第8羽 ノア ④百億 /日本円換算
今回はエロは無いですが、あまり話題が健全ではないです。
と言うか今回ダンスはカットしてます。てぬきで…。また加筆します。
※アメリカドルはもう意味不明なので、日本円で書きました。
レオン達のチーム『Fam No.238』は奇跡的に優秀なチームだった。
人気は上々で、固定客や、色々な噂や憶測も付いている注目株。
が、負けるときは負ける。ベスが居ないのも痛い。
ここに入って約半年。現在の順位は64。
現在34戦して、勝ちは25。負けは5回、引き分けが4。
順位が上がったせいか、対戦は五日間隔が少し増えた気がする…。
ノアはベスと一緒に個室に入り、静かに扉を閉めた。
「ねえ…ベス。ハヤミ…やっぱりどこか悪いのかな…」
そしてベスに話掛けた。
今日も速水は朝からカーテンを閉めてスペースに閉じこもりきりで、どうやら寝ているらしい。
朝、ノアとレオンはそこまで騒いだ覚えは無いが…一度、静かにしてくれと言ってきた。
そして今は返事が無い。
しばらくして、個室にレオンが入って来た。ドアをパタンと静かに閉める。
「この前負けて疲れてるのは、仕方無いが…、あいつやっぱ何処か悪いんじゃ無いか?」
そしてノアとほぼ同じ事を言った。
つい先日、四日前も負けたが…、それは久しぶりと言えるくらいの物だった。
相手は『Fam No.19』の、三十代が中心の古参チームだった。
基本、ナンバーはチームが増えたら後ろに足されていくので、ナンバーが新しいほど長くいる事になる。が、一応何年かに一度リセットするらしい…。
速水は組み合わせの運が良く、――つまり相手チームの中で、速水の相手が一番弱かった――おかげで何とかギリギリで勝ったが、ノアとレオンは落としてしまった。
レオンの勝率は8割以上とかなり高いが、それでもオールグリーンとは行かない。
せめて引き分けに―と、リピートは今回レオンが出たが、あと一歩及ばす。僅差。
そして負けた。
その後…そのまま、ペナルティバトルに出て、何とか勝ち。それで済んだ。
もちろんどっと疲れたが、もうそれから四日。次のバトルは明後日だ。
速水は大体、格上過ぎなければバトルは落とさない。それは恐ろしい程に。
彼はレオンに次ぐ勝率の高さをキープしている…、勝ちを落とすのはメンタルがやや不安定なノア。たまに速水。そしてレオンの順。…こうして見ると皆落としているが、勝負は水物だ。
だがノアは最近緊張しないコツを掴んだのか、単に慣れて来たのか、安定してきている。
その上、ノアは『これは勝てないだろ…』という格上相手に、あっと驚くようなダンスを見せ、勝って快哉を叫び上げ、笑顔を見せる、そう言う事もある。
しかし、以前のそのケースはその後二人が負けた。それは仕方無かった。
むしろレオンも速水も、後でノアの成長を褒めた。ペナルティバトルにも勝った。
そこで切り替え、また元通りになり、現在へ。
――と、ここに来て速水が少し崩れ始めた。
勝率は全く変わらないが、練習も減らしているし、勝った後も…少々しんどそうに見える。
もし速水が崩れると、…レオンとノアだけとなり。一気に勝ちが危うくなる…。
個室のドアがノックされた。
「レオン、時間だから行ってくる」
レオンが出ると、速水はいつも通りの表情。
そう言えば、速水は今からナイフの講座だ。
「お前、…」
レオンが何か言う前に速水は部屋を出た。ナイフ講座は休めないのだろうか。
速水はコレだけは休まない。
「…どう思う?」
レオンは椅子を持ち込み、ノアとベスに聞いた。
「分かんない。普段通りな気もするけど…」
「最近ナイフ、頑張ってるわよね…やっぱりそれで疲れてるのかしら…」
「ハァ…全く。世話の掛かる…」
レオンは溜息を付いた。
■ ■ ■
その夜、戻って来た速水は、いつになく上機嫌だった。
「―あ」
テーブルに用意されていた夕食を見て嬉しそうにする。
好きなメニューだったらしい。久しぶりに笑ったのを見た。
「―、それで、隼人が―」
話題は隼人と珈琲とダンスしかないが。
パソコンは速水の旧友の出現以来、禁止されてしまった。運営も大変だ。
「ハイハイ。ハヤトね」
さすがのノアも、若干呆れ気味で言った。
「おまえ本当に友達いないな」
レオンも苦笑する。
もう当たり前のやり取りだ。
「別に、そんなにいらないし」
速水も今日は良く喋る。シチューを口に入れ、飲み込む。スプーンを下ろす。
「家族も、もう会ってないから…兄弟みたいな感じなんだ」
そしてつぶやいた。
レオンは少し驚いた。
「なんだ、そうだったのか」
「勝手に…俺が思ってるだけなんだけど」
速水は困った様な顔をしている。
「なるほど、なら仕方無いな。何だ、早く言えよ」
レオンはあっさり言った。
「レオン、ブラコンだもんね」
ノアが笑う。
ベスもクスクスと笑った。
「ねえ、ハヤミ。聞いて良い?ハヤミのお父さん、ってどんな人?…レオンのは参考にならなくて」
ノアが笑って言った。
ノアは最近良い父親とは何かと考えているらしい。しかしノアは父親を知らないので途方に暮れる。
仕方なしにレオンに父親の事を尋ねて、『飲んだくれ・暴力・浮気、ついでにドラッグ―離婚』という予想通りの答えが返ってきて、がっくり落ち込んでいた。今日は速水の機嫌がとても良さそうなので、今の内に彼に聞こうと思ったのだろう。
「…父さんは、かなり性格歪んでる」
速水はそう言った。途端に、目つきがうろんになる。
「酷い性格で、母さんは出て行った…」
「げ…。速水のトコもそうなのー!?ハァ…」
机に頭をつける。
速水は声を上げて笑った。
「――、冗談だ。出てって無い。結局、別居しっぱなしだったけど。ずっと仲は良かったかな?」
レオンは首を傾げた。
速水が冗談を言って笑うのも珍しいが、その口ぶりだと。
「お前、親は…?生きてるのか?」
「―、あ、母さんはもう死んでる。かなり前だけど…」
「…そうか」
レオンはそれだけ言った。
「俺、良い父親になれるのかな…」
ノアはぶつくさ言いながら、ベスを見ている。
「ノアなら大丈夫だろ」「ああ」
速水は言った。レオンも同意した。
「なあ、ハヤミ…お前」
レオンは速水に話かけようとした。
速水は聞いていなかった。
入り口の方を向いている。
「――ああ。何だレオン?」
「…?ああ、えっとな」
レオンは戸惑った。直後、扉が開いた。
「―!」
皆が固まる。ガスマスクではなく。仮面の運営。今日は男だった。
速水の前に無言で封筒が置かれる。
レオンの前にも、ノアの前にも。
ベスには無い。
そして速水の前にもう一通。一通目と封筒の色が違う。
…やっかいな『仕事』の依頼だった。
■ ■ ■
ついにこの『呼び出し』来たか、速水は冷静だった。
まあ、別にいいか。俺だけ免除ってフェアじゃ無いし。くらいに思っていた。
「…ハァ」
レオンが溜息をついて、自分の封筒を開けた。雑に読む。
「…」
ノアは無言で開ける。中を読み、少しホッとした様子だ。
「ハヤミ…」
ベスが速水を見た。
白い封筒と金の装飾のある白い封筒。
速水はまず、ただの白い封筒から開ける。
「…明日、昼からか…」
速水は呟いた。
「女か?」
「ああ」
速水は溜息を付いた。相手は女…要するに、ただのデートだ。
「…」
ノアはじっと速水を見ている。ベスも。
速水はとりあえずもう一通、装飾付きを開けた。
上から下へ、あまり多くは無い文面を読む。
「…ハァ、まあ、もう良い」
嘆息する。
「…代わるぞ?」
レオンが速水に言った。
「良いって。…ノアはどうする?貯金使うか?」
そして速水はノアに聞いた。
「俺は、今回は受ける。まあ良い人だし」
ノアは言った。ノアの封筒も金の装飾付きだ。
「…良いの?」
ベスが言う。
「うん。まともな方」
ノアは頷いた。
「レオンは?」
ベスが聞いた。
「俺は昼だし。別に良いな。…あとは…」
レオンが速水を見る。
「昼のは受ける。夜のは…」
速水は溜息を付いた。
「見せて、いくら?」
ノアに言われ、速水は手紙を渡した。
「―げ…」
ノアが呟く。向かいの──速水の左隣のレオンに回す。
「うわ!?…お前、ふっかけられたな…」
レオンは頭を押さえ、端末を取り出す。
「足りるか?」
速水が端末をのぞき込んで聞いた。
ノアも立ち上がって移動する、ベスもレオンの後ろに来た。
そしてレオンが端末をいじり、貯金を確かめる。
「──、ぐ、呼び出しは何日だ?」
レオンが唸った。
「今月の十三日」
速水が手紙を見て言った。今日は四月一日だ。
『お誘い』は月初め、または月の真ん中あたりで良く来る。予定の関係だろう。
「…ギリギリ…足りるんじゃ無い?」
ベスが言う。
レオンが頭を掻いた。
「チッ。いや…。微妙に足りないかもしれない──、予算合わせしやがったな」
レオンは呟いた。
「うわ…最悪…。っていうか、コイツまた?俺にも言ってきたのに。しかも金額、ちがいすぎ…!ムカツク!!」
ノアが憤った。
「ハァ…」
速水は溜息を付いた。
今回の客は、以前ノアが断った相手だった。
そして今度は速水を呼び出す気らしい。
ダンス以外のここでの仕事の一つ…。
人気商売、地下の──と言えば、あって当然。ない方がおかしい。
ネットワークは金が欲しい組織。
要するに、気に入りのダンサーを呼び出すことが出来るのだ。
それが目当てで、大枚はたいて会員になっているやつも多い。
だが、強制では無い。
ダンサーは断ろうと思えば、貯金、つまりダンスで稼いだ金を支払って断れる。
メンバーは任意の金額でネットワークに申し込み、ダンサーに断られたら、ダンサーが支払った同じ金額を詫び金として受け取る。が、そのうち三割はネットワークの懐に入るので、メンバーに戻るのは七割だ。
申し込み前にはネットワーク管理のヘルスチェックが義務付けられていて、それに引っかかったメンバーは弾かれる。あくまでショービジネス、と言いたいらしい…。
当然相場と言う物がある。
デートは一日、大体、日本円にして五億~十億円程度。
それ以外は一回だいたい二十億~多くて五十億程度。
一度断られても何度か熱心に頼めば、貯金の関係でダンサーもなびく事が多いし、毎回ダンサーが支払った詫び金の七割は戻ってくるので無茶を言う客は少ない。
何度かデートして、自分を覚えて貰ってその後で、という客もいる。
このシステムの残念な所は、貯金が無いチームは誘いを断れないと言う事。
そしてダンサーには金を払って断る権利があるだけで、全く得が無いと言う事。
しかし、良いスポンサーを見つける手段にはなるので、物は使いようかもしれない。
そのスポンサーに大金で身柄を買って貰って出る、と言う裏技も存在するとかしないとか…。
メンバーが、ダンサーに『お誘い』をどうしても断られたくない場合は、予算合わせ──つまり情報を手に入れ、チームの支払い能力を超えた金額をふっかける。
ただしこれは、その金を余裕で出せてなおかつ品位とステータスなどがあると判断された、上位のメンバーにしかできないらしい。
これは一応、明らかな悪意のある申し込みからダンサーを守る為だ。
こうして見ると、悪いなりにフェアなシステムに思えるのだが…。
このシステムには…さらに大きな落とし穴がある。
「この金額、百億って…一人のメンバーかな…?」
ノアが呟いた。
メンバー。つまり共同出資でも良いのだ。
…全くもって、嫌なシステムだった。
「さあ…。が、しつこい奴には違いないな。あの蠅叩きをすり抜けるなんてな」
レオンが言った。
蠅叩き、そうレオンが言ったのは物の例えだ。
「確かにハヤミのスポンサーは強力だけど…。セーフキャッチャーが効かないって、やっぱり一人か?」
ノアが言う。
セーフキャッチャー。つまり、お気に入りのダンサーに手垢が付かないように、金を払って保護する。…スポンサーになることも出来る。
大抵は…そのダンサーが外に出た後で、自発的なお礼をしてもらうのが目当てだったりする。
下心の場合は、身柄──良い例では結婚。その後の離婚例も多いらしいが。
下心の無い場合は──専属契約。こちらはそれなりに珍しい。
要するに今まで、速水には謎のスポンサーのおかげで…全く、金の装飾つきのお誘いが来なかったのだ。
普通の白便せんは何度も来た。別にそれは良いので適当にこなした。
スポンサーは、通常は本人に名を明かすのだが…速水のそれは全く何も言ってこない。出る時か、出た後に言うつもりなのかも知れないが…エリックに聞いても『名を明かすのは禁止されています』の一言。
…おかげで全くの謎だ。
速水は仕方無いので隼人に心から感謝している。
──そして速水は今後の覚悟もしている。
速水のためにスポンサーがつぎ込んだ金は、かるく百億を超える。
それが善意だけであるはずが無い。
「…ハァ」
彼はテーブルに両肘を付き、溜息をついた。
…スポンサーが何にせよ、もう一生、俺に自由は無い。
短い人生だったな。もっと遊んでおけば良かった―。できれば最後に抹茶が飲みたい。
和菓子も食べたいし──。それくらいの自由は貰えるのだろうか。
外出は出来るのだろうか。ダンスは―?日本へは―?
子供の嘘がばれたらどうしよう。いや、もう知ってるのか?意外に寛大だな、よかった…。
でもやっぱり土下座くらいはしないと駄目か…。無駄金使わせたって事だしな…。
「……」
さらに速水はがっくりと項垂れた。
自分の今後を考えた所で、むなしくなるばかりだった。
もう隼人とたまにメールが出来ればそれでいい。俺は元気で踊ってますって言うんだ。
他は全てあきらめよう。
もはや、隼人だけが心の支えか──?
…やな人生だな。
彼は自分でもそう思っていた。頭を押さえ項垂れる。
―外に出たら友達作ろう。さすがに俺はこれじゃ駄目だ。
今までの自分を頑張って変えて行こう…―。
速水は俯いたまま密かな決意をした。
「ええと…、ハヤミ…大丈夫?」「ああ…」
ベスがそんな速水を不思議そうに見て言った。速水は適当に返事をした。
「ううむ…」
一人か?と言うノアの問いに、レオンは唸った。
複数の場合でも、記載されるのは代表の名だけで、しかも偽名と決まっている。
「それは、分からないが…こいつ、よほどしつこい奴なんだろうな…。ハヤミ、来ちまったのは仕方無い。金が足りなかったら、…どうする?」
レオンは言った。
今回の速水の客への詫び金は、日本円で約百億。
以前なら余裕で払えたが、少し前…ペナルティバトルで負けて、ペナルティを受ける代わりに気前よく支払い、貯金が百二十億円ほどごっそり減ってしまった。
それからまた増え今は七十億ほど。
──しかし、この大金を、実際に目にしたことは無い。
もしかしたら、ただの数字なのでは無いだろうか?
もしくはビットコインのような、架空の金…?あるいは証券?
速水は、レオンも、皆そう思っていた。あまりに桁が多すぎて、実感が湧かないのだ。
「金が足りても―、また来たら困るし…もう俺が行くしか無いだろ」
速水はきっぱりと言った。
つい先程、丁度前向きになったところだ。何事も経験だろう。
それに、今ここで百億失うのは痛い。
またペナルティバトルで負けないとも限らないし…。
「よせ」
聞いておいてレオンは言った。
「…よせって。レオン…聞いたくせに」
さすがに速水は呆れた。
「…お前、具合はどうだ。今日も寝てただろ。どこか悪いのか」
レオンが言った。
「…いや?別に」
速水は首を傾げ言った。
「…いい加減、話したらどうだ?」
レオンが言った。
「―何を?」
速水は言った。
少し俯く。
テーブルに置かれた封筒を見る。目を閉じ溜息を付いた。
「…俺だけずっと免除なんて、フェアじゃない」
速水はそう言って、二通のそれを手に取る。
「おい──」
レオンが速水の腕を掴もうとする。
「レオン、行くって言うならそれで良いだろ」
ノアがそれを止めた。
ノアはテーブルに手を置いたままの速水を見る。
「ハヤミはズルイ。最近休んでる理由、言ってくれてもいいのに。それこそフェアじゃないぜ…!」
ノアは言った。口調は押さえているが、怒っている。
「もし…」
本当に駄目なら、俺たちが──。
ノアは口ごもった。避ける方法は他にもある。
チーム、というのはつまりそういうことだ。
『〇〇は来られなかったので、俺が代わりに来ました。下見です』
『じゃあ今度は〇〇さんをよろしく頼むよ』
いわゆる、すっぽかし、サボタージュ、と呼ばれる方法。それならチームは詫び金を払わなくて良い。
申し込んだメンバーは、それで文句を言ってはいけない事になっているが、…頭に来るのは仕方無い。
あまり相手を怒らすのは良い方法では無いから、お互い次につなげる──要するにその場しのぎだ。次、誰につなげるかは交渉次第でもある。
だがノアはそこまでする気は無い。
「ノア。俺はどこも悪く無いし、別に平気だ」
速水はキッパリと言った。
「──っ!!」
ノアは速水の、この態度が気に入らないのだ。
「おい!」
掴みかかろうとしたノアを、レオンが止めた。
「速水、お前、馬鹿だろ!」
ノアに日本語で言われ、速水ははっとした。
「…」
「馬鹿で、けどずるくて狡猾。お前はそう言う奴なんだ!!ムカツク!!」
ただ、怒鳴られた。
「ノア…。大丈夫だから」
速水は顔をしかめて言った。
―そんな表情をした為、速水はノアに殴られた。
■ ■ ■
翌朝、ノアがベスの個室から出ると、レオンと話すエリックの声が聞こえた。
エリックはすぐ速水のスペースに入っていった。
「エリック…?」
ノアは眉を潜めた。レオンを見る。
「あいつが、呼んでくれってさ…。マジでヤバイかもな」
レオンが冴えない表情で言った。
カーテンの中から、エリックの声が聞こえる。
「…ハヤミ」
「ありがとう。もういい」
速水の声もする。
「はい…」
エリックがいつものドクターバッグを持って出て来る。
中が見えないようにカーテンの隙間から。
「おい」
レオンはエリックのパンストの先を捕まえた。
「偏頭痛です。いつもの事だそうですから」
エリックはそう言った。
「―、」
レオンは二の句を失った。
「最近、疲れているのでしょう。暫く寝ていれば治ります。今日は外出なので薬をお出ししました。邪魔をしないように」
エリックはさらによどみなく言った。
「―では」
そう言って、パンストの先をハサミで切り残し、去って行った。
「…」
ノアはカーテンの側に立った。
「レオン、偏頭痛って、ベスがたまに困ってるやつだよね」
そしてレオンに言う。
「ん?ベスはそうなのか」
「うん。結構つらいって言ってたけど…。ハヤミ。今日はデート、出られそう?」
ノアはカーテン越しに聞いた。
「──、ああ。多分」
そして昼過ぎ、迎えが来て速水は出て行った。
「…久しぶりに外に出たな」
戻った彼は普通だった。
「頭は?」
「薬が効いてた。でも少しだるいから寝る。これなら明日までには直りそうだ」
笑っている。
「ああ」
レオンはホッとした。なんだ、本当に偏頭痛持ちで、大したこと無いのか…?
いや…本当に、そうだろうか。
気にしつつも、レオンは自分のスペースに戻った。
その翌日、四月三日。ブレイクバトル。
速水は勝った。レオンも、ノアも。
リピートはノア。
ノアは調子を上げてきている──。
速水も大丈夫そうだ。
踊りが冴えている。
「やっぱり、最近、結構疲れてたんだな。…ノア、悪かった」
そうノアに言っていた。
「あともう一回で、何とか足りるか…」
部屋に戻り、早速端末を見てレオンが呟く。
ノア、ベス、速水も覗き込む。
…十三日の呼び出しまで、あと残り十日。
今日はどうやら速水のスポンサーが居たらしく…中継を見ていたのかもしれないが──、二十二億円の荒稼ぎ。
…おそらく、速水に粉がかかっているので、気合いを入れているのだろう。
「っとに…ハヤミのスポンサー、どんだけ金持ちなんだよ」
ノアが呆れて言った。
「一兆円くらい持ってるんじゃ無いか…?」
速水も呆れ気味だ。
速水のスポンサーがいる時は、掛け金が跳ね上がる。
現在の貯金は九十二億円。
支払金は、一人頭、約三億円。
…稼いだ金額はほとんどがネットワークの物になり、そのうち一部がダンサーに還元される。
「…これって…本当に支払われるのかな?」
ノアが言った。
「まあ、…親父も貰ったって言ってたから、貰えるんだろうな…。時代が変わって、使えない金かもしれないが」
レオンが言う。
「もう──俺、なんか、頭おかしくなりそう…計算出来ない。ベス、これで一体何がどれだけ買えるの…?」
ノアが途方に暮れたように言った。
「もう何でも買えるわよ。…ノアはお金、使った事無いものね」
ベスが少し悲しそうに言う。
「―あるよ!一回、シスターのお使いに!………」
言ってノアは項垂れた。無いも同然だ。
「…とにかく、十三日までにダンスはあと一回か?七日後、十日にクランプ…ギリギリだが…、それで何とか足りそうか」
レオンが言った。
今、九十二億円で、あと八億円。
これならスポンサーがいなくても何とか稼げるはずだ。
「ねえハヤミ、これからの予定はどうなってる?」
ノアが速水に聞いた。
「七日後…十日のクランプの、また七日後…十七日にブレイクバトル。その五日後、二十二日にクランプ。その五日後──、二十七日にショーがあるから、そっちの準備もしないと」
レオンの言葉に、速水が葉書程度の大きさの紙を見て返事をする。
…最近、バトルオーダーが、二・三枚まとめて来る。間隔が短くなり、ショーの準備と良くかぶるようになって来たのだ。
「払ったらまた稼がないとヤバイよね…。最近いきなり上位と当たるから」
ノアが焦って言った。
「ああ。二人とも、振りは出来たか?」
レオンが言ったのは、新しいショーケースの事だ。
振りはベスと速水が考えている。
「ええ。今回は良い出来よ」
ベスが頷く。
「ああ。今度は負けない。また練習しよう」
速水も頷いた。
前回、ペナルティバトルに『落ち』さらに負けた時は、ブレイクのショーケースで敗北したのだ。
その為、ベスと速水は直後から良く構成を練っていた。
外で踊るときは、同じ内容で完成度を上げても踊っても良かったが…ここではそれは通らない。常に新しいメニューを出さなければ勝てない。
「―悪いな。俺も振りが出来れば良いんだが…」
レオンが言った。
出来ない事は無いが、速水やベスに比べると劣る。
「レオンはクランプ取ればいいだろ―、曲、今から聞く?」
ノアが言った。
ノアの手には、ラベルの無いCDがある。
曲は、ノアが速水の意見も取り入れつつ、自由に曲を選び、スタッフと協議。
その後、それに速水とベスが振りを付ける。レオンとノアはサポート。
…最近はだいたいこのスタイルだ。
「ああ。今から聞いとくか」
会場が一番近い場所だったため、時間は午後九時を回ったところだ。
「―俺は…」
とここで、速水が難色を示した。
ノアが首を傾げる。
「ハヤミ、ねえ…ハヤミってさ」
ダン!と音がした。速水が、机にオーダー表を置いたのだ。
「俺は明日聞く。もう散々聞いたし。いいな?──風呂入ってくる」
「え、…まあ…いいけど」
ノアが答えた。
「…、悪い」
速水は痛かったのか腕を少し振って、着替えを取りに、カーテンの中へ消えた。
「何だ、別にいいじゃ無いか」
レオンは溜息をついた。
またか、と言う感じだ。
「こだわりがあるのよ…きっと」
ベスが抑えた声で言った。
速水はカーテンから出て風呂場に消えた。シャワーの音が聞こえてくる。
ノア、ベス、レオンは速水が書いた振り付けノートを見ながら、CDを聞く。
三人なのでヘッドフォンは使わずスピーカーから流す。
ハイテンポで心地よい音が流れる。
「―ねえ、ベス、レオン…」
ノアが途中で呟いた。
「何だ?」
レオンが答える。
「ハヤミ……」
ノアは何か言いかけた。しかし。
「──曲、どう?格好良い構成だろ?ハヤミも良いって言ってた!」
そう言って笑った。
「ああ、良いな」
レオンは頷いた。
「私も早く踊りたいわ…」
ベスがお腹を撫でる。
「ベスは絶対駄目!」
ノアが言った。
■ ■ ■
十日。今日はKRUMPのバトルだ。
今日の出来如何で、速水の命運が決まる。
勝って、金を稼ぐ。最低八億。
…速水のスポンサーは、ブレイクを見に来る事が多い。クランプにはあまり来ない。
――何としても勝たなければ。
いけないのに。
明け方、小さなうめき声が聞こえた。
「おい…ハヤミ?入るぞ!」
さすがにレオンはカーテンを開けようとした。
が、開かない。速水が合わせ目を押さえているのだ。
「…エリックを呼べ!!!!」
速水が大声で叫んだ。
まだ寝ていたノアが、ベットから飛び起きた。
ベスも出てきた。…それくらいの大声だった。
「…大丈夫だ」
そしてそう言う。
「お前―っ、…っ」
レオンは自分を抑え、振り向き、どんどん、と扉を叩いた。
エリックは、来てすぐ速水のスペースに滑り込んだ。
「――ハヤミ…」
「エリック。何か、効くやつ頼む。頭が痛い」
…カーテンの中で、そんな会話がされている。会話と言うより命令だ。
「分かりました…」
エリックは程なく出て来た。
「…では」
そう言って素早く去って行った。
レオンは勢いよくカーテンを開けた。
速水は左腕を押さえ、ベッドの上で体を起こしていた。
「おい。お前いい加減にしろ。一体何なんだ!!」
「―、だから、偏頭痛。ちょっと黙ってくれ。注射したから」
「偏頭痛で注射だと?」
レオンが言った。
「頭痛に効くやつらしい。よく知らない。クランプには出る。寝かせろ」
速水は言った。さっさと横になる。
「~~っ」「おい!」
レオンが、速水に殴りかかろうとして、ノアに止められた。
ベスがカーテンを閉める。ノアはレオンを引っ張った。
■ ■ ■
「ぜったい嘘だろ!」
おなじみの個室で、レオンは怒っていた。
「そうね。…多分…違うと思う…。けど、分からないわ…。私も、めまいがして、起き上がれない時はあるから…何なのかしら…」
ベスが溜息をついた。
「今日は負けられないんだ…」
レオンは頭を掻いた。
今日は四月十日。負けたら十三日までに詫び金が足りず、最近やたら具合の悪い速水が呼び出しをくらう。
そうなったら、その後…速水の調子がどうなるか分からない。
速水が倒れればこのチームは終わる。
「二人じゃ、絶対勝てないもんね…」
ノアがベスのベッドに座り、しょんぼりと言った。
「ごめんなさい、私がこうだから…」
ベスが大きくなった腹を撫で、申し訳無さそうにした。
「それは…言っても仕方無い」
レオンが言う。
「エリックは、口止めされてるのよね。きっと」「間違い無くそうだろ」
ベスとレオンが話す。
「…レオン、前は部屋一緒だったんだ。心当たりとか無い?」
ノアがレオンを見ずに呟いた。
「…お前こそ、練習とかずっと一緒だろ」
レオンはベッドの縁にすわる。ノアと反対側だ。お互いに背を向ける。
「…。ハヤミ見て来る」
ノアは立ち上がった。
■ ■ ■
「…ハヤミ、大丈夫?」
カーテン越しに、ノアが聞いた。
「ねえ、俺、あのこと皆に言ってないけど、それと関係あるの?」
ノアはつぶやく。
「…一時間前に起こしてくれ」
速水はそう答えた。
その夜、クランプで速水は踊った。
そして三人は勝った。
不思議だが、速水の踊りはますます冴えているように感じる。
「…」
そして速水は部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
「よし!セーフだな…、ゆっくり休め」
すぐ端末を見て、レオンは言った。返事は無かった。
ベスがエリックを呼んだ。
「すみませんが…」
エリックに言われた。
すっかり待合室と化した個室で、レオンは嘆息した。
「…スクールで初めて倒れた時、俺が聞いておけば良かったんだ」
「心当たりあるの?やっぱり…病気なの?」
ベスが聞いた。
「知るかよ…」
レオンは頭を抱えた。
それきり、レオンは黙り込んだ。
そして立ち上がる。
「とにかく、運営に支払うって、エリックに言わなきゃな」
その前に。一応、カーテン越しにレオンは聞いた。
「…お前、どこが悪いんだ?」
「どこも悪くない…。ちょっと最近疲れてて。大分良くなったから。部屋から…出て来るなよ」
速水はお決まりのセリフを、いよいよ大丈夫ではなさそうな声で言った。
しばらく後、エリックが出て来た。
「睡眠薬飲んで、寝てますから…。明日また来ます。何かあったら呼んで下さい」
「エリック、十三日の速水のお誘いだが―、貯金で払う」
レオンは言った。
「…それが良いでしょう。伝えておきます」
エリックは出て行った。
「ハヤミ…」
レオンは話し掛けたが、返事は無い。
少しのぞいたが、ぐっすり寝ているようだった。
レオンはまた個室に入った。
「レオン、俺、…」
レオンが入ると、ノアが個室のベットに腰掛けてうつむいていた。
「ノア、お前やっぱり何か知ってるのか」
レオンが聞いた。ノアはこの前何か言いかけていた。
「―ノア、話して…」
ベスもノアの手を取って言う。
「だって、多分関係無いんだ。本当に…絶対、違うと思う」
ノアは言った。
レオンとベスが、ノアを見た。
「ハヤミ…多分だけど。耳が悪いよ」
ノアはぽつりと呟いた。
「!!?」「――えっ!?」
意外な言葉に、レオンとベスが驚いた。
「ちょっと…本当なの?それ…!」
ベスは声を潜めて聞いた。
ノアは自信なさげに首を振った。
「しっかり聞いたわけじゃ無い…、けど、スクールにいた頃、おかしいなって思う事があって――」
ある日、速水に付き合い居残り練習中、ノアは音楽係として曲をかけた。
『じゃあ、つぎは――でいい?』『ああ』
『じゃあ、かけるね』
速水も知っている曲名を言って、スイッチを入れる。
――が、中身が違うCDだった。
ノアはイントロであれ?と思った。しかし速水はそれに気づかず踊り始めた…。
十数秒ほど後、ノアが曲を止めるまで。
「その後指摘したら、…言うな、誰にも。って、ハヤミに睨まれて言われて…。それきり。けど、それって全然、関係無いだろ?実際ハヤミはムカツクくらい踊れてるんだし…。なら別に大した事ないのかなって…」
ノアの声の調子が、途中で変化する。ノアは言ってみたものの、確証が無いらしい。
その後うーん、と言ってノアはわしゃわしゃと頭を掻いた。
「確かに、踊れてはいるが…、と言うかあいつ――!それで俺たちの前で曲聞きたがらなかったのか…?くそ。隠し事の多い奴だな…」
レオンは舌打ちした。
「…難聴かしら?」
ベスが聞いた。
「いや。多分…違うと思う。だって会話は超普通だし…。絶対音感?とかじゃない?」
ノアが言った。
「…それなら悪いって事は無いだろ。むしろ良いくらいだ」
レオンは息を吐いた。…そして、首を傾げた。
「…ノア。あいつ、そう言えば、座学が駄目だったよな…音楽の」
「ああ、そう言えば…」
ノアも思い出す。
「向こうで…ハヤミの語学のノート見たが、結構キッチリかき込んであった…。こいつ頭は悪く無さそうなのに、何で音楽はさっぱり駄目なんだ?と思ってたんだが…耳?…寝る時、耳栓するのも…もしかして、そのせいか?」
「ねえ、レオン」
ベスが言った。
「私達、ちょっと…何て言うか、ハヤミに、頼りすぎてたんじゃ無いかしら…」
ベスは俯いた。
「―え?」
ノアが言って、レオンも、「ん?」と言う顔をした。
ベスは少し涙ぐむ。
「ここでこれだけ踊れてるって、ハッキリ言って、異常よ?…私達ずっと…、…彼なら大丈夫、勝手にやるだろう、彼は放っておいて―自分達の事を考えようって。彼の事を考えようとしなかった…。…それって、彼にしたら酷いって思うんじゃないかしら…。だって誘拐されて…いきなりここに来て、『こいつら』と今から踊れって…、彼、英語が出来たから良かったけど――もし言葉が話せなかったら、もっと大変だったわ」
「うーん…確かに。俺、ハヤミならついて来られるからいいや、って思ってたかも…」
ノアは唸った。
「ノアはハヤミをどう思うの?」
ベスが聞いてきた。
「え、俺?…ええと」
ノアは改めて考えた。自分は速水をどう思っていた?
――そう言えば、ノアは速水を友人とは思っていなかった。良くてライバル?
他には?
才能があって、うらやましいと思っていた。ズルイとも。
ベスとイチャイチャして、ウザイと思っていた。
けど、頼れるし、プロだし、外のことを教えてくれるし、優しいし、嫌いでは無い…。
「俺は…ハヤミをまだファミリーとは思って…、ないや。うん。フレンドでも無いし…せいぜい、むかつくライバルで偶然出会った新しいダンス仲間かな?けどベスの事で、ものすごく感謝してる!」
ノアはとても素直に言った。
「ノア…とっても素直な意見ありがとう…」
ベスは溜息を付いた。
レオンも呆れた。そして溜息。
ノアほど素直では無いが、三人とも…大体同じだった。
レオンでも六、七年。ノアとベスに至っては十年。
…三人で一緒にいた年数が多すぎて、速水はよそ者と言う感覚がまだ抜けないのかも知れない。
「……これじゃ、俺たち信用されないよな」「そうよね…」
ノアが肩を落とし、ベスと一緒にションボリした。
「向こうも少しずつ打ち解けて来たとは思うが…。もともとハヤミは極度のコミュ障だしな…」
レオンが溜息をついた。
速水は、性格もそこまで悪くは無いのに、なぜか友達は隼人くらいと言う筋金入りだ。
「…このまま、ずっと余所余所しいままなのかしら…。この子、『ハヤミ』かもしれないのに」
ベスがまた大きくなった腹を撫で、悲しそうにした。
「ベス…まだ間に合うよ!こうなったらもういっそ、フレンドから―」
ノアがベスの手を取り、腰を浮かせて、珍しいリーダーシップを取ろうとした時。
個室のドアがノックされた。―ドンドンと。
■ ■ ■
入って来たのは息を切らしたエリックだった。
「オフィスに行こうとしたら──出くわして」
そして運営から封筒を奪ったらしい。
「…クソっ」
レオンは紙を握り潰した。
「──くっそ…やり方が汚い!」
ノアも怒っている。ベスは呆然としていた。
日付は件の十三日から五日後、十八日。
同じ相手が、きっかり三割引いて…。日本円で七十億の詫び金。
断られたらそのままその金をつぎ込む気らしい。
「十三日の詫び金を…支払いますか?まだ伝えていませんが」
エリックが言った。
百億、支払っても…。次はもう断れない。
「──この相手は、節操が無い。何が何でもという気でしょう」
エリックが肩を震わせ怒っている。
その怒りようが、尋常では無い。手紙は持ってこられた時、すでにぐしゃぐしゃに握り潰された痕があった。
「…ハヤミは?どうなんだ?実際」
レオンは聞いた。
「―」
エリックは目をそらした。
「病気なの?」
「…すみません。本人から──…口止めされています…」
項垂れた。
それはレオン達には分かっていた。
「…エリック、エリックはハヤミのスポンサーと連絡取れるか?」
レオンが尋ねたが、エリックは首を振る。
「いいえ。私はツテを持っていません。連絡先を知っていたのはサラです。ですが彼女はまだ行方が…」
「スポンサーって誰なの?そこに助けて貰えないの?わからないけど…もう入院とか、その方が良いんじゃないの」
ベスが言った。
「…言い辛いのですが…。向こうは、いくらでも金は出すが、引き上げる気は無い。あるいはずっとハヤミがここにいても良い。…そう言う感じなんです。特に、名前を出すのは…固く禁止されています」
エリックが苦悩も露わに言う。
「?…何だ、それ?金だけつぎ込んで…?ずいぶんおかしな話だな」
レオンが首を傾げた。
エリックがカーテンをのぞく。
気になったと言うよりは、追求を避けるためだろう。
「エリック、頼むから、もう言ってくれよ。末期ガンで余命あとわずかとかでも良いから…。──が、そのわりには、速水は健康っぽいか?…もう、何なんだよ」
レオンが天を仰ぐ。
もうそれでも仕方無いと思う。
しかし、それらしいそぶりも、痛がる様子もあまりない。
顔色は若干良くない…。
しかし夜もぐっすり眠っているようだし──いや、これは睡眠薬とかか?
そう言えば、昼間少し眠そうだな──それは睡眠薬のせいかもしれない。
「…たまに息を詰めているような気配はあるが…。ダンスもしてるしな…。最近はずっと勝ってるし、踊れてれば良いのか…?」
レオンは溜息を付いた。
「ハァ…踊れば、負け無し、か」
そして呟く。
…踊れば、負け無し。
そう言ったのはMCだ。
だが、踊り終わった後の、暗い瞳。何を見ているのか。
間違い無く、悪くなっている。
自分の中の何かを削って、それでも速水は歓声の中に立つ。
…止まったらチームが負けるから。ペナルティがあるから。
「貯金は…どうする?もう俺が行ってもいいけど…しつこそうだよね」
ノアが、端末を持って言った。
「ハヤミと相談した方が良いのかしら…勝手に決めたら、彼、暴れそうよね…」
ベスが言った。
「…ベスもそう思ってたのか」
レオンが意外そうに言った。
エリック、…また明日来てくれ。
何かあったら呼ぶ。
誰とも無くそう言った。
■ ■ ■
翌日、起きた速水は元気になっていた。
速水はさっさと着替え、今日は練習に行くつもりのようだ。
『もう大丈夫だから、今からショーの、振り合わせをしよう』とレオン達に言った。
「で、ハヤミ。呼び出しはどうするんだ?」
レオンは聞いた。
「そうだな…、もう俺が行くのがいいと思う。行って殴ってくる」
速水は笑って無茶を言った。
「…ですが」「大丈夫」
エリックは乗り気で無いが、結局、速水の言うことを聞いた。
「おま…行けるのかよ」
レオンが顔をしかめた。
「…ゴメン。ホント良くなったから。エリックは大げさなんだ──」
レオンはその日、速水を目で追っていた。
速水の大丈夫という言葉はうさんくさいが。動きはおかしくない。と思う。
…じろじろ見るなと言ってきた。
「おい、ハヤミ。お前、耳が悪いって?」
レオンはもうやけっぱちで言ってみた。
「──ノアが話したのか?」
速水は少し微妙な顔をした。
ノアはげっ、と言う顔をしていた。
「怒るなよ。お前、もう少し、俺たちに打ち解けてくれよ。日も浅いが…そんなに駄目か?」
レオンは言った。
「別に、そんなに耳は悪く無い」
速水はやや的外れな事を言った。
ノアは苦笑され、ホッとしたようだった。
「またか。お前そうやって、たまに嘘付くよな…いや、隠し事か?」
レオンは速水のその癖に気がついていた。
「一応、俺とお前は外に出たら、ネットワークを倒す仲間になるんだ。隠し事は──そもそもお前──もっと―」
レオンが速水にくどくどと言いつのる。
「あ、そう言えばノアは?ネットワーク狩りに参加するのか」
「おい」
レオンの言葉を切って、速水はノアに聞いた。レオンが文句を言う。
「俺?俺は…暇だったら。だって俺、戦うとか、よく分からないし…父親って忙しいんだろ?」
そう言って、ノアは床を少し蹴る。
「あーもう、俺、いっそここでプロになろうかな。ほら、居残り組っているし。ファンクラブとかあって楽しそう」
ノアはわりと本気な様子で言った。
…勝ち数が五十を越えた後、ここにそのまま居残る者もいる。居残り組になると格段に自由が利くようになる…らしい。
外で講演できたり、ソロでも活動出来たり。豪華なホテルに住む事ができたり。
公式ファンクラブも設立されるし、ファンクラブの力で呼び出しも無くなる。
上位は大体そう言う者達だ。
「…そうだよな。けど…。俺は嫌だな。ダンスって──世界って、もっともっと自由な物だと思う。こんな、ネットワークなんて、凄いおかしい。…俺が言うと変だけどな」
速水は笑った。
苦笑と言うほどでも無いし、静かな微笑みでも無い。
押さえたような笑いで、その割りにノアを揶揄する響きも無い。
「…そうだよね」
ノアはそう言った。
「ハヤミ、私も踊ろうかしら?」
ベスが立ち上がる。
「クィーン!それはちょっと」「そうだよ、頼むから!」
速水とノアが慌てて、そして顔を見合わせて笑った。
■ ■ ■
そしてついに。問題の十三日になってしまった。
「サク・ハヤミ。来い」
夕刻。──ガスマスクが、三人来た。
速水はベッドに座っていて、観念した様子で、大人しく立ち上がった。
レオンは、舌打ちした。
「待て、俺が代わりに行く。こいつは今日体調が悪い」
速水がレオンを見た。
「レオン。もういい…」
速水は、つぶやいた。
「お前、ホントに今、良くないだろ」
結局、速水は練習の後からずっと寝ていた。
十二日も。──今日になっても朝から。
「おい、この病人と代われるだろ?」
レオンはガスマスクに交代を申し出た。
「―」
ガスマスク三人は協議し、速水を見て、そして頷いた。
「両方連れて行け」
一人が言った。
「―っ」
「ちょっと待て。俺が行く!それならいいだろ!」
黙っていたノアが立ち上がった。
ノアは一度この相手に誘われている。それなら文句は無いはずだ。
「だめだ!俺が行く!!」
速水は言った。
「おい、ベス!そいつ止めとけ。ノア行くぞ」「ああ!」
だがレオンは睨んで、速水とベスを残し、さっさと目隠し―手錠は自分ではめてノアと部屋を出た。鍵がかけられる。
…汚れは俺たちがすれば良い。
あいつは、こんなトコで慰み者にされて良いダンサーじゃ無い。
地下に下り、初めての闘い。ブレイクでは無く、いきなりKRUMPで出た時の事。
「お前、KRUMPは出来るか?」
前日。レオンは速水に聞いた。
レオンは元々クランパー。ノアもベスも、実力は十分。
「何とか。少しやったことがある」
速水は言った。
そして。
速水は踊った。
速水のブレイクでない、本気の踊りを、初めて見た。
わぁあああ────────!!!と言う大歓声が上がった。
一時、誰もがここが地下だと言うことを忘れた。
一流の舞台。
こんな、狂気の踊りをこいつは踊るのか。
華やかさでない。もっと、黒く、暗く。激しく、鋭い。
曲の持つ世界観。それが目の前に人としてある。
──天才。
「なに、この踊り…」
ノアが絶句していた。
が。舞台の後。バックヤードに大歓声と拍手に包まれ戻った速水は。
「おい?」
ガクリと膝を付いて、気を失った。
エリックが慌てて抱き上げて行った。
「―レオン、俺。多分速水には一生、叶わない…」
残された後、ノアは悔しさに泣いていた。
「俺、ここを出たら、プロになる」
「ああ」
レオンはノアの肩を叩いた。
──速水に、予約が集まりまくっているらしい。エリックが言っていた。
レオンとノア、ベスにも。
もちろん、速水のセーフキャッチャーをくぐり抜ける依頼は極端に少ない。
それで喧嘩になった事もある。速水はひたすら「ごめん…」と言って泣いていた。
戦績は上々。
特に速水は勝率が高い。
その代わりに、彼は何かおかしい。
「―」
時折何かを探すように、あちこちを見る。
ステージや訓練の無い時、練習せずに寝ている事が増えた。
エリックが、頻繁に来る。
「大丈夫です、落ち着いて」
「…」
よくそう言う声が、間仕切りのカーテンから聞こえた。速水の声は聞こえない。
「お前、どこが悪いんだ?」
耐えきれずレオンは聞いた。
「どこも悪くない…。ちょっと最近疲れてて。大分良くなったから」
お決まりの言葉を速水は言った。
…うそつけ。顔色、悪いぞ。
レオンはいつもそう言いたかった。
「俺、オッサンをぶん殴る」
移動中、ノアが隣で言った。―絶対にオッサンだ。
「ああ。俺もだ。クソ金持ちが」
レオンも同意見だった。
──が、車は何処にもたどり着かなかった。
「入れ」
ガスマスクが言う。女のすすり泣きが聞こえる…。
ノアは顔を上げた。この声──?
「おい?」
「―うそ?―え?」
辺りを見回すと、そこは見知った部屋だった。
さっきのは──ベスが床で泣いていた声だ。
「ノアっ!!ハヤミが、ハヤミがっ…!!」
ベスはノアとレオンにすがりついた。
ハヤミが連れて行かれた…!!
「―!」
ノアとレオンはガスマスクを押しのけ飛び出した。
■ ■ ■
監獄のような廊下に三人は出た。
「っクソっ!!おいエリックはどこだ!」「どこ!?ベス走っちゃ駄目!」「ハヤミは!」
襟首をつかまれガスマスクは首を振る。周囲にエリックは居ない。
レオンは何か言おうとするガスマスクを容赦無く殴った。
「ごふっ」
ガスマスクが悶絶する。
腹を蹴飛ばし、何度も。何度も。腹いせに。ダンサーを怒らせるとこうなる。
ガスマスクも外してやった。
そしてエリックは速水に付いていったと聞き出した。
「畜生っ!!畜生共め!!」
ノアが拳で壁を叩く。
今日は、朝から起き上がれなかったのだ。
どうした、と聞いたら、頭が痛い…寝てれば直る、エリックはもう呼ばないでいい。皆は個室にいてくれ。
と小さな声で返してきた。
多分、本当にやばかったのだ。
■ ■ ■
結局、レオン達は寝ずに明かした。
明け方、憔悴した様子のエリックが来た。
「…」
その表情が、限りなく暗い。
「まさか、死んだなんて事―」
ノアが言った。
「…そんな!それは無いです!ですが──これから、…」
エリックは、頭を抱えた。
「ネットワーク…、私は信じて…!!クソッ」
エリックは、低い声で起きたことを語った。
連れて行かれる速水に、エリックは無理矢理ついていった。
速水は手錠と目隠しをされ、その車内で、もう様子がおかしかった。
周囲をせわしなく見回す。
「エリック…止めてくれ」
「ハヤミ?」
「俺が、…だれか殺しそうになったら、とめてくれ。…頼む…」
それきりぐったりと静かになった。
「ベッドで、ハヤミは──。すぐに、相手に殴りかかって。グラスで相手を傷付けて…、連れて行かれました…」
エリックは、酷く動揺している。
「くっそ…、もうアイツらしいな畜生!」
レオンはああ、そうすると思った!むしろ良くやった。もう知るか!ペナルティでも何でも来い!!とやけっぱちで叫んだ。
「…どうなるんだろう…俺たち…」
ノアが嘆息して言った。
「ハヤミは、自分が再起不能になったら、ウルフレッドに入ってくれるように頼んである、と…」
エリックが抑えた声で言った。
「―」
皆が、沈黙した。
「そんな…」「…っ」
「…くそっ!」
何から、何まで。
「あいつ、一人で何いきがってんだ!!馬鹿野郎!!俺たちはチームだろ!!」
レオンが机を叩いた。
「上に、かけ合ってきます…」
エリックはそう言って出ていった。
パンストを脱ぎ捨てて。
■ ■ ■
──それから、三日後。
扉が開いた。
「―、ハヤミ!!」
気を失ったままの速水が、エリックに運ばれてきた。
ベッドに寝かされる。
「大丈夫なの!?」
ベスが言った。
「ええ。…ただ、拘束され閉じ込められていただけのようです。鎮静剤を打ったと医師から聞きました。移動の最中、暴れるといけないので眠らせておいたと…!」
エリックは、怒りに震えていた。
しかし、丁寧な手つきで、シーツを掛ける。
「勝手な事をっ、勝手なっ。そもそも奴らが―っ」
エリックが、花瓶を割った。水と花が飛び散る。
この花瓶は、彼が持って来た物だ。
「ハヤミはどこも悪くない!狂ってなんかいない!あのクソ医者!!ゴミ医者が!!」
エリックがドクターバックを壁に叩き付け、叫んだ。
「静かに!ハヤミが寝てるのよ!」
ベスが言った。
「―っ、…ハヤミ…」
そしてエリックはガクリと、膝をついて泣き出した。
「エリック、コイツ、何処が──」
レオンが尋ねた。
「…もう、全て、洗いざらい、―お話します。計画についても…」
エリックは観念した様子だった。
「計画?」「何から、お話しましょうか…」
エリックが言った時。
「ハヤミ!!」
ノアが身を乗り出した。
「―?ノア…?」
「ハヤミ、大丈夫ですか!?」
エリックが詰め寄る。
「…エリック。…無事だったのか…!!」
速水はまずそう言った。
手を伸ばし、良かった!よかった!と泣きながら日本語でつぶやく。
レオンは、泣けてきた。
言葉は分からない。でも分かる。
…自分がヤバイのに、エリックの心配をしてたのか。
「ハヤミぃぃ…っ心配したっ!!」
ノアがハヤミに抱きつく。
「わたし、私もっ!ばかっ―」
ベスも抱きついた。
「―、皆、ごめん…」
速水は笑った。
「お前、いい加減話せよ。本当に大丈夫なのか?」
「…ちょっと、やばかったけど。カラスが鳴き止んでくれた。…もう、話したほうが良いのかな…」
速水はうつむき、その表情は浮かない。
「お前、何の病気だ?」
「医者の診断では…『総合失調症による幻聴』って」
速水は正確に英訳して話した。
「──幻聴っ!?」
レオンが繰り返した。
「幻聴?って…?」
ノアが聞いた。
聞いた事の無い単語だった。意味は何となく分かるが──。
ノアが見ると、レオンとベスは絶句していた。
「ありもしない会話や、音が聞こえる病気…」
ベスが言った。
「お前っ!!もっと早く言えよ!!それかなりヤバイ病気だろ!!?」
レオンが速水を、大声で叱った。
「ごめん…。やっぱ言いづらくて」
「どうヤバイの?」
ノアの問いに、レオンは俺の認識も間違ってるかも知れないが……と、前置きした。
「―ありもしない声が実際に聞こえて、自分を嘲笑しているように感じたり、命令しているように聞こえたり。あげく自分がそう思ってるように勘違いしたりして、殺人を起こしたり自殺したりする事もある、心の病気だ…。お前、…ハァ」
そして、レオンは呆れた様子で、言葉を続けるのをやめた。
「精神…の?」
ノアが速水を見た。
速水は困った様な顔をしていた。
「…お前、入院とかしてたのか?」
レオンがテーブルから椅子を引き、ベッドサイドに移動させ座った。
「いや。そんなに酷くない」
速水は苦笑した。
「…普段はたまに、鳥のさえずり?とかが聞こえるくらい。体調が悪いと少し酷いとか、そのくらいで、薬もほとんど…要らない」
そして、ふと目を伏せた。
──呼吸が乱れ出す。肩が震える。
はあ…はぁ、…、ハァ。
「ハヤミ?」
ベスが訝しむ。速水は耳を塞いだ。冷や汗が落ちる。
呼吸がひどく荒い。顔が赤い。
「…けど、いらないのに、苦しくて、ずっと飲んでた…踊らないと、駄目だから」
彼は頭を押さえた。
「…ジャックが死んで、酷くなって、けど俺が踊らないと、皆が死ぬ…!支配人は自殺しようとしてた!リサも何処かへ消えた!ロブだっていない!!他にも──!!次は俺だって、どこかで思ってた!!危ないって思ってた!…けど踊らないと、俺がしっかりしないと…っ!!」
速水は泣き出し、額をかきむしった。
背を曲げうー、と唸り、ぼろぼろぼろ、と涙がこぼれる。
「おまえ…っ」
レオンは絶句した。ジャックの死後。
まさか、そんな前から──!?
速水は伏せて、シーツを握り、肩を震わせる。
ヒックと言う嗚咽が漏れる。悲しそうなすすり泣き。
「駄目…、だって…わかってた。俺は駄目だって、っ、もう、駄目だって、…もう踊れないってずっとずっと…!!でも踊らないといけない──」
ピタリと、泣き叫びをやめ。
日本語で何か呟きだした。
…ノアが、蒼白になった。
そしてガタガタ震えて、泣き出した。
「―ハヤミ!!もういいから!!いいからっ!!──!!!」
叫んで、速水に抱きついた。まだ速水の口は動く。
ノアが泣いている。
「何を」
レオンとベスには日本語が分からない。ノアは少し出来る。
レオンは、固まったエリックを見た。
「…、…」
エリックは何か言おうとしたが、言葉にならないようだった。
「エリック?」
レオンが言う。
「…」
エリックは涙をいっぱいに貯め、目をそらした。すん、と鼻をすする。
「──、ハヤミ、暫く休みましょう?」
エリックが、優しく言った。
「…」
速水は答えなかった。
「ほら…、大丈夫です。聞こえますか?横になって、これを付けて、目を閉じて…目は開けてはいけませんよ」
震えた優しい声で言われ、速水は大人しく横になった。目を閉じ、耳栓をする。
「私は少し、付いていますから、皆さんは…」
言われるまでも無く、皆がカーテンから出た。
ノアは、彷徨うようにして、ベスの個室の扉を押し開けた。
入って、すぐに床にどっと膝をつき、堪えきれないように、だが、口を押さえ。声をもらさないように、ひっぐ、としゃくり上げ。
「ぁあ…、あああっ、うぁあっ、うぁあっ」
堪えきれずに泣いた。
「ノアっ…、どうし―」
「ぁあ…、あああっ、っ、うぁあっ…っうあぁあっ…はやみっ…」
ベスがノアの背を撫でる。
「どうしたの…、ハヤミ、何て言ったの?」
ノアが、ずっと泣いている。
「珈琲を煎れましょう、って言った…」
ノアは床に額を付けた。
「カラス、が鳴いたら、お家に帰る!スズメは鳴いて、も、──ぁあ…ごめんっごめんハヤミっ」
ノアは泣きながら、分かった部分を繰り返した。
──珈琲を煎れましょう。
カラスが鳴いたら、お家に帰る。スズメは鳴いても大丈夫。
…お母さん。ツグミが鳴いたら休みましょう。カッコウが鳴いたら、洗濯物をしまって下さい…。雨が降りだします。
「俺──!!俺っ…ベスっ。俺…っ」
今まで、何やってたんだ!!
ノアはそう叫んだ。
ノアはひたすら床を叩いて泣き続けた。
ベスもわっと泣き出し、レオンもほぼ同じ様子だった。
余りに酷い心境で、言葉が出てこない。
出て来るのは涙だけだ。
「…っ…」
レオンは顔を手で覆った。
後悔と、馬鹿だったという思い。言ってくれれば、という悲しさむなしさ。
それで何が出来たという虚無感と少しの安心感。
言われた所で、きっと嘲り、異常者扱いして、遠ざけた…。
踊れているなら、問題無い──?勝っているなら、大丈夫?
速水は凄い奴だから──。ついて来られて当然。今日も勝つ。若いが頼りになる。
馬鹿だった。
──本当に、何でもっと早く聞かなかった!?
二人部屋で、あれ?と思う事があったのに。
踊って、倒れた日の真夜中、浴室から、すすり泣きが聞こえたのに。
…プライバシーとか、ストレスとか考えて。
ここが大変なんだろう、家に帰りたいんだろう、とかまるきり他人事で。
あえて聞かないと思った自分は馬鹿だ。
あの時、問い詰めていれば──。何とかなった?…そんな訳無い。今もって監禁中だ。
馬鹿野郎。
「…馬鹿だな。…運営は。世界平和なんて、無理だ…」
レオンが言った。
だが…運営よりもっと馬鹿なのは、俺たちだ──。
「あら。──そうかしら?」
かすれた低い声がした。個室の扉が動く。
レオン、ノア、ベスが振り返った。
「ちゃんとノックしたわよ?返事が無いんだもの!ハヤミは寝てるし、エリックはいつも私を無視するし!」
「―なんでここにいる!!運営のクソ犬が!」
レオンは睨み怒鳴った。
「―邪魔よ。帰りなさい」
ベスが言う。
「…」
ノアは何も言わなかった。ただ見ていただけだ。
「まあ、ずいぶんね」
「おい、ゲテモノ。お前…」
ノアは言った。まさか──。
「そう。あの子に言われた通り、来たのよ。自分が駄目になったら、チームに入ってくれって」
「―なっ」
レオンが目を剥いた。嫌な事を聞いた、と言う反応だ。
彼は、運営はすっこんでろ。見たくも無い!!そう言う心境だった。
「…一月、いえ、二月くらいかしら?休めば少しは良くなるんじゃ無い?それまで私が代わりに出るわ。何なら、外で入院させてあげても良いし」
「外で―?──出来るの!?」
意外な申し出に、ベスが詰め寄った。
「さあどうかしらね!まあ、前例は無いわね。さすがに無理かしら?」
ケタケタと笑う。
ノアが敢然と立ち上がる。
「ウルフレッドお前。何で協力する気になった?ハヤミの為か」
「いえ、世界平和の為に」
ノアはゲテモノの襟首を掴み歯ぎしりをした。
「真面目に答えろ…!!」
「アハハハカハ!!私はいつだって真面目よ。──ハヤミがナイフで一本取ったのよ。それで。お願いを聞いてあげたの」
…たかが一本、されど一本。ウルフレッドは感動した。
負けつまり死。約束通り、聞くことにした。
『俺が駄目になったり死んだりしたら、お前代わりにチームに入ってくれ。あと、お前達が目指す世界平和、多分、方向性が間違ってる』
速水はそう言った。
あら、そうかしら。ウルフレッドは顧みた。
『だって時間掛かりすぎ。ネットワークが出来て、何年だ?確か二百年って言ってたよな。それ、かなり遅いぞ』
確かに、もう二百年、全然進歩無いわね。
でも、ジョーカーだって、凄い案を考えてるのよ!まだちょっと、お金が足りないけど。
『へえ。何だ、ちゃんと考えがあったのか。じゃあ、世界平和だっけ?俺は俺のやり方で、ジョーカーよりも、もっと平和的に正しい方向性で今からやる。どうすればいいか、まだ分からないから困ってるけど』
あら、分からないの?
『だって今、考え始めたばかりだし。でも、二百年よりはマシだろ』
『──だから。もし、俺が正しい「答え」を見つけたら、こっちに寝返ってくれ』
―いいわよ。ってあら?いいのかしら?
『今すぐじゃ無いし、別にいいんじゃ無いか?』
「ってまあ、いけしゃあと。だから暇つぶしにダンスしながら、待ってみることにしたの。あ、私、ダンスそこそこ出来るから安心して!これから一緒に頑張りましょうね!!とにかく、世界平和の為に!」
「──、」
ノアは奇妙な顔をした。
そして、大声で叫んだ。
「お前、超馬鹿だろ!!」
〈おわり〉