじゃな風邪ひくなよ、と出ていった。

授業は四時間目で終わり、大体二時半過ぎに学校の門を出た。

雪が道に固まってることはもうなかったので自転車を漕いできたのだが、やっぱりお母さんに車出してもらえばよかったと後悔するくらい、寒かった。太陽が顔を出さずにいたのがその原因だろう。マフラーにずんむと顔をうずめて、できるだけ風を受けないようにゆっくりゆっくりペダルを漕いだ。

漕ぎながらセイのところにでも見舞いに行ってやるかと思い、途中のコンビニで当時話題だったプレミアムシリーズのロールケーキと、シュークリームを買った。調子悪いと、生クリームも脂っこく感じちゃうかな…とうんうん唸りながらも、ハンドルにビニール袋を下げさっきよりも冷たい風に当たりながら、取り敢えずいつもの公園を目指した。

その時だった。

細かく何かが聞こえた。ロールプレイングゲームに出てくるドラゴンのいびきのような、ガルガルという、何かを削るような音が小刻みに、変に丁寧に鼓膜を叩いた。

これは地震だ。大きいぞ。と思い、チャリを止め道の壁際によっかかって音がやむのを待った。音はやまなかった。

ズガンと地面そのものが沈んだ感覚と同時に丁寧だった地鳴りの音は轟音に変わった。今までに感じたことのない揺れだった。小さい頃に乗ったジェットコースターを思い出すような、そんな揺れ方だった。

揺れは一向に収まらず、徐々に周りの物を破壊し始めた。私が寄っかかていたブロック塀は私がいた逆方向にドミノ倒しみたいに崩れていった。

立っていたアスファルトは割れ、近くの家々から皿やグラス、窓が割れる音が響いた。しかし不思議と人の声は聞こえなかった。

私と同じように突然のことにびっくりしすぎて声すら出なかったのだろう。

揺れだしてから一分位だろうか。ごろごろごりごり…とだんだん音は去っていき、立っていられないほどの揺れは携帯のバイブレーションほど小さくなった。

倒れたブロック塀の家主、南無三だぜ…と思いながら自転車を立て直し、再び公園に向かった。

公園につくと、まだその恰好は早いんじゃないかと誰もが思う半袖半ズボンの男の子が数人と、季節相応の恰好をした男の子と女の子が一人ずつ滑り台の周りに集まっているのが見えた。

「なんか、遊園地のアトラクションみたいだったな!翼、おまえビビってんのかよ!」 すこしぽっちゃり目の半袖坊主は、長袖ボーイをそうけなした。周りの半袖坊主たちは、おれも怖くなかった!とか、楽しかったな!もう一回揺れないかな?とか騒いでいた。

見栄とかではなく、本気でそう思っているようで、これ以上あり得ないドミノ倒しは見とうない…私はビビりでいいや、と通り過ぎた。

いつもみたいに坂道をするする降りる。寒いから、前輪後輪のブレーキの両方を握りながらゆっくり、ゆっくり下ってく~。断じて怖い訳ではない。寒い、それだけだ。

あと一回カーブを曲がれば、坂道を降りきるところのカーブミラーに何か映ったのを私は見過ごさなかった。完全に自転車を降りて、押しながらその実体をみると、一人のおばあちゃんが立っていた。こんにちは、と会釈をしてそのまま進もうとすると、お嬢ちゃん!と怒鳴られた。びっくりして、やばい人がいると思った時にはもう遅く、ハンドルをがっちり掴まれていた。

「なんですか!離してください!」とおばあちゃんが転ばない程度にそれを振りほどこうとすると、また口を開いた。

「下に行っちゃだめだぁ…波がくるど…いかい波だ…。公園まで登らなくちゃ流されっど…」

波が来るというシチュエーションは想像できたか。

「え…なんて…?」

「津波が来るんだ…逃げろ…まだ死にたくないべや…」

そう言い終わると、えっちらおっちらおばあちゃんは坂を登り始めた。

私たちの家のさらに向こうから、また音が聞こえだした。


防災無線のサイレンは鳴りやまない。さっきより人々の叫び声が聞こえる。街の至る所にあるスピーカーはいつもの単調な間延びした声ではなく、切羽詰まった人の声を流している。

おばあちゃんを引っ張って、自転車を引っ張って坂を登ってると、後ろからも何人も何人も走ってきて私たちを追い抜いて行った。一人の男の人が親切に、自転車俺が押してってやるから、そのばあさん頼んだぞと言って、私から無理やりハンドルをひったくって行ってしまった。

坂の終わり、私もおばあちゃんも息遣いが荒くなり、私はというと少し咳き込みそうなそんな気がした。公園の奥には私の自転車とおじさんがへたり込んでいた。

ばあちゃん!と半袖坊主が駆け寄って、おいおい泣いた。私はおばあちゃんに会釈をして、自転車のおじさんへと挨拶しに行こうとした。

胸を抑えながら、一歩目を踏みだしたとき背後からドカンと火が上がった。公園にはたくさんの人が集まっていて、眼下の街を眺めていた。悲鳴が四方から聞こえた。皆が見ている方を私も見ると、火が上がった奥に黒いうねうねとうごめく何かが見えた。

それはあっという間に近くの家を飲み込んだ。浴槽に浮かべられたアヒルの様に自然に、まるで流れることが決まってたかのように、ふわふわ漂った。

それを見て、私は何を思った?思ったではない。何が頭の中に浮かんだ?

「セイ…」

アヒルは増える。火は上がる。車は当然水の動きに負け、流動した。

「セイカ…は?」

信じられないとか、何が起こってるんだとか、そういうのを放り投げて。

私は坂を駆け下りるために、腕を振ってマフラーをたなびかせた。ようとした。

後ろからグイっと腕を掴まれてすっころんだ。

「なにしてるんだ!ばあさんとここにいろ!」さっきのおじさんはすごく怒っていた。けどそれがなんでだか分からなくて、うんうんと頷いてからおじさんの腕を左手ではがそうとした。

おい、ちょっと!と叫んで、おじさんは私の前に体を滑らせた。私は何も言わずにそこから解かれようとした。

「ナっちゃん…!」聞きなれた声、振り返るといつもの凛としたエミさんではない、いままで見たことのないエミさんが膝に手をつき私を見ていた。

「だめだよ…死んじゃうよ!いっちゃだめだって!こっちにおいで!」

「エミさん…セイは?」

「家で寝てる…けど、大丈夫だから…地震が起きてすぐに近所の人に頼んだの…セイの様子を見に行ってほしいって…棚とか倒れてたら大変だから…。大丈夫必ず他のところに避難したから…!だからいっちゃだめ…。こっちにおいで」

するりと私はおじさんから離れて、エミさんの所に行った。エミさんは私の頭をぎゅうと抱きしめて、撫でた。

それから初めて、私は怖くなって不安に感じて、心がざわついて泣き出した。

また、うわぁ、と周りの嗚咽が聞こえる。黒いうねりは大蛇の様に街を薙ぎ払う。

エミさんは、あ、と声に出して、立ち上がった。

「ナっちゃん、あれ見える?あの赤いの。ほら、あ、今家の陰に隠れちゃった…。あぁ、でてきた。ほらあそこ、私のフィアットだ」

丸目の可愛らしい顔はもうとっくにない。というか、そもそもあれが本当にエミさんのフィアットかどうかすらも分からなかった。ただしかし、エミさんはひたすらにそれを自分のフィアットと信じ、別れを告げた。

もう当分、イタ車には乗れないね、とエミさんはタハっと笑った。

パパにだからイタ車はダメなんだって言われちゃうや。そうとも付け加えた。

もうすぐそこまで水は迫っていて、魚が一匹打ちあがっていた。ひどく、冷めた目をした魚だった。



あの日みたいに曇り空は続く。どこまでも、途切れることなく。たまに晴れたり、雨が降ったり、雲間は気まぐれに表情を変える。心情は変わらないんじゃないかといつも思う。

結局、彼は未だに見つかっていない。もう二度と、復興なんてしない。再び、私がいた十七年間の続きを見ることはないのかもしれない。

私は、彼とのいつのまにかの約束通り、東大を受けた。そこで刺激的な四年間を過ごしたことは割愛する。とにかく素晴らしき変人達がたくさんいた。

仕事は順調だ。あれから日本には防災意識が目覚ましく成長し、それに伴って様々な災害の影響をできるだけヒトが受けないようにするための設備等の開発に努力を惜しまなかった。

私はそういう企業に就職した。あの地震があった後に、最も早く対津波用の堤防を開発し、私の地元に設置してくれた企業だ。

それがどんなにうれしく、どんなに悲しいことかを面接時に話したら、彼らは神妙な顔をして頷きながら聞いていた。

今は東京で仕事をしながら、家事と育児をしている。一年半前にちび助が生まれた。とっても可愛い。旦那は社内で初めて会った、同じ地方出身の人だった。イケメンではないし、ドジだし、馬鹿なほどまじめな人だ。

ただ、他人の喜びと悲しみ、その他多くの感情を純粋に共有できる人だ。

そして私たちが味わったあの感情を後世に生ませないように努力できる人だ。

そういう人だから結婚したし、子供も生んだ。全てがうれしくて幸せなことだ。特にちび助の顔を見るたびにその気持ちが舞い上がり、トタンに可愛いねぇ、可愛いねぇとしか言えなくなる。多分、それが一番の可愛がり方だ。

しかし、彼への気持ちも同様に忘れてはいない。なかなか変な話だが、ちび助の顔は少しだけ彼に似ている気がする。


エミさんとパパさんは今も彼の帰りを待っている。微塵も彼が死んでしまったなんて考えていない。だから仏壇もなければ、お墓もない。ただしいつか私と撮った写メを現像し、額に入れて飾っている。

地元に帰るたびに、エミさんに会いに行く。エミさんはずっと変わらない。家が流されても、車が流されても。生活が変わっても、彼女のちび助がいなくなっても。

いつもあの調子で元気にいる。ただ、ふとキッチンに一人で立った瞬間、車に一人で乗っている時、エミさんはこの世を恨むようなそんな冷たい顔をする。それが無くなることはいつかくるのか、それともエミさんがいなくなるのが先か。エミさんは今、静かに国産のハイブリッド車を転がしている。


「いってくるね」ちび助を彼に任せ、私は自宅のマンションを出た。

二人して同じ企業に勤めていて、その企業が割と高給なこともあって生活は苦しくない。晩酌のお酒はそれなりにいいのをそろえているし、東京住まいなのに車も一台保有している。ただ、ちび助が大きくなるにつれ、その車も手放すのだろう。

キーを回してエンジンをかけ出発する。今日から地元に出張する。設置した防波堤の最終調整と、近海の波の状況確認のためだ。

上司は新幹線で行くことを進めたが、私はそれを断った。

誰かに似たのか、私はドライブがこの上なく好きになった。一人になれる小さい空間。それにこれに乗っていくと、あの人が喜ぶ。

理解のある上司は、ガソリン代をあとで経費で落とすことを宣言してくれた。

残り一時間で目的地に着くところで給油をした。たっぷりハイオクを飲ませてやった。

ガソリンスタンドの先に夕焼けに赤く染まった海が見える。

キレイな太平洋だ。怖い、畏怖の海だ。私は一生海が好きだし、一生海を恨んで生きる。

私から彼を奪った海を、私は許さない。

ただ、願うなら。

海の底に、泳いで消えていったあなたを私が引っ張り上げてあげる。

 どこに埋めたか分からなくなってしまったタイムカプセルを取りに行ってあげる。

頑張ったねって褒めてあげる。この調子でいけば、二人で進学できるかもよ、ただ数学のここの問題は落としたくなかったね、って話してあげたい。

今もなお、泳いでるんだろ。決していなくならないんだろ。

だったら見つけに行くから。もう少しで行くから、まってろ。お姉さんが必ず行くから。


「ハイオク満タン、洗車完了。エンジンオイルの状態も非常に良かったですよ。良くメンテナンスされているフィアットですね。完璧ですよ」

ふふん、と得意げに感謝を伝えてから私とフィアットは、ばたばた走り出した。

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