第14羽 MD ⑥ラストステージ(後編) -1-
四月十六日。日本。
何の変哲もない狭い会議室――窓際にテレビがあって、長机が二列かける四。窓はブラインドが閉まっている――にスーツ姿の男が二人いた。
一人は宇野宮大介。適当な茶髪。くたびれた表情。いつもの黒スーツに、ストライプのネクタイ。愛用のトレンチコートはカバンと一緒に、窓側の机に置いてある。置き方は雑だった。
もう一人の男は、年齢は六十代だろうか。
整えられた白髪の多い髪。やせ型で中背。定年が近いサラリーマンのような風貌で、口ひげを生やしている。ネクタイは緑地に紺色のストライプ。
「そう言うわけで。君が例の組織の責任者となった。正確には副室長だ。よろしく頼む」
一見して、頼りないという印象を与える男なのだが。印象と裏腹に口調はしっかりしている。
「はあ。それでこれが……」
宇野宮は分厚い封筒を四封受け取った。重さでずしりと肩が沈む。
「ああ。資料と、手帳に、任命状とパスポートと、とりあえずの腕章だ。無くすなよ。上も君達の働きにはそれなりに期待している。まあ……曲者ばかりだが、頑張ってくれ」
それで上司はまた「頑張れよ」と言って、宇野宮の肩を軽く叩いて去って行った。
「はぁ」
宇野宮は封筒を持ったまま溜息を付いた。
上司と言っても一応あの人の下にいる、という体なのでこういう時くらいしか会わない。
上司と入れ違いで扉がノックされた。
「入れ」
「失礼しまっす」
入って来たのは、黒髪に縁の赤い眼鏡をかけた宇野宮の部下――長尾だった。
「どうでした?」
「……」
宇野宮は分厚い封筒をまとめて長尾に渡した。
「うわ重っ。あ、戻って来たんですね、これ。せっかくコピー取ったのに。あっと、それより手帳、手帳見たいんですけど!?」
「この中だ」
宇野宮が言うと長尾は封筒を置いて、もう一つの封筒を開く。
中から出てきたのは、真新しい警察手帳が五冊と緑色のパスポートが五冊。
それに『警視庁』と分かりやすく書かれた腕章だった。
「おおっ!すげ!緑色!俺のは?」
長尾はパスポート表紙をぱらぱらとめくり、自分の顔写真をみつけた。
手帳も開き自分の物をみつけ、ついでに宇野宮と同僚の物をそれぞれよけた。
「いいか、絶対に無くすなよ。命より大事にしろ」
宇野宮は言った。
「勿論。わかってます。はいこれ宇野宮さんのです」
「ああ」
宇野宮は自分の新しい手帳とパスポートを受け取り、スーツの内ポケットに収めた。
「他はお前が管理しといてくれ。あと花菱にも渡しとけ」
「了解です」
長尾は封筒に手帳とパスポートを入れ直した。
机には『警視庁』と書かれた腕章が残っている。
「この嘘くさい腕章は?どうします?」
長尾が指をさす。
「しまっとけ。が、当面は手帳より役に立つ。忘れるなよ」
「了解です。それで――向こうさんと話付きましたか?」
「ああ。予定通り三人で現地に行く」
宇野宮が言うと、長尾が目を丸くした。
「えっ……まじで許可が取れたんですか?凄いですね」
宇野宮は頷いた。
「ああ。米政府が取引に応じた。で結果オーライ、初出動だ。後は無事に二人を連れて帰るだけだ」
「はぁあ。了解です。できたての『異能犯罪対策課』の初仕事が、いきなり海外ですか。聞いてましたけど、いざそうなると吃驚しますね。あ、この辺のやつ、また皆に読ませときます。宇野宮さんは――もう読みましたよね?」
長尾が封筒を見て言った。
「ああ。もういい」
宇野宮が適当に返す。
この封筒の中身――これからスカウトする予定の人物データは、既に飽きるほど読んで暗記している。というより、この資料をまとめたのが宇野宮と長尾なのだ。単に提出して戻って来た格好になる。おかげで宇野宮は眠かった。長尾はさっきまで寝ていたはずだ。
「そうだ。これから宇野宮さんの事、ボスって呼んで良いんですか?」
「いや。……副ボスだ」
「副ボス。ちょっとださいですね」
「正式には国際テロリズム対策課実働部隊、異能犯罪対策課・管理室、副室長――だとよ。めんどくせぇ」
思わず本音が漏れた。
「え?長くていいじゃないですか。略して異対課とか?あ、横文字の方がいいすかね。悪と戦う!正義の組織って感じで。まあどこに敵がいるのか分かりませんが――で、どこにいるんすかね?敵?」
「はぁ。知るか。もう行け」「はい」
宇野宮は手を振ると、長尾は資料を持って出て行った。
宇野宮はやれやれと椅子に座った。体が一気に重くなる。
ここ数日、お偉方にはさまれていた疲れがどっと出たのだ。
これでようやく、水宮家当主の念願が叶った。
宇野宮にとっては正直どうでも良いのだが、……うるさいので早めに叶えてやりたかったのだ。
宇野宮が十歳の時、いきなり本家当主から手紙が届いた。
その日から全てが変わった。宇野宮は警官になる為の猛勉強をさせられた。
宇野宮は当主の本当の目的を理解していた。しかし、理解していることが指名された理由ではない。
……どこにも属さず、野心も持たず。何を考える事も、何をする事もない。
そういう人間が欲しかった。それだけだ。
『やればできるように、なればなるように』しておくから任せた。というのが当主の言だ。
確かに主な仕事が隠蔽と規則無視と有り余る権力を振りかざす事では、下手に正義感のある人間には務まらない。無駄な野心があってもいけない。
だから自分は丁度良かったのだ。
テレビを付けると、ちょうどニュースが流れていた。
「多様化する国際社会の大規模なテロ行為に対応する為、内閣は警察庁警備局国際テロリズム対策課に初の実働部隊を設置しました。活動の内容は情報収集や諜報活動、海外でテロ犯罪に巻き込まれた邦人の救出など、多岐に渡るとみられます。次のニュースです。かわいい赤ちゃんが、ハイハイしていたと思ったら?」
ニュースキャスターが読み上げる。次のニュースは微笑ましい動画だ。
宇野宮はおお、やってた、と感心した。
このニュースは今日限りで、見られたのはラッキーだ。
明日の新聞の国際蘭に少し載る。以後は雑誌のすっぱ抜きも無し。それであっと言う間に忘れられる事だろう。
――何かがあって、思い出されるまでは。
「これからどうなるんだか」
彼はぼやいて、ひとまず寝る事にした。
■ ■ ■
四月二十日。
ピーリー島の研究施設。
プロジェクトの研究員、エイムズは主任のエリザベスと共にここで速水朔の能力について検証していた。
モニターの向こうで、速水は主任の指示に従い、黙々と踊る。
今、速水はブレイクダンスをしている。
エイムズは気味の悪い踊りだ。と思った。
音楽が途切れた。
『すこし休憩しましょう。次は十分後』
主任の声が聞こえる。
「――」
速水はカメラをにらんだ。
ペットボトルを拾い、部屋の端、スポーツドリンクを飲み干した。
床に座る。ボトルを持ったまま。速水は左斜め下を向いていた。
■ ■ ■
速水はペットボトルを置き、上を向いた。
――白い部屋はすっかりおなじみだが、この部屋の床はダンスのレッスン室のようになっている。
鍵のかかったドアがあって、片側は鏡。天井と壁には幾つかのカメラ。この部屋には大きめのモニターもあり、録画された自分の動きを確認することもできる。
速水は、ベス――主任に言われたことを思い出した。
『残念だけど、ノアは解放されないわ。六月一日までは』
主任が言って、速水は眉を潜めた。
『?…六月一日?』
『ええ。その日、この島でちょっとしたイベントが開催されるの。それが終わったら貴方とノアは自由よ』
『そうなのか?』
速水は言った。あっさりしすぎて信じられない。
『将来は知らないけれど、ひとまず私もジョーカーも貴方達に用は無いの。だから自由に暮らして良いわ。お疲れ様』
『……』
用は無い?お前は無くても俺はある、と思ったが、速水は黙っておく事にした。
黙っているとベスが苦笑した。
『ねえ。ところでハヤミ、あなた、=============ができるって本当?』
『え?』
いきなり言われ、速水は瞬きをした。
主任が言ったのは、速水がジャックに目を付けられるきっかけになったブレイクダンスの技だ。
『私は見たことは無いけど。今もできそう?』
――隼人に拾われて来たジャックは、速水がダンスを見てくれ、と言うと「じゃあ、いちばん凄い持ち技でも見せてくれ」と言った。
速水は一局ちゃんと踊るつもりだったのに、と不満に思いながらとりあえずやった。
結果は予想以上に受けて、速水はホッとした。
…あれで大した事無いと言われたらさすがにショックだっただろう。
『何で知ってるんだ?』
速水は言った。
速水はその技をベスにもレオンにも見せた覚えがないし、できると言った記憶もない。
『さっきノアに聞いたの。海外遠征の時に貴方が見せてくれたって』
主任はこの施設のどこかにいるノアとも話しているらしい。
案外、隣の部屋とかだろうか?
『ああ』
速水は思い出した。
そう言えば、少し前にノアの前でやって見せた。
――速水のリピートが収まったあと、復帰後の海外遠征の時の事だ。
ベスたちクイーン一行は別の島にいて、ちょうど側にいなかった。
ベースキャンプで、朝の自主練の時にその話になって……できると言ったら、見せて!と言われたので見せた。
今もできるかと言われたら、おそらくできる。
ジャックに「頻発すると、体の負担が大きいからあまりやるな」と言われ、確かにその通りなので封印していたのだが。たまになら問題は無い。
『ちゃんとアップ取ればできると思う。けどリハビリがいるかもしれない。――それがどうかしたのか?』
速水は言った。こんな監禁状態では、ろくに練習もできない。
『実は、六月一日のイベントで、貴方に踊って欲しいんだけど……?今回はブレイクダンスのバトルよ。イベントっていうのはそのダンスとちょっとした晩餐会みたいなものね。もちろんイベントへの参加が解放の条件だけど、準備は間に合うかしら?』
彼女はそう言ってこちらを伺う。
日付は不明だが、今はまだ四月頃のはずだ。
『六月か。それなら……』
速水は言った。――それならリハビリを含めても余裕だろう。
主任は練習場所も用意するし、おかしな実験はもうないと言った。
速水としてはありがたい。
その間、監視付きでこの島を自由に見て回っても良い、とも言った。
速水は瞬きをした。
『そう言えば、ここってどこだ?』
『ここはカナダのピーリーアイランドよ』
速水は目を丸くした。
『!――わかった。それなら出てもいい』
ピーリー島は渡り鳥で有名な島だ。
それはぜひ外に出たい。
『良かったわ。じゃあその時、ぜひ、その技をラストバトルで使って欲しいの』
主任が顔の横で手を合わせ、嬉しそうに言った。
『……何でだ?』
速水は首を傾げた。
別にその技に頼らなくてもバトルはできる。なぜ、わざわざそうしなければならないのか。
速水としても、できたできた、じゃあ他の技をやるか、くらいで特にバトルで使う気はなかった。
バトルというのはその時のフィーリングが大事だ。
自分が後攻なら、相手のダンスを見てダンスを組み立てる。その場のノリで。
自分が先功なら、とりあえず盛り上がるようにカッコ良く踊る。
もちろん今日はこれをやってやろう、という場合もあるのだが、それにしても、この技を使って欲しいというのは、一体なぜだ?しかもラストバトル限定。
――まさか……?
『八百長なら嫌だ』
速水はそっぽを向いた。
だいたい、出せば皆が驚いて勝てる技なんて、ショーケースか技自慢くらいでしか使い道がない。
別にバトルで使っても良いけど、その技だけでもてはやされても困るし……。
そう思って目線を下げ、ベッドのシーツを見た速水は、おかしな事に気が付いた。
前にあった機材がなくなっているだけではない。妙に清潔というかシーツ自体が新しくなっていて糊の匂いがする。
ベッドメイクでもしたのかと思ったが、先程朝食を食べた所だ。
その前は寝ていて……速水はずっとこの部屋にいた。
百歩譲って機材は寝ている間に運んだのかもしれないが。まさか速水が寝ている最中にシーツを変えたりしないだろう。
それとも少し体調が良くなったから、シーツの匂いに気づいたのだろうか?
主任がクスクスと笑った。
『いいえ?八百長じゃないわ。真面目なバトルよ。けど、あなたのスポンサーがどうしても、あの技を見たいって言ってるのよ』
スポンサー、という言葉に速水は反応した。顔を上げて主任を見る。
彼女は腕を組んでいる。
『そのパーティーに、スポンサーが来るのか?』
『ええ。もちろん来るわ。バトルの後で貴方に自己紹介がしたい、って言ってきたの。スポンサーには沢山お世話になったでしょう?恩返しのつもりで、どうかしら?』
あれだけなにも言ってこなかったスポンサーが……ようやく、姿を見せる?
――主任に言われて、速水は思わず口を開けた。
速水の認識では、スポンサー=サラ達、つまり理由はよく分からないが自分を助けようとしている者達だ。彼等――、サラがいるし彼女等と言うべきか?
彼女等にどういう狙いがあるにせよ、とっとと話して自由になりたい。
もしできるなら、恩返しもしたい。相手がまともだった場合に限るが。
『……わかった。そういう事なら』
速水は頷いた。
その後に、少し考えた。
今は亡きレオンに注意された事を思い出す。
「あまり人を信用するな」とか、「まず喰ってみる精神も程々に」とか何とか。
確かにそれも一理ある。
『待て。一つ条件がある。その大会が終わったら、俺とノアに一生関わるな。後から用があるとか、もう絶対にやめてくれ。それだったらやってやる』
絶対、の部分を強調して速水は言った。
『それは無理ね』
速水の提案は却下された。
『……』
速水はぎろりと主任を睨んだ。
『じゃあダンスの後に、ジョーカー……いや。ルークに会わせてくれるか?何も聞かずにぶっ殺す……訳じゃないけど、どうしてジャックを殺したのか、それは聞きたい。でなきゃ、その技は使わない。あとジョーカーは十五発殴る』
『いいわ。けど殴るのは五発までね』
主任が微笑み――取引は成立した。
■ ■ ■
練習用の部屋で、速水は立ち上がった。
ちなみに五発だが、速水は素手だとは言っていない。
コンディションはまあまあ。
今はたまにスズメが鳴くくらい。カラスは大人しくしている……。
「~~」
速水には、とても嬉しいことがあった。
CDプレイヤーのスイッチを入れて、曲をかける。
この曲は歌詞のないインスト曲だ。
「うわっ懐かし」
速水は言った。
昔聞いた、ブレイクビーツ。その音が、戻って来た。
しばらく踊って色々試して、速水は舌打ちした。
曲が気になって微妙に上手く踊れない。
そこで、一旦踊りをやめて。いくつものフリーズをつなげ、曲にあわせて延々と音ハメを続けることにした。
エアーチェアーからラビット、エルボーラビット、肘を上げたりを繰り返す。そのうち音にあわせて、リズミカルに動きを変える。
タイミングが合っていない?いや、たぶん普通にできている。
前は縦系は苦手だったが、一応できる。が――正しい曲が聞こえるせいで、かえって確信が持てない。いや、音ハメはこれであっているはずだ。
とにかく慣れるしかない。十分、二曲分やってみて、だいたい感じを取り戻せてきた。
次はセットムーブですりあわせていく。
インディアンステップ、簡単なフットワークの後、両手スタチューを少しやって、シャツを手に引っかけチェアーグライドに持って行って左手に変えてフリーズはジョーダン。
他にもアップ用に七、八通り試す。
それが終わったら、とにかく曲に合わせて。少しずつ技の難易度を上げていく。
好きなようにアレンジを加えて、最後はオリジナルのフリーズでまとめる。
そうするうちに音に慣れて来て、音ハメのしやすさ、カウントの取りやすさにテンションが上がってきた。そこで適当にジャケットで選び、また別の曲に変えてみた。
それは速水が聞いた事の無い曲だった――わくわくする。
そして思い出した。
ああ。そうだった。ブレイクビーツは格好いいんだ。
テンポの速い曲もある。歌詞のある曲。覚えている曲もある。
リミックスも沢山あって、今はまたそれも理解できる。
格好いい曲を聴けばテンションは上がる。
速水はまた踊り始めた。リズムに乗るのは……楽しい!
そこまで思い――急に背筋が寒くなった。
――これで、俺は今までと同じように、踊れるのか?
ショーケースはともかく、バトルができるのか?
いや、踊れるはずだ。絶対にできる。心配はいらない。
速水は停止ボタンを押した。
CDの山から、また好きだった曲を探し当て、久しぶりに聞いてみる。
「……っ」
これが欲しかったと涙ぐむ。
「ベス!!」
速水は声を上げた。
『――何かしら?』
「イヤホンが欲しい。用意できるか?」
『ええ。少し待たせるけど、できるわ』
「じゃあ頼む。あと適当な、小さい音楽プレイヤーも頼む。このくらいの」
速水は手で大きさを示した。
なるべく昔の環境を揃え、意地で慣れる作戦だ。
『わかったわ。他にいるものはある?』
速水は医療用テープ、グローブやヘルメット、シューズなど、遠慮なく伝えた。
「そうだ。……いや。無理か?」
速水は呟いた。
『何かしら?』
「バトルの勘を取り戻したい。誰か適当な、ノアでもいいけど――練習相手が欲しい。この辺りでも、他でも丁度良いチームとかいないか?」
速水は言ってみた。
『ああ。そうね……じゃあ、適当な相手を用意しましょうか。カナダの有力チームを呼んでくるわ』
主任が言った。
「ノアは?いないのか?」
『ノアは今、忙しいの。でも次のパーティーにはノアも参加するわ』
忙しい……。
ノアも何かされているのだろうか。
『ねえハヤミ、貴方なら、今ノアがどういう状況か分かってるんじゃないかしら?』
ベスが言った。
「さあ――実験か、投薬でもしてるのか?それとも元気か?」
『さあどうかしら?』
ベスはクスクス笑いはぐらかした。
「そうだ。地元の人はちゃんと説明して連れて来てくれ。攫うのは無しで」
速水は言った。ネットワークならやりかねない。
『善処するわ』
ベスが了承した。
「今から外に出られるか?」
『いいえ。明日の……午前中でどうかしら?』
「わかった」
適当に言って、速水は靴紐を結び直した。
速水は結んだ後、そのままの姿勢で動きを止めた。
この『主任』は、こうして話していても、全く違和感がない。
『どうしたの?』
主任が尋ねてくる。
「君は……本当にベスなのか?」
速水は立ち上がって、天井のカメラを見た。
シャドー云々、そういう事もあって、速水が知っているベスとは、やはり別人なのかもしれないが……。
「ノアは、君に会えてきっと喜んだと思う」
ノアは『こいつはベスじゃない!』と言って彼女を殴っていた。
決して認められないとしても。
ノアも、彼女の存在があって少し救われたのではないだろうか?いや。ノアの性格なら純粋に反発し続けるかもしれない。
だが。速水は――。
「俺は――俺の中の、誰かに会った。と思う。たぶん。気のせいかも知れないけど。俺は、それが俺なのか、別の誰かなのか、まだわからない」
速水は確かに見た。髪の長い誰かが、たぶん自分の中にいる。
幻覚かもしれない、気のせいかもしれない。
それにしてはしっかり喋った。
『あいつ』を見た速水だからこそ思う。
シャドーというのは、自分とイコールでつながる物なのではないのか?
自分の中にいて、切っても切れないような――。
それでも、あのシャドーと主人格、つまり速水は、別人格である可能性が高い。
主任は自分の力を『バイロケーション』だと言った。
能力の仔細が解らないのでただの想像だが、主任とベスの間には……何らかの繋がりがあるのではないか?
双子ではなかったようだし、主任がベスを作り出したなら尚更。
ベスは人間らしかったし、主任はベスに似すぎている。
速水が適当に思う、双子以外でありそうパターンは三つほど。
一つ目。主任自身がベスで、超能力で作った体に幽体離脱よろしく、乗り移って行動していただけ。つまり主任がそのままベスだった、というもの。
彼女が悪人だという可能性もあるが、それはそれだ。
これなら事情にもよるが、ノアはなんだそうだったんだ、とか言って受け入れる事もできる。
これは一番ラッキーなケースだ。
二つ目。あのベスは本当に実験の為だけの人格で、死ぬために生きていた。性格が似ているのは主任が自分をモデルにベスの人格を作ったから、という可能性。
これが一番最悪なパターン。この場合、速水はやることがある。
三つ目は。シャドーが二重人格で、主任がベスでないにしろ、主任の中にはまだベスの意識が残っている、というケース。
……これも意外とありそうな気がする。
今まで速水は自分の中の『あいつ』を見た事も無かったし、いるとも思っていなかった。
正直、イかれた状態で見た幻だと思うが……。二重人格、というものがあるなら、それくらいはあるかもしれない。
何にせよ、改めて考えるととんでもない能力だ。速水は、双子トリックであって欲しいとまだ思う。
主任が速水達の知るベスなら、今、こうして速水達と敵対しているのは、だだの演技と言う事になる。
『本当に彼女は速水達の知るベスで、ただ単に演技しているのではないか?』
速水はその考えを捨て切る事が出来ない。
しばらく接しても、…やはり速水にはベスと主任の差がよくわからない。
主任がベス本人か、ベスは主任のシャドーで人格が消えた訳では無いのなら……。
速水はこの件に関してはノアが折れれば良いと思う。
酷い言い方だが、そうすれば丸く収まるし、ノアは幸せだ。エリーも片親にならずに済む。
……そうであって欲しいと思う。
ノアがかつての『ベス』との差異を主任に見てしまって、どうしても無理というなら仕方無いのだが……。
……ベスはノアに本当のことを話したのだろうか?現状ではわからない。
けれど。
――速水は笑った。にこやかに。
「もし、お前がベスじゃなかったら、殺してやるから、覚悟して死ね」
速水はつまり、怒っていた。
こいつがベスを殺したのは間違い無い。ノアを傷付けた。
けど、彼女がベス本人なら容赦が出来る。
違うなら、俺はノアの為にこいつを殺す。
それだけだ。
「それまでお前を、希望を込めて……ベスって呼ぶことにする。よろしくな」
速水はさて、練習だ、と呟いた。
『そう……それも良いわね』
ベスがクスッと笑った。
真実を知っている彼女からしたら、面白い事を言っている、と思ったのだろう。
「……」
それを聞いた時、急に視界がぼやけた。
殺す……?
『?ハヤミ?』
「……いや、ちがう。それじゃ駄目だって、隼人が言ってたな。いつだっけ……」
速水はぶつぶつ呟いた。思い出そうと頑張ったが、忘れてしまって出てこない。
「隼人が……」
■ ■ ■
飛んで翌日、速水は目を覚ました。
「???」
というか、目を開けたらベッドで寝ていた。
起き上がり、首を傾げているとノック音がして、返事を待たずに扉が開いた。
「――おはよう、具合はどうかしら?」
入って来たのはベスだった。
「いや……、あれっ?」
「どうかしたの?」
「いや……、え?」
速水は自分の髪を撫でて、首筋を押さえた。
「ハヤミ。あなた昨日倒れたのよ。無理が祟ったのかも……。今日は外出の予定だったけど、具合が悪いなら、延期する?」
「いや……」
速水は少し考え、朝食を食べ、体調が良さそうなら外に出る旨を告げた。
「そう。それがいいわね。この建物の周囲五百メートル程度だけど。監視付きで自由に散策してオーケーよ。湖も見えるから、いい気分転換になるわ。ちなみに逃げようとしても、さすがに……泳ぐのは無理じゃないかしら?」
ベスが言って、速水を見て苦笑する。貴方ならやりかねない、というニュアンスだ。
さすがにそんな事はしない。
「わかった」
速水は苦笑し頷いた。
■ ■ ■
監視に付いたのは白衣の男性が一名。プロジェクトの研究者のようだ。
クリップボードとペンを持って速水の五歩後ろを付いて来る。
「どこまで行ける?」
振り返って速水は尋ねた。
「……この建物が見える範囲で、遠すぎなければ。駄目なら言う」
男はぼそぼそと言った。
「オーケー」
速水は頷き、すぅ。と外の空気を吸い込んだ。
薬臭くも、消毒臭くもない。木と土の香りだ。
「……やっぱり外はいいな」
耳を澄ますと、鳥の鳴き声が聞こえる。
今、速水は洋館の正面、小さな出入り口から出てきた。湖は建物の裏手だろう。
「裏に回れるか?湖が見たい」
「そこの道を行けば、建物の裏に出る。木があって湖畔までは行けないが……」
男がすぐ脇の小道を示した。木々が生い茂っている。
「わかった」
速水は歩き出した。
途中の木に、見知らぬ鳥が止まっていて、速水は目を輝かせた。大きさは手のひらくらいか。
「鳥だ!」
当たり前の事を言って、少し眺め、耳を澄ます。
居もしない鳥達のさえずりが聞こえる。
――良かった、変わっていない。
けれど、音楽は元に戻った。
……これは喜んで良いのだろうか?
これからどうなるんだろう、と思ったが、そのうち練習相手も来る。速水はダンスはひとまず置いて散策を楽しむ事にした。
均された道を行くと、行く手に渡り廊下があった。白色の洒落た欄干が付いてる。渡り廊下は速水が進む道に小道に対して垂直になっていて、屋根つきだ。長さは三メートルほど。床には白いタイルが貼ってある。左右の扉は堅く閉ざされている。掃除はしてあるようだ。
速水はここでコーヒーでも飲みたいと思った。
「ん?」
渡り廊下を越えて、建物の裏に出たのだが、少し先は森というか、手つかずの自然だ。
木々が生い茂っているし、謎の植物が自生している。
「湖は?」
速水は右を見た。
「あちらから見える」
左を示され、そちらを向くと、確かに湖が――?
「あそこがステージだ」
「……」
見た方向、少し先にドームがある。明らかに人工物だ。屋根の傾斜を見てもそれほど大きくはない感じだが。
速水は呆れた。というか、自然保護は……。
「あんな物作ったのか?自然公園は……?」
「ここはまだ保護区じゃない」
「……」
速水は突っ込むのをやめた。一応、湖も……まあ見えた。とりあえずドームは見なかったことにする。散策対象は右側の森だ。
先程、手つかずでどうしようもない森だと思ったが……改めて見ると、木々がうっそうとしていて中々良い感じだ。
「自然っていいな」
速水は呟き、そちらへ進んだ。
森の中には入れないので、建物の裏手に添って右へと進む。
建物のこちら側には窓がない。上を見ると、バルコニーが幾つかあった。
適当に進むと、ちょうど木の少ない場所に出た。
「ふうん」
と速水は言って、そこにあった木の、太い幹に触れる。
この木の周辺には、細い木がまばらにあって、鳥がいるのか、所々でガサガサと音がする。薄緑色の葉っぱが揺れ小鳥の姿が見えた。今度は右で音がする。速水はそちらを見た。
少し離れたとこにある同じ木で、小鳥がせっせと遊びさえずっている――。
「今日は鳥が多いな……気のせいか」
男がつぶやいた。クリップボードを持ってペンを走らせている。
頭上でガサ、と鳴って、速水はそちらを見た。
重たい音だ。
「?」
それきりだったので、また小鳥の観察をする。今度は細い木に近づこうと――。
今、背後で何かが地面に降りてきた。
「?」
この木にいた小鳥だろうか。と思って見ると。
黒くて丸いものと目が合った。
「……からす?」
速水は思わず口にした。
そこにいたのは黒いカラスだった。日本でよく見るハシボソカラス。
「へぇ。カラスって何処にでもいるんだな」
速水は少し感心した。
カラスは首を傾げて、速水を見ている。
速水は目を細めた。
逃げる様子は無い。と言いつつ逃げるんだろう、と思って少し近づいたが、カラスのパーソナルスペースに入っても動く気配は無い。
速水の経験だとこれは。
「……怪我でもしてるのか?」
速水は顎に手を当てた。怪我か、腹が減っているか。そういえば羽が逆立ち、丸々としている。これは体調が悪いサインだ。
「お前、具合でも?」
速水が尋ねると、カラスは急にしゅっとして数歩歩いた。気のせいだったらしい。
速水は木にもたれた。空を見上げる。
速水は頭の中ではカラスがいる素敵な生活について、とかそういう事を考えていた。
足元のカラスは怪我はないようだが、どうも野生味が足りない。たまにいるフレンドリーな個体だろうか。誰かの飼いガラスか、人間に恩でもあるのか。
カラスは速水から一メートルほどの場所で、羽を広げ毛繕いなどをしている。
速水は気の無いそぶりをした。
「……」
これはいけそうな気がする。いや、間合い的に絶対いける。
カラスはまさか速水が俊敏だとは思わないだろう。
速水は捕まえて持って帰ろうかな。と思ったのだが――。
死んでしまった、あのカラスの事が頭を過ぎった。
ガァ?
とカラスが鳴いた。
速水は、あのカラスにとてもよく似ている、と思った。他鳥のそら似だが。
「……」
速水は苦笑した。人に近づくほど、この島は快適なのだろう。拾うのはやめておこう。
「そろそろ戻る。じゃあ」
速水は呟いた。
カラスは首を傾げた。
それからも、じっと見られているようで、去りがたかったが速水はそこから離れた。
そよ風が心地よい。
……自由になったら、墓参りに行こう。
■ ■ ■
渡り廊下まで戻ると、ベスが待ち構えていて、コーヒーカップを渡して来た。
意外な好待遇に速水は首を傾げた。
「気分転換になったからしら?どうぞ。インスタントで悪いけど」
「ありがとう」
速水はコーヒーを受け取った。懐かしい香りに目を細める。
欄干の上にトレーと、もう二つマグカップがある。
ベスと男の分だろう。
久しぶりに飲む珈琲は速水を落ち着かせた。
ベスは速水に付き添った男にマグカップを渡した。
「エイムズ、お疲れ様。これを飲んだら休んでて良いわ。しばらくは大丈夫よ。ああ。カフェインレスだから安心して」
「ああ……」
男はエイムズ、と言うらしい。どうも疲れているように見える。エイムズはミルクと砂糖を入れた。
「人手不足なのか?」
味わいながら速水は尋ねた。
速水の珈琲にはカフェインが入っている。カフェインレスの物足りない感じがない。ベスはエイムズを気遣ったのだろう。
――食事もベスが運んで来るし、ベスとエイムズ以外の研究員の姿が見えない。
見せていない、あるいはノアに付きっきり?……それにしても静かだ。
「いいえ、皆は別の棟にいるの」
「ふうん」
速水は適当に返事をした。
「この島はどう?良い所でしょう?」
ベスが言った。
「そうだな。変な建物がなければ――。と思うけど」
速水は苦笑した。
「ああ。あれはそのうち取り壊すから大丈夫よ」
ベスも苦笑する。
「なんだ。仮設か?」
「ええ。そんなものね。珍しい鳥は見られたかしら?こちらにはあまりいないけれど」
ベスが言ったので、速水は思い出した。
「何羽か。他にも色々いた。カラスとか」
「……あら?カラスがいたの?」
「裏手にいた。明日、また行ってもいいか。でも、もういないか」
「そう?明日も好きに散策して」
ベスが微笑んだ。
――翌朝。
速水はまたあのカラスをみつけた。
昨日と同じ木の近くにいた。怪我はないようだから、この辺りがねぐらなのかもしれない。
やはり拾えそうだが……我慢して、通りすがりのふりをした。
「お前――命拾いしたな」
速水がつぶやくと、カラスはガァと鳴いた。




