第八十四話
毒矢を受けたライナスは、軍医の治療を受けるもそのまま亡くなってしまう。
だが、直属の騎士として同行していたルヲーグが、横たわるライナスに話しかけると、ライナスとは違う容姿で彼は話し始めた。
シアンの容姿の変化と共に服装も変わり、今は薄紅色の髪に同色の瞳、切れ長な目を隠すようなメガネをかけていた。そして何故か白衣を着ており、医師や研究者といった風貌である。
「聞き取り辛かったかね? ではもう一度。主犯か黒幕かは別として、今回のライナス王暗殺事件の犯人の一人は君だ。言い逃れは出来ないよミドガ君」
その場で汚れを払いながら立ち上がり、演技のようにわざとらしく口にしたシアンの言葉は、この場にいる誰もが想像すらしていない言葉だった。むしろ有り得ないと直ぐに分かり、冷静に否定出来るほどだ。
「なんだ、信じてないのか。では、我輩が教えて進ぜよう」
周囲の無反応振りに呆れたようにため息を吐き、メガネを左中指で押し上げた後で、シアンはこほんと一つ咳をする。しかし、その隙を狙ってミドガは更なる一撃を振るう。
「話しの途中での攻撃は見事であるが、いい加減話しを進めようではないか」
「なっ」
反応すら出来なかった、今まで通りの一撃。
しかしそれは、黒い靄が巻きついたシアンの右腕で、呆気なく受け止められてしまったのだ。団長にまで上り詰めた以上、ミドガにも剣の自信はある。それが簡単に受け止められてしまい、感情を表してしまったのも致し方ないだろう。
「では話を続けよう」
シアンが右手で刃を掴むと、ミドガが押しても引いてもビクともしない。そのまま引き寄せられそうになり、ミドガは仕方なく剣を手放して後方に跳び下がる。
「ライナスと言えど、少し離れた場所でしかも正面となれば、矢を防ぐ事ぐらい出来よう。それを邪魔するために、貴様は後方から腕ごと抱き付き、射線上へ修正するように倒れ込んだのだ」
刃を掴んだ剣を宙で回転させ、見事に柄を掴んで見せた。
しかし、シアンの身体には余り筋肉が付いているようには見えず、細身高身長な体格では飾り気もない無骨な剣を握っていても、全く似合っていない。ただ、身体の動きや剣の扱いは様になっている。
「でもさ、その人ちゃんと指示してたよね。天幕の中にまで聞こえてたよ」
「無論出してはいたさ。とは言っても、ライナスから注意を逸らし、この場から離れるような指示を、しかも矢継ぎ早に出していたのだがな」
ルヲーグの興味のなさそうな声色から出された問いにも、シアンは笑みを浮かべて即座に答えてみせた。
対してミドガの表情は相も変らぬ無表情。シアンがゆっくりと動かす剣の軌跡を油断なく見つめている。
「それもこれも、毒が身体を蝕むまでの時間稼ぎ。軍医への連絡も人が集まり、兵達がライナスの容態を気にする余裕が出るまで後回しにしたのが良い例だ」
その言葉に周囲から微かに、だが確実にざわめきが起こる。それは周りの兵士がシアンの言葉を耳に入れ、微かにでも思い当たることがあった証でもある。
あの時、ミドガから軍医を連れてくる指示は出ていない。彼は『軍医はまだか』と叫び、それは恰も既に呼んでいるかのように思わせる言葉だった。
「そして、ライナスが話の出来る状態だと分かると、舌を噛まないようにという名目で口にハンカチを詰め余計な事を喋らせず、包帯を巻くことで傷口の異常の発見と治療を遅らせたのだ」
言葉は発していなくとも、真実を聞きたいという想いと微かな疑惑が入り混じった周囲の視線は、未だ無表情を貫くミドガへと移っていた。
「一見一聞した輩は、貴様は出来ることをやったと思うであろうなぁ。その実、ライナスを殺すために、遅延させる行動を取っていたとは思うまい」
静寂の中、騎士の誇りとも言うべき剣を無配慮に地面へと突き刺し、笑みを深くしたシアンの乾いた拍手のみが辺りに響く。浮かべている笑みは、賞賛や小馬鹿にした感情を混ぜたものだった。
対するミドガは普段通り怒りも表さない無表情。そんな彼を無視して歩き出したシアンは、ルヲーグの隣に来ると叩く手を止めた。
「いやはや、我輩も騙された。貴様は中立派だと思い、第一陣に加えたのだが……」
その間に地面から剣を引き抜き構えるミドガに振り返ると、人差し指を伸ばした右手をゆっくりと持ち上げて指差す。
「貴様、王子派だな」
派閥というのは所属する人の地位や能力、数によって勢力が変わるものである。その為、シアンも一通り調べさせたのだが、ミドガはどちらに肩入れることも無ければ、どちらの派閥の人間とも懇意にしていない、中立派であるとの報告があったのだ。
今もシアンには確固たる証拠を持っていない。神聖樹を奪った時点で暗殺を行い、一番得をするのが王子派という推測の下である。もっとも、ほぼ確信してはいるが。
ただ、シアンが騙されたということに、嬉しそうに反応したのはルヲーグ。
「あはは、何シアン騙されたからって、こんな意地悪してるの?」
「意地悪? どこがだ。このように計算された謀、我輩は見事だと称賛しているのだぞ」
シアンは「失敬な」と表情を引き締め、不満を口にする。
しかし、称賛していると言われたミドガは、当然ながら喜ぶ様子を見せることはない。
「何を言うかと思えば下らぬ戯言を。私は王を護る為に動き、それはここに居る騎士達も同じだ。誰一人として、貴様ら魔者に揺るがされるような心魂など持っておらぬ」
その言葉にライナスだったモノが何であるのか、明確に理解した兵士たちは抜刀し、シアンとルヲーグの二人に刃を向ける。
普通の人間が殺され、別の容姿で蘇ることなど無い。つまりシアンと称される正体が魔者であるということを理解したのだ。複雑な感情が入り混じり揺れていた眼差しは、完全に敵と認識した魔者二人を射抜いている。
だが、剣を向けられる二人は別段焦るようなことはなく、ルヲーグは面倒そうにため息を吐き、シアンは楽しそうに笑う余裕すらあった。
「本物の王を何処へやったッ」
「なるほど、中々に見事な人心掌握。それが貴様の本当の武器というわけだな」
言葉で自らの望む答えに相手を誘導させる手法、それはシアンも良く使う手である。故に楽しそうな笑みをさらに深くし、ミドガではなく周囲に聞かせるように大声を発する。
「だが、諸君らも見ただろう、我輩がミドガの剣を難なく受け止めたのを。つまり別の何かに気を囚われねば、飛んでくる毒矢も防げたと思わないか。ミドガ、あの時ライナスの耳元で言ったことを、皆にも伝えてやったらどうだ」
「何も言っておらぬ。虚言を弄しようとも無意味だ」
「そうか、まあ言えるはずもないだろうなぁ、貴様としては」
あの時ミドガはライナスの名を叫んだだけで、それ以外は何も言っていない。それはミドガ本人が一番分かっていることであり、即座に切り捨てることが出来た。
しかし、それ以外の兵はシアンの言葉に少なくとも納得してしまう。自分たちよりも強い団長の剣を呆気なく受け止めたのだ、飛んでくる矢を止める事は出来ただろう、と。
実際のところ権謀術数蠢く世界で遊ぶと決めた以上、シアンは魔者としての能力を使う予定は無かったのだが、それを知るのはルヲーグだけである。
「それじゃあ、そろそろお暇しよっか」
「まあ、待てルヲーグ。今回の件の褒美として、面白いモノを見せてやろうじゃないか。ついでに、ミドガの邪魔になるであろうモノも排除してやろう」
その言葉にルヲーグはピクリと眉を動かし、余りいい顔はしていない。そしてそれは、当然ミドガを始めとした兵士たちも同じことである。敵対している魔者から「面白いモノ」と言われ、素直に受け取るはずもなかった。
「今ここでやっちゃうの? ま、ボクのじゃないから、シアンの好きなようにすれば良いけどさ」
「無論そのつもりだ」
再び何かを企んでいるような、人の悪い笑みを浮かべたシアンはミドガに一歩近付き、対するミドガは警戒から一歩後退する。
そしてルヲーグは、そんな二人をどうでも良さそうに眺めていたが、そんな彼にも近付く人影があった。
「ミドガがそいつを相手にするのなら、俺の相手は君か?」
クスタヴィである。自分の子供よりも更に幼い見た目のルヲーグに、容赦なく剣を向ける。だが、ルヲーグは横目で見るだけで、全く相手をする気はなかった。
「いやいや、貴様の相手は別にいるぞ。だが、その相手を紹介する前に一つ問題だ」
代わりに対応したシアンは、身体はミドガに向けたまま視線だけクスタヴィに向けて指差した。そして、視線が自分に移ったことを確認すると、その指で自らの首を掻っ切る仕草をする。
「ミドガに何度も斬られた我輩の身体だが、さて本体はどこにあるだろうか?」
「本体だと……」
「ヒントは貴様がライナスから何か貰ったであろう」
「ライナス様から?」
貰った物というだけならば、武具や土地から名誉や称号など無形の物まで、報奨としていろいろ貰っている。答えを出すのは難しいだろう。
ただ、クスタヴィはこの問いに関して、それほど深くは考えてはいなかった。敵が本当の事を言うとも限らず、答えが出ないならそれでもいいと思っていたのだ。
しかし、答えと言っても過言ではないほどの、重大なヒントがシアンの口から出される。
「神聖樹を攻めると言われた日、ライナスの部屋で飲んだではないか。市場で売られていたかのような安物を」
「……果汁水」
正解を口にした瞬間、シアンは両腕を上げて満足気に笑う。
「さようっ、それこそが我輩の本体。貴様は知らぬうちに体内に取り込んでいたのだ。つまり我輩を殺したいのならば、クスタヴィが死なねばならぬ」
クスタヴィは無意識に胃の辺りを押さえ、シアンは静かにほくそ笑む。周囲も息を呑み、緊張感と緊迫感が漂い辺りの空気を支配していた。
しかし、そんな空気を切り裂いたのは、ルヲーグの能天気な声だった。
「シアン、長くなりそうならボクもう帰るよー」
「……全く、貴様と違って良い反応をしてくれたというのに」
楽しそうな表情から一転、つまらなそうに息を吐き出し首を左右に振ったシアンは、人差し指を立てて左右に振る。
「我輩の本体など、我輩以外には在りえぬだろう。さて、からかうのもこれ位にして、貴様の戦う相手を紹介しよう。カカイ騎士団の第二軍団長、ミドガ・ポート。ライナス王の仇である」
ゆっくり腕を上げ、手をミドガへと差し向けたが、指名されたミドガもクスタヴィもつまらない物でも見るように、冷たい視線をシアンへと向けた。
「クスタヴィ、奴から我輩を護るのだ」
「何を馬鹿なことを。貴様がライナス様の偽者だと分かった以上、護る理由は無い。むしろ貴様を捕まえ、ライナス様の居場所を吐かせるのみだ」
シアンの要求は容赦なく切り捨てられ、むしろクスタヴィはルヲーグに向けていた剣の切っ先をシアンに向けた。ただ、シアンも焦る素振りも見せない。
「奴は先ほど死んだと言ったろうに。……最終確認だ、我輩を護る気は無いのだな」
「無論だ」
「そうか……」
肩を落として俯き、シアンの顔に影が落ちる。だが、それが悲しみからでないことは、口元に浮かんだ笑みを見た者は理解した。そして揺れ始める肩。
「ならァ、仕方ないなクスタヴィーー。【――】ワォブフラッガ」
「なにを――」
笑みを更に深め、人には聞き取れない詠唱と短い名。
魔法を警戒していたクスタヴィを始め、ミドガも兵士たちも何の発動も感じられず、不可思議そうに眉をしかめた。だが、変化は直ぐに起こる。
「ぐあああぁぁぁぁーーーぁぁぁあああああああああああ」
突然、クスタヴィは苦しみだし、背中を丸めて胸を押さえたのだ。体内で暴れだした気が外へ放出され、近くに居た兵士は吹き飛ばされてしまう。その変異に驚きもしないのは、当然仕掛けた張本人である魔者二人だけである。
「我輩の本体というのは冗談だが、あれは人を魔者に変化させる、言わば魔者の種が混ぜられていたのだ」
「ボクが作ってるんだよ……まだ実験段階だけど」
クスタヴィからソッポを向くルヲーグは、未完成の状態で公衆の面前に晒されるのが嫌なのか、それともヘンテコな結果になるのは自分の本意でないと告げたいのか。
誰もが苦しむクスタヴィに注目する中、ミドガだけが無言で地を駆けシアンを狙う。
「無駄だ。それに貴様の相手は我輩ではなく、奴であろう」
「くっ」
だが、横に振り抜かれた剣は先ほどと同じように黒い靄で防がれ、胸元を強く押されてクスタヴィの傍にまで押し出される。
「ぐっが、ガアァッアアアァ」
「クスタヴィ、気を確りと持てっ。奴らは王を攫った魔者だ。そんな奴らの好きにされて良いのか、王の居場所を聞きださずとも良いのかっ」
「グ、グゥアアアァ、オ、王」
魔者二人だけでなく、もがき苦しんでいるクスタヴィにも警戒しつつ、ミドガは説得を続ける。その甲斐あってか、クスタヴィは苦しみながらも「王」という言葉に反応を示す。
この事態に焦りを見せたのはシアン。眼を見開きルヲーグへと振り返る。
「ッ、このままでは変化しないかもしれんぞ、どうするルヲーグ」
「なーにが」
だが、そんなシアンとは裏腹にルヲーグは鼻で笑う。彼のいつもの演技だと分かっているからだ。それと己の腕を信じているからでもある。種を体内に入れた以上、魔者へと変貌するのは決定事項なのだ。
そして、身体に残っていた全ての気を出し切ったと思わせるほど、今までで一番大きな気の放出。周りの兵士はもちろん、さすがのミドガも踏ん張ることが出来ずに吹き飛ばされ、シアンとクスタヴィも天幕の後方へと飛び下がる。
しかし、天幕も呆気なく吹き飛ばされ、それを跳ね除けた二人が目にしたのは、地面に倒れたまま顔だけを上げる兵士たちと、既に立ち上がり剣を構えるミドガ。そして、地面に走った気流の線の中央で、静かに俯き佇むクスタヴィの姿だった。
「クスタヴィ……なのか?」
油断無く剣を構えたまま、ミドガがクスタヴィに尋ねた。
以前、バネッサ達が見た村人のような、一目で分かるほど人外な姿はしていない。金色の短髪が目の辺りに触れるほどまで伸び、茶褐色の瞳はやや赤みを増し、肌の色が浅黒くなっただけである。
だが、気や魔力を感じ取れる人間ならば直ぐに分かる。今までのクスタヴィとは全く別人であり、人とは異質なモノであると。
「クスタヴィ、何をしている。こちらに来て我輩を護れと言っただろう」
「ハッ――」
周囲の反応を楽しそうに見つめていたシアンからの命を受け、小さく息を吐き出したクスタヴィは、落としていた剣を拾い確りと握り一歩一歩シアンに近付く。
そして、剣が届く範囲にまで近寄ると彼に向かって剣を掲げた。
「畏まりました、我が主」
「なっ……クスタ、ヴィ?」
「団長ッ」
肩膝を着いて剣を掲げるという行為は、王に剣を捧げるという意味である。
もちろん、騎士であるクスタヴィの剣は既に王のライナスに捧げており、それをシアンに行うということは主を変えるという決意。
カカイは国と王に忠誠を誓い、礼節を貴び弱者を護るなど騎士道を重んじ、それらを兼ね備えた者に聖騎士という名誉まで与えていた。今、クスタヴィはその騎士の誇りすら捨てようとしているのである。
これにはさすがのミドガもショックを隠しきれず、兵士たちもクスタヴィの名を次々と叫び、正気に戻そうとする。だが実のところ、この場で一番ショックを隠しきれなかったのはミドガでも兵士たちでもない。
「そんなっ、何で成功してるのっ。片手間で適当に作った種だったのにっ」
ルヲーグだった。
今回も失敗作であるダグに変貌するかと思いきや、容姿はほぼそのままで言葉も喋れて理解も出来るという、ほぼ成功と言っても過言ではない事態になったのだ。慌てて取り乱すのも致し方ないだろう。
「嘘、何でっ、この人間が良かったの? それとも種の作り方……覚えてないッ。えっと、あの時は確か本を読みながら適当に材料入れて、あぁ水がこぼれたから代わりに飲んでたお茶を足したような――」
「そんな物を渡したのか」
傍から見ても分かるほどに落ち着きが無くなり、懐から取り出したペンと紙に何事かを書き込んでいくルヲーグに、少々冷たい視線を投げかけるシアンだった。
「とにかくっ、シアンさっさと帰るよっ。帰ったらその人のデータを採らなきゃ」
一刻も早く詳しく調べたいルヲーグはシアンの白衣を引っ張り、クスタヴィを転移の範囲にまで近付くよう促させる。
シアンとしてもミドガへの褒美として、魔者に変化するという面白い見世物と、同じ王子派の年長で邪魔になりそうなクスタヴィの排除をしてみせた。これ以上、ここに留まる理由は無い。
シアンはもっとルヲーグに近付くようクスタヴィに指示するが、それを邪魔する為に立ち塞がったのは、騎士団で団長という同じ役職を務めるミドガ。
立ち上がろうとしたクスタヴィの背後から近づくと、襟を掴んで地面に引き倒そうとするが、クスタヴィは地面を転がることなく、受身を取って直ぐに立ち上がった。
しかし、その為にシアン達との距離が引き離されてしまう。
「クスタヴィ貴様、カカイを捨てるというのか」
「確かに故郷を捨てることにはなるだろうが、主に仕えてこその騎士だろう」
「我らカカイの騎士にとって、主とはカカイの国王以外の何者でもない。同じ主君に仕える者として、その様な愚行を許すわけにはいかぬ」
普段通り表情は動いていないが、ミドガの目は強い憤りで輝きを増し、鋭く釣りあがっている。ピリピリとした緊張感が漂い、剣呑な空気にクスタヴィも視線を鋭くする。
「許さぬというのであれば、どうするつもりだ?」
「例え操られていようと同じこと。団長にまで上り詰めた男が、魔者に傅くという我が国の恥を晒す前に、ここで貴様を始末する」
重心を低く落とし、剣をクスタヴィに向けて構える。そこに冗談など感じ取れるはずもなく、周囲の兵士たちは息を呑むことしか出来ない。互いの譲れぬ決意のぶつかり合いは周囲までも巻き込み、このまま二人による決闘死闘が行われるだろう。
そう思われていた矢先、誰にも――ミドガにすら気付かれず近付き、構えていた剣が蹴り飛ばされてしまった。
「なっ、グッァ」
犯人はルヲーグ。剣を蹴り飛ばした後、折れたミドガの左腕を掴み、引き寄せながら鳩尾を蹴り上げて左手で首を掴む。
「分かってないなー。その人は貴重な成功例なんだから、万が一にも怪我させちゃダメでしょ。もし壊れちゃったら、血脈とか土地柄の可能性からカカイの人間全部で実験する破目になるんだよー。分かってるぅ?」
力を入れて首を締め上げるルヲーグの表情は、普段と同じような笑顔を浮かべているように見える。しかし、浮かべた笑みは固まったかのように変わらず、ミドガを射抜く瞳は全く笑っていなかった。
対するミドガは首を絞めるルヲーグの腕を掴むが、それ以上のことはしなかった。というよりも、手を振り払うだけの力が残されていないと言った方が正しいだろう。
ルヲーグは首を締め上げながらミドガの魔力を吸い上げていたので、精神にも影響を及ぼす魔力の枯渇によって、ミドガは満足に身体を動かすことすら出来ないでいたのだ。
「普段溜め込んでる奴ほど切れると怖いなぁ。ルヲーグもう良いだろ、其奴の為に今クスタヴィを覚醒させたのだぞ。死なれたら今後の楽しみが減るではないか」
「……ふぅ、分かったよ。まぁ、ボクも大人気なかったかな」
首を掴んでいた手を離すと、興味を失ったのか咽るミドガを見ることなく、クルリと背を向けて、クスタヴィと一緒にシアンの傍へと移動する。
「ぐ、すたヴぃ」
クスタヴィは倒れ伏せているミドガの声にも、周りにいる部下たちの声にも反応を示さず、シアンとルヲーグと共に一塊になる。
周りを囲んでいた兵たちは、自分たちの団長を取り戻すべく一斉に襲い掛かるが、見えない結界に阻まれて一定の距離以上近づけない。
「では諸君。非常に名残惜しく、これで別れとなるのだが、その前に一つ面白い話を聞かせてやろう」
面白い話、そう聞いた瞬間、誰もが嫌な予感が走る。先ほどはクスタヴィの魔者への変異があり、今度も自分たちにとって嫌な事だと確信したからだ。
聞きたくないと思う人もいれば、聞かないのは怖いと思う人もいるだろう。だが、耳を塞ぐことすらする前に発せられたシアンの声は、近くだろうと離れていようとも関係なく全員の耳に届いた。
「我輩がライナスとなってから……果汁水を飲んだ者はどれだけいるかな」
ピタリと全てが止まった。クスタヴィを呼ぶ声も、取り戻そうとする動きも、転移を防ごうとする動きも全てが。
その間にシアン達はルヲーグの魔法で転移したが、それを気にする者は少ない。誰もが己自身と周りに疑惑の眼差しを向けていたからだ。
後の世で「第七魔王軍の狼煙」と呼ばれる一戦は、こうして終わりを告げたのである。