第九十八話
ヘイムとの戦いは壮絶なものになっていた。キルルキが右腕を切り落とされ、イーリスはマリアを護って光の獣に噛み付かれ、脇腹に深く痛々しい傷を負ってしまう。このままでは不味い、とタウノは一時撤退を決めたのである。
そして、逃げる時の邪魔にならないようにと、残ることを決意したイーリスを加えた三人を、キルルキが符術で包み闘技場から逃がしたのだった。
ヘイムによる最初の一撃に加え、マリア達との戦闘によって闘技場の崩壊は凄まじく、タウノが魔法で瓦礫や壁を壊した道なき道を、キルルキの符術によって護られながら飛んで逃げていた。
「キルルキさん……姉さん」
「……ぐっ」
マリアは一人闘技場に残ったキルルキを想い涙を流しながらも、深い傷を負ったイーリスの治療を続けていた。
光獣による噛み傷は非常に深く、歯の長さがバラバラで向きも違い、更には細かな粒子が細胞一つ一つを傷つけていた。しかも傷口が侵食するかのように、少しずつではあるが確実に傷が広がっているのだ。
「マリアさん、お手伝いします」
「お願いっ。有るだけの薬を傷口に直接投与して。それと他に似たような傷が広がってないか、容体の変化にも注意しておいて」
グウィードの件で回復魔法の習得に励んでいたのは、マリアだけではなかった。攻撃魔法に特化していたタウノも、回復や補助妨害魔法を以前よりも学び習得していたのだ。
しかし、やはり腕前はマリアよりも劣り、今も彼女を補佐することに回る。
「姉さん、頑張って」
完全に腕を切り落とされたキルルキと比べ、イーリスは額に汗を浮かべて苦しそうに表情を歪めている。同じ巨剣から繰り出された光による攻撃だが、性質が違うのだろうとキルルキは考え、治療をしながら注意深く傷口を観察していく。
「ぐぅっ、大丈夫だ。そ、それよりもマリアに怪我は」
「うん、私は大丈夫っ」
「……そうか、よかっ、た。今度は、護れ――」
マリアが無事だということに安堵したのか、イーリスはそこで意識を失ってしまう。
一瞬、最悪の事態が脳裏に過ぎったマリアだったが、治療中の感覚からまだ亡くなっていない事に気付き、言葉を発することなく治療の手を止めることはなかった。
そして、三人は闘技場を抜ける。治療に専念するマリアは、イーリスを見ていたので視界には入らなかったが、周囲を警戒する必要のあるタウノはその光景を目の当たりにして絶句する。
「これは……」
想像はしていた。ヘイムが闘技場に入ってきた時の衝撃波を考えれば、街がどうなっていたのか。しかし、言葉が続かない。
地面には深く暗い穴が長々と続き、その穴近くの建物はそこに吸い込まれるように薙ぎ倒され、少し離れた場所は逆に遠ざかるように吹き飛んでいた。
もう市民は避難したのだろう。街からはここ数日の活気の良さなど掻き消えていて、闘技場や街の崩壊による砂塵が舞い上がり、さながら廃墟のようである。
瓦礫の上をマリア達は進む。キルルキの符術がいつ切れるのか、どこに進んでいるのかは分からない。しかし、強化された状態で走るよりも速く移動していたそれは、確実に速度が落ちて高度も下がってきていた。
そして、風の膜が地面に接触すると、静かに縮んでマリア達を優しく大地に下ろす。闘技場からはだいぶ離れた所まで来ている。
タウノは周囲に軽く視線を走らせた後、治療を続けるマリアに話しかけた。
「キルルキを助けるにしろ、イーリスさんにきちんとした治療を行うにしろ、人手や道具が必要です。一先ずここを離れましょう」
「……うん、分かった」
マリアはキルルキの件を、感情ではともかく理性では納得していた。ああしなければ、自分たちは逃げ出せていないだろう、と。そして、キルルキが助かることはないだろうということも。
それらを自分の負うべき責任だと理解しているからこそ、彼女は深く重い頷きを返したのだった。
「イーリスさんは僕が背負います」
意識を失ったイーリスを運ぶ為、タウノは改めて自身に強化魔法を掛ける。
ただ、背負うにしても傷口に負担が掛からないよう、ある程度の処置をしなければならない。傷は服の下にまで当然達しているので、その処置はマリアに任せ、タウノは二人に背を向けて逃げ出してきた闘技場の方向を向く。
「先ずは秀院と連絡を取る必要がありますね」
闘技場とは距離が少し離れているものの、そこまでの建物がほとんど倒されていることもあって良く見えていた。
地面から繋がるように縦に大きな切れ込みが入り、そこを始まりとしてボロボロと壁や天井が崩れていく。今朝見た歴史を感じさせながらも、手入れの行き届いた建築物と同じ物とは思えない程に酷い状態だった。
そこで今もキルルキが一人で戦っているかと思うと、タウノには怒りや悲しみや嫉妬といった感情がふつふつと湧き上がるが、それらを握りつぶすよう両手に力を込めた。
「タウノさん、準備終わったよ」
「分かりました」
今はとにかく急いでこの場から離れよう、とタウノは二人に近付く。
その時、噴火寸前のマグマのように、抑えられていながら今にも噴出しそうな気配を感じ取って反射的に振り返れば、そこは先ほどまで見つめていた闘技場。まるで、爆発の瞬間を今か今かと待ち望んでいるかのようだった。
「……ッ」
咄嗟にタウノが両腕を突き出し、三人を囲むように結界を張る。
今使える最も硬い結界を発動させるが、そもそも彼は攻撃特化型の魔術師であり、補助妨害回復などの魔法は最近覚えだしてきたところ。例え術印や魔法陣を使ったとしても、本来の強度とは程遠いだろう。
それを自覚しているからこそ一先ずの処置であり、きちんとした結界は適任者に任せるのだ。
「マリアさんお願いしますっ」
「はいっ」
いつ爆発するかも分からない中、簡易結界を張るには魔道具が足りず要所にだけ置き、残りは魔力の流れを誘導するように、魔力を込めて地面に線を描いていく。
ただ、これでは正規に発動させた結界はもちろん、簡易の物よりも強度が落ちるだろう。それでも今は何よりも速さが求められる。
そして、爆発。闘技場から何かが天高く立ち上る。それは魔力の塊のようであり、火柱や水柱、竜巻に昇雷などがごちゃ混ぜになったかのようで、タウノが見ても直ぐにそれが何であるか理解出来ないような魔法。
最初の衝撃は風となってマリア達を襲う。しかし、ある程度の風ならタウノの張った結界でも防ぐことが出来た。マリアは風に煽られることなく、結界を張る為の準備を進める。
「来ますっ」
そして、闘技場の範囲に抑えられていた柱が、次第に膨れ上がって周囲の家々を飲み込んで行く。吹き飛んでくる残骸はタウノの結界に弾かれるが、中には貫通している物もあった。
「壕護結界」
マリアが結界を発動させると三人の地面が削られ、その土や周りの土も集まって半球形に盛り上がっていく。実体のある土を使うことによって、より強固になった完全に護る為の結界である。
マリアはイーリスを護るために上から被さり、タウノは二人を護るために闘技場側に陣取って、壕護結界の内側に気休め程度の結界を張る。
光も通さない暗闇の結界の中、地面の揺れだけは伝わってくる。そんな中でマリア達に出来るのは、このまま無事に済むことを祈るだけだった。
しばらく続いた揺れも、ようやく収まる。
マリアが結界を解けば、そこには先ほどよりも酷い惨状。街の入り口から闘技場まで一直線だけが被害を被っていたのとは違い、今度は闘技場の周辺全てが吹き飛ばされている。
さらに、魔法による被害はそこまで広くは無いが、吹き飛ばされた残骸によって街全域に被害を及ぼしていた。
「これはどっちが……」
「おそらくキルルキでしょう。しかしこれなら……いえ、まずは当初の予定通り、秀院と連絡を取りましょう」
ヘイムを倒せたかもしれない。そう思ったタウノだったが、今確認に行くよりもそちらが大事だと判断する。倒せたなら後からでも良い、しかし倒せていなかったら……。
タウノはマリアと話し合って、市庁へと向かうことに決めた。市民の避難所にもなっているだろうし、通信の道具や街の現状が分かるかもしれないからだ。
「……マリアさん」
「うん、分かってる」
ただ、走り出した二人は自分たちに向かってくる何かを感じ取り、それは明らかに二人よりも早い速度で移動している。人ほどの大きさで数は一つ。
この周囲には他に人影はいない。相手もマリア達を探知したのか、進路を多少変更して警戒する二人との距離を確実に縮める。
そして、瓦礫の上から見下ろすように、大きな影を二人に落とした。
「なっ、えっ、どうして……」
そこに居る人物を見てマリアは目を見開く。
「グウィードさんっ」
「おう、お前ら大丈夫……とは言い難いか」
そこに居たのはエンザーグドラゴンとの戦いで深い傷を負い、聖王国アゼラウィルで意識が戻らないまま治療を受けていたはずのグウィードだった。接近してくる方角的にヘイムではないと分かっていたが、敵の仲間で無かったことに先ずは安堵する。
瓦礫の上から降りるグウィードの動きは、以前と何ら変わりないように思えたが、二人が彼を最後に見たのはベッドの上である。マリアは心配そうに、そして縋りたくなる気持ちを堪えてグウィードを見つめる。
「身体は大丈夫なんですか?」
「あぁ、むしろあの魔力を俺が喰らったらしくてな、前より調子は良いぜ。それよりキルルキは……」
「っ、それは移動しながら話しましょう」
先ほどの爆発はグウィードも見ていたので、タウノの背後で意識を失い、苦痛に顔を歪めている義娘からもある程度の状況を察することが出来た。そして、あらましを聞いたグウィードは語気を荒げる。
「馬鹿がっ、まだ若い癖に悟った気になりやがってっ」
皆をまとめる隊長には、タウノの方が向いているとキルルキは言っていた。しかし、逆に叱咤する副隊長にはキルルキの方が向いているのだ。タウノと二人でマリアとイーリス、そして何代か先の巫女までも支えて欲しかった。
そう考えていたグウィードは、簡単に命を投げ出したキルルキに怒りと悲しみの感情を抱いたまま嘆く。
「今は避難場所にもなっている市庁に向かっています。情報や秀院との連絡が取れるかもしれませんし」
「とりあえずこの街からは逃げてもらわないと」
闘技場の係員に避難するよう言ったが、それは成るべく離れるようにとの指示。闘技場周辺を見る限り、それは実行されているようだが、相手の実力から被害はもっと甚大なものになりそうなのだ。マリアの言う通り、この街から退避した方が安全だろう。
グウィードはヘイムを直接見てはいない。ただ、マリア達四人の力は知っていて、彼女達がそこまで警戒する必要のある実力者だと認識を強めた。
「それで、それからどうする。この街を放置するか?」
問われたタウノは進む道を真っ直ぐ見ながらも、瓦礫の道ではなくどこか遠くを見つめる。先ほどの戦闘を思い返しているのかもしれない。
「……現状の戦力ではどうしようもありません」
小さく発せられた声は、感情を押し殺したような声。
ただ、それは不安や恐れなど負の感情ではなく、熱意や決意といった今にも溢れ出しそうな想いを抑え込んでいる声。
「ですので秀院と話して人員や装備道具の補充、大掛かりな結界による補助の準備が必要でしょう」
「相手は強い。でも、あの魔族はここで倒しておかないとダメだと思う。これからもこんな事を続けさせるわけにはいかないから」
状況が悪いことは二人も理解している。しかし、今ヘイムを野放しにしてしまえば、この街はもちろん、他の街や国も危険に晒されてしまう。単に意地やプライドといった問題ではなく、戦える者としての責任感から来るものだった。
そんな二人の強い眼差しと決意を受け、グウィードは自然と顔を綻ばせる。
「何か成長したな、二人とも。遠征行ってる間に、バネッサが歩いた時と同じくらい悔しいぜ」
ヘイムとの戦いが始まってから、久し振りに流れる柔らかな空気。
だが、それはほんの一瞬のことだった。タウノが背負うイーリスの背中に手を当て、常に容体の変化を見ていたマリアが、突然悲鳴のような声を上げたのだ。
「止まってッ、姉さんがッ」
容体の悪化。タウノはそう察して直ぐに足を止めると、背負っているイーリスの表情を見る。息は乱れて大量の汗を掻いているのは先ほどと同じ。だが、その息遣いや呻き声が小さく、弱弱しくなっていっている。
回復魔法を勉強して間もないタウノにも、不味い事態だということが分かる。
このままイーリスを魔法で回復させるのか、それともどこに居るか確信は無いが専門の医者に急いで見せるのか。どちらが正しいのか分からない二択に、タウノは焦燥感を募らせた。
「ちっ、早くも使うことになるのか」
グウィードは背負うリュックから小さな箱を取り出す。彼の厚い手と同じ位の厚みがあり、衝撃に強そうな確りとした作りの正方形の黒箱である。そこから取り出されたのは、透明な入れ物に入った、光の加減で何色にも見える不思議な液体。
当然、マリアとタウノにはそれが何であるのか即座に分かった。
「エリクサーっ」
「失敗作の奴な。万が一の時の為に貰ってきたんだが、効力は変わらん。俺もなった通り、魔力過多で死ぬ危険もある」
治療には成るべく早く神聖樹による払いが必要になるだろう。しかし、聖王国まで跳ぶ必要がある上に、今あの国はいろいろとゴタゴタしていた。魔王討伐より身内を優先していると非難されるかもしれない。
どうする、と瞳で語りかけるグウィードだが、マリアの心は既に決まっている。それはタウノも、そして何より養父である彼自身が娘を助けたかった。
タウノが背負っていたイーリスを地面に寝かせ、マリアはグウィードから封を解いた薬を受け取り、イーリスを抱きかかえて上半身を起こさせる。そして、苦悶の表情すら浮かばせる事が出来なくなった姉の口に、そっと優しく流し込んだのだった。
◇◇◇
その日、少女は幸せの中眠りに就いていた。
昨日から友人たちは巫女の姿を見られたことに喜び、それは彼女たちを引率している先生も同じだった。
それが原因なのか今日明日は自由時間も多く、昼食を一緒に済ませた友達がマリアとの接触を期待して街中に買い物へ出かけている中、少女は闘技場近くの公園で雨を凌げる屋根つきのベンチで昼寝をしていた。
季節的に昼過ぎともなれば暑くなる。それが雲一つ無い晴天だとすれば尚更である。
しかし湿気の少ないこの土地では、影に入って時折吹き抜ける風さえあれば、寝苦しくなく眠ることが出来ていた。
「……ん、うーん」
完全に熟睡していた彼女は微かに感じた何かに意識を覚ますと、横になっていたベンチから上半身を起こし、眠気眼を擦りながら何かを察した方向へと視線を移す。そこには眠る前と何ら変わりない景色。
しかし、寝起きの良くない彼女は、未だ睡魔と戦っているのか身体が揺れ、それは次第に大きくなっていく。
そして、その揺れが睡魔の性で無いことに気付くのは、建物ごと何かに巻き込まれた後のことだった。
少女は大地を揺るがすような衝撃で目を覚ます。そこは光の届かない深い闇の中。彼女の上には瓦礫が重なり、そこから抜け出したのは暫く経った後のこと。周囲を見回すが暗闇の中では余り状況が分からず、とりあえずこの場から脱出することに決めた。
見上げれば微かな光が舞い降りている。そして、近くで誰かが戦っているのか、強大な魔力の気配。
少女は詠唱を唱えて魔法を発動させ、ふよふよと上に向かってゆっくりと飛ぶ。
「……これ」
そして地上に出て目に飛び込んできたのは、崩壊進める闘技場の屋根を貫き、天まで昇る魔力や魔法の入り混じった柱。それが普通の魔法では無いことを少女は理解する。
そして、この場から離れようとするが、少しばかり遅かった。天に穴を開けていた柱は徐々に広がりだし、空を飛んで移動する少女よりも速い速度で迫って来たのだ。
魔柱は広がる。離れたところはまだ衝撃だけで済むが、闘技場の近くは違う。地面は抉られ、建物は崩壊し……少女の姿は跡形も無く消え去ってしまったのだった。
「何?」
不可思議そうに眉を顰め、じっと闘技場を見つめるのは先ほど消えたはずの少女。
空中に浮かんでいるのは先ほどと同じだが、今居るのは闘技場から少し離れた場所。空中の何も無い足元には、いつの間にか緻密な魔法陣が描かれてあった。
未だ現状を理解していない少女に、再び広がる魔柱が襲い掛かる。
「……っ」
そして再び少女の姿は消える。いや、正しくは跳んだのである。
魔法陣による転移魔法。以前、ダルマツィオも使った術だが、こちらは視界に入っている場所に跳ぶことが出来るというもの。視界とは言っても数キロ先などぼやけた場所には無理で、精々数百メートルほどでしかない。
しかも発動には少し時間が掛かり、別の場所に現れた時には魔柱が直前にまで迫ってきていた。
再び跳ぶのは間に合わない。そう思えるほど近くにまで魔柱が迫ってきたが、突如少女を護るように魔法陣が発生する。魔法陣による防御壁。しかし、それも一瞬で破壊されてしまった。
「……」
だが少女は焦らない。普段の瞬きよりも少し遅く目蓋を閉じ、そして開きながら右手を突き出す。たったそれだけの動作で描かれるのは、五重の魔法陣。
五つ連なった魔法陣による防御壁は、一枚の時とは違い壊れることなく少女を護りながら、魔柱に押し出されるように少女を後退させる。
しかし、それも魔柱を防ぎきれる物ではなかった。一枚、二枚、三枚と壊れる間隔が短くなっていく。
「くっ、強い」
これが何であるかは理解出来ていないが、そこに込められた意志の強さは感じられ、少女は完全に防ぐことが出来ないと判断。首を捻り、ここから少し離れた地上を視界に捕らえる。
四枚目が壊れた瞬間に足元の魔法陣が輝くと、次の瞬間には地面に建てられた家の屋根に立ち、そのままもう何度か跳躍。今度は街外れにある広い屋敷の庭に現れた。
ここに来たのは偶然ではなく必然。彼女は何度か跳んでいる最中に、懐かしい気配が突然この街に現れたのを察知したからである。
「ヨハナっ」
「お姉ちゃんっ」
そこには案の定、姉と慕っていた女性とかつて一緒に戦った仲間たち、そして何故か戦った相手までも一緒に居た。元大地の巫女ヨハナ・ワイズ・ケンプフェルは、こうしてエルザ達との再会を果たしたのである。