under the bed
この物語を、MSKHに、捧げる。
この物語は、魔力を持っている。
何度も、物語から離れてみたが、しばらくすると、わたしは、知らず知らずのうちに、物語のなかに戻っていた。
こうして、何年もの歳月をかけて、物語は、紡がれた。
ベッドの下の冒険【 Under the Bed 】
第一部
序 章
ある朝のことだ。
山に山菜を採りに入ったハイカーが、熊に襲われたというニュースが、テレビで放送された。
三人で山に入り、ふたりが殺され、ひとりが生き残ったという。
生き残ったひとりは、熊ではないという。
二本足で立ち上がった巨大なトカゲのようなものだったという。
街の昼間のことだ。
たくさんの人が、街にあふれている。
そんななかで、惨事が起きた。
人が食われたのだ。
食われたと言っても、その現場が目撃されたわけではない。
食われた人間が、見つかった。
大きな牙の痕が、身体のあちこちに残っていて、その部分の肉が、ごっそりとなくなっていた。
夜のことだ。
闇が、動いていた。
街の片隅が、闇に飲み込まれていた。
誰にも気づかれず、じわりじわりと、闇が、街を、飲み込んでいた。
闇のなかに居た人間は、自分が消滅したことに気がつかなかっただろう。
闇は、音をたてずに、街を飲み込んでいた。
第一章 クーカイ
「・・・おばあちゃん、この猫、変わってるね。だって、しっぽが二本あるよ」
陶器でできた片目の猫は、今にも動き出しそうなくらいリアルだった。
「それに背中の刀も、本物みたいだね」
猫の背負った刀剣は、鋼でてきていて、胸のところに、赤い紐で括られていた。
はじめ、猫の表情は、ひょうとして、つかみどころのない印象をうけた。
つかみどころのない印象は、一見、愛嬌のある顔立ちにも見えた。
が、しかし、片目を覆う葉っぱの形の眼帯が、なんともいえない妖気をただよわせていて、その愛嬌というイメージを打ち消していた。
眼帯の下はどうなっているのだろうと思うと、ノリトの背筋にゾクリとしたものが浮かび上がった。
実際、背負った細長い刀剣を見れば、この猫が戦士であることは間違いない。
茶と白と黒と、汚れた灰色が混ざった三毛猫は、二本の足で立ち上がり、しっかりと大地を踏みしめ、がっしりとした体躯からは、ゆらゆらとオーラが立ちのぼっていた。
刀剣の鞘の部分は、赤と緑と青の細い糸で刺繍され、燃え盛る炎のようにも、万華鏡をのぞいた時のキラキラとゆらめく不思議な図柄のようにも見えた。
見事に美しい、この刀剣に、ノリトのこころは、とらわれていた。
柄の部分は、黒曜石のように黒く、しかも深く、吸い込まれそうな透明な石でできていて、小さく真っ赤な三角形の石がはめ込まれていた。
ノリトは、刀剣の柄を引き抜いて、ぎらりと光る刀身をみたくなった。
一度、その願望が頭をもたげると、その望みは、みるみるふくらんだ。
そんなノリトのこころを見透かしたかのように、おばあちゃんの眼が光った。
「刀を、抜いてみようなんて思わないでね。刀は、魔力によって封じられているのよ」
「わかったよ」
ノリトはしぶしぶ、答えたが、ノリトの眼が、刀剣から離れることはなかった。
猫は、百年生きると、しっぽが割れて不思議な力を持つそうだ。
それから、おばあちゃんは、その三毛猫の置物にまつわる物語を聞かせてくれた。
この三毛猫は、おばあちゃんのおばあちゃんの、そのまたおばあちゃんのころには、神社に祀られていたと言う。
三毛猫は、神話の世界に出てくるイザナミという女神さまの眷族で、日本が「ひのもと」と呼ばれた大昔から、この国を守ってきたという。
猫の背負う美しい刀剣は、天の叢雲の剣という神話時代の聖剣と同じときに打たれた兄弟剣だと言う。
神話時代という話が本当だとすれば、二千年以上前の話だ。
ノリトは、おばあちゃんの話が、少し大げさすぎるようにも思えた。
でも、ノリトは、それを口に出さなかった。
おばあちゃんの機嫌をそこねたくなかったからだ。
機嫌さえそこねなければ、この美しい刀剣を、手に入れるチャンスがあるかもしれないと思えた。
そんな邪な気持ちが、ノリトのなかに芽生えていた。
ほしい。
ノリトは、目の前の不思議な刀剣に、心を奪われていた。
おばあちゃんの不思議な話は、ノリトの想像力をかき立てた。
そして、この美しい刀剣がかいくぐってきた幾多の冒険が、刀剣の価値を、さらに大きくしていった。
こうして、ノリトの邪な気持ちも、大きくなっていった。
「おばあちゃん・・・」
ノリトが、口をもごもご動かして、次の言葉を探していると、おばあちゃんが思いもかけない言葉を口にした。
「いいわよ。一晩だけよ」
◆
【 その時、なぜ、おばあちゃんの真意に気がつかなかったのか。
時が過ぎて、それを思ってもしかたがない。
そのことに気がつくのは、もっとずっと後のことだ。 】
おばあちゃんは、意外にも、すんなり、三毛猫をかしてくれたのだ。
それが、どんな意味を持つのか、どこへノリトを連れて行こうとしているのか・・・頭をもたげた邪な気持ちに、すべては、掻き消されていた。
◆
おばあちゃんが、話してくれた三毛猫と悪鬼との闘いや、龍との闘いといった不思議な話が忘れられなくて、ノリトは、夜遅くまで寝付くことが出来ずにいた。
思えば、寝る前のTVゲームも、よくなかったかもしれない。
おばあちゃんの不思議な話のせいで、出てくる戦士が、自分に思えたり、対戦相手が、三毛猫や龍に思えたりしたのだ。
眠れないのは、ゲームで、久しぶりに興奮したせいもあるのだろう。
やっと、うとうとしかけたとき、奇妙な胸騒ぎがして目が覚めた。
枕もとの時計を見ると夜中の二時少し前だ。
目の前に、ぼんやりと、本棚が見えている。
小学校に上がったとき、おばあちゃんがプレゼントしてくれた本棚だ。
もともとは、おばあちゃんちの応接間にあった。
床に接した本棚の足が、猫の足になっている。
不思議な雰囲気をただよわせる本棚だ。
ノリトの寝ているベッドとは、反対側の壁に固定されている。
本棚の高さは、ノリトの背よりすこし高い程度だ。
その本棚の真ん中の段に、ノリトのお気に入りの猫コレクションが並んでいた。
ノリトは、猫コレクターなのだ。
この不思議な猫足の本棚に影響されて、猫の小物をあつめるようになった。
木でできたジョバンニ。
ガラスの細いシッポをかわいくくねらせた太っちょユウタ。
まるで小さなおだんごみたいなスザーナ。
七宝焼きでできた虹ネコのサスケ。
ポストカードの中のシンゴ。
土器猫のプウタ。
猫たちには、みんな名前がつけてある。
おばあちゃんちから借りてきた陶器の三毛猫もそこに居る。
・・・はずだった。
と、その時、
“ どくん ”
ノリトの心臓が大きく鳴った。
茶と白と黒と、汚れた灰色の混ざった三毛猫の姿が消えていたのだ。
ない!
ノリトの額に、汗が浮き出た。
心臓がさらに、音をたてる。
どくんどくんという音が一気に大きくなって、部屋中に響いたように思えた。
ノリトは急いで部屋の電気をつけ、猫コレクションをもう一度、ゆっくりと確かめた。
どんなに見直しても、おばあちゃんちから借りてきた、まだ名前のない三毛猫の姿はなかった。
どうしよう。
おばあちゃんに、なんて言おう。
おばあちゃんへの言いわけが、頭の中をぐるぐるまわりはじめた。
“ 探さなきゃ ”
ノリトの頭の中で、おばあちゃんへの言いわけや、楽観的な希望、相反する深刻な絶望、いろんな気持ちがごちゃまぜになって、どんよりと重い塊になった。
本棚の猫足と、床との間には、少しだけど隙間があった。
もしかしたら、本棚と床の隙間にはさまってるんじゃ・・・
ごちゃまぜになった不安の中から小さな希望を拾いあげると、ノリトは床に腹ばいになった。
格好わるいなんていってる場合じゃなかった。
床と本棚との隙間は、大きくない。
ノリトの手のひらには収まるが、それでも、この隙間よりは大きい。
そんな三毛猫が、この隙間に、はさまるはずはない。
冷静に考えれば、わかりそうなことなのに、その余裕が、今の、ノリトにはなかった。
腹ばいになって、隙間をのぞき込んだノリトの頬が床に触れたとき、ジャリッとした感触があった。
けれども、脈打つ不安のほうが大きくて、その感触は、脳に伝わらなかった。
ノリトは、棚の下の暗やみをじっと見つめ三毛猫の姿を探したが、それらしいものはなかった。
やっぱり、だめだ。
ノリトの小さな希望は、ズキズキと痛みをもって絶望の闇に落ちていった。
どうしよう。
部屋中を探すしかなかった。
自分で、覚えていないことがあるのかもしれない。
部屋の中をぐるりと、見回してもても、見えるところに、三毛猫の姿はなかった。
見えないところといえば・・・ベッドの下?
藁にもすがりたいノリトの頭脳は、すでに冷静な判断をうしなっていたのかもしれない。
ノリトは、床に腹ばいになったまま、顔を反対側に向けた。
その時だ、
頬に付いていたジャリッとした感触のものが、ぱらぱらとノリトの口の中に落ちた。
“ うっ。しょっぺ ”
それは、塩辛かった。
なんだこれ!
口のなかで、それが、砂だと認識するのに、時間はかからなかった。
“ 塩辛い砂だ ”
ささいな刺激が、冷静さを取り戻すキッカケになる。
塩の味が、ノリトを覚醒させたかにみえた。
猫コレクションの並んだ本棚の下から、同じような砂粒が、部屋の床の上を点々とベッドの下に向かって横切っていた。
ネズミ?
一瞬、ネズミが、ニンジンをくわえて走る姿が、頭に浮かんだ。
つぎの瞬間には、ネズミのくわえているニンジンが、おばあちゃんちから借りてきた三毛猫になった。
ノリトは、クモのようにはいつくばった格好のまま、いそいで、部屋を横切り、ベッドの下をのぞき込んだ。
ベッドの下の隅のほうは暗くなっていてよく見えなかった。
闇の中に、ふたたび三毛猫をくわえたネズミの姿が浮かぶ。
“ ネズミの野郎! ”
炎のような熱い怒りが、ノリトを支配した。
ノリトは、ためらいなく、ベッドの下にもぐりこんだ。
目の前の暗闇に、吸い込まれるようにして砂の跡が続いていた。それをはらばいになって追った。
すこし進むと、ひんやりとした風が、闇の奥から吹いてきた。
風は、ノリトの目の前で、ためらうように立ち止まったかに見え、それから、ゆっくりと、ノリトをつつみこんだ。
ふうー。
と、思わずノリトの口から、呼気がもれた。
そのたった一回の呼吸が、ノリトの熱気を冷まし、落ち着きを取り戻そうとした。
それでだろうか、
何かが違和感となって、ノリトを不安にさせた。
その違和感の正体は、すぐにわかった。
広さだ。
ベッドの下の広さだ。
ベッドの下って、こんなに大きな空間だったろうか。
しかし、そんな不安も、後ろを振り返ることで、すぐに解消された。
振り向いた視線のその先には、部屋の明かりもちゃんと見えていたし、頭をつっこんだベッドの縁も見えていた。
“ 気のせいだな ”
ノリトが、安心して前に向きなおった、その時だ。
暗闇の中から、かたん、と小さな音がした。
ふたたび、音のほうに、ずりずりと前進する。
薄闇のなかに細長い刀を背負った三毛猫の後ろ姿が、ぼんやりと見えた。
やっぱりネズミの仕業か。
脳裏に浮かんだ、三毛猫をくわえて走るネズミの姿は正しかったのだ。
ノリトは、もうしっかりと落ち着きを取り戻していた。
目の前の三毛猫から目をはなさず、注意深く、まわりの気配をさぐった。
ネズミの気配はなかった。
“ ネズミに、ベッドの下に置き去りにされたんだな ”
“ なんでもいいや、三毛猫さえ見つかれば、問題なし ”
ノリトは思った。
三毛猫の後ろ姿は、手をのばすせば届きそうなところにあった。
ノリトが、ぐっと手をのばす。
三毛猫の後ろ姿がグラッと傾いたように思え、手がそれをつかんだ瞬間、ノリトの身体が斜めに滑って落ちた。
えっ、床が抜けた!!
と、思っているうちに、ノリトは冷たい地面に、まるで滑り台を頭から降りたように顔から着地していた。
漆黒のなか、まん丸いお月さまが眼のなかに飛び込んできた。
あたりがひんやりして冷たかった。
手に、ごわごわとした触感があった。
【 お月さま 】と、【 ひんやり 】と、【 ごわごわ 】は、ほぼ同時だ。
そして、この声も、同時だった。
「び、びっくりするじゃねえか、て、手をはなせ!」
「!?・・・」
ノリトには、何が起こったのか、まるで、わからなかった。
ベッドの下で混乱し、一息ついた気持ちが、ふたたび混乱のなかにあった。
まるで、ジェットコースターのようだった。
「お、おめえの手の中だ。は、はやくはなせ、く、苦しいじゃねえか」
声が、苦しそうにうめいた。
ノリトの手の中で、ごわごわしたなま暖かいものが動いた。
ノリトは、反射的に、ビクっとして手をひろげた。
茶と白と黒と、汚れた灰色が混ざった、まだ名前のない三毛猫が手の中からころげでた。
そいつは飛び起きるように立ちあがると、
「ひでえことするなあ」
と怒った。
まだ、ノリトには何が起こっているのかわからない。
三毛猫は、そんなノリトのことなどおかまいなしで、
「おめえ、オレの刀を勝手に抜いただろ。だからさなあ、大変なことになっちまったんだよ。このおとしまえ、どうしてくれるんだい」
と言った。
猫の声は低く、ざらざらしていた。
月明かりの下、ひんやりした空気と、静寂と、猫の声が、ノリトの目の前にあった。
「しんこきゅうぅ」
猫が唐突に、言った。
普段なら、突然、こんなことを言われたら、目が点になるだけだと思うが、なぜだか、その声が、おばあちゃんの声に聞こえた。
そうだ・・・
混乱したときには、まず、深呼吸だ。
ノリトは、おばあちゃんに教えられた呼吸法『真呼吸』を思い出した。
まず、感じたのは、冷気だ。
霊気といっても良い。
一回の真呼吸で、頭と気持ちが冷えて、さっきの声が、頭の奥にしっかりと届いた。
猫だ。
三毛猫の夢のなかだろう。
そんなことを、一瞬のなかで思った。
こうして、頭の奥に届いた猫の声が何を言っているのかを理解した。
“ 刀を抜いた ”
ノリトの記憶にヒットするものがあった。
“ ああ、そういえば・・・ ”
おばあちゃんちで、猫の背に背負われた立派な刀剣をみて、実際の刃先を見てみたくなった。
その誘惑に、その邪な誘惑にたえられずに、刀に触ってしまったのだ。
一度目は、おばあちゃんに止められた。
「ダメ! 絶対に抜いてはダメよ。刀を鞘から抜くと大変なことが起きるって言われてるのよ」
そう言って、止められた。
それでも、それでもだ、結局、ノリトは、好奇心に勝てなかった。
おばあちゃんが台所に立ったちょっとした隙に、刀を抜いてしまったのだ。しかもその時、ドジなことに、指先をほんの少しだけど切ってしまった。
一回の『真呼吸』で、ノリトの頭脳は、さまざまな出来事を整理していた。
これが、おばあちゃんに教えられた真呼吸の力だ。
真呼吸は、インドに伝わるヨーガのひとつらしい。
人間の身体のなかに、眼には見えないスシュムナー管という、もうひとつの血管のようなものがめぐっている。
その管を活性化させるのだ。
すると、一瞬のうちに、頭脳が研ぎすまされて、ふだんの何倍もの回転をする。
“ ふー ”
三毛猫が、ゆっくりと白い息を吐いた。
「抜くなって、言われただろう」
三毛猫は、なおも言って眼帯におおわれていないほうの眼で、ノリトをジロリとにらんだ。
ノリトは、その片ほうの目を、まじめな顔で、じっと見た。
一瞬、
もう、一瞬、
さらに、もう、一瞬、
三毛猫の眼のなかから、にやりとした笑みが伝わってきた。
三毛猫は、ノリトをにらんでいるのだが、その眼球の奥に、笑いがひそんでいるように感じられた。
フェイクだな。
ノリトは、三毛猫を見据えたまま、そう思った。
すると、三毛猫の顔は、おばあちゃんちではじめて会ったときのような、ひょうとした印象になり、愛嬌のようなものが感じられた。
その愛嬌あるイメージは、今度は、眼帯の怪しげな雰囲気に消されることなく、ノリトのこころに残った。
“ ああ、いつもの夢だな ”
いつもの夢だ。
ノリトは、思った。
ノリトの特殊な能力、夢見の力だ。
ノリトは、小さいときから夢の中に入り込むことができた。
はじめは、朝起きたときに、見た夢をリアルに覚えているだけだと思った。
バーチャル。
仮想現実。
現実のように思える現実ではない夢の世界。
痛みや、味覚といった感覚をともなっている夢の世界だ。
夢の中で思ったり、考えたり、行動できる変な夢だ。
幽体離脱と似ていると思ったこともある。
そんな夢見の特殊能力を、ノリトは持っているのだ。
しかし、そのことを、父さんや母さんに話したことはない。
話をしても、おかしく思われるだけだからだ。
それくらいのことは、六年生になれば、もうわかる。
大人というのは、不可思議を奇異な目で見、それを避けたがる。
現実的な理由をつけ、科学で証明したがる。
まじめに、そんな話をしたら、病院に連れて行かれかねない。
この力のことは、ノリトとおばあちゃんだけの秘密だった。
コレクションの猫たちと夢の中で、話をしたり遊んだりできる不思議は、なんども体験済みのことだ。
だから、今も、そのことが起きている。
いつもとちがうことと言えば、夢へ入ったプロセスがわからない。
ノリトの特別なこの力は、どこで夢に侵入し、どこで、夢から抜けでるかが、あるていどコントロールできる。
いつもなら、 どこから夢なのかわかるのだが、今日の夢はわからない。
夢は、完璧にコントロールできるわけじゃない。
だから、イレギュラーも起きる。
そんなときの対処法も、心得ている。
三毛猫のことを考えながら、眠ったからなんだ。
眠りに落ちるまで、ずっと、三毛猫のことを考えていたからなんだろう。
目が覚めてみればわかるさ。
そう考えたら、気持ちがすうっと楽になった。
【 いつもの夢だ 】 ノリトは、ひとりごちた。
そんなノリトの心を見透かしたように、ぼそりと、三毛猫の声が聞こえた。
【 悪いなあ。こいつはなあ、いつもの夢とはひと味ちがうぜ 】
三毛猫をじっと見ていたが、三毛猫の口は動かなかった。
三毛猫は、直接、ノリトのこころに話しかけてきた。
こういうことも、夢の中だからできる。
よくあることだし、 夢の中だということが、より、はっきりした。
しかし、次に、届いてきた三毛猫の言葉には、驚いた。
【 おめえなあ、刀を抜いただけじゃなく、そんとき、指切っただろ 】
【 クックック 】 三毛猫の含んだわらいだ。
三毛猫の言葉に、ノリトは、ドキリとした。
“ ? どうして、知ってる? ”
どうして、そのことを知ってるんだ?
切ったのは、ほんの少しで、おばあちゃんにだって気づかれなかったのに..。
それどころか、おばあちゃんには、刀を抜いたことだって、気づかれていないはずなのだ・・・。
ノリトの頭のなかに、瞬間、光が走った。
【 読まれたか?! 】
夢の中では、相手にこころのなかを読まれることがある。
力が強いほうが、弱いほうの、こころのなかを読むことが多い。
自分のこころのなかを読まれたとすると、三毛猫の力は、あなどれないと思う。
ノリトは、こころのドアをしっかりと閉めた。
「 クックックッ 」
こんどは、三毛猫の口が動いた。
【 とりあえず、あやまろう 】
ノリトは、冷静だった。
ドキリとして見せたのは、三毛猫の眼の奥の笑いのフェイクに対するこちらがわのフェイクだ。
こういうときは、様子をみるのが、夢のなかの鉄則だ。
この夢が、どういう夢か。
なぜ、この夢を見ているのか?
この先、夢の進む方向が見えてくるまでは、強気な態度はひかえるべきだ。
自分の夢の中とは言っても、自分のほうが有利とはかぎらないからだ。
強気にならない。
イレギュラーに対する対処法のひとつだ。
「ごめん。勝手に、抜いちゃって」
ノリトは、小さな声で謝った。
三毛猫は片方の眼で、ノリトを、にらんだまま、にやりと口の端をつりあげ、
「ごめん、かあ」
三毛猫は、しゃあねえなあ、というような表情になって、問いかけてきた。
「おめえなあ、刀を抜くときに、なーんにも思わなかったのか? 刀が抜けないように、紙が貼ってあっただろ?」
ノリトのあごが、二度、三度、上下した。
うん。
うん。
ああ。そう言えば・・・
【 そう言えば、なんだ 】
タイミングをはかったような、三毛猫の声だ。
刀を鞘から引き出す時、なんか紙が貼ってあって、うまく抜けなかったことを思い出した。
「今どきのガキは、おふだってもんをしらねえのか?」
三毛猫の口が動く。
「おふだ?」
「そうよ。やばそうなものを封印するときに使うまじないの紙よ。わざわざ、それを剥がして抜くヤツがいるとはなあ。あきれたもんだ」
さっきまで、注意して見ていた三毛猫の口元と表情が、いつのまにか見えなくなっていた。
静寂の闇の中で、三毛猫の背後が、ぼんやりと青白い光を明滅させて、三毛猫の表情は、光の陰になっていた。
その青白い光が明滅するたびに、三毛猫の背中に突き出ている刀剣の黒い影が、くっきりと浮かび上がった。
三毛猫の背には、おばあちゃんちで見たときと同じように、りっぱな細くて長い刀剣が背負われていたのである。
なぜ、今の今まで、その刀剣に気がつかなかったのか。
しかも、それは、おばあちゃんちで見たときよりも、ずっと大きく見えた。
ゾッとする美しさがあった。
「どうだ、美しいだろう。封印がとかれて、この剣は、戦闘状態にあるのよ」
三毛猫の声が、神々しさを持って、ノリトのこころに響いていた。
おばあちゃんちで芽生えた邪なこころが、ふたたびノリトを支配しようとしていた。
「戦闘状態?」
「そうよ。この剣はなあ。生きているのさ」
ノリトの好奇心が、メキメキと音をたて頭をもたげた。
小学校六年生の好奇心だ。
押さえても、押さえきれない好奇心だ。
自分の置かれた立場を忘れてしまう好奇心だ。
時々、この好奇心のおかげで、痛いめにあう。
それでも、止められない好奇心が、刀剣の青白い光に触発されたように、ノリトを飲み込んでいた。
だからだ。
だから、後先を考えずに、三毛猫に聞いてしまったのだ。
「何を封印してあったの?」
と、
こちらから首を、突っ込んだのだ。
一瞬・・。
沈黙があった。
その一瞬の間に、ノリトと三毛猫の視線が交差して、スパークしたように思えた。
「そうよ、この剣には、龍の魂が封印されてたのよ。剣の力が、龍の力を封じていたんだよ。誰かが・・・」
三毛猫の語尾が強くなって止まった。
三毛猫の片目が、ノリトをじろりと見た。
と、同時に、音にならないふくみ笑いが聞こえた。
【 クックックッ 】
こんどは、静かに、
「誰かが、封印を解いちまったんでなあ、龍の魂が放たれてしまった。そしたらよ、さっそくその龍があばれだしたんで、今から一戦やらかしに行くところさ、なあ・・・」
【 クックックッ 】
耳から聞こえる声と、頭の中に直接響く笑い声で、感覚がしびれたようになる。
考えが、うまくまとまらない。
偶然か、三毛猫に操られているのか。
そんななかで、 おばあちゃんの話が思い出されて、
“ 龍 ” という文字が、目の前に浮かび上がった。
「龍? おばあちゃんの言ってた?」
「ああ・・・」
おばあちゃんが、話してくれた三毛猫と龍との戦いの話だ。
三毛猫の片目が、らんらんと赤黒く濁った光を放った。
その赤く濁った片目は、ノリトをにらんだままだ。
「そうよ。おめえにはなあ、たんまり・・やってもらうことがあるぜ」
三毛猫が、そろりと笑ったように感じられた。
「たんまり?」
ノリトは、じんわりとにじんでくる笑いを押し殺した。
しかし、
しかし、と思う。
このもったいぶった、大げさな状況設定はなんなんだろう?と、思う。
三毛猫の表情が、険しくなればなるほど、ノリトには、それがなんとも、おかしく感じられた。
最初に得たひょうとした三毛猫に対する印象が、違和感を持てばもつほど、確信に変わってゆく。
それは、確信に近づいてゆくのだ。
ノリトは、三毛猫が、何か決め台詞を言って、笑い転げるのを待っていた。
ノリトの第一印象は、外れたことがない。
凄んでいる三毛猫が、凄めば、凄むほど、本当の三毛猫から遠ざかっていると思えばいいのだ。
この夢は、遊園地のジェットコースターと同じだ。
レールがすでに引かれていて、その先に、恐怖がある。
お決まりの設定された恐怖だ。
こんな設定は、はじめてだが、間違いはないと、ノリトは思った。
「近ごろのガキは、ほんとに言葉ってものを知らんのか。たんまりってのは、たっぷりということだ」・・・
三毛猫は、すこしうなずいてみせ、
「さあ、行こうぜ」
と、言った。
その、“ さあ、行こうぜ ”の部分から、大げさな雰囲気が消えていた。
三毛猫の凄みが、消えていたのである。
ノリトの予想した決め台詞らしいものはなかったが・・・。
ノリトの第一印象は、的を得ていたということだろう。
「ぼくも?」
それでも、ノリトは、大げさに驚いたように見せた。
舞台設定を壊す場面ではないと思ったからだ。
「そうだ。行くんだよ。まあ、夢だと思ってるんなら都合がいいさ。夢は夢で・・・。よけいな説明も、はぶけるしな・・・以上」
三毛猫の声から、殺気や緊迫感がいっさい消えて、なれなれしさに変わっていた。
何かを隠しているようにも、とぼけているようにも、感じられる。
しかし、夢の進行具合がはっきりしない以上、このまま進んだほうが良いように思えた。
だから、もうノリトは、三毛猫に、気圧されなくなっていた。
当たり前のように、ノリトが聞いた。
「終わったら、家に帰してもらえるの?」
意外な答えが、帰ってきた。
「ああ、とりあえずな」
とりあえず。か、ここは、しかたがないな。
ノリトは、こうして、三毛猫に、したがうことに決めたのである。
夢には、夢の流れというものがある。
途中で目覚めて、夢を終えるか、夢の流れに身を任せるか、どちらもできるときと、そうでないときがある。
夢の終結が自分でコントロールできないとしたなら、夢の流れに身を任せるのが一番いい。
おばあちゃんちで、見たときから、ただの置物ではないと思っていたが、ここまでとは思わなかった。
おばあちゃんも、三毛猫の話を、たんなるおとぎ話だと思っていないようだった。
おもしろくなってきたが、まだ、先が見えない。
ノリトは、自分が巻き込まれた不思議に興奮していた。
三毛猫のことは、なんとなく、憎めない。
すごんで見せたり、なれなれしくなったり・・。
こういうキャラも、キライじゃない。
三毛猫とノリトは、若干の距離をたもち、ならんで歩き出していた。
この時になって、ノリトは、三毛猫が自分と同じくらいの背丈になっていることに気がついた。
そうか、三毛猫の毛並みや、刀剣の美しさが、手にとって見たときよりもリアルに感じられたのは、このせいか。
自分が小さくなったのか、三毛猫が大きくなったのか、比べてみるものがないからわからなかった。
歩きながら三毛猫は、自分の胸に括ってあった赤い紐をほどき、背中の刀剣をつかむと、ノリトに向かって放って投げた。
「かしてやるよ」
剣が、放物線を描いて、ノリトの手もとに落ちてきた。
「えっ?」
ノリトは、剣を落とさないように、両手で抱きかかえるように受けとめた。
落ちてきた剣が、ノリトの両手の上に、ずしりと重みをもっていた。
三毛猫の思いもしない行動に、剣を抱きかかえたままノリトは立ち止まり戸惑った。
三毛猫も立ち止まり、ノリトのほうを向いた。
「欲しかったんだろう?」
三毛猫の口が両側につり上がり、殺気を含んで、ぞっとするような笑みに変わった。
「ちょうどいいさ。おめえが、やるんだからよ」
三毛猫の変化に呼応するように、しばらくノリトから遠ざかっていた恐怖が、頭をもたげはじめた。
「それが、欲しかったんだろ?」
三毛猫が、もう一度、言った。
刀剣のずしりとした重みが、恐怖に変化していた。
「そんな・・」
ノリトは、言葉を失った。
夢のなかのことは、仮想現実だと思う。
気持ちや、痛みは現実と変わらないが、事実じゃない。
しかし、事実ではないが、それで、命を失うこともある。
すべては、ベッドのなかで眠っているノリトの肉体につながっているのだ。
肉体は、痛みにも、気持ちにも、正確に反応する。
夢の中で衝撃を受ければ、実際の肉体も同じように衝撃をうける。
ノリトの肉体が、実際に持つ能力を超えることはない。
だから、夢のなかでも、危うさがある。
それに、ノリトの都合の良いように進行するとはかぎらない。
夢見は、夢を経験して、能力をあげていく。
夢見は、現実ではとうていかなわない環境で、自分のスキルアップをしていくものだ。
ノリトの秘密を共有するおばあちゃんから、ノリトはいつも聞かされていた。
【 夢のなかで力を発揮してこそ、いちにんまえの夢見なのよ 】
だから・・・。
だから、と思う。
夢の中で起きたことから、逃げることはゆるされない。
この試練を乗りこえれば、ノリトには、夢見としての大きなステップアップが約束されていると思う。
目の前に、かつてない試練のときがある。
チャンスなんだ。
ずしりと重い刀剣のリアリティが、手の中にある。
ひんやりとした鋼のリアリティが、手のひらに伝わってくる。
まるで心臓の鼓動にリンクするように明滅する青白い光のリアリティと、三毛猫の期待が伝わってくる。
いくつものリアリティが、ノリトを、夢のなかのルールへ引き込もうとしていた。
積極的な気持ちの動きに反して、まだ準備不足だ、という声もささやかれる。
選択というのは、相反する気持ちの、どちらかを選ぶということだ。
こころは、選択肢にたいして、常に相対的に、相反的に働く。
否定と肯定は表裏なのだ。
そして決定を求めるこころは、フィフティフィフティではなく、いつも否定のほうが大きい。
だからこそ、自らの否定を乗りこえる大きな力が欲しいと思う。
剣を扱ったことのないノリトに、戦いのイメージはない。
それが、唯一のマイナスカードだ。
気持ちがマイナス方向に動こうとするとき、必ず否定を覆そうとする力が現れる。
マイナスが現れれば、プラスが、プラスが現れれば、マイナスが生じる。
世界を統べる最上位のルールは、プラス、マイナスを均衡に保とうと働く力だ。
ノリトのマイナスカードに対するプラスの力は、好奇心だ。
ノリトの好奇心は、ひとなみはずれて大きい。
好奇心は、エネルギーの塊だ。
好奇心は、無限のエネルギーの塊のなかから湧いてくる。
好奇心は、実際の力を何倍にもしてみせる。
とまどうノリトを横目に、三毛猫は、おかまいなしで言う。
「封印を解かれた刀は、封印を解いた人間にしか力を発動しない。おめえが、おふだをひっぺがし、剣を抜いたとき、運命は決まっていたんだ。おめえが、龍を封印するんだ!」
ノリトは、その声に、ぞくりとした。
三毛猫の声は、時々、ひどく神がかる。
だが、ノリトは、冷静だ。
「真呼吸」が、発動しているからだ
試練を乗り越えれば、ステップアップするのは間違いない。
これまでも、ムチャをやってきた。
だが、迷う。
今度のことは、なぜか、迷う。
どうしたらいいんだ。
どうしたら・・・
迷っているノリトの頭の上に、しびれを切らせた怒りの声が降ってきた。
「できねえとはいわさねえぞ!! お、おめえ・・・・」
興奮した三毛猫の声が、さらに力を込めようと息を止め、息を吸いなおす。
「寝るが寝るまで、何やら四角い箱の中の怪物相手に戦士をあやつってたじゃねえか!!」
その落雷のような一喝で、ノリトの迷いが吹き飛んでいた。
?!
そうか!
そうだ!そうだ!そうだ!
自分で、剣を握ったことはないけど、戦いはおてのものだ。
どうして、こんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。
ノリトの頭の中を、見透かしたように、三毛猫がなおも言う。
「手に四角い筒のようなものを持って、振り回してただろう?」
「はい!」
ノリトは、力強く答えた。
夢は、イメージだ。
ゲームの戦いと同じだ。
迷いがなくなれば、思い出されることがある。
“ 真呼・螺旋法 (しんこ らせんほう) ”
おばあちゃんから習った真呼吸の応用編だ。
さっきまで、ずしりとしていた刀剣が、今は、ぴたりと手のひらに吸い付いていた。
【 真呼・螺旋法 】
形のない好奇心の塊を、形のある巨大なエネルギーとして物質化する法だ。
好奇心を、早鐘のように鳴っている心臓の近く置く。
“ ゆっくりと、早鐘にあわせてまわすんだよ ”
おばあちゃんの声が聴こえる。
どこまで、気持ちを増幅できるかが、勝敗につながる。
感情を増幅することは、必ずしも良い結果につながるとは限らないが、自分の持っている力を何倍もの大きさにする。
人間を動かしているのは感情の塊なのだ。
その感情の塊のなかで、もっとも大きなものが、好奇心だ。
小学校最高学年の今、ノリトは、自分が、大人と子どもの境界にいると思っている。
同じクラスの男子や女子が、テレビの中のアイドルを追っかけているのが、幼稚に見える。
音楽は、父にロックという音楽を教えられた。
メタルとかヘビメタと呼ばれるロック音楽だ。
爆音ギター、そのリフレインは、ノリトの皮膚にふつふつと変化する興奮を与え、頭のてっぺんから、つま先へ電流に似たエネルギーを流れさせる。
その音楽を、ノリトは、いつでも呼び出すことができた。
今まさに、ノリトは好奇心という無限エネルギーとメタルロックのリズムを得て、興奮を最大限に増幅する術をもっていた。
『 男の子は、どんなことがあるかわからないからね。この家に代々伝わるこころをコントロールする術を教えてあげよう 』
おばあちゃんは、ノリトが三年生になった夏休みに、それを教えはじめた。
それから三年、夏休みのたびに、おばあちゃんは教えてくれた。
それはいつしか、訓練のようなものへ変わっていった。
『 おとうさんより、素質があるね 』と、おばあちゃんのおすみつきももらっている。
その術では、芽生えた小さな興奮を、背骨にそって、上下に動かすのだ。
頭の上から尾てい骨へ、時には、その逆に、臍付近から頭の上へ、興奮を塊にして動かす。
興奮の塊が、しだいに大きくなる。
ビー玉くらいだった塊が、ゴルフボールに、野球のボールに、ドッジボールに、そこから先は加速度的に、直径が数メートルになるまでふくらんでいく。
イメージだ。
イメージだが、それは単なるイメージじゃない。
それは、ノリトの身体が一番よく知っている。
ドッジボールの大きさを超えた塊は、すでに物質化している。
エネルギーは熱をもって身体の外にまではみ出す。
はみ出したエネルギーは、波状に放射されている。
オーラと呼ばれる現象に似ていた。
エネルギーの密度次第で、放電現象も起きる。
そして、それをコントロールするのだ。
おばあちゃんには、そのエネルギーが見えるらしい。
たいてい、塊がドッジボールの大きさを超えようとするタイミングで、おばあちゃんの制止する声が聞こえた。
『 はーい。きょうは、ここまでよ 』
だから、それ以上の大きな力を扱ったことは、まだない。
だが、できる。
その確信は、あった。
「龍は?」
その言葉が、ついにノリトの口から出た。
「ついてこい」
三毛猫は、歩き出していた。
◆
こうしてノリトと三毛猫は、満月の下の月明かりの中を歩いている。
月明かりは、まぶしかった。
空に雲があり、月が雲に隠れると、月の光で雲の縁が燐光を帯びたように光を発した。
三毛猫から渡された剣も、静かな青白い光を、明滅し続けている。
静かだ。
静かだった。
月のあかりが、こんなにまぶしいものだということを、ノリトは、はじめて知った。
月明かりの下に、池があり、岩場がある。
道らしいものはない。
しかし、三毛猫は、とまどうことなく、そこに道があるかのように歩いてゆく。
唐突に、池のまわりに生えた葦のなかに分け入った。
すぐに水際にでる。
池の縁に沿って歩いてゆく。
しばらくすると、岸辺にふたたび岩場が現れ、それも越えた。
そんなことが、三度繰り返された。
どこをどう歩いたのか、ノリトには、わからなくなっていた。
三毛猫の足取りは軽く、通り慣れているように、迷いはなかった。
何度目だろう、目の前の葦の草叢をかき分けた。
と、突然、前方が開け、ぼろぼろに朽ちた小屋が立っていた。
かろうじて体を成している扉をあけて入ると、そこは、ノリトがよく知っているおばあちゃんちのいちばん奥の部屋だった。
やっぱり、夢だけあって、何でもありだ。
不思議な興奮が維持されたまま、ノリトは、そう思った。
「 いんぺーら 」
三毛猫が発した、その言葉は、そう聞こえた。
きみょうなその言葉は、かけ声なのか、合図なのか、そもそも誰に向けて言ったのかもわからなかった。
「ここ?」
ノリトは、三毛猫に聞く。
「ああ、ここだ。すこし待ってろ」
という三毛猫の言葉が終わるか終わらないかのうちに、部屋の東南の隅が、ぼんやりと黄色く光りはじめた。
生臭い、魚の腐ったような匂いが鼻を突いた。
ぼんやりと黄色く光る、その光のなかに、闇がわだかまっていた。
その中から、しゃがれた声がした。
「クーカイ。久しぶりだなぁ」
「ああ」
三毛猫は、驚かない。
どころか、そこにいる何ものかの正体を知ってるかのようだ。
「クーカイ。久しぶりの再会に、人間の子どもを、食わせてくれるのかぁ」
しゃがれた声の語尾が、へんに伸びている。
「そうなるかどうかは、こいつの腕次第だけどな」
三毛猫の声には、緊張感がなかった。
わだかまる闇の中の声の主と、三毛猫は知り合いのように思える。
闇の中の声は、この三毛猫を二度、クーカイと呼んだ。
ノリトが、不思議そうに三毛猫を見る。
「クーカイって、言うの?」
「ああ、そう呼ばれることもある」
三毛猫が、ニヤリと笑った。
クーカイ。聞いたことのある名まえだ。
なつかしい響きがある。
たしかに、聞いたことがある。
しかし、ノリトは、思い出せなかった。
黄色い光のなかにわだかまる暗闇の主は、まだ姿を現さない。
闇と黄色の光が溶けて、闇が光を発しているように見える。
時おり、シュウシュウとホースから空気の漏れるような音がする。
その音がすると、生臭い匂いが強くなる。
「あいかわらず、くせえなあ」
クーカイと呼ばれた三毛猫が、平然と、闇に向かって言う。
黄色い闇が、いつのまにか、どくんどくんと、ふくらんだり、ちぢんだりしていた。
その闇の中に、線香花火のように青白い火花が散る。
その火花が散るたびに、暗やみは、より黄色く光り、もくもくとした夏雲のようにも見えた。
その闇の中に、赤く濁った目が二つ浮かんでいた。
「くるぞ」
唐突にクーカイと呼ばれた三毛猫が言った。
同時に三毛猫のぎょろりとした片目が、ノリトを見た。
ノリトに、なにかを準備するヒマなどなかった。
一瞬の後・・・
闇の中の赤い目の下に、同じような赤い舌がチロチロと見えたと思った瞬間、ガッとワニのような口が開き、なまぐさい匂いとともに炎がすごい勢いで、吐き出された。
次の瞬間には、ノリトのまえに溶鉱炉のような熱気が迫った。
ノリトは思わず、三毛猫の陰にかくれていた。
三毛猫は、何ごともなかったかように立っていたが、ノリトは、三毛猫の陰で震えていた。
「だらしねえなあ。さっきまでのイセイ(威勢)はどうした!」
三毛猫が吐き捨てた。
さっきまで身体の中に充満していた興奮の塊が、一瞬であとかたもなく消えていた。
はじめての実戦は、あきらかにゲームとは違った。
ゲームとは違う現実感に、ノリトは言葉を失って、震えるしかなかった。
ノリトの中に生じた恐怖に反応してか、部屋のほかの三隅にも、同じ様な闇が騒ぎ始めた。
その中にも光る目が見える。
「どうした、さっきの威勢をどこに置いてきた?」
三毛猫が、震えているノリトに、追い打ちをかける。
「抜いてみろ・・・抜いてみろっていってるんだ!」
三毛猫が、怒鳴った。
三毛猫の怒鳴り声がしても、ノリトの手足は、がくがくとふるえるばかりだった。
「刀だ! 抜けっていってるんだ!」
声といっしょに何かが、ノリトの頬にあたった。
【 バチン 】という音とともに、衝撃が頭全体に伝わった。
それは、とても痛かった。
何が起きたのか、すぐにわかった。
三毛猫の妙に長い腕が、すぐ目の前に見えていたからだ。
そのショックでノリトはびくんとケイレンし、とっさに抱えたままの刀剣の柄を握っていた。
と、その時だ。
ぞわり。
刀剣に帯びていた青白い燐光が動いた。
瞬時に、燐光が、柄を通してノリトの手に絡み付く。
燐光は、青白く明滅しながら、ノリトの手を這いあがっていた。
まるで、青白いヘビが、腕を飲み込んだかのようだ。
手や腕が、ピリピリと電気を帯びたように痛い。その痛みが、ノリトの恐怖と緊張を消し去って行くのがわかる。
恐怖と緊張が、ヘビに食われて行くようだ。
消えていた興奮がよみがえる。
どくん。
その音は、心臓の音か、脳に走った電流かわからなかった。
ざざん。
身体が、興奮に振動した。
すげえ。
ノリトは、自分の身体の、思いがけない反応に驚いていた。
すげえ。すげえぞ。
さっきまでの恐怖が、あとかたもなく消滅していた。
重量感のあるドラムは、すでにリズムを刻んでいた。
だだだだだ。
どむ、だむ、だだだ、どむどむ、どむ、だだだ。
ギターの音が、ドラムに重なる。
ぎゅん、ぎゅん、ぎゅーん。ぎゅん。
ノリトは、臍の奥に、興奮の塊を置いた。
そこから、背骨にそって、興奮を上昇させる。
熱く燃えさかる興奮の塊が、身体中を巡るスシュムナー管を通して身体中に満ちてゆく。
「くるぞ」
ふたたび 三毛猫が、言った。
部屋の四方から、生臭い炎がぐわーっと吐き出され、ノリトと三毛猫は、炎のなかに消えた。
その炎のなかで、刀剣の青白い炎が、ノリトの身体全体をつつんでいた。
ノリトの興奮は、ノリトの鼻先で、ごおごおと音をたてて燃え盛る炎に耐えていた。
生臭い熱風が、ノリトをつつんでいた。
“ 眼に見える炎は、まやかしだ ”
三毛猫の声が、頭の中に聞こえる。
“ だまされるんじゃない。やつは一匹だ。一番汚く濁った目をさがせ! ”
四方の隅を、良く見ると、ひときわ大きく、赤黒く濁った目のヤツがいた。
“ 刀を抜け。抜いて、待ってろ! ”
ノリトは、抱えていた刀剣から、刀身を抜き、ゆっくりと鞘を床に置いた。
はじめて見る銀色の刀身に、ノリトはなぜか、懐かしさを感じた。
刀身には、ほとんど、重みはなかった。
銀色に光る刀身が、ぼんやりとした青白い光をまとい、ブーンと音を出して振動していた。
隣にいる三毛猫が何やら呪文のようなものを唱えはじめた。
その呪文は、ノリトの耳を通して、頭の中へ、こころの中へ、真言のように響いてくる。
「フーム。カギュラ、スレーラ、コギト、スメラ、スム。ノリト、刀に力を込めろ。しっかり握るんだぞ。闇が近づいたら、力の限り切り裂くんだ。わかったな。チャンスは一度っきりだ」
「わかった」
ノリトの頭の中に、RPGゲームがシュミレートされる。
イメージ・・スタンバイ・・増幅・・完了。
スイッチ、ON!
身体全体に満ちたエネルギーが、動き出すのと同時に、緊張が、極限にまでのぼりつめた。
どどん、という衝撃音が、全身の毛穴をひらかせた。
身体の表面に、静電気がスパークする。
胸の奥に痛みが走る。
興奮は痛覚だ。
その痛覚が、腕を伝って刀身へ向かうと、刀とノリトの身体を包んだ青白い燐光が、赤紫色に変わっていくのが見えた。
刀身の振動と、ノリトの興奮の塊とが共鳴して、刀が咆哮した。
ノリトはゆっくりと目を閉じた。
瞬間が、異様にながく感じられた。
自分の“ わかった ”という声が、まだ、耳のなかに残っている。
ノリトの準備は、瞬間のなかで終わっていた。
目の前の闇と同じ闇がある。
闇の中にひどくおびえた赤黒いの目が浮かんでいる。
ノリトが、目を開けた瞬間、ガッと大きな口が目の中に飛び込んできた。
轟と吠える炎が、ノリトを襲った。
炎がノリトの目の前に迫った時、上段にかまえられた切っ先が炎の上に振り下ろされた。
まっぷたつに断ち切られた高熱が、ノリトの横を過ぎていった。
闇の中の赤黒く濁った目が、ゆっくりと閉じ、暗い闇は薄れて見えなくなった。
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「ゲームオーバー。まあまあかな。はじめてだしな」
ひどくのんびりした三毛猫の声がした。
ノリトの全身から力が抜け、張りつめていた緊張がとけて、意識が遠くなっていった。
もう、立っていることはできなかった。
身体がぐらりとかたむき、意識がもうろうとしていく中で、三毛猫の声が聞こえた。
「しかし、おめえ、熱くなったり、ふるえてみたり、いそがしいやっちゃな。明日の夜、またな」
その声が、ひどくなつかしく思えた。
◆
「ノリト、ノリト、はやくおきなさい。まあ、どうしてベッドの下で寝ているの」
母さんの声で目が覚めた。
それにしても、すごいリアルな夢だったな。
一時は、どうなることかと思ったが、けっこう、面白かった。
ああいう夢なら、また見ても良いかも、ノリトは思った。
本棚のコレクションに目をやると、三毛猫は、そこに居て、背には、見事に美しいひとふりの細長い刀が背負われていた。
三毛猫の名前は、クーカイか。
ノリトは夢のなかのことを思い出していた。
それと、もうひとつ。
頬の痛みも、残っていた。これには、心あたりがあるが、思い出したくない。
思い出しても、自分のふがいなさが、思い出されるだけだ。
それにしても、
“ 痛ってえ ”
おもいっきりやってくれたな、クーカイ。
第1章 完