序章 汝平和を欲さば、戦への備えをせよ
Prologue Si vis pacem,para bellum.
雨。
春の終わりに訪れる雷雨が、住宅地に囲まれた水田を叩いていた。
墨を流し込んだように暗い空を重く垂れ込めた雲が覆い、そこから流れ落ち加速された水滴が、田植え前の泥に穴を穿っていく。大量の水滴と大地の衝突による轟音は、喧噪ではなく全てを塗りつぶす静寂をもたらす。
視界はほとんどない。目の前には幾重もの闇の簾が、波打ちながら立ち塞がっていた。
その闇と静寂の中を、転がりながら走る男が一人。泥にまみれ、髪は額に張り付いているが、特異な服装によって職業を推し量ることが出来る。白かっただろう和服に、袴。神官だ。
神官がなぜ、こんな夜中の水田で逃げるように走っているのか。
…と、雷鳴のような音と共に男は倒れた。
稲光は、ない。
訳はすぐに知れた。闇の中からもう一人の男が現れたのだ。黒いフーデッドコートを濡れるにまかせ、直線的な金属でできた黒い物体を握ったまま、神官に向けて腕をまっすぐに延ばしている。側面に<SIG226>の刻印。自動拳銃だ。男は、もう一度指を引き絞った。
「ぐぁっ! 」
二発の9mmパラベラム弾を腹部に受け、神官は苦しげにうめく。
「さあ、祈れ。己が罪を悔い改め、祈る時間が必要だろう? 」
神官は、臓腑を切り裂く痛みに苦しみながら懇願した。
「た、助け… 」
男は道端に打ち捨てられた汚物を見るかのように目を細め、三発目を右胸に命中させる。
銃弾によって水田に叩き付けられた神官は、辛うじて動く左腕で畦に積まれた藁の束にすがりつき、振り返った。そして、見た。
銃を持たない左手に握られた、天叢雲剣を。
熱田神宮に安置してあるべき三種の神器の一つにして、世界を繋ぐ鍵。
「それ、は! 」
血を吐いて取り乱す神官に、男は軽蔑の眼差しを向けてにじり寄り、フードをとった。
「見覚えが、あるだろう? 」
銀髪に赤い瞳。
最高神祇官綿貫泰三は身震いした。遠い祖先が東の最果ての地に築いた隠蔽の王国。何重にも張り巡らされた歴史の嘘に誰かが気付いたことですら恐ろしいのに、今まさに自分に剣を突き立てんとしている男は、かつて主が鍵を託した一族。綿貫には完璧に理解できた。
彼らは、裏切ったのだ。
…ならば…その剣で死ぬわけにはいかない…!
「…では、さらばだ。贖いの血を持ってプレーローマへの扉を開け! 」
剣がゆっくりと振り上げられる。
(…主よ…お許しください…)
綿貫は夜空の雨雲に輝く稲光に向かって十字を切り、舌を噛み切った。
<櫻井(Sacrae)>
「櫻井せんせー。質問いいー? 」
講義を終え、残務を整理してまさに帰ろうとしていたその時、生徒に呼び止められた。
担当している中三特進クラスの女子。出席番号2番、石井瑠璃。面倒なのが来たな。
「ねえねえ、瑠璃ね、新しい本を読んだの。それが面白くって。これがね、泣けるの。あ、あと今日さくちゃんがひどくってさあ、一緒に帰ろうって行ったのに先帰っちゃうんだよ? 酷いと思わない? 数学の授業もさっぱりわかんないしもう最悪だよまったく…って聞いてる!? 」
この子はくるくる回るような自己中心的な世界観と、小動物のような振る舞いがかわいい。頭が胸のあたりでぴょこぴょこしてるから、身長にして145cmくらいか。殴られたら世界の果てまで飛んでいきそうなくらい細い手足と整った顔立ちも愛らしい。
父親がいないというから、塾の先生に父親を重ねているのかもしれない。
「…聞いてるからトピック毎に分けて話せ…というかそれ質問じゃねーし… 」
しかし、なぜこの年代の女の子というものは、こう話し始めると止まらないものなのだろうか。だが、ちっちゃくて可愛い中学生に話しかけられるのは嫌いじゃない。
「ええー…最近先生冷たくない? まさか彼女でもできた? 瑠璃がなってあげるって言ってるのに」
少女がいっちょまえに無い胸を強調してポーズを取る。俺は興味が無いという意味でしっしっと手を振ってあしらう。
「うるせー。ガキに興味ねーから」
嘘である。
「嘘。先生ぜったいロリコンだもん」
そう。俺はロリコンなのであるから。シャイニングガチペドロリコン。
「…どの辺が? 」
「…あえていうなら、目が? 」
おいおいマダ見ぬ読者よ、ここで引くなよ?俺は断じてペドとは違う。合意に関わらず強姦罪が適用される年齢には興味がないし、生徒に手は出していない。変態かもしれんが俺は紳士なんだ。その辺の犯罪者と一緒にしないでくれ。
「先生は絶対、ぜーったいそう!もう、塾長に言ってクビにしてもらいたいくらいだわ」
塾長、という言葉で講師室にいた数人の同僚が軽く振り返る。だが、若い男性講師が女子にきゃあきゃあ言われるのは良くある事だし、俺は今まで問題を起こした事が無いので、彼らはすぐに自分の帰り支度に戻っていく。こういう不干渉と自由が、この塾の良い所であり、悪い所でもあった。
「…だから、興味ないって。人聞きの悪い事言うなよ。教師だぞ? そんなヤツいないよ」
嘘である。
断言しよう。大学一年から大学院までの8年間、塾講師のバイトをして来たが、その経験からすると…教師になろうという男は全てロリコンである。
だって、他に動機がないだろう?
中学生に教える数学なんて、大学で専門教育受けた優秀な人間にとってはゴミみたいなものだし、優秀な人間には弁護士や医者やその他もろもろの魅力的な職業がたくさんある。
だから、優秀な人間が高級ワインだとすれば、教師というのは他にやる事がなかったワインの搾りかすみたいな人間と、ロリコンの巣窟なのである。
あ、それ両方とも俺のことだ。
「…本当かなあ? だったら瑠璃にチャンス無いじゃん」
「無いって何回言えば分かるんだよお前は… 」
嘘である。
そう俺はマスターオブネクロロリコンなので(以下略)。
「お先に失礼します、櫻井先生。教室の電気は消しておきましたので、戸締まり、お願いしますね。ほら、石井も、櫻井先生を困らせないようにな? 」
「あ、お疲れさまです」
「はーい! 塾長せんせーさよーならー 」
いつの間にか、他の講師は皆帰ってしまっていた。電気がほとんど消えて薄暗くなった講師室の出口付近で、上司である教室長が会釈をして帰っていった。
出口の上の時計を見ると、二十二時を軽く過ぎている。これは、即刻自宅に電話を入れさせなければならない時刻だ。
「おい。そろそろ帰れよ。そして親御さんに電話入れろ」
「…どうせ、誰もいないよ… 」
少女は小さな声でつぶやく。
「なんだって? 」
「…なんでもない」
少女はさっきまでの明るい表情を曇らせ、機械的に番号をプッシュすると、数回のコールの後に受話器を切った。
「親御さん、帰ってなかったのか? 」
「うん」
顔を曇らせるのは家庭の事情、ってやつだろう。だが、通り過ぎる他者の都合にいちいち共感していては心のリソースがもたない。
「そうか。じゃあ、気を付けて帰れよ」
そっけなく言い放つと、少女は食べ過ぎた小リスのように頬を膨らませて俺のそでを掴んだ。
「えーーーーー! つーめーたーいっ! 送ってくれないの? かわいい女の子だよ? 思春期だよ? セーラー服だよ? 襲われたらどうするの? 」
頬を膨らませたまま小首をかしげる所なんて、あざとすぎて反吐が出そう。
こういう所作を、女というのはどこで学んでくるのだろう?
だが、女子中学生にそういうことをやられて、萌えないロリコンはいません。
「はいはい。わかった送るよ。あんま他人に言うなよ? 特定の生徒と仲良くするのはまずいんだから」
「やったー! 先生大好き! 」
抱きついてくる生徒を振りほどきながら、俺は萌え死にそうでも鼻血を出さない自分の体に感謝した。ロリコンが中学生女子に数学を教えるには、こういう天の邪鬼な体をしていないと務まらない。
俺はまだしゃべり足りなそうな少女の顔面をアイアンクローの如くつかんで押しやると、教室長席の後ろにあるキーボックスから予備キーを取り出し、セコムの設定をして鍵を閉める。
ピーっという音と共に、警備体制が不在モードに切り替わる。ランプが示す施錠状況に問題無し。後は五分以内に出口を出て鍵を閉めるだけだ。
ロッカーに置いておいた鞄をとり、講師室の電気と空調のスイッチを止めると、出口の前で可愛らしく待っている少女のために扉を開けた。
※
「雨、止んだみたいだな」
午後から降っていた豪雨は止んだようだった。猛スピードで流れ去っていく雲の隙間から見える空には星が瞬いている。
「うわ、星、綺麗! 」
「空気中の排気ガスが雨で流された上に、前線の通過で空気が入れ替わったんだろ」
「…そーゆーロマンの無い科白フツーに吐くの、モテない原因だと思うよ」
「生徒に心配してもらう必要はねーな」
憎まれ口を叩き合いながら、駅までの道をゆっくりと歩く。
俺が週に一回、博士課程の学費の足しに働いている学習塾の校舎は、繁華街に建つスーパーの裏手の自社ビルに入っていた。昼間は買い物客で賑わう通りも、夜の十時ともなれば人通りがほとんど無くなる。
本来、特定の生徒と仲良くなることは推奨されたことではないのだが、昨今の連続殺人事件の影響で、こうして生徒と帰ることは黙認されるようになっていた。駅前の繁華街までの距離は数百m。そこまでの道は暗い。一年前、繁華街からこの巨大ビル群の裏手の土地に移転してきた時、警察に街灯の設置を申し入れたのだが、予算不足なのか取り合ってもらえなかったのだ。その塾としての負い目も、黙認される理由ではあった。
「講師との過ちよりも、街の方が恐ろしい世の中か。嫌な時代になったもんだな」
そう呟くと、生徒から突込みが入る。
「独り言? 暗~い! そんなだから結婚できないんだよ」
「わかったような口をきくな」
結婚ができないのは、彼女がいないせいだ。
いや、正確には数日前まではいたのだ。大学時代から三年間続いた関係に、俺はこのまま結婚か?とも考えていた。しかしなぜか突然音信不通になり、彼女の家においてあった荷物も着払いで届いた。いくら電話しても、家に行っても反応はなかった。実家の電話番号は知っていたが、着払いで届いた荷物は、強固な意思の表れ。一方的な別れとはいえ、できることはなかった。
「ねえ、さっきケータイ見たらさ、また殺人事件だって」
「ああ、俺もさっきニュースサイトで見た。今度は神主さんだってな」
しかも、死後48時間ほどたった遺体のクビは鋭利な刃物で切りとられていたらしい。
「なんか、てっぽーの傷もあったらしいよ? 怖いよね、なんでそんなことするんだろ」
「わかんないな。しかし、銃か。それは襲われたらどうしようもないよな」
「ねえ、先生? 」
「ん、何? 」
急に真顔になって、少女が尋ねる。
「先生は異世界の存在を信じる? 」
「…はあ? 突然なんだよ? 」
「いいからいいから。そうそう、心理テストみたいなもの」
質問の意図を測りかねたが、ちょっと考えて答える。
「うーん、存在しないとは思えないな」
「どういうこと? 」
うちの研究科は工学系だが、教養課程で量子力学を少し齧った。シュレーディンガー方程式やら波動関数やらの講義はさっぱり分からなかったので(あたりまえだ。微積分や線形代数からして怪しかったのだから)、人に説明しろと言われても無理だ。でも、宇宙物理学について、ブルーバックスに毛が生えた程度の知識ならある。
「この宇宙は一つの可能性だ。量子論でも別の平行宇宙が存在していてもおかしくないし、あると考える解釈は存在する。俺は専門外なので評価できないけどね。でも、もし平行宇宙がなんらかの形で存在したとして、人間がそこに行ける可能性は低いんじゃないかな。物理法則が違うかもしれないし、空間を歪めてこの宇宙と繋げるにしても莫大なエネルギーだ。事象の地平面に生身で巻き込まれたら即死だろうし」
「ふーん? よくわかんないけど、あるかも知れないけど行けないかも…ということ? 」
「そういうこと」
話している間に曲がり角が近づいてくる。明るい道に出るその曲がり角は、街灯やコンビニの明かりで、暗いこちら側から見ると輝いて見えた。暗い道から明るい道に出るときには明順応が起こるから、四十秒ぐらいはうまくモノが見えない。しかし見えないと言っても今日はなにか様子が違った。
(いや、なんか輝きすぎな気がしないか? )
違和感を感じた瞬間、光の帯がこちらに向かってくる。丁度ドラム缶を横にしたようなサイズの光の筒。その正体はわからないが、この速度の物体をまともに食らえば致命傷だろう。
「きゃ…! 」
咄嗟に生徒を突き飛ばし、前回り受身で地面に転がる。
「車か!? 」
いや、違う。通り過ぎた光の帯は、後方一箇所に収束し、姿見くらいの大きさになって停止した。ぶうん、という音と光の粉を振りまく物体は、身震いするようにこちらに方向を変えると、再び高速で動き始めた。何これ、幽霊とか邪神とかグレートオールドワンとかそーゆーやつ!?
物理学は信じるが、心霊現象はマジ勘弁だ!
「なんだありゃ! とりあえず逃げるぞ! 」
「うん…きゃあっ! 」
手を繋いで逃げようとすると、今度は少女の足元に光の穴が開こうとしていた。
「くそったれ! 」
生徒を目の前で行方不明にしたとあっちゃ、重要参考人として何日も拘留された挙句、一生ロリコン…いや、ペドフィリアの烙印を押されて人生終わるだろーがっ!
よくわからない理由で馬鹿力を発揮した俺は、生徒を引き上げて抱きかかえた。
「走るぞ! 」
繁華街まではもう100mもない。走ればなんとかなる。
後ろを振り返ると光は追ってきてはいないようだが、安心はできない。
結局、少女一人抱えたまま全力疾走した俺は、バス通りに出て後ろの安全を確認すると、荒い息をついて地面に少女をおろした。
「ありがとう先生。もう、大丈夫だから」
「そ、それは良かった…つか、なんだったんだ、あれ? 」
光は、消えている。繁華街のネオンの側から見る路地は、異世界の入り口のような暗い深淵をたたえて静止していた。
「…わかんないけど、くふ、先生、気付いてた? 」
少女が、意味ありげににやにやと笑っている、本気で分からなかった俺は、彼女を見上げてクビを振った。
「お姫様だっこされちゃったー♪胸とかいろいろ触られちゃったし、もうお嫁にいけないなー? 」
「バカか! 」
俺は手のひらで彼女の頭をはたいた。そういえば、ロリコン垂涎の状況だったにも関わらず、必死過ぎて全然感触を覚えていない。存外、俺って真面目なのね。
「えー? 瑠璃は一生の思い出だなー。先生とのはーじーめーてーのー! 」
「やめろ! 頼む! 俺の人生を終わらせたくなければやめてくれ! 」
「何か、問題でも? 」
俺たちが騒いでいるのが不審だったのか、コートを着た警察官が手帳を開きながら近寄って来る。
お巡りさんじゃなく、本庁の刑事的な雰囲気。雨の中で捜査していたのか、コートは黒く濡れそぼり、ブーツとスラックスの裾には泥がこびりついていた。
やばい、東京都青少年健全育成条例違反ですか!
俺は別の意味で汗を流しながら、クビをぶんぶんと振った。
「いや、なんでもありませんよ、刑事さん」
「それならいい。知っているかもしれないが、この辺で殺人事件が多発している。気を付けて帰れ」
「はい。ありがとうございます」
一瞬だけ顔を上げて刑事の顔を見る。警察をあざ笑うかのような連続殺人事件に謀殺されているのか、その顔は憔悴して見えた。見るものを石に変えるメデューサのような、そんな目をしている。俺は少しぞっとして後ずさった。
しかし俺を無視して刑事はコートを翻し、暗がりへと消えていく。
「…ねえ、あの人、本当に刑事?」
ネオンに照らされたコートの陰が完全に闇に飲み込まれると、後ろに隠れていた小リスがコートを引張って妙な顔をしている。
「…一応警察手帳持ってたし、そう…なんじゃないかな… 」
「…だって、すごい目… 」
体を抱くように、少女は身震いをした。
確かに、地獄から帰って来たかのような、暗い炎が瞳の奥に宿っていた。そして、コートから臭った、煙臭さ。あれは多分硝煙だ。もしかして犯人…いや、それは…。
櫻井は首を振って悪い想念を追い出す。
「…例の現場、調べてたんじゃないのか? 」
「…そう、だよね。うん。きっとそう」
「…小田急だろ、石井。改札まで送るよ」
※
生徒が改札越しに手を振りながら電車に乗り込んだのを確認すると、俺はさっきの路地に戻った。
確認したかったのだ。あの光は、なんだったのか。
長く延びる自分の影を踏みながら、路地に足を踏み入れる。バス通りのタクシーがまき散らす喧噪が後ろに過ぎ去り、完全な静寂が俺の回りを包んだ。なんだか、深海に迷い込んだかのような気分だった。
虫の音が聞こえる。東京郊外の中核都市の駅とは言え、近くには小さな畑や田んぼが残っているのだ。右手にあるスーパーの駐車場が、青白く浮かび上がっている。田舎を思わせる虫の音と繁華街の蛍光灯の光がもたらす違和感は、駐車場のアスファルトを切り取られた異世界のように染め上げていた。
櫻井は、一歩足を踏み入れた。
「何か、お探しですか?」
気配は、無かった。
振り返ると、駐車場の塀のそばには先ほどの刑事が立っている。
街路灯の光を受けて、顔色はさっきよりも更に青白くなっている。生きている人間の表情ではない。
まるで、ついさっき、人を殺して来たかのような…
「光を、見たんじゃ、ありませんか? 」
「はい。でもなんで… 」
「そうですか… 」
刑事は、いつの間にか左手に持っていた袋を解くと、白銀色に煌めく刀身を抜き放つ。その所作は、神楽舞のように優雅だった。
「…不用心だな。櫻井朔也! 」
刑事は手に持った剣を一閃した。
「くっ! 」
間合いを詰められる前に全力で跳び退る。顔を上げると線条が刻まれた銃口と目が合う。
「くそったれえ! 」
横っ飛びに転がった俺の元いた場所を、二発の銃弾が抉っている。停車していたプリウスを乗り越えてエンジンルームの影に回ると、再度の銃撃で吹き飛んだフロントガラスの破片が頭上から降り注いだ。
「一応、バカではないのだな。車で撃ち抜かれない可能性が最も高いのはそこだ」
嫌な予感が胸をよぎる。持ち主にごめんと心の中で謝ると、俺はサイドミラーを蹴り上げた。電線でぶら下がったミラーから割れた鏡の破片を抜き取ると、車の後方に転がる。刹那。
ドンッ。
俺の予想通り、エンジンルームはヤツの剣によって両断されていた。
「やっぱりか! なんなんだよ! そのチート設定! 」
隣の駐車区画のエスティマの影まで転がった俺は、次の車まで距離がある事に気付き、手に持った鏡の破片で状況を確認する。
ヤツは煙を上げるプリウスの前に仁王立ちしたまま、右手の銃をこちらに向けている。車の影から出れば、間違いなく銃弾の雨に貫かれる。だからといって、ここにいても「名状しがたい剣のようなもの」によって切り裂かれて終わりだ。
どうする?どうすれば、人生が終わらなくて済む?
「お前の人生の終着駅はここだ。櫻井朔也。車と一緒に輪切りになるか、9mmパラベラムで脳みそをスイカ割りにされるか、どちらかしかない。もしくは…」
そういえば、おかしい。三発の銃声と、車を切断する轟音がしているというのに、周囲が静かすぎる。警視庁の警戒態勢はそこまでザルではないはずだ。だとしたらここは…
「おまえは、いつもと違う感覚に気付いていたはずだ。この俺が、普通の刑事ではないということ。感覚が鋭敏になり、世界が違って見えたこと。この駐車場が、世界から切り取られているというのも、今のお前だからわかった」
なんだと!?
鏡を掲げ、ヤツの表情を見る。相変わらず仁王立ちした男は、不敵に笑っていた。
「だが、日常に慣れたお前は、その感覚的な警報を無視した。そんなこと、あるわけない、こんなところで、死ぬわけが無い、とな。バカな話だ。人は、世界に突然選ばれる。世界を去るのは、常に突然だというのに。思えば不憫な話だ。なあ、櫻井」
そういえばなぜ、ヤツは俺の名前を知っている?
「何故自分なのか不思議そうだな。簡単な事だ。綿貫が、お前の名を呼んだからに、決まっているだろう? 古教会が隠していたアイオーンの器…まさかこんな一般人だとは拍子抜けだよ」
誰だ?そんな名前知らない!
「おまえは今、こっちの世界では結構有名人なんだよ。結婚も考えていた彼女が、突然音信不通になって、おかしいと思わなかったのか? 」
…っ!?
「貴様! 由梨に何をした! 」
顔を出そうとした瞬間、答えは銃弾に乗ってやってきた。仕方なく鏡の破片でルームミラーをとらえ、ヤツの動きを観察する。逃げ出す隙は、全くない。
「…国家というものは、国民が思う程ほどナイーブではない。それに君には個人的な恨みもある」
国家?恨み?
「…しゃべりすぎたな。さて、時間だ」
鏡の向こうで振り上げられた剣に反射する光が、鏡の破片の中心で溢れ、弾けるように俺の体を包む。意識が、痛みも無く体から引きちぎられた。
<ペトラ(Petra)>
白く凍りついた林の中を、少女が駆けていく。時折地面を洗う吹雪。分厚いコートに包まれてはいるが、その手足は吹雪で飛ばされそうなほどに細く、赤く上気した頬は、まだ幼さを残していた。年の頃は14歳位と言ったところか。
駆け続けていたその足が止まる。少女の視線の先には、同じくコートを纏った若い女性が、枯れ木にもたれて立っていた。
樹氷の世界には不釣合いなはっきりとした目鼻立ち。その情熱的に輝く鳶色の瞳と、紅に燃える髪を羊毛のフードに包んでいる。どちらかというと脱いだらすごそうなタイプだ。
「ひさしぶりね、ぺトラ。ミラノ公会議以来かしら」
女性は親しげに声をかける。
女性の親しげな言葉とは反対に、ぺトラといわれた少女は足を踏ん張り、身構えた。
「アンブロシアーナ、ミラノ司教座を預かる貴女までが汚らわしい異端の業に取り憑かれたというのですか」
異端、という言葉に反応し、アンブロシアーナと呼ばれた女性は哄笑する。
「異端ですって? 私たちは既に正統よ。聖人の墓の存在を隠蔽し続け、真実を語り継ぐものを異端として葬ってきた教会は、もうその役割を終えようとしているのよ。今、ここで、最終教皇が死を迎えることによってね」
そういうと、アンブロシアーナはコートを脱いだ。露わになる肉体。予想通りの豊かな胸と官能的な曲線美を、胸元が開いた赤いドレスに包んでいる。まるで雪原に咲く薔薇。その毒々しいまでの生命力は、だが、一点の違和感によって吐き気がする腐臭にまで変化していた。強烈な死の香り。それは、彼女の右腕から発している。基本的には浅黒いともいえる彼女の肌の色が、そこだけ青白い。
ぺトラは目を背ける。
「聖体移植…! なんてことを…! 」
「驚いた? 発掘された不朽体の使い方は、教会では習わないしね」
8世紀に定められたテクストによって、聖体拝領を行う教会の地下には必ず不朽体=聖人の遺体が存在しなければならない。彼女はその肉体と融合しているというのである。
「所詮は聖人の肉体など宇宙人の死体。墓地から離れた不朽体はあと二年もしたら腐敗して融け落ちる。今からでも遅くないわ。切除なさい」
その瞬間教皇に戻ったかのように、ぺトラは毅然として言い放つ。だが、かつてのミラノ大司教の言葉は想像を超えるものだった。
「知っているわ。最後に神の神秘と融け合って死ねるのなら本望よ」
アンブロシアーナは青白い右腕をさすって、愛しそうにキスをしてみせた。
「なんですって! 自らその肉体を求めたというの? 」
「ええ。罪人や隣国からさらってきた小娘に植え付けても、成功率が低い挙句に聖人の体からフィードバックする情報量に耐え切れずに大脳が破壊される。廃人になった人間も兵士としては使えるんだけど効率が悪くってね。他にも、私のような聖職者はいるわよ。人数は軍事機密だけどね」
「そんな…では、ローマが落ちたのは…」
「ご名答♪ 教会の地下墓地から不朽体を運び出すのに、高位聖職者の協力は必須でしょ? 」
がっくりと肩を落とす教皇に向かって、アンブロシアーナは勝ち誇った笑みを向ける。
「おしゃべりはここまで。元教皇の後見人として最後の忠告をするわ。新教会に来なさい、ぺトラ。貴女ほどの高位聖職者なら、聖人の肉体を移植しても人格を保てるわ」
白い林の中に、沈黙が訪れる。風は、凪いでいた。遠くで栗鼠か鼬の類が、秋の間に隠した木の実を探して土を掘っている。木々は、世界とは無関係に空に向かって立ち尽くし、空には白い雲と、オーロラが閃いていた。
だが、少女はアンブロシアーナの先に信じる誰かがいるかのように、キッと目の前の空間を睨み、腰に挿していた短剣を引き抜いた。風が、動き出す。
「否。我が主、イエス・キリストは私に教会を任せるといった。その信頼を裏切ることはできない」
その答えに満足したのか、女性は残忍に微笑む。
「そう、残念ね。あなたに手も触れて来なかった色男に立てる操も義理もないでしょうに」
アンブロシアーナは右腕をかかげ、狙いを定める。拡散していた魔法力が、指先に集中していく。高位聖職者の魔法障壁をも貫く、聖人の奇蹟。いくら教皇の魔法といえど、人界を超越した神秘には対抗するすべはない。
「祈る時間をあげるわ、最終教皇。神の座の簒奪者にも、祈る神はいるでしょうからね」
輝きを増してゆく指先を見つめながら、ぺトラは心の底から恐怖した。死が怖いのではない。ここで死ぬことで、歴代教皇が受け継いできた記憶と真実が失われることに恐怖したのだ。失われたら最後、この世界は崩壊する。だが、古の聖人の力を持つ大司教の攻撃を防ぐ手はない。生身のときですら、力は教皇に迫るといわれた実力者だ。もはや、通常の魔法では太刀打ちできない。
(主よ、お赦しください)
心の中でそう、十字を切ると、少女は小声で「剣の招霊」の詠唱に入った。
(三つの聖なる名、アルブロト、アブラカダブラ、イェホヴァの名によって、我は汝を招霊す、おお剣の中の剣よ。魔術を行う際は常に我が要塞であれ、可視なるものも不可視なるものも全ての敵を防げ。偉大なる力の聖なる名サダイによって、またその他の名、カドス、カドス、カドス、アドナイ、エロヒ、ゼナ、オト、オキマヌエルによって。最初にして最後の者よ、知恵、道、命、徳、長、口、言葉、光輝、光、太陽、泉、栄光、山、扉、葡萄の木、石、杖、僧侶、不死なるメシアよ。剣よ、汝は我が全ての事柄を統べたまえ。そして我を妨害する物事に打ち勝つのだ! )
「ぐっ! 」
アンブロシアーナの右腕が、ぺトラの心臓を貫こうとしたその瞬間、別の場所、手首の動脈から血が吹き上がり、天使の右腕の力を弾いた。細い手首から噴出する動脈血は、脈打ちながら空中に魔方陣を形成する。
二つの同心円の外側に楽園の四つの川の名。内側には6線星形、ソロモンの盾。円の間にはアダム、エヴァ、リリト、カスディエル、セノイ、サンセノイ、サマンゲロフの名と、「彼の者は天使に汝を委ねた。汝の前途は彼らによって守られん。」の文字列。
古の魔術書『ラジエルの書』によって描かれた、護りの魔方陣である。円環は術者を守り、力の循環を意味する。6線星形は通常六芒星、ヘキサグラムと呼ばれ、その完全な数学的性質から「霊と肉の結合」「火と水の結合」「男女の結合」などを表す強力な象徴。本来はユダヤ教文化圏だけでなく、日本の伊勢神宮にも存在する世界共通の象徴であった。
アンブロシアーナは狂ったように笑みを浮かべる。
「ついに使ったな教皇よ! 世の全ての知識、禁じられた『ラジエルの書』を! やはり貴様の記憶の中にあったか! 」
動脈を自ら切断した教皇は、痛みと出血のショックに震えながら蹲っている。小さな体を折り曲げ、回復魔法を唱えているのだ。だが、教皇の強力な魔力でさえ、回復には時間がかかるだろう。その時間を、赤い刺客は与えてくれそうもなかった。
「ふふふ…この教父アンブローシウスの右腕も喜んでいるわ…。1000年前、栄光あるミラノ大司教がペトルス・ダミアーニごときの左側に座らされた屈辱、その身に刻むがいい! 」
アンブロシアーナは右手を開き、指先に集中していた魔法力を一旦体の中心まで戻し、もう一度掌の中心に集中させる。そのまま、中心に根付いた植物の根をゆっくりと引き抜くように、掌から光剣を出現させた。
伝承によれば四大ラテン教父の一人、アンブローシウスは肝の据わった人物だったという。当時首都であったミラノで、不要な殺戮を行ったとして皇帝テオドシウス1世を教会堂から閉め出したり、やんちゃなマニ教徒であったアウグスティヌスを回心させたり…と、とにかく元気なおっさんだったようだ。
そうした聖人の気合いが、アンブロシアーナという女性が持つ意思と合わさって具現化したものが光の剣なのだろう。人間が行使する魔術など消し去る威力はあった。
「ここまでよ。死になさい! 最終教皇ペトラ! 」
魔方陣もろとも、教皇を切り伏せようとしたその時、陣が光り、中から轟音とともに弾丸が放たれる。
「なっ…金属弾!? 」
剣をもって防ぐアンブロシアーナ。弾丸は弾かれ、雪面にめり込んでいく。
魔法陣から噴出した泥水は雪上に黒い血溜まりのような染みをつくり、稲光は陽炎のように人の姿をとろうとしていた。
(聖霊召喚…! )
蹲っていた教皇の眼に、生気が宿る。血液はまだ足りないままだが、傷口はもうふさがっていた。苦しい息遣いのなかで、やっとのことで声を絞り出す。
「来てくれましたか。我が半身、我が剣、アントローポスよ」
その名を聞き、刺客の顔色が変わった。
「始まりのアイオーン、栄光のオグドアスの一つ…か。仕方ないわね。扉を開く目的は達したわ。あなたの首は、また今度にしましょ」
ひらひらと左手を振りながら、空間跳躍魔法を唱える。赤いドレスを翻し、消えるアンブロシアーナ。後には、彼女の残り香と腐臭、そしてなくなった容積に向かって吹く風の音だけが残された。
(守護聖霊に造物神デミウルゴース以前のアイオーンを召喚するとは。この戦いの行方、できるものならば、見届けたくなってきたわね)
※
危機は去った。戦闘の前は走りづめで、戦闘中には大量の出血までした教皇は、その場にへたり込むと額の汗をぬぐった。耳を澄ませば自分の心音が聞こえる。いや、違うか。自分の心音が大きすぎて、周りの環境音が聞こえないのだ。
空を見上げる。相変わらず青い空には、光るオーロラ。厳密にはこの世界で「神の息吹」と呼ばれる現象だ。極地周辺でなくても普通に見られ、美しい光の帯を形成する。2000年前に現れた揺れ動く光は、人間の敬意と畏怖の対象となってきた。それは数十年に一度、ブレスが地上に降りてくる自然災害「テンペスト」に起因する。ブレスは遠くから見ている分には美しいが、実際に触れようものならいかに硬い鋼鉄であろうとも簡単にに引き裂く威力を持っていた。美しいが、人間に痛みをもたらす玉虫色の薔薇。その薔薇の下で生きる人間たちにとって、崇敬の対象にならないわけがなかった。
「今年は、まだ高いわね」
教皇は、空を見て呟く。ブレスの観測と対策は、教会の仕事の一つでもあった。各地の教会でブレスの動きを観測し、高度や運動周期を計算する。その周期は約60年。今年は前回の発生から60年目にあたっていた。本当はこんなところで寝転んでいる場合ではない。観測を強化し、対策を練らなければいけないのに。
本来の仕事を思い出して、教皇はまた唇を噛む。ここ数年、繰り返して噛まれている下唇に血の跡が絶えることはなかった。だが、と思い直す。今くらいはほっとしてもいいだろう。もうすぐ、自分の守護聖霊が降臨するのだ。
しかし、ほっとしたのはいいのだが、教皇は守護聖霊がなかなか現れないことに気づいた。寝転がって考えていたのは数分だ。さすがにそれはおかしいだろう。がばっと跳ね起きると、魔方陣を見つめる。扉が何かに引っかかって開かないかのように、陽炎のような人影に動きは無い。鍵に何か問題があったのかもしれない。それとも向こうの問題だろうか?
「何なのよ。全く。さっさと出てきなさいってのよ。こっちは動脈切ってふらふらなんだから」
さっきまでの口調はどこに言ってしまったのか。教皇はどうやらこちらの方が本性であるようだった。そこまで悪態をついて、はっとする。
「いやいやいやいや、いけないわ、叡智体たるアイオーンになんてことを。きっと事情があるんだわ。私がこんなだから出てこないのかも」
反省する。軽々しく怒って、上位存在であるアイオーンを怒らせてはたまらない。性に合わなくても待つしかないのだ。だが、それにしたって魔方陣が開いてからもう半刻は経っている。いい加減出てきてもらわなくては困る。
魔方陣だって欠伸しそうだ。
日が昇るにつれ、気温も上がってきた。朝方吹いていた吹雪もやみ、太陽の光が少しずつ凍りついた木々を融かしていく。白い雪の上に座って空を見上げているペトラは、昔、教皇になる前に行ったピクニックを思い出す。ほとんど、教皇の記憶に追いやられてしまったが、その時も春だった気がする。もうすぐ、春が来る。鮮やかな花が咲き乱れる春が。
魔方陣を見つめる。この召喚が、世界にとっての春になるといいのだけれど。
※
遅い。
それにしても遅い。一度落ち着けた気持ちが、もう一度怒りの方向へと振れていく。
「あのね。私、待つの好きじゃないの。あと、三十分したら引きずり出すわよ」
人影に向かってそう宣言する。
そして、待つこと更に半刻。教皇は、待たせるのは気にしないが、待つのは大嫌いな女であった。ついに切れると宣言した時間だ。
「ええ、切れますとも。私を一時間も待たせるなんて、いい根性してるじゃない」
腰に手をあて、大きく息を吸い込む。
「いいいいいーーーー加減に、しろーーーーー! さっさと出てこんか!このグズ! 」
そう叫ぶと、魔方陣に手を突っ込んだ。
<出会い>
そこは、白い雲と、樹氷の間から青い空が見える世界だった。空には虹色に輝くオーロラ。美しいと思ったが、それ以前に最初の感想は、「寒い」だ。当然だろう。スーツで雪の上に投げ出されているのだ。見ているものが瞬間冷凍されそうな位寒い。
で、目の前には櫻井のネクタイを掴んだまま馬乗りになって睨んでいる少女。
どうやら西瓜割りにも輪切りにもならなかったらしいが、自分はどうも胸倉を掴まれてブン投げられたらしい。なんだ、どういう状況よ、これ。
ここはどこだ?
少なくとも周囲の植生から言って、日本ではなさそうだ。
あの刑事はどこへ行った?この女は誰だ?
櫻井は目の前の少女を観察した。
よく見るとかなり可愛い。白い髪に、透き通るような白い肌。その上で輝く、ルビーのような赤い瞳。体つきは細い。身長は、145cm位といったところ。透明な美しさ、とでも言おうか。清らかな雰囲気を纏った美少女だった。身につけているドレスや装身具も、彼女の端正な顔立ちを引き立てている。
おお!異世界の美少女ってやつじゃないか!これは当たりだ!
「寒いじゃないわよ…あんた。一体何時間待たせれば気が済むわけ?見たところ男のようだけど。男ならさっさと決断しなさいよ! 」
罵倒されている。というより言葉が通じることに櫻井は驚いた。少女の容姿は西洋のものだ。ラテン語もしくはゲルマン語系の言語を予想したのに現代日本語…?
原理は理解不能だったが、頭のほうは言われた言葉に対して反論を形成する。彼は嫌みなインテリだった。
「いや、それはジェンダー・バイアスに満ちただね、偏見だと思うのだが。優柔不断な男もいるし、勇猛果敢な女もいる。女として生まれるのではなく、女になるのだよ、君」
「はあぁ!? なにそれ? 」
だが、一時間も待たされたこの少女の頭は沸騰寸前である。そんなことは知らない櫻井でも、一触即発の雰囲気は理解できる。愚かな言い訳は通用しそうもなかったが、小声でそっと言ってみた。
「い…いや、ボーヴォワール先生が『第二の性』でそう言って…ぐはっ! 」
言い訳は、やはり事態を悪化させるだけであった。平手で張り飛ばされる。吹っ飛んで転がる男の胸板を踏み潰しながら、少女は口を開いた。
「で、あんた何? 私アイオーンを召喚したはずなんだけど。すごーく弱そうよあなた」
…アイオーン?召喚?
天地が逆転する視界の中で、櫻井は高速で思考する。
(なるほど、これが現実だとするなら、よくある異世界召喚ものか。この女はサーバントか精霊かなんかを召喚して、俺には今後この子とツンデレいちゃラブ異世界ライフが待っているわけね)
そして高速で納得した。
(…ナイステンプレ! )
ひりひりと痛む頬をさすりながら、櫻井はじーっと斜め上を見つめる。
そう。
見えるのです。見えるんですよ! ええ。ばっちり! ヴィヴァ異世界!
何を考えているのか、この少女はスカートで蹴りを連発し、ブーツで胸板を踏み潰しているがゆえに膝丈のスカートの中が見放題なのであった。櫻井は既にここがどんな世界なのかなんてどうでもよくなってきた。無意識に手を伸ばして足に触ってしまう。
ああ、不可抗力。
「って、きゃーーー! 何すんのよっ! 」
今度は顔を踏み潰される。
「むぎゅ」
「むぎゅじゃないわよ! この変態! 」
襟首を掴んで巴投げをしようとする女の子に抵抗する。
「ちょっ! 抵抗すんじゃない…きゃあっ! 」
抵抗したがゆえに、女の子に覆いかぶさるように倒れてしまった。
ん? お約束のこの展開ということは?
右手の下にある物体を握って確認する。サイズは、かろうじてあるとわかる程度。まあ、Aカップだな。いやいや、いいじゃないか。小さな女の子に胸があっても、萌え要素が相克するだけだ。
「ああ、神様。オレハココデシンデモカマワナイカモ」
櫻井が幸せに浸っている時間が、二秒くらいあっただろうか。
「ほう。では、殺しても構わぬのだな」
櫻井が下から殺気を感じたときには遅かった。
「死ねーーーーーーーーっ! この変態がああああああーーー! 」
「ぐぼはああっごあっ! 」
組み敷かれていた女の子は櫻井の股間に渾身の膝蹴りをかまし、浮いた櫻井の身体を、捻って放った正拳突きで吹き飛ばした。睾丸がめり込み、悶絶する。
痛い。痛いです。
「…っ!…っ!かはぁっ! 」
脂汗が出る。このままでは、死ぬ。とてもまぬけな理由で。
「このゴミ虫! よくも、よくも私のっ! 」
少女は櫻井が動けなくなるまで蹴り続ける。ヒールがめり込んで痛い。痛い。
「ごっ、ごめ、ごめんなさ、いっ! 」
本当に死ぬ。だが、悪くないかもしれないな。異世界の美少女の胸を揉んで蹴り殺されるなんて、ロリコン冥利につきるというものだ。
変態ですよ。ええ。それがなにか?
「あんた、こんど胸なんて触ったら、火のバプテスマで焼き尽くしてあげるわ」
…櫻井はあまりのテンプレ展開に心の中でため息をついた。だが、結果がわかっていても、おきまりの文句は言いたい。
「え? あれが胸? 」
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雪原だった林は、半径数百mにわたって焼け焦げていた。中心には黒いぼろぼろの物体と、白い髪を火炎の上昇気流になびかせた美少女が一人。中心はほとんどが灰化し、隕石が落下したクレーターのように吹き飛んでいた。そこかしこに落ちる残り火の爆ぜる音が、パチパチと彼女へ拍手をおくっている。
「ふう。何もなかったわよね。うん。誰もいなかったわ。記憶にないもの。うん」
彼女の足元の黒い物体は動かない。
「さっきの失礼な発言も、聞かなかったわ。だって、燃えちゃったら口きけないもの」
だが、黒い物体は生きていたようだ。この世の地獄の中で櫻井は立ち上がる。ぱらぱらと炭化したスーツが落ちるが、燃えたのは上半身だけだったようだ。
「こ、この女…。殺す気か… 」
「…っ!? 」
少女は櫻井が生きていることに本気で驚いている。と、いうことは本気で殺す気だったということだ。まあ、それだけのことはしてる。仕方ない。
こういう異世界召喚モノにおける主人公は出会った美少女の身体的コンプレックスを指摘して蹴りか火焔魔法を食らわねばならないので、仕方ない。
「とりあえず、話は後にして移動しないか。比較的安全で、もっと涼しいところでもできる話だろう?これは」
このクレーター周辺だけは少女の魔法によって気温90度は超えていた。
少女は、言われて初めてこちらの存在に気づいたかのように、ちらっと櫻井を見る。ゴミ虫を見るような目つきが気持ちいい。
「ま、そうよね。同じところに留まっていて追っ手に見つかっても意味ないし。とりあえず今日泊まる予定だった宿場町まで移動することにする。それがいいわ。うん」
そういうと、少女は櫻井の存在を無視してすたすたと歩き始めた。
「おい、魔法使いだろ、なんかこう、速い乗り物とかさ、暖かい服とか持ってないのかよ。俺このままだとあと一時間くらいで凍死しそうなんだが」
ほぼ上半身裸の櫻井は追いついて不平を言う。
「… 」
無視だ。仕方ない。櫻井は結構身体的苦痛には強いほうであった。半日程度雪原を歩いたからといって死なないだろう。
幸い、オーロラは見えているが、寒さは厳しくはない。季節は春に向かう頃なのだろう。
そういえば、こんな風に喧嘩しながら、由梨と異国の街を歩いたことがあった。あれは、パリだっただろうか。フィレンツェだったろうか。多分、両方だろう。
無言で歩く少女の後姿を見ながら、ふと、別れた恋人の面影が見えた気がした。
ー序章・了ー