第九十二話
ハイデランド王国で元大海の巫女ヘルヴィと再会したエルザだったが、前世で魔王を倒し自らの命を落とす結果となった魔法を、再び使用するかもしれないという事は切り出せないでいた。
しかし、前世での付き合いも長かったヘルヴィは、エルザの言い難いことを察し、それを踏まえても彼女から同行を申し出たのだった。
ヘルヴィがエルザに言った「伝言を聞いた時に安心した」というのは、即ち決意を固めていたという事らしい。既に家族には旅に出るかもしれないと告げて説得しており、数日後には旅立つことが出来たのである。
「それじゃあ改めまして、ヘルヴィ・サンプサよ」
旅の荷物を背負って微笑むヘルヴィの腰からは、その体格に見合った長く少し太い剣が下げられていた。彼女と初対面なら、恵まれた体格に似合っていて当然とも思えるのだが、エルザは当然としてレオも彼女が希有の魔術師だったことを知っている。
彼女の身体を失礼の無いように見たエルザは、どこか不安げに上目遣いで話しかけた。
「ヘルヴィさんの身体つきって、完全な剣士っぽいんですけど……」
「あら、さすがエルザちゃんね、見ただけで分かっちゃうなんて。今の私はB-の剣士よ。前はランクなんて無かったから、上がっていくのは楽しいわね」
心配しているエルザを他所に、ライセンスを見せびらかすヘルヴィは本当に嬉しそうである。
だが、エルザの感じた通り、現世でのヘルヴィは魔術師として活動をしていない。魔闘士として訓練をしていたエルザですら、かなりの衰えを感じているのだ。戦力として数えるのなら、不安に思わない方がおかしいだろう。
「もう魔法使わないんですか?」
「それがねぇ、全然って訳じゃないんだけど。ほら今の私って魔力がほとんど無いでしょ。それに父も剣士上がりの漁師だったから」
嘆いている程ではなく少し困ったように言った通り、確かに前世と比べてみれば魔力が無いに等しいだろう。もちろん、それは規格外の前世と比べればという解釈が付き、実はレオよりも多かった。
しかし、ヘルヴィが今の状況を楽しんでいては、レオもエルザもその事に関して特に何も言う事はなかったのである。ある一つの問題を除いては。
「俺は詳しく知らないんですが、例の魔法って今の状態でも使えるんですか?」
ヘルヴィの前世での実力は知っているが、今はただの剣士でしかない。レオはその事に不安を覚えたのだろう。しかし、エルザはそう思っていないようで、特に悩む素振りを見せずに頷いた。
「大丈夫だと思うよ。あれって結局肝心要はヨハナだから、私達の魔力とかはそんなに関係ないし」
「私達がやったことは各属性の魔力と、担当した魔法陣の作成ぐらいだものね」
「……それは大地の巫女がダメだったら終わりってことか」
全く危惧していない二人とは対照的に、レオは新たな不安に一人眉を顰める。
ただ、それはやはり巫女達のことを知らない彼だからこそ、そう感じてしまったのだろう。エルザとヘルヴィは目を合わせて視線で会話をすると、同じ結論に至ったのか同時に頷く。
「まあ、そうだろうね。でも、ヨハナは回復治癒が出来るようにって、魔術師を目指したんだから、ヘルヴィさんみたいに剣士になってるってことはないと思うよ」
「それにあの子は研究熱心というか、術印を考えるのが好きだったから、表には出していなくても前と同じように過ごしていると思うわ」
一緒に旅をした仲間の二人だからこそ分かるものなのだろう。ヨハナをほとんど知らないレオは、これ以上特に言うことはなく口を閉ざした。
そして、会話が一区切りつくのを待っていたのか、ヘルヴィはエルザとレオを交互に見てにっこりと微笑む。
「それよりもエルザちゃんとレオ君。私達は同い年なんだし、敬語を使わなくても良いのよ~」
頬に手を当ててヘルヴィは嬉しそうに笑う。実は前世の旅で、一人だけ三十歳を過ぎた最年長だったことを、密かに気にしていたのである。それが今では同い年、若返った気分になっているのだろう。まあ、実際に若返ってはいる。
そんな事を知る由も無いが、どう付き合えば良いのか計り兼ねていたレオも、ヘルヴィからの許可が出たことで一歩踏み込むことが出来た。
「あぁ、分かった。俺にも好きなように話しかけてくれ」
しかし、レオがあっさりと受け入れたことに、ヘルヴィは驚いたのかレオを見つめてパチパチと瞬きをする。社交辞令を真に受けられて不愉快、と言うようには見えず、エルザは不思議に思ってどうしたのかと尋ねた。
「ほら、私って父譲りで目付きが悪いでしょ。それにこの体格だから、結構怖がられることがあって。女の人には頼りにされるんだけどね」
「いや、それだけが理由じゃ……」
最後まで言い切ることの無かったエルザの声は、ヘルヴィの耳には届かなかった。なので、特に何事も無く次の話題へと移る。
「それでこれから何処かに向かう予定はあるのかしら?」
「とりあえずはこの国の転移装置を使って、ディベニアに向かう予定かな」
「あそこには転移装置の集合施設、スターシナトがあるからな。いろんな国に向かいやすくなるだろう」
ヘルヴィもディベニアにある転移装置を利用して帰って来たのだ。位置関係と理由を直ぐに把握することが出来た。
ただ、一先ず向かう場所は決まっていても、他の元巫女の居場所はまだ分かっていない。だからこそ、何もしないまま旅路を進むという選択肢はないのだ。
レオはリュックから二本の巻物を取り出すと、何事かと見ている二人にそれぞれ手渡した。
ヘルヴィの旅立ちを待っている間も行っていた、元巫女からの返事探し。それを道中でも移動しながら出来るように、巻物に認めておいたのである。
「俺の役目はここまで、後は二人に任せた」
「街でもやってたのに今度は歩きながらとか、景色を楽しむ余裕も全然ないよ」
「クラリサちゃんとヨハナちゃんからの返事を捜せば良いのね」
余り乗り気ではないエルザだが、それを行わなければならないこと位は分かっているので、渋々ながら巻物を広げて読み始める。対してヘルヴィは嫌がる素振りすら見せず、巻物に目を通す。書類整理が得意か苦手か、好きか嫌いかの差なのだろう。
こうして三人は会話や景色を楽しみながらも、元巫女の手掛かりを捜すことに重点を置いた旅路であった。
◇◇◇
レオとエルザがヘルヴィを仲間に加えて再び旅立った頃、とある山中の豪華な屋敷のリビングでは、ダナトとルヲーグ、シアンにクスタヴィの四人が思い思いのまま寛いでいた。ここは元は貴族の別荘で、そこを管理していた人間を洗脳。後は好き勝手に使用しているのだった。
今も数人が座れる真っ赤なソファーに一人身体を投げ出したダナトは、頭の後ろで両手を組み仰向けで横になっている。
「で、何か分かったのか?」
横目で見ながら話しかけるのは、テーブルを挟んで向かい側にある、同じ赤いソファーに身を沈めているルヲーグ。余り顔色が良くなく、目を瞬かせながら管理人に淹れさせた紅茶を飲んでいた。
「ん~、とりあえずクスタヴィのデータ取りは終わったかな」
テーブルに置かれたクッキーに手を伸ばしつつチラリと見るのは、同色の一人用ソファーに足を組んで腰掛けるシアン。ではなく、その背後に彼の騎士のように控えるクスタヴィだった。
今この場に上っている話題は、魔者の種を発芽させたクスタヴィが失敗作のダグではなく、きちんと意識を持った魔者になったかということだった。
「それで結果は?」
「想像以上だよ。細胞から倫理観から全部変わっちゃった。まあ、脳も細胞で出来てるんだから、考え方が変わるのも可笑しい話じゃないんだけどね」
自分の研究成果の第一歩といったところだろうか、ルヲーグは嬉しそうではありながら、まだまだ満足している様子ではない。むしろこれからが大事と鼻息を荒くしている。
その話を聞いたヘルヴィが首を傾けて、後ろに控えるクスタヴィに確認する。
「それでも記憶はあり、我輩が主であると認識しておるのだな」
「もちろんです。私が必要ないとの仰せでしたら、処遇は如何様にも」
胸に手を当てて、クスタヴィは頭を軽く下げる。元から嘘や人を担ぐような人間ではなかったが、今もシアンを見つめる瞳に嘘や冗談の色は見られない。
それに気分を良くしたのか、口元をニヤニヤと緩めたシアンはダナトに向き直る。
「どうだ、中々の成果であろう。存分に褒め称えるがよい」
そして自慢気に胸を張るシアンだが、彼が何かをしたということは無い。単にクスタヴィを手駒にしようと選んだだけで、種を用意したのはルヲーグである。もちろん他の二人は何事も無かったかのように綺麗に流すのだった。
「そうだ、ちょっと休んだら種蒔きしてきたいんだけど。シアンから譲ってもらったのは、全部試して今手元には無いし」
「何だもう使い終えたのか。そう言えばカカイの騎士も何人か加わっていたな」
無視されても気にしていないシアンが、意地悪くクスタヴィを再び見遣る。
種蒔きというのは魔者の種を人に植え付けることで、ルヲーグの実験が成功すれば魔者に変えられ、失敗してしまえばダグになるか死亡してしまう。その実験体にかつての同士が居たと態々伝えたのだ。
しかし、そんな話をしているにも係わらず、クスタヴィの表情は全く変わらない。心や感情を消された訳ではなく、全く何とも思っていないのだ。
「余り顔を合わせたことはありませんが、剣の腕も騎士としての振る舞いも、それほどの人物達ではなかったと記憶しております」
むしろ実験体となった人達の情報を自ら進んで差し出すのだった。
ルヲーグも種を植える時に彼らをいろいろと調べたのだろう。クスタヴィの意見に同意するように頷く。そして、強い眼差しをダナトに向けた。
「うん、その通り。だからクスタヴィ並みの実力者だから大丈夫なのか、それとも別の要因なのかを調べる必要があるんだよ」
元々、ルヲーグ達はダナトから余り騒がないように言われていた。だからこそ、ルヲーグは実験を山奥の孤立した村で行い、バネッサ達に気付かれてからは別の場所に移動したのである。その為、少しばかり大々的に動く許可をダナトに求めているのだ。
「……魔王サマはどんな感じだ?」
ソファーから身体を起こしたダナトはルヲーグを見つめ返す。だが、そのルヲーグはシアンへと視線を移した。クスタヴィを調べるために、魔王の様子を見る役をシアンに代わってもらっていたのである。
二人からの視線を受け、シアンはもったいぶる様に紅茶を口にしてから、ゆっくりと頷いた。
「うむ、そろそろ目覚めるのではなかろうか」
そして、ニヤリと楽しそうに笑みを浮かべる。それに釣られるようにダナトも似たような笑みを返す。違いがあるのはより獰猛で、眼差しに強い光が宿ったことか。
「なら問題はないな。魔王サマが目覚める前にも、派手に動くための準備が必要だろう」
「やった、じゃあボクちょっと寝てくるっ」
ダナトの許可を貰ったことで、ルヲーグは喜んでソファーから立ち上がると、そのまま部屋を飛び出して行ってしまった。見た目通りの子供らしい行動に、残ったダナトとシアンは軽く笑いあう。
「やっぱまだまだガキだな」
「それに頼っている貴様はそれ以下か?」
「人の事言えた義理か」
歳が近く、自分が楽しむ事を優先する似たもの同士な二人。軽い言葉の応酬もこの二人にとっては何時ものことで、仲が良いとも悪いとも言えないような関係だった。
そして、ルヲーグが動き出したように、これからどうするのかは知っておきたかったのだろう。ダナトがそのことを尋ねる。
「それで、お前はこれからどうする」
「ふむ、今までは城で書類整理が多かったので、悠々自適、気の向くままに歩き回るというのも良いかもな」
今までとは違う行動とは言うものの、ダナトからしてみれば好き勝手していた今までと同じ、ということである。呆れたようにため息をこぼしたダナトに、「なら貴様はどうだ」とシアンが逆に問い返す。
「そうだな……ルヲーグみたいに、俺も前準備でもしておくか」
「ほぅ、また魔王様のように眠り続ける、とでも言うのかと思ったぞ」
「俺達からすればお前やルヲーグの方が、こせついている気がするんだがな」
シアンは意地悪く口角を吊り上げて笑い、ダナトは呆れたようにため息を吐く。
それにダナトが眠るのはある意味仕方の無いことかもしれない。研究好きなルヲーグや内政などで遊んでいたシアンと違い、ダナトが好きなことをして遊ぶとなると、街や山を吹き飛ばす可能性もある。鍛錬をするにしても同じことで、眠っていた方が騒動は起こさないで済むのだ。
ただ、その時間が終わる。魔王の目覚めが近い以上、多少早くに騒動を起こしても問題ないと考えたのである。
「ところでヘイムは何処に行ったんだ」
ダナトの口から出てきた名前を聞いて、シアンはそんな人物が居たということを思い出し、軽く何度か頷いた。別にヘイムとやらに関心が無いわけではなく、久しく会っていないので顔を思い出していたのである。
「さて、我輩の知るところではないが……クスタヴィは何か知っているか?」
シアンはクスタヴィに一応話を振ってみたものの、知っているとは思ってはいなかった。何故なら彼らが来る前から、ヘイムの姿はこの屋敷になかったのだから。ただ困らせようとしたイタズラ心である。
しかし、クスタヴィからの返答は期待に副うものではなかった。
「その方かは存じませんが、以前ルヲーグ様が――」
『ダムスミリィの闘技場が見たいとか言ってたけど、そこで暴れるんじゃないかって心配だよ。お土産は楽しみだけど』
「――と、仰られておりました」
データを取られている最中にでも聞いた話なのだろう。淡々と話した内容を聞いた二人が、苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
「ルヲーグの懸念も尤もであるな」
「全くだ。それはあるかもしれん」
三人と数は少ないが、クスタヴィの出会った全ての魔族が暴れる可能性が高い、と考えている人物ヘイム。しかも、それを理解していながら、今も苦虫を噛み潰す状況になってしまったように、全く制御出来ていないのである。ルヲーグやシアンも、一応はダナトの言う事を聞いていたのに、だ。
少しばかり嫌な予感が走ったクスタヴィは、表情をより硬くして喉を鳴らす。
「一体どのようなお方なのですか、ヘイム様は」
「力自慢のアホだ」
しかし、ダナトから返って来た言葉は、それほど凄まじさを感じさせないものだった。彼が心底呆れた様子なのも、一役買っているだろう。
だからこそ少しばかり拍子抜けしてしまい、例え面に出していなくてもそれがシアンに伝わったのか、クククと小さな笑い声を漏らす。
「うむ、アホである……が強いぞ、奴は。もし本気で暴れれば、我輩やルヲーグなど相手にならず、ダナトでなければ抑えられぬであろう」
そう言ってクスタヴィに振り返ったシアンの浮かべていた表情は、今の容姿ではもちろんライナス王だった頃にも見せた事の無い薄い笑み。
ルヲーグ達が戦闘に特化している魔族でないことは、クスタヴィも分かってはいる。だが、自分と同じカカイ騎士団の団長ミドガを、気取られることなく一瞬で接近し、一撃で腕を折って無効化させた魔族でもあるのだ。
そんな彼らが相手にならない。クスタヴィは自分でも気付かぬ内に、ゴクリと再び喉を鳴らすのだった。