文化祭の帰り道
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先輩は、私のことをただの後輩としか思っていない。彼はいつもそうだ。私の気持ちなど知りもしないのだろう。
でも、そんなことを頭の片隅に考えつつも、私はそれで良いと思ってしまう。本当はこの関係が一番良いのではないだろうか、と。それは敗北宣言なのかもしれない。自分の心に嘘を吐き、恋を封じ込める敗北宣言。
私は、そんな気持ちを内心で封じながら、文化祭の余韻が残った帰り道を先輩と帰る。
既には時は夕日が沈み辺りは街灯が点灯する時間だ。普段ならばこの時間帯に下校するのは部活帰りの生徒だけなのだが、今日は異なっていた。いや、今日だけではなくここ三日間はこのような時間帯に下校をする生徒が多かった。それは、この三日間が文化祭という学校生活を彩る素敵な時間であったからだ。しかし、そんな学生にとって実りのある時間を終え、各々が下校をしていく。ある生徒は打ち上げに、ある生徒は友人の家に泊まりに、ある人はそのまま下校を。
そんな様々な生徒がいる中で、柏木七海は複雑な心中を抱え、目の前で俯き加減で自転車を押している七海よりも一学年上の男子生徒、滝野博の背中を見つめていた。
「ごめんなさい」
だが、その言葉を言うと同時に、自分が何を言っているのだという己を嘲笑するような気持ちが湧き出てきた。
滝野博は今日、意中の女性に告白をして振られてしまった。彼は文化祭中は何も無かったかのように振る舞っていたが、その反動が来たのかいつも軽口を叩く博は無口になってしまっていた。相当、失恋したことがショックなことは見れば明らかだった。
だが、問題はそこじゃない。問題だったのは、自分が教えた告白方法が仇となってしまったことだった。
博は後輩である七海に良く意中の女性のことを話、告白する計画を一緒に立てていたのだ。女性が好きそうな贈り物や告白のムードなどを七海に聞いた。七海も恋愛経験が無いに等しいのでそこまでの助言を与えることは出来なかったのだが、それでも嬉しそうに語る彼の横顔に、七海は嬉しくも感じ悲しくも感じていた。
七海は、先輩である博のことが好きだった。だが、この『好き』という恋愛感情は伝えられることの無いのだと七海は思っている。博には好きな相手がいて、自分など友人程度にしか思ってくれていないのだ。そう考えると虚しいという思いと共に、博のフォローをしたいという思いが湧いてきた。七海は博に自分の決して叶うことの無い思いを遂げて欲しかったのだ。
だから、出来るだけ七海は博に出来るだけ協力をした。相談をする度に楽しげな表情を見せる彼の横顔は七海にはとても素敵に思え、だがそれが他の女性のことを想っていると思うと、同時に切なさを覚えた。きっとこの感情も時が経過すれば風化する、そう考えても現状がどうしようも無かった。でも、この文化祭最終日まで相談に乗り続け、やっと全てを達成した気になっていた。
博は失恋をしてしまった。理由は二人が予想していないもので『堅苦しい人は少し‥‥‥気持ちは嬉しいけど』というものだった。
この告白の方法を考えたのは自分だ。
それなのに何が『ごめんなさい』だ、白々しいにも程がある。
「七海ちゃん、僕は大丈夫だよ。君が落ち込むことは無いさ」
博はそう無理やりの作り笑顔で答える。けれども、該当の無機質な明かりが顔を照らし陰りをつけているせいだろう、憂鬱な雰囲気が漂っていた。その笑みを七海は見ることが出来ない、直視することが出来ない。全ての元凶は自分だ、そういう黒く沈殿した思いが心の底に溜まっているのを感じた。
「先輩、すみません」
やっとのことで出した声は震えていた。足に力が入らずに今にも崩れそうになる。
けれど、ここで崩れたら自分は泣いてしまうだろう、心中を吐露してしまいかもしれない。自分の気持ちを伝えることができれば、きっと七海は救われるだろう。このどうしようもないもどかしい気持ちが消えるかもしれない。
いや、消えるだろう。
だが、それは非常に卑劣な行為だ。
七海の告白を聞いたら博はどう思うだろうか。七海は一年以上もの長い付き合いで博の性格を知っている。彼は優しい。とても、誰でも内包してしまえるのではないか、と思えるほどの器の広さを持っている。七海はその優しさに触れ、博に憧れた。
最初は尊敬の念で博を見ていたが、けれどいつの間にかそれが男女間の『それ』に変わってしまっていた。仲が良い後輩と先輩、博の中ではきっとそう思える関係になってしまっている。そう思うと、その関係は限りなく恋しく、それ以上に自分が告白することによって現状の関係が崩れてしまうことを恐れたのだ。
「‥‥‥先輩、すみません」
自分が情けなく、顔を覆った。博に涙は見せられない、そう思ったが嗚咽と共に指の間から熱い滴が流れ出してくる。
「ごめんなさい」
ただただ、謝罪の言葉しか口に出来ない。この言葉以外を口にすれば最後、七海自身が感情の奔流に流され、思いを口にしてしまうかもしれない。それは駄目だ、七海は思う。
沈黙が場を支配し、そのまま歩き続ける。冷風は頬を撫で、体の温度を奪うが、それでも熱を持った思いは止まること無く瞳から流れ落ちる。
すると、博は立ち止まる。その顔に刻まれた表情は何処かやるせない笑み。七海は、自分が泣いていることに困惑しているのだろうと思った。
「なぁ、七海ちゃん。君は今回頑張ってくれたよ」
肩に優しく手を置かれた。
「‥‥‥そんなことないです」
七海は否定した。声は震えて、嗚咽とともに吐かれた。潤んだ瞳は博の目を直視することが出来ず、黒いアスファルトを見るしかない。白い線が不規則に揺れていた。
「いや、頑張ってくれたよ。正直、七海ちゃんがここまで頑張ってくれるとは思ってなかったんだ。良くて恋の相談相手、悪くて鼻で笑われる、そんな感覚だったんだ。でも、君が思いの外張り切っちゃって焦っちゃったよ。七海ちゃんは少しだけドジなところがあるからね。けど、嬉しかったよ。僕の恋を一生懸命に応援してくれていたんだよね」
優しい声だった。親が子に本を読み聞かせるような、撫でるような声だった。
「でも、正直告白する気は無かったんだ。相談の内容だって、どうやったらこの気持を吹っ切るか、なんて思っていたんだ」
「え?」
「だから、七海ちゃんが一生懸命に動いてくれたから、僕も勇気が湧いてきたんだ。初めての告白でも、言葉がスラスラと出て来たんだ。これは七海ちゃん、君のおかげなんだよ」
全てを包み込んでくれたその声。七海は思わず博の目を見る。ゆがんでいるが、誠実そうな顔は変わらず頬を赤らめた。
「だから、七海ちゃんが好きな人ができたら、僕も君の背中を押せるように頑張るよ」
「‥‥‥ふふ」
思わず笑ってしまった。七海は思う。きっと先輩は自分のことなど仲の良い後輩としか思っていない。けれど、ここまで清々しく思われていると、一層笑いがでてしまった。かなり自嘲的な、そんな笑いだ。
それでも、七海は博の思いやりが、嬉しかった。
「先輩、じゃあ、その今でもいいですか?」
まだ七海の声は涙ぐんでいる。顔も人に見せられるものではなく、目元が赤くなってしまっていた。けれども顔には夜には似つかわしくないような笑顔が浮かんでいた。ひまわりのような、明るい笑顔だ。博は七海が元気を取り戻したと思ったのか、心配そうな顔から優しさ溢れる笑顔になった。
「うん、いいよ。それで何を手伝って欲しいんだい?」
博は笑顔でそう言った。その笑顔を見ると、七海も自然と笑みが出てくる。
「それじゃあ‥‥‥」
七海は博の胸に飛び込んだ。驚愕する博だが、七海は構わずに博の背中まで手を回した。
――今は、先輩の胸の中で、泣かせてください。