第八十話
身分証の確認という名目で、ハイデランド最初の町から旅立てないでいたレオとエルザだったが、確認が終わったと身分証を返されたのは、予定よりも三日も遅くなってからだった。
しかし、それが全て無駄な時間かというとそうでもない。レオ達が直ぐに旅立っては聞けなかったであろう、イヴが首都から旅立ったという情報を聞いたのだ。
「えっと……それで、イヴさんはどこに向かったんだっけ?」
エルザもレオと同じ情報を得ているにも係わらず、要領を得ていない発言である。別にエルザは頭が悪いわけでも記憶力が無いわけでもない。どちらかと言うと、単に認められないのだろう。
「首都を出て南東に向かったと聞いたんだが、地図を見るとヒグラン遺跡というのがあるな」
「南東って魔城とは逆方向でしょ。そうまでして遺跡を見ておきたいのかな」
ハンモックに揺られているレオの手には、宿屋の主人から借りたハイデランド王国の地図がある。国土は多少広いものの、ほとんどが砂漠という国で、人の住む場所以外に地図上で印されているのは、今レオの上げたヒグランなどの遺跡しかない。
「さあな、そのまま隣の国に向かうかもしれない」
「マリアみたいに緊急性のある依頼で、転移の特別許可を貰ってるってこと?」
エルザはベッドの傍に椅子を引き寄せ、レオの持つ地図を下から眺める。
「せめて次に向かう国の噂でもあれば良いんだが」
「ここ砂漠ってだけじゃなく、連合にも属してないから外の情報とか入らないもんねー」
「とりあえず、ヒグラン遺跡に向かうか」
一応次に向かう目的地は決まり、レオとエルザはこの日の日暮れ頃に旅立つのだった。
だからこそ、今日の昼に起こった出来事を耳にすることは無い。その事がこの町に届いたのは、二人が旅立ってから一週間ほど後のこと。
連絡網が発達し、瞬時に起こった事件を知ることの出来る人が居る中では、遅いと感じてしまうだろう。だが、国連非加盟で人の出入りの少ないハイデランドの、さらに端に位置するこの小さな町でさえも一週間で届いた報である。
世界を揺るがし、瞬く間に情報が飛び交った事件。それがカカイ王国で起こったのだ。
◇◇◇
その日の午前中、カカイ王国の首都は薄い雲はあるものの、綺麗な青空が広がっていた。しかし、天気が晴れかというとそうではなく、早朝から降り続く雨音で人々の生活の音を掻き消していた。
下から上がってきた陳情書や、確認の書類などに目を通していたライナス王には、本日とある公務が行われる予定である。
「……雨か」
雨が打ちつける窓から外を眺めたライナスは再び書類に視線を落とす。
予定されている公務とは城下町への視察。王として市民の生活を知り直接触れ合うという、ライナスが行い始めた公務と言う名の息抜きだった。
「この雨では中止にした方が良さそうですな」
それほど強い雨というわけではないが、弱い雨でもない。ただ、人々は好んで外に出ようとはせず、国民と触れ合うという目的や王の身体の心配もあり、秘書官は中止にした方が良いだろうと判断したのだ。
しかし、ライナスはその言葉を聞いて顔を上げると、自信あり気に笑って見せた。
「そんな心配はせずとも、きちんと用意はしておけよ。午後からは晴れるだろうからな」
「何を仰られますか。これは水霊の悪戯、いつ止むかは彼ら次第でありましょうに」
雨雲も無く雨が降るのは、水の精霊が悪戯をしているからである。昔からそう言われていて、そういった名が付けられていた。その為、秘書官の言う通り降るのも止むのも精霊が決めるので、予定を立て辛くしていたのだ。
「なに、精霊の者たちも王である俺が、下々の者と触れ合う機会を無くそうとはするまい。そうであろう精霊よ。よしなに頼むぞ」
ライナスは少し大きめな声で、窓の外に向かって語りかけるが、それを聞いていた秘書官はその声が精霊に届くなど思ってもいない。
これは別にライナスを信じていないという話ではなく、精霊と交流を持てる人間は限られていて、幼少から知っているライナスに、その能力が無いことを理解しているからである。
午前の仕事も終わり、ライナスは昼食を取る為に廊下を歩いていた。傍には秘書官が付き従い、今後の予定が書かれた手帳を見ている。ふと歩みの足を止めたライナスは、窓から外へと視線を送った。
「ほら止んだではないか」
「確かに、では午後からのご予定はそのままということで」
そこには午前中に降っていた雨が止み、薄い雲一つない突き抜けるような晴天が広がっていた。
自分の予想が当たったからといって、自慢気に話すわけではないライナスに、秘書官も淡々と答える。秘書官は単に精霊が悪戯を止めただけと思っているが、人間が精霊と交流出来ないのであって、魔者であるシアンには精霊を見ることも話すことも可能なのだった。
「そうだな。護衛の件はどうなった?」
「は、クスタヴィも快く快諾致しました。今日は特に用事もなかったので丁度良いでしょうな」
「用事が無いのは知っているさ。でなければ頼まぬよ」
笑って再び歩き始めるライナスは、昼食後に向かう街へと思いを馳せる。
開演を知らせる為にベルを鳴らそうと、腕を振り上げながらも未だ音を立てないように。始まれば全てが動き出す。シアンはその瞬間が堪らなく好きだった。
◇
昼食後、ライナスは当初の予定通り街の視察へと向かう。出かける服や靴も、動きやすく装飾の少ない物でありながら、生地や少しの飾りにお金を掛けた一品である。とは言え、汚れても問題ないよう、やはり値段は抑えてあった。
これは公務でありながら、ライナスの息抜きも兼ねている。その為、護衛は極力少なく、クスタヴィの他には彼の選んだ五名の兵士のみ。しかし、少数だからこそクスタヴィの選んだ兵士は選りすぐられ、余程のことが無い限り安全だと言えるだろう。
「うむ、職務に励めよ」
総菜屋の主人から話を聞いていたライナスは、最後にそう励まして店を出る。
この息抜きは彼が王になって何度も行われており、当初は驚いたり畏まり過ぎていた市民も居たが、今では過度に緊張される事は少なくなり、良い交流行事だと捉えられていた。
店から出たライナスは、後から続くクスタヴィが一度店に振り返った事に気付き、何事かと話しかける。
「何か気になることでもあったか?」
「いえ、皆良い顔で働いております」
一瞬だけの行動にまさか気付くとは思っておらず、クスタヴィは内心驚きながらも、それを表に出すことなく、思っていたことをそのまま伝えた。
ライナスだけでなく、クスタヴィも余り街へ繰り出せる立場ではない。その為、先ほど話していた主人も、行き交う人々の表情を間近で見ることも新鮮で喜ばしいことなのだった。
「ははは、だからこそ城で暇していたお前に護衛を頼んだのだ。こういう機会でもなければ、そうそう交流など出来なかろう」
してやったりと声高らかに笑うライナスと、そんな主の気遣いを嬉しく思うクスタヴィ。護衛として周囲の警戒に当たっている兵士たちも、王の気遣いに感動で胸を震わせる。
「お心遣い、有難うございます。私のような一兵士のことまで考えて下さり、民を慈しむ陛下の御心が、この街を濡らす雨を晴らしたのでございましょう」
クスタヴィは雲一つ無い青空を見上げて眩しそうに手をかざす。
だが、午前中に雨が降っていた事実は変わらず、舗装されていない地面は泥濘が出来ている。一応汚れても良い格好で出歩き、気をつけていたとはいえ、ライナスの靴も泥で汚れてしまっていた。
「ふむ……あそこに居るのは靴磨きか」
しばらく街を散策していたライナスは、椅子に腰掛けている男性を見かけて微かに呟く。
商売道具などは濡れた地面に着かないよう、荷物入れのまま木に吊るしてあるが、男性の目の前に折り畳み椅子と小さな台があれば、靴磨きと思うのは当然だろう。
その呟きを耳にしたクスタヴィは、ライナスの汚れた靴と靴磨きの男性に視線を送る。しかしその目からは、余り好い気はしてなさそうだ。
「城の者達に行わせた方が綺麗になると思われますが」
「よい、今回のは民との交流が目的だからな」
どうやらライナスの意思は変わらないようで、その事はクスタヴィも予想はしていた。ライナスを説得や反論することなく素直に受け入れ、護衛である一人の兵士に目配せをする。
「では私が話を付けて参ります」
そう言って兵士がライナス達より先に、靴磨きの許へと向かう。
市民が王から急に話しかけられ驚き、何か粗相をしてしまうかもしれない。また相手方の事情もあるので、護衛の兵士が先に話を持ちかけ、後でライナスが向かうということになっていたのだ。
兵士としても危険な人物や物はないか、王が立ち止まった場合狙いやすそうな場所は何処かなど、王の身の安全を確認する為にも必要な手間だった。
そして、靴磨きの男と話をつけてきた兵士が戻ってきて、ライナスは彼の許へと向かう。靴磨きの男は椅子から立ち上がって待っており、ライナスが近付くと深々と頭を下げた。
「よろしいか」
「はいっ、お願いします」
ライナスが男性の前にある簡易の椅子に腰掛け、足を乗せる用の小さな台に左足を乗せる間に、男は荷物入れから靴磨き用の道具を取り出す。当然、城で使われているような高級で一級品な道具ではないが、使い込まれた品であることは一目見て分かった。
「それで、どう致しましょう」
ライナスの向かいの椅子に腰掛けた男性は、やや緊張した面持ちで話を切り出した。
少し離れて周囲を護衛の兵士が固め、ライナスの背後にはクスタヴィが控え、靴を磨く相手はこの国の王である。このような状況で緊張するなと言う方が無理というものだろう。
「任せる、普段通りで頼む」
「はい、畏まりました」
最初に手にしたのは、新品の布と今日も汲んできた井戸の水。泥汚れを取るための物だが、新品の布以外を使えるはずもなかった。
ライナスは慣れた手つきで作業を進める男に感心しながら話しかける。
「君はいつもここで靴磨きをしているのか」
「いえ私は旅をしていまして、街に滞在中は旅費を稼ぐため、このような事をしています。この街には数日前に着いたばかりです」
笑いを浮かべて受け答えをする男だが、緊張からやや硬い笑顔となってしまっている。
ただ、話している内にも作業の手は止まらず、使い込まれた黒いブラシを使って、靴に付いた埃などを落としていく。
「ほう、どこから来たのだ」
「この国に来る前はアゼラウィルに立ち寄りました」
そして、光沢を出すためにのクリームを、小さなブラシで靴全体に伸ばしながら、今まで見てきた旅の風景や国の様子などを話す。相手が相手ということもあってか、かなり丁寧な作業だ。
「そうか、旅人の君から見てこの国はどうか」
「そうですね。人々に活力が漲っていて、素晴らしいと思います。それに、子供達が笑顔で遊んでいました。治安も良いのでしょう」
他所から来た旅人に国を褒められ、ライナスは満足気に何度か頷く。
会話も切りのいいところで止まり、男は他と違い新しい大きめで少し短い黒毛のブラシを手に取った。そして靴の裏が見やすいように、ライナスにつま先を上げて貰うようお願いする。
「保革剤を塗りますので」
まさか外で靴底まで手入れをするとは思っていなかったライナスだが、最初に「任せる」と言ってあるのだ。踵が伸びて動き難い体制ではあるが、言われた通りのつま先を上げて足の裏を見せる。
「ふむ、これで良いのか。クスタヴィ、喉が渇いたのだが何かあるか」
「はっ、確か飲み物を持っていたのは――」
それから喉の渇きを訴えたライナスはクスタヴィに視線を送り、クスタヴィは荷物を持つ兵士を見る。そして、兵士の一人が自らが持つ荷物に意識がそれた瞬間、靴磨きの男は手に持っていたブラシを胸元に引き寄せた。
ブラシに付いた泥を払うような自然な流れ、男性に注目していても疑問にすら思わないであろう行動だった……が、それは直ぐに変わる。ブラシの柄を引くとキラリと輝く仕込みナイフ。
「ライナス様、その命――」
「ッ、陛下っ」
その行動にいち早く気付いたのはクスタヴィ。背後からライナスと男の間に右腕を入れ、ライナスを引き倒しながら庇う。
「貰い受けます」
「クスタ――ぐあぁっ」
だが、気付くのが一瞬遅れてしまい、男のナイフはライナスの左腕を切り裂く。深く切り裂かれた傷口からは真紅の血が宙に舞い、ライナスの苦痛の声と共に周囲に惨劇を知らしめた。
「きゃあああぁぁぁーーーー」
「ライナス様、ご無事ですかっ、ライナス様っ」
元々ライナスが居れば、それだけで周囲からの視線は集まっていたのだ。詳細は分からずとも、靴磨きの男がナイフを持って、自分たちの王に襲い掛かったことは直ぐに理解した。
近くで目撃した女性は悲鳴を上げ、男性はライナスの身柄を案じる。
「この逆賊めがッ」
「殺させるなッ、背後関係を洗うぞ」
駆けつけた兵士の一人が男の腕を抱きこみながら引き倒し、もう一人は男が舌を噛み切らないよう口に布を詰め、男を護るように周囲を警戒。そして、残りの三人はライナスの許へ駆けつけ、二人が周囲を警戒しつつ、残りの一人は荷物から医療道具を取り出す。
「問題ない、この程度かすり傷だ」
綺麗といっては語弊があるかもしれないが、パックリと裂けた腕から流れる血は止まらず、見ているだけでも痛々しい。言葉では強がっているものの、ライナスの表情は苦痛で酷く歪み、痛みを堪えるために噛み締める口から新たに血を流している。
荷物持ちの兵士は回復魔法が使える魔術師であり、当然医療知識も持ち合わせている。
怪我の軽度に適切な回復薬を選んでライナスに飲ませながら、魔法と応急処置によって治療を行う。あくまでここでは緊急の処置、きちんとした治療は城に帰ってからである。
「クスタヴィを始め、皆はよく俺を護ってくれた、礼を言う。さて、城に戻るぞ」
応急処置を終えたライナスは、力強く立ち上がり乱れてしまった服装を正すと、遠巻きに見ていた国民に無事を示すように右手を上げて何度か振る。それを見て歓喜の声と拍手が響き渡る中、ライナス達は気絶させられた靴磨きの男を引き連れて城へと戻っていった。
◇
調査の結果、靴磨きの男がアゼラウィルの放った密偵であることが分かった。この事態に対し、命を狙われたカカイの王ライナスは比較的冷静な様子であったと伝えられる。
ただ、怒りと悲しみに困惑と苦悩、それら様々な感情を面に出さないよう、冷静を装っていたともされていた。
そしてその日の夜――
「聖王国アゼラウィル……魔者との繋がり疑惑や今回の一件。今やその名を冠するに相応しくない国であることは、最早明白。魔王降臨という最悪な時期、最悪な状況ではあるが、否だからこそ疑惑のある国が神聖樹を管理することに、余は恐怖を覚える。神聖樹を魔王に利用されるのではないかと」
世界各国に同時中継された演説で、ライナスはアゼラウィルの非を訴えながらも、声を荒らげるようなことはなかった。むしろやや伏目がちで、この出来事を憂いているように見えた。
しかし、それも途中まで。ライナスは一つ大きく息を吸うと眼光鋭くし、己の絶対正義を示すように胸と声を張り上げる。
「余、ライナス・ベレスフォード・ジンデルは、ここに聖王国アゼラウィルに対し、神聖樹の管理放棄と引渡しを要求する。また、この要求が受け入れられない場合、武力を持って制圧することも辞さない構えである」
各国に向けて発せられたこの宣言は、引き渡しを要求と称しているものの、誰もがアゼラウィルがそれに応えるとは思っておらず、実質的な宣戦布告だと受け止められていた。
紛争や軽い小競り合いしか無い世界で、領土を奪おうとする戦争。様々な憶測や邪推を生み出しながら、ライナスが襲われた事件と、この宣言は瞬く間に世界を駆け巡るのだった。
「短絡的過ぎたんじゃないの? 命狙われたのも仕込みじゃないのかって、シアンの計略も見抜かれてるよー」
そんな話題の渦中にいるライナスはというと、自室で遊びに来ていたルヲーグと軽い食事を取りながら話しをしていた。城に戻ってきちんと医師の診察を受けたとはいえ、彼の未だ腕の傷は治っておらず、白い包帯が巻かれている。
ルヲーグは包帯の巻かれた左腕に視線を送り、楽しそうに笑った。全てがライナスの思い通りに進んでいないことを、挑発的に指摘しているのだ。
「よい、その様な邪推をしたがる奴らにとって、真実が何であるかなどどうでも良いのだ」
「邪推って……まあ、襲われたのは真実ではあるね。真実を語る人が嘘で塗り固められても」
しかし、当の本人であるライナスは全く気にしていないようで、ルヲーグの挑発も鼻で笑って掃き捨てた。
もちろん、そんな事を気にする性格でないことは、ルヲーグも良く知っている。残念がる素振りも見せずに会話を続けた。
「でもさ、わざわざ雨を降らせる意味はあったの?」
「ま、奴に話しかける為の流れというものだな」
魔者は精霊と交流を持って雨を止めさせられるのであれば、逆に雨を降らせることも可能となる。今朝方から降り続いていた雨は、午後からライナスが自然に靴磨きの男と接触出来る機会を作るためのものだった。
当然、それを考えたのはライナスだが、実行したのはルヲーグである。
「それより、奴は本気で俺を殺そうとしていたようだが」
「うん、当然でしょ。だってそれ位しないと怪しまれるだろうし、わざわざリミッターまで外させたんだから。あーあ、ライナスが死ねば良かったのに」
「まあ、それも面白そうだと一瞬脳裏を過ぎったがな」
そしてグラスに入っている真っ赤なワインを一口。滑らかな舌触りと鼻に抜ける芳醇な香り、多くの不良を切り捨て、良の中でも最良だけを集めて絞り、出来上がったワイン。その出来栄えとこれからの事を考え、ライナスは笑みを浮かべる。
「さて、内政は十分楽しんだ、次からは戦争の時間だ」
太陽は完全に落ちてしまい、周囲には夜の帳が降りている。だが、そんな中だからこそ、夜空には満天の星が輝くのだった。