理不尽な愛憎 3
翌日、俺はなりふり構わず図書館で件の事件の捜査をしたいとは思ったが、さすがに学生として、そんな勝手はなかなかできない。
――いや、もしかしたらあの先輩であればバックナンバーを漁っているかもしれない。そんな突拍子もないような発想が出てきて少し面白かった。
俺は、昨日会ったばかりの先輩のことをどれだけ決めつけているのか。今回だって決めつけでドツボにはまったように考えが進まなくなったのは俺じゃないか。
特別何かが変わったわけではないんだろうけれど、歩く道がどこか心地良いくらいに広く美しく見えてくる。空はよく晴れた青空で、学校の上に浮かぶ雲はなんとなくクリームパンのよう。小学生と思わしき子供たちの笑い声や電線の雀の鳴き声が聞こえてくる。たぶんそんなことはないんだろうけれど、一つの大きすぎる壁を越えたことでどこか心に余裕が生まれたんじゃないだろうか。
どうにかする術を知った。次にやるべきこともわかっている。そこに不安はないはずなのに、このことについて考えていくにつれてどこかに大きな落とし穴があるんじゃないかって不安もまた立ち込めてくる。
遠くに見えてきた学校。同じように通学路を迷うことなく歩く生徒たち。このまま次の角を曲がれば校門まではまっすぐ進むだけでいい。そんなわかりきった道筋に疑問を持つことなんてないし、同じように歩く人々に対しての不信感も何もないのに。
いつしか、俺の視界はいつものようにアスファルトの地面と、わずか十数メートル先までの光景、そして耳から聞こえるエンジン音や誰かの会話する声だけが聞こえてきていた。
何となく不安に思っていた呪術師の称号は学校で過ごしていても聞こえてくることはなく、誰かに何かを噂されているようなこともないように感じる。あの時の先輩の話は真実だと思うが、学校中でうわさされるほどではないようだ。少なくとも、本人の近くで話してしまうような間抜けや図太い奴はいないようである。
それでも今入院中という彼女の話はよく聞こえてきた。
松下砂絵里、本当に彼女がいろいろな意味で多くの人に愛されていたんだということがよくわかる。それが純粋な好意であれ、噂好きが噂するための都合のいい媒体としてでも、何かと逆張りがしたい青年が主張する題材としても、彼女という評価されるべき点がある有名人は好ましいものだったんだろう。おかげで苦労しないでも情報が勝手に聞こえてくる。
曰く、怪我そのものは大したことはない。
曰く、○○のお守りを持っていて助かった。
曰く、質の悪いストーカー被害にあっているらしい。
曰く、痴情のもつれが原因。
曰く、曰く、曰く……。
なんとも本当の部分が見えてこないのにどことなくそれらしく見えてくるものが多いのだから恐ろしい。きっと俺がここで『彼女は悪霊に人違いで呪われてしまったんだ』といったところで何の解決にもならないんだろう。むしろ面白い噂の一つとして消費されるに違いない。なんだ人違いとは。こんな理不尽を感情で飲み込めというのは無理がある。理屈ではそもそも悪霊なんて認められない。
あの虚無僧は言った。強い思いがひかれあい、形となると。そしてさらに言った。それを理解することが、さらにはっきりとした形を与えると。形があるとどういいのかはわからない。それでもそれが必要なのかもしれないというのはなんとなくわかった。
だが、思いの力が優先権を得るだのなんだのというのはなんとなく理解が及ばない。精神論的な部分と宗教とが結びつくからこその妙な納得感こそあるが、あの虚無僧の発言がどこかの宗教的な背景を持っていたようにはどうしても思えない。あまりにも適当が過ぎる。そもそも感情なんてものは今時化学反応の類と解明されてもおかしくはないものだ。どこかでは脳のほうが自分の意思よりも先に反応したなんて記事すら見覚えがある。自意識なんてものはその程度の不安定な場所にすでに落ちてきてしまっているのだ。
とはいえ、事実としてこの科学の時代にという思いこそあれど、世の中感情で動く人間は星の数ほどいる。そして、信じたいことを信じている人もまた同様だ。即ち、それがあまりにばかげたことであれ、気に入らない人間がいればそいつのせいにしたくもなるし、理屈が通っていなかったとしても、それをあたかも絶対の真実であるかのように錯覚する。
そうした信仰は俺にもあるだろう。俺もまた、事実を確認すらしていないのにもかかわらず、彼女を害したのはただの偶然や病気の類なんかではなく、あの悪霊によるものであってほしいと願い、そしてそれを信じている。
さて、もしも信仰に、感情に力があるというのであれば、俺のこの思い込みもまた、あの悪霊に力を与えてしまうのであろうか?
そんな思いをよそに時間は当たり前のように流れていき、俺は一も二もなく教室を飛び出した。
八坂神社に行くようにとは言われたが、何よりも先にまずは件の悪霊の正体を見極めなければならない。それはあのうさん臭い虚無僧の話がなくてもやるべきことだし、俺自身かなり気になってきていた。
さっさと片づけを済ませ、荷物を鞄に詰め込み教室を出ると、見覚えのない…恰好的に一つ上の先輩と思わしき…男子生徒がそこにはいた。
俺はぶつかりそうではあったが、よけて前に進もうとすると、その先輩は俺に声をかけてきた。
「すまない、犬飼君を呼んでくれるか?」
「えっと、俺がその犬飼ですけど……」
そう答えると、その先輩はどこか表情が堅くなる。
見ればよく整った顔立ちの、端的に言うならイケメンだ。比較されそうなので並んでいたくない。というのは置いておくにしても唐突に表情が硬くなれば身構えたくもなる。
「君が…少し話をしたいんだけれど、時間はあるか?」
「これから図書館で調べ物をするつもりというくらいですね」
閉館時間は5時、今は3時過ぎ、移動時間含めて1時間程度しかない。要するに時間はない。
「それなら手伝おう。そのあとで話をさせてくれないか」
「かまいませんけど……いったいどのようなご用件で?」
そもそも俺はこの先輩の名前すらしない。話といわれても困る一方だ。
ようやく俺が単純に困惑していることに気づいたのか、先輩は俺に移動を促しながら話をつづけた。
「俺は松下幸助。砂絵里の兄といったほうがいいか?」
俺はようやくというべきか、少し早かったというべきか、彼女に近しい人間とのコンタクトを取れたようである。
「いやぁ、予想はしていたけれどもう捕まえたのか。きっと犬飼君ならすぐにでも学校を飛び出すと思ったけれど、それを捕まえるなんて……さすがお兄ちゃん。かわいい妹のためになら多少のフライングは辞さなかったようだね」
図書館にて先輩は待ち構えるかのようにしていた。いや、おそらくは待ち構えていたのだ。すでに傍らには一部の新聞が置いてある。一部だけ借りてきたとも思えないのであれが目的の新聞なんだろう。仕事が速いのか、それとも始めたのが早いのかだけは気にしないでおく。
「皆月、悪いがお前の軽口に付き合っている暇はない。俺は彼の調べ物を手伝って、話をしなければならん」
「それなら心配無用だよ。むしろ私の軽口に付き合ったほうがいい。何しろ彼の目的のものは私がすでに借りているからね」
そういって傍らの新聞に目をやる。そのままこちらをもう一度見た皆月先輩は、それはもう最高の笑顔と評されるべきものを浮かべていた。具体的に言うといやな予感がする類のもの。俺が対象じゃなさそうでよかった。
同じ感想を抱き、同じ予想をしたらしい松下先輩はそれはもうわかりやすく身構えていた。
「さて、ちょっとした予想をしたんだが……松下幸助君。君のお母さんの名前なんだけれどね。たぶん『石村雪乃』というんじゃないかな? 漢字はこれ」
そういって新聞の一部を指さす。おそらくは俺の探していた例の売春事件の記事なのだろう。確かに相手の名前としてその名前が出ている。個人情報保護とかどうなんだろうか?
そのまま先輩は新聞を机の上においた。俺はそのまま記事を読み続ける。新しいと言えるような情報はほとんどない。『石村雪乃』の名前、そして加害者として出ている『中山伸晃』。しいて言うならばここでは犯罪として取り上げられたわけではなく、一種の社会問題としての記事のようだが、どことなく悪意のある書き方で犯罪行為であるかのように書かれている。
一通り読んだので隣の先輩をちらりと見てみたが、本当に母親の名前だったからか、二度三度と読み直しているようである。
「細かなことはこれだけじゃよくわからないけどね。問題の相手の名前はこれで分かったんじゃないかな? あとは彼女が特別狙われた訳も」
「おい皆月、これはどういうことなんだ?」
「質問の意図がわからないね」
「なんでお前が俺の母親の事件なんて調べてんだって聞いてんだよ!」
今にもつかみかかりそうなほどの剣幕で松下先輩は皆月先輩に詰め寄った。
人気の少ない図書館とはいえ、その声は大きく響き、人の声がしてくる。
「君が落ち着いて話をするっていうならしよう。この記事のコピーは取ったし、周りの人の迷惑にならないためにもいったん外に出ようか」
この状況でも当たり前のように話を続ける皆月先輩がどこか怖いと思った。
とはいえ、松下先輩が大人だったからというべきなんだろうか、そのままカフェに向かうことになったことには少し驚いた。松下先輩がちょっとでも我慢が出来なければあの場で暴力沙汰になってもおかしくない程度には皆月先輩は松下先輩を挑発しているからだ。もちろんあの会話を聞く限り面識はあったようだが……それでも本当によくやる。
カフェは昨日皆月先輩に連れてこられた場所だった。当たり前のように4人掛けのテーブル席について注文を済ませると、皆月先輩はこれまでのことを俺が説明したときよりもずっとわかりやすく説明している。
いや、内容が信じられない内容だからこそ、ここまで分かりやすすぎる説明があまりにも胡散臭いものへと変えていっているように感じる。
「……」
すべてを聞き終えた松下先輩は落ち着いて内容を見直しているようだった。図書館で声を荒げたときとはまるで違う印象を受けたが、何よりも一番驚いたのはここまで来てなお、先輩がふざけたことを言うなと一笑に付さなかったかったことだ。
元々は俺が言い出したことだが、こうも真剣に検討されると驚きのほうが大きくなる。
「――筋は通るな」
「え」
しかもそこで納得されて言葉が漏れ出たことをだれも責めないでほしい。誰がこんなふざけたオカルト話を信じるというのか。
「少し驚いたよ。君なら場所を考えずに『ふざけたこと言って煙に巻こうとしてんじゃねぇ!』とか言ってくると思ったんだけどね」
「今朝砂絵里が目を覚ましてな。『突然目の前に黒い靄みたいな塊が現れて、男の姿になったと思うとクソビッチは今すぐ死ねとか何とか言われて倒れた』とかなんとか言いだしてな。しかも、『少し前に呪われているだとかクラスメイトに言われたから何か知ってるかもしれない』って言われてんだよ」
そういってこっちを見る。最初に俺に対して敵意というかそういったものがなかったのはそういう理由だったのかもしれない。それでも話を聞くしかないから意地でも話を聞こうとしたと……むしろ良く待ってくれたな。
「しかし、そうなるとなんだ? どっか神社にでも行ってお祓いしてもらえばいいのか?」
「そういうことじゃないかな? 『私が知る限りでは』という注釈はつくけどね」
「あ、俺、あの後帰る途中で不審者…というか虚無僧に会って、八坂神社で相談してくるといいって言われましたよ」
お酒のことは言わないでもいいだろう。出会った場所とかも。すっごい俺は気になるけどね。
「八坂神社か、まさか総本社に相談に行けという意味ではないだろうけど……この町にもいくつか宗教的な施設がある中で虚無僧に結構遠い八坂神社に行けと言われたのか……」
「『この街の北西の』ってついてたはずなので、まず間違いなくあそこだと思いますよ」
とはいえ、あそこにはできれば行きたくない。理由はわかりやすいのだが、単純にいくのが大変なのだ。
妙に山の高い所に建てられてしまっており、本殿へはかなりの段数を上らなければならない。さすがに何十分もかかるわけではないが、普段から運動をあまりしない身としては大きい問題だ。
具体的にどれくらい大変かというと、足腰を鍛えると言っていた中学時代の友人が三日目でギブアップしていた。初詣に来る人がほとんどいない。祭りがあるが、ほぼ麓だけで完結するために山中でいたすカップルの登場する。その対策に人を増やそうとしたら、増やした人がサボって結局意味がなかったなどだ。単純に傾斜が辛いのだあそこは。むしろいたすためだけにあの山に登るカップルに脱帽する。
「流れを無視していいなら、俺は本人のうさん臭さも加味して無視してもいいかなって思いはありますね」
「確かに、横山さんもほとんどこれ以上のやるべきことは知らなかったようだしね。その怪しい人物の話をうのみにする必要はないだろう」
皆月先輩もいったん同意してくれる。
短い付きたいとは言え、この先輩がこのまま同意するとは思いにくい。そして予想出来たことだが松下先輩は反論を口にした。
「できることをしないで何かあったらどうする! それにこういったことに詳しそうな相手じゃないか。たとえ助言してくれた人がどれだけうさん臭い人だったとしても、自分の手に負えないことなら可能な限り手を尽くすべきだ」
そこでいったん区切り、松下先輩は視線を皆月先輩へと向けて続ける。
「第一、うさん臭いから信じられないというのなら、こいつの言う言葉なんて検討する必要すら存在しないぞ」
「ぷっ」
思わずふいてしまった。いや、昨日会ったばかりだが、あまりにもそのセリフには説得力がありすぎる。もはや何の論証もいらない。なるほど納得できる。試すべきかどうかは別にして、うさん臭いからと無視するのは早計というものだった。
「――君ならたぶん反論してくるだろうと思っていたし、反論させてから私の意見を続けようと思っていたけどね?」
それ以上皆月先輩は何も言うつもりはなさそうだったが、続けるのなら『君まで納得するのかい?』とかあたりだろうか。じっとこちらを見ないでほしい。
「まぁいいや。じゃあさっそく向かおう。あまり遅くなると犬飼君が怖がっちゃうからね」
「八坂神社なら家がそれなりに近いんで大丈夫ですよ。今から向かえばそんなに遅くにはならないと思いますし」
「なんだ。幽霊が怖いのか。いや、霊感が強いんだったな。見えると見えないではそんなに持つ感想も違うものなのか」
一つ納得したらしく、松下先輩がうなづく。皆月先輩は行動が決まったからかいつの間にか店から出ている。――ってちょっと待て。
「ちょ、先輩。支払いは!?」
「大丈夫さ、そこの話を聞きたがっていた人が快く支払ってくれるに違いないからね」
そういって振り返ることすらなく出ていく。松下先輩は小さく「そんなことになるとは思ってた」とつぶやくと当たり前のように伝票を持った。
「あぁ、俺が払っておくから先行ってていいぞ」
「え、自分の分くらいなら払いますよ」
「いいんだよ。俺が話を聞きたいって言ったのは事実だし、妹を助けるための手がかりも手に入ったしな。コーヒー代くらいなら安いもんだ」
松下先輩は外見通りのイケメンだった。それでもやっぱりおごられるというのはどこか心苦しいものがあって、何度か振り返って松下先輩を待つような形になったのはきっと俺の心臓に毛が生えていたり、面の皮が分厚くなかったからなのかもしれない。