六四話:変わらぬようで、そうでもなくて
「くぁ〜〜、っはぁ」
狭い部屋に眠たげな欠伸が溶けて消える。
欠伸の主は布団の上の枕の横に置いてあるリモコンを操作し、照明をつけるとゆっくり立ち上がる。
寝間着のまま部屋を出てスリッパを履き洗面所まで移動すると、手早く顔を洗い歯磨きを済ませる。そして自室へと戻り部屋着を脱いで予め机の上に用意してあったスポーツウェアへと着替える。
台所に向かい冷蔵庫へと手を伸ばし中にあったスポーツドリンクを飲んで机の上のバナナを口へと放り込み、残った皮をゴミ箱へと投げ捨てる。
「――っし、行くかぁ」
この世界へ〝転移〟してから二週間目の朝。気合いを入れた総護はランニングをするためにドアノブへと手をかけ、部屋から出て行くのだった。
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「腹減ったぁ、さぁて何食うかな――ん?」
約二時間ほど市街地を走り回った総護が帰宅すると、食欲を刺激する匂いが漂っていた。
「総ちゃん、おかえり〜」
パタパタと軽快な足音を響かせながら、涼しげなルームウェアにエプロンを身に着けた陽南がキッチンの方から駆け寄って来る。
「ただいま――って、なんでまだ家にいんだ? 休みは昨日までだったんじゃねぇのか?」
「それがねぇ、ウチが行く準備しとったら店長から『風邪引いた』って連絡があったんだわぁ。だけん今日は臨時休業になったわ〜」
ドクターの配慮もあり、総護達は日本の集落で生活していた。
集落と言っても『地下にある』ということや『偽物の太陽と空』ということを除けばごく普通の町並みだ。総護達の世界に比べてもあまり変化は感じられなかった。
ちなみに総護達が暮らしている少し古びた平屋の一軒家や働き口も全てドクターが短時間で手配したものだ。仕方がないのかもしれないが、何かとお世話になりっぱなしだった。
「もうちょっとでご飯の準備が終わぁけん、総ちゃんお風呂入ってくぅだわ」
「マジか、サンキュー」
本来なら総護以外は全員出払っている時間帯なので寂しい朝食となるはずだったのだが、期せずして温かい食事となることが確定したので総護の足取りは無意識のうちに軽くなっていた。
もう歩き慣れた廊下を進み自室に戻って着替えを手に取り、風呂場で汗を洗い流してからリビングへと向かう。
四人程度が座れるダイニングテーブルにはミネストローネやサンドイッチ、チキンソテーとシーフードサラダなどの料理が既に並べられており、朝食の準備がほとんど終わりかけていた。
「じゃ〜ん、盛り付けを喫茶店っぽくしてみました〜」
「さっすがウェイトレス兼厨房係、三割増しで美味そうに見えるなぁ」
もともと料理好きな陽南だったが喫茶店で働くようになってからその腕前がメキメキと上達していた。
「いただきます」
「いただきま〜す」
並ぶように椅子に座り、食べ始める陽南と総護。
「――うっま」
総護はまずミネストローネを口へと運び、咀嚼し飲み込んだ後、思わずそう口に出していた。
「ホント? やった〜」
嬉しそうに微笑む陽南の横で「いや、マジでめっちゃうめぇ」と感想を言いながら、総護は止まることなく食べ続ける。
そして食べながら――きっと同じレシピで作っても似たような味にはなるだろうが『同じ味』にはならないだろうと、総護はふと思った。
――もう既に心を掴まれているのに、その上胃袋まで掴まれているのだから総護がそう思うのも当然なのかもしれない。
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「総ちゃんは今日も上に行くだ? あ、洗剤取って〜」
「ほい。そうそう、陽南はどうすんだ?」
「ウチはどうするか考え中だわぁ」
「急に予定が消えりゃ誰でもそうなるわな」
陽南は総護と一緒に並んで洗い物を片付けながら今日の予定を考えていた。
(ウチ以外み〜んな仕事だし、どげすぅだぁ)
詩織は陽南が働いている喫茶店の隣にある大衆食堂に勤務しており、今日も既に出勤している。
ピー助はドクターにそのフットワークの軽さと器用さなどを買われドクターの家で子守などを任されていた。
総護はもう少ししたら地上へと出かける予定となっている。
買い物や掃除は昨日の時点で済ませてあり、残っているのは少しの洗濯物ぐらいで、突発的に空いた時間を埋めきるほどではなかった。
一応この世界にも娯楽の類は存在するがまだ元の世界ほど豊富ではないので、半日以上を一人で潰せるかと言われれば首を横に振らざるを得なかった。
「……とりあえず今日はもうちょっと鍛錬してから、ピー助のとこ行くことにすぅわぁ。どーせ今日も振り回されっぱなしだと思うけん、ウチが行ったが少しは楽になぁでしょ?」
陽南は『何もしない』というのが苦手なので、身体を動かしてからピー助の手伝いに行くことにした。
「そっか、ならアレも持ってくんか?」
「『あれ』って、なんのことだ?」
「昨日何個かケーキ買ってきたろ? ピー助も食いたがってたし、差し入れにゃちょうどいいんじゃね」
「あ〜、すっかり忘れちょったわぁ。だね〜、持ってくことにすぅわぁ」
そんな会話をしているうちに洗い物が終わり総護が最後の食器を拭いていた。だが、その動きが急にピタッと止まる。
「……? 総ちゃん、どげ――」
「――ケーキのこと喋ってたらすっげぇケーキ食いたくなってきたんだけどよぉ。洗いもん終わっちまったが……食後のデザートとか、どうよ?」
少なくともそんなに真剣に悩んだような声音と表情で言うことではないだろうと陽南は思った。
「ははっ、じゃあウチはアイスコーヒーの準備すぅけん総ちゃんケーキ取ってごさん?」
「いやいや、座って待っててくれよ。言い出したのは俺だしなぁ」
「そう? じゃあよろしく〜」
準備などを総護に任せた陽南は椅子に座りながら、改めて部屋を見回してみる。
日用品が増え、個々の私物が増え、住み始めた当初と違いこの家もかなり生活感が出ていた。
「こうしちょうと、全然分からんね〜」
「何がだ?」
「ここが違う世界ってこと」
「確かに、普通に生活してりゃあそんな変わんねぇしなぁ。っと、苺でいいか?」
「いいよ〜」
目の前に置かれた苺のショートケーキにスプーンを入れながら陽南は少し前を思い返していた。
『――「武者修行」のために渡って来た、ねぇ』
『信じられませんか?』
『いいや、信じるよ』
『ですよね、信じられま―――あ?』
総護が正直に話したところドクターの警戒が意外とあっさり解けてしまったのだ。こちらとしては何か悪さをするために来たわけではないので問題なかったのだが、いささか拍子抜けではあった。
しかし、それは互いの警戒心が綺麗に噛み合ってしまった結果拗れてしまっただけなので、しっかり話し合えば簡単に解決できるというもの。それからはドクターとは良好な関係を築けていると陽南は感じていた。
そうでなければ、実の娘の子守を頼まれるはずもないのだから。
――ただ、そんな記憶や思考も一口食べただけで幸福感が溢れ出す甘さに上書きされる。
「ん〜〜、おいひ〜〜」
口の中にいつまでも残る嫌味のある甘さではなく、溶けるようにサッと消えていく生クリームの優しい甘さ。
ふんわりとしたスポンジ生地や苺の甘さと酸味がほどよく絡み合い、陽南の顔から笑みが溢れる。
(これは当たりだわぁ。でも、気をつけんといけんねぇ)
その店は買い物帰りに偶然見つけただけに過ぎないが、これからもお世話になりそうだと陽南は思った。それこそ自重しなければ買い過ぎてしまいそう、とも。
何気なく隣の総護に目を向けた陽南。当然ながらそこには美味しそうにケーキを食べる総護がいる。
(……久々の二人っきりだけど、総ちゃん全然普通だがん)
およそ二年前から陽南の人生は劇的に変わった――のだが、あまり変わっていない部分もある。
(近すぎたってことだぁか〜?)
あの日を境に『幼馴染』という立場は『恋人』へとステップアップしたはずなのだが、たまに思ってしまう。
(何も変わっとらんよね〜)
子供の頃から互いに距離感が近かったことや、剛や鳴子達との修行に時間が奪われたことも言い訳とすれば挙げられるだろうが、それにしたって変わっていなかった。
――そんなことを考えていただけであって、別にケーキのほとんどを食べ終わった総護が口に運びかけていた苺を見ていたわけではない。
だが総護は苺を見ていたと思ったのだろう。
「……食うか?」
フォークで刺したものを陽南の口のすぐ手前へと差し出してきた。
(け〜、なんで『しゃあねぇなぁ』みたいな顔しちょうだ〜? まぁ……食べぇけどっ)
その揺れた感情の勢いのまま、陽南は口を開き――
「あ〜んっ!!」
――パクッと苺を食べた。
そんな陽南の食べる様子を見ている総護は微笑ましいような表情を浮かべており、なんというか……満足そうだった。
その表情を見たとき、陽南はひらめいた。
(『鳴かぬなら鳴かせてみせよう』ってね〜)
少しばかりの他愛もない会話を挟み、コーヒーを飲んで一息ついてから陽南は行動を開始する。
「……総ちゃん、口の右のとこにクリームついちょうよ?」
「マジで? 全然気付か――」
総護が右手を動かすよりも早く、陽南は顔を近付けて唇のすぐそばに触れる――自身の唇で。
「――――な、ぁ〜〜っ!?」
意識していないのなら、意識させればいいのだ。
それがなんだったのか理解が追いついたのか、総護の顔がカッと熱を帯びた。
「――へへっ」
思いつきのイタズラみたいなものだが、遅れて釣られるように自身の顔も熱を持ったのをハッキリと感じる。
(子供っぽかっただぁかぁ? それに、けっこう恥ずいわぁ)
後になって後悔に似た感情がやって来るが、総護の様子を見て陽南は目的は達成したと判断した。
今は『種を蒔いた』状態で、『発芽はもう少し先』なのだと。
しかしながら陽南は一つ、根本的な勘違いをしている。
(―――、ぇ―――)
仮に敵意や殺気が混じっていれば陽南も反応できていただろうが、そこに込められていたのは正反対の感情。
単純に予想外、想定外というのもあったのかもしれない。
優しく抱きしめるように腰へと回された両腕に引き寄せられたと思った瞬間、
「――んっ」
――唇を塞がれた。
時間にすればたった一瞬。しかし陽南にとっては数分にも感じられる。
「お返しだ。嫌、だったか?」
「――っえ、ぃや、あ、別に、ぁ、そのぉ」
その反撃は陽南から思考能力を奪うには十分以上の威力を持っていた。
総護は意識していないのではない。
――意識している。
――それはもうめちゃくちゃ意識している。
――故に鉄の理性で抑え込んでいる。
もしなにかの拍子に想いの箍が外れかければ、総護だって止まらなくなってしまう。
「陽南。今日は、休みって言ってたよな……?」
「そ、総ちゃん?」
陽南の腰に回された腕が解ける気配は一向に無い。むしろだんだんと力強くなっているような気が、
――ピンポーン。
「おはよう総護君、迎えに来たよ〜」
ドクターが来たのはそんな時だった。
「っ、はーいっ、了解ッス」
手を離した総護は若干気まずそうに陽南から離れ、早足で自室へと向かい始める。
「じゃ、じゃあ、俺行ってくるわ。悪ぃな片付けれなくてよ」
「あ、うん、気にせんで? いってらっしゃ~い」
そうして慌ただしく出ていく総護の姿を見送った陽南。
「うわ、うわっ、〜〜〜っ!!」
一人になり、嬉しいやら恥ずかしいやら、陽南は火照った顔を冷ますようにパタパタと両手で仰ぐ。
一気に上昇した体温に早鐘のような鼓動。主にそれらがこれが現実であると強く主張していた。
唇に確かに感じた――甘く、優しく、少だけ酸っぱい味も含めて。
――きっと少しずつ変わっている。いや、変わっていく。
そんな予感を感じさせる、朝のデザートタイムだった。




