42.裏切り者は
私の首に押し当てられた鋭い刃物。
それを握っているのはミナ。フィル先生の専属メイドだった人だ。
「そんな、どうして、っ──その手を離しなさい! ミナ!」
「……申し訳ありません。フィンレール様」
ミナは小さく謝罪の言葉を口にした。
でも、これは仕方のないことなんだって、こうしなきゃダメなんだって、そう自分に言い聞かせているように……私は聞こえた。
「騎士が、言ったんです。お二人を引き渡せば命だけは助けてやると……私が生き残るためには、この方法しかなかったんです。……だから、フィンレール様。私のために犠牲になってください」
「ふざけないで! 貴女は利用されているだけです! どうせすぐに殺される。その残酷さを貴女も見たでしょう!?」
「それでも──! それでも、私は、死にたくない! こんなところで死にたくないんです!」
人は簡単に死ぬ。
その首を切れば、その頭を潰せば、その体を壊せば──人は二度と動かなくなる。
それが怖いんだよね。
死んだらもうそこで終わりだから、死にたくないんだよね。
その気持ちは分かる。人だけじゃない。『死』に対する恐怖は、どんな生き物も持っている感情だから。
私は多分、どんなことがあっても死なない。
でも、死ぬということは大切な誰かともう会えなくなって、もう二度と話せなくなるってことでもある。それは私も嫌だ。だから『死ぬ』ことは、きっと怖いことなんだ。
死にたくない。
その感情は、分かる。
だから誰かを犠牲にするの?
それって……本当に、正しいことなのかな。
誰かを犠牲にしてまで生きる人生って、本当に楽しいと思えるのかな。
私は嫌だな。
誰かを裏切るのは嫌だ。
だって、誰かを犠牲にするということは、誰かが不幸になるということでもあるんだ。
それをしたら、きっと私は、罪悪感で自分が嫌になる。
誰かを裏切るくらいなら、私は──自分が犠牲になることを選ぶ、と思う。
でも、ミナはそうじゃなかった。
その選択が間違っているとは思わない。
死にたくないって感情を持つのは当然のことだと思うし、誰かを裏切る以外に生きる方法がなかったなら、その選択をするのも仕方ないんだ。
だからって、その選択が正しいとは絶対に思わないけれど。
「ミナ、そのナイフを捨ててください。今なら間に合います。そのナイフではなく、この手を取ってください。そうしたらこの件は見なかったことにして差し上げます。一緒に行きましょう?」
「……いいえフィンレール様。もう無理です」
「そんなことはありません! 今すぐ逃げれば、まだどうにか──!」
誰かが走ってくる。いっぱい走ってくる。
それはさっきの鎧が擦れるのと同じ音。私達を殺そうとする騎士達の足音。
「っ、貴女!」
「さぁ早くしなければ騎士が集まってきますよ。この亜人を捨てて逃げますか? それとも私を殺し、てぇ!?」
迷っている暇はない。
だから私は、ミナの手に噛み付いた。
手が離れる。
その拍子にナイフの切っ先が私の頬を切り裂いたけれど、痛いのはちょっとだけ。
「せんせ、っ!」
「レア様!」
先生はすぐに駆け寄ってきて、私の体を抱き締めてくれた。
「この、よくも……亜人が!」
ミナは激昂して、私に掴みかかろうと手を伸ばす。
でも、それより先に先生は魔法を詠唱して、私を守ってくれた。
「ミナ。貴女は優秀なメイドでした。屈託のない笑顔が私は好きだった。楽しそうに夢を語ってくれた貴女のこと、少しは好ましいと思っていたのですよ」
「フィンレール、さま……?」
「ですが、もう許しません。貴女は私達を騙しただけではなく、レア様にまで危害を加えようとした。最後の慈悲すらも貴女は無下にした。……もう、終いです」
「ま、待って! 私だって死にたくなかったんです! 生き残るためには、こうするしか……!」
「ならば、私達も生き残るために貴女をここで捨てて行きます。裏切り者を近くに置いておく訳にはいきませんので」
そう言い捨てた先生は、とても冷たい目をしていた。
「いたぞ! 王女と亜人だ!」
「っ、もう来ましたか。行きましょう。逃げますよ!」
「……ん!」
ミナは最後までフィル先生のことを呼び止めようとしていた。
その姿が見えなくなるまで、騎士達に縋り付いた挙句彼らの手によって斬り伏せられる、その時まで……。