35.わがままでいい
それは風に乗ってやってきた。
久しく嗅いでなかった香り。私にとってのご馳走。
──人間の血の匂いだ。
「レア様? どうされました?」
その匂いに体が反応して、私は目覚めた。
フィル先生は気付いてないみたい。……当たり前か。遠くの人間の血を嗅ぎ分けられるなんて、吸血鬼くらいにしかできないもんね。
でも、どうしよう。先生に言ったほうがいいのかな。
こんなに濃い血の匂いだ。
多分、誰かが死んだ。それも大量の血が飛び出すような、悲惨な形で。
風の向きから考えて……パーティー会場? どうしてパーティーで誰かが死ぬようなことが起こっちゃったんだろう。
同じ方向から騒がしい音も聞こえてきた。
これは怒号と──絶叫。また誰かが死んだんだ。それに怒っている感情も、魔力の流れで伝わってくる。
気がつかないふりをすると、ここまで危なくなる。
私は死なないから大丈夫だけど、フィル先生は人間で、簡単なことですぐに死んじゃうから危険だ。
だから教えてあげたい。
でも先生は、こんな私の信憑性のない言葉を信じてくれるかな。
「……レア様?」
「あの、ね……今から変なこと、言うかも」
これは吸血鬼だから分かったこと。
言ったら不思議がられるかもしれない。それでも大好きなフィル先生を助けられるなら、今だけは信じてほしいと思う。
「さっき、誰かが死んだよ。……多分、パーティー会場から」
フィル先生の顔つきが変わった。
穏やかだった表情から笑顔がなくなって、すごく真剣な顔になった。
「それは本当ですか」
「……うん。嫌な魔力がしたの。それに怖い音も聞こえる。……今だけ、信じてほしい」
ちょっとだけ嘘をついた。
流石に「血の匂いがした」なんて言えない。それを言っちゃったら「私は吸血鬼です」って正体を明かしているのと同じだから。
「……分かりました。レア様、他に何か判明していることはありますか?」
「…………信じてくれるの?」
「レア様が『信じて』と仰ったのでしょう? ならば私は、私の心に従います。レア様を信じます」
フィル先生の強い言葉。
それは絶対に揺らがない意志を感じた。
「…………っ」
先生の膝の上で身じろぎする。
今はこうしている場合じゃないって分かっているけれど、嬉しいのと恥ずかしいのが一緒にやってきて、先生と顔を合わせられなくなっちゃった。
でも、教えられることは全部教えなきゃ。
嫌な気配はすぐこっちにもやってくる。手遅れになってからだと遅いから。
「…………えっとね。すごく沢山の人が死んでる。嫌な気配がいっぱいある。もう助けに行っても遅い、かも」
最後のことは、言うべきか迷った。
会場には王様達、フィル先生の家族もいる。その人達がもう死んでいるかもしれないって、私は言ったのと同じなんだ。
「──っ!」
強大な魔力を感じて、私はパーティー会場に振り向いた。
そこは光っていた。強い魔力が可視化されて、光になっているんだ。
「ハヤト」
「え?」
「ハヤトの反応が、今すごく強くなった」
すごく神聖で、すっごく嫌な感じ。
私が『嫌』だと感じるってことは、人間にとっては『良い』ということ。
それは多分、勇者の力だ。
でも、ミカのでもユウナのでもない。それなら残りはハヤトだけ。
「まさか……勇者の力に目覚めたのでしょうか?」
「…………ん、多分、そうだと思う」
「勇者でも本気を出さなければならない相手……少し嫌な予感がします。レア様、すぐにこの場から逃げましょう」
「……助けに、行かないの?」
「行きたいのは山々です。お父様やお母様、妹の安否を心配しない家族などおりません。──しかし、緊急時の際は他者よりも我が身です。まずは避難を最優先に考えましょう。レア様のお体に何かあってはいけませんから」
「………………」
「……レア様?」
「その言葉、ちょっとだけ……嫌」
だって、フィル先生は「自分の身を最優先に考える」とか言っておいて、フィル先生自身のことを何も考えてない。
私だけを逃がすことができればそれでいい……そう考えてるみたいで嫌だ。
「……申し訳ありません。しかし、どちらか一方だけが逃げられる状況になった場合、優先されるべきはレア様です」
「私が、勇者だから?」
「そうです。貴女は勇者。この世界になくてはならない存在です。それに対して私は一国の王女。替えなどいくらでもあります」
『主、もし我らが危機に瀕しても、助けには来ないでくれ』
不意に、クロから言われた言葉を思い出した。
あれは私を思っての言葉だった。私だけは替えがきかなくて、他の魔物ならまだ替えがきく。だから私だけは絶対に危険なことをしないで、って言われたんだ。
それと同じだ。
フィル先生も、クロと同じことを思っているんだ。
「やだ」
私は一度、それを受け入れたことですっごく後悔した。
だから二度とそれは聞かないって決めたの。
「レア様……」
「やだ。ぜっっったいに、いやだ」
嫌だったら、嫌だ。
わがままでもいい。子供だと思われても構わない。
今度こそ、私は後悔しない選択をしたい。
「逃げるの。一緒に」
「ですが、もしもの時は……」
「一緒に逃げてくれないと私、フィル先生のこと──嫌いになってやるもん」
フィル先生はびっくりした顔になった。
「…………それは勘弁願いたいですね」
「ん、嫌なら一緒に行こ」
手を伸ばす。
先生はしっかりと、それを掴み返してくれた。
クレア様のイヤイヤ期、到来。
あまりの可愛さに作者は死にました。※読者も道連れです※