第七十八話
レオとエルザがハイデランド王国の入国審査を受けている頃、聖王国アゼラウィルではとある噂が囁かれていた。
それは国内に魔族が潜み、良からぬ事を企んでいるというものである。しかも、その噂を肯定するかのように、夜中の王都では異形な影を見た者や、行方不明者までも続出していたという。
当然その噂は隣国であるカカイ王国にも届いており、国民たちは面白半分で噂を口にし、徐々に広まっていったのだった。
「魔王という存在が現れ、皆の不安がる気持ちは分かる。だが、むやみやたらと他人の不安を煽るような事は口にしないでほしい」
この事態に対してカカイの王であるライナスは、箝口令とまではいかないまでも民衆に対し、口にすること控えるよう告げたのである。
大抵の国民は政治の手腕を発揮しだした王の言葉に従ったが、中には控えるよう言われたからか、我慢しきれずに小さい声で噂を広める人達は居た。多くは旅人なのか、余り見かけない顔だったという。
いつもよりも少しばかり忙しくなった仕事も終わり、ライナスは自室へと戻る。だが、そこには城内で見かけない人物の姿があった。
「随分と悠々自適な生活じゃないか」
テーブルの上で両足を組み、椅子を後ろに傾けて座っているのは、いつも訪れているルヲーグではない。ただ、珍しい人物の来訪ではあるが、訪れることを知っていたライナスは驚きも無く言葉を交わす。
「ダナトか、おはようと言うべきか?」
「いらんいらん」
手をひらひらと振り、瓶から直接酒を呷ったのは、マリア達の前に姿を現したことのある魔族ダナトだった。
「それよりもルヲーグに聞いたが、かなり好き勝手に動いてるみたいじゃないか」
「うむ、楽しくやらせてもらっている」
「はっ、そりゃこれだけ自由に出来りゃな」
ダナトがぐるりと部屋を見回せば、豪華な家具や絵画、彫刻品が置かれてある。しかし、そういった物品だけでなく、この国自体がシアンの手足であり道具なのだ。
感心と呆れが半々に入り交ざった眼差しを受けても、ライナスは自慢げに胸を張る。と、今日ダナトを呼び出した理由を思い出し、彼の前の椅子に腰掛けた。
「それより、頼んでいたことの準備は整ったのか」
「あぁ、ルヲーグに任せといたが、きちんと終わらせたようだ」
その言葉を聞いて、ライナスはやや呆れたようにため息をこぼす。
「おい、俺はお前に頼んだんだが」
「俺よりもアイツの方が適任だろうが」
悪怯れもしないダナトの言葉だが、それはライナスも分かっていたこと。
実はルヲーグに対して最近いろいろと頼み事が多く、貸しを作りすぎると思っていたライナスは、まだ貸しの少ないダナトに頼むことで、彼経由からルヲーグに向かうことを多少期待していたのである。
「ならば、功労者を労うのが王たる俺の役目……なのだが、ルヲーグはどうした?」
「今、アイツは不貞腐れてるからな」
その時の膨れっ面を思い出したのか、ダナトは椅子を大きく後ろに倒し、天井を見上げながら笑い声を上げた。
ダナトもシアンも何かにつけてルヲーグを頼り、何だかんだ言いつつルヲーグもそれを断らないのだから、今回のように依頼を回されるのだろう。
この場にいない人の事で笑いあう二人だったが、ダナトは直ぐに声を抑えると、やや鋭い視線をライナスに向けた。
「しかし、俺はまだ目立つような行動はするな、と言ったんだが」
「今はまだ目立ってはおらぬであろう」
だが、そんな視線に動じることなく、ライナスはダナトに不敵な笑みを向ける。
ピリピリとした緊迫感とまではいかなくとも、一瞬の静寂の後で先に表情を崩したのはダナトだった。
「はっ、派手に暴れる為の下準備だろうが」
「貴様も望んでいることであろう」
ライナスの言葉に対してダナトは、「当然だ」と笑って酒を呷る。この後二人は酒とつまみを届けさせ、しばらく酒を飲み交わしたのだった。
◇
数日後、カカイ城を上に下にの報告が二件ほどもたらされた。
一つ目は聖王国アゼラウィルでとある人物が死んだということ。これはその人物の立場から関心が高く、情報収集を急がせただけで一先ずの決着をみた。
だが、もう一つは重大な懸案として緊急の会議が開かれるほどであった。その内容とは『アゼラウィルとの国境付近にある村が襲われた』というものである。
正しくは村に向かう武装集団を、ラザシールの件もあって監視を強めていた兵士が見つけ、正規軍を動かしたという事案だった。幸いにして村人、兵士共に人的被害は無かったものの、賊を捕らえることは出来なかったのである。
「これは……」
そして、会議に出席していたライナスは事の詳細を聞き書類を見ると、苦虫を噛み潰したかのように苦悶の表情を浮かべた。
「アゼラウィル兵士の姿をした集団が襲ってきた。この事を陛下は如何お考えでしょうか」
「率直に言えば有り得ぬ。この時勢、他国に侵略しようと考える者はいないだろう」
ライナスは首を左右に振り、アゼラウィルの関与を否定する。この会議が開かれる前に意見の摺り合せをしていた大臣達も、それは同じ考えだった。
報告をしていた騎士も、ライナスの言葉を支持するように力強く頷く。
「大方、そこいらの賊が罪を擦り付けようとしているのか、もしくは二カ国間を緊張状態に持っていかせたい第三国の仕業でしょう」
その言葉を頷きながら聞いていたライナスだったが、何かに気付いたようにその動きを止めた。しかし、発言するかどうか眉をしかめて悩みながらも、表情はそれほど深刻そうではない。
「まあ、無いとは思うが、噂の魔族の可能性はどうだ?」
「聖王国に出没する奴ですか。単に村を襲うだけでしたら、わざわざ偽装などする必要もありませんし……。前に述べた理由でしたら、ヨーセフが首謀者の可能性もあります。自身の疑いを逸らすために、我が国と聖王国の対立を望んでいるのやもしれません」
答えたのは白く長い髭に、ゆったりとした濃い緑色のローブを身に纏う宮廷魔術師の一人。彼は前の王からの信任も厚く、会議に参加している他の面々も頷いて聞いている。
「ふむ、それで魔族に頼んだか、賊を雇った可能性もあるか……」
考えを巡らせるように腕組みをしながら、背もたれに背中を預けて天井を眺める。
ライナスがどのような決断を下すかで、戦争へと一直線に突き進む可能性もあるのだ。周囲は固唾を呑んで王の言葉を待った。
「何はともかく、国民の安全が第一だ。王都の兵士を減らし、周囲の警戒や情報収集に当てることは出来るか?」
「それは可能ですが、万が一のことがあっては陛下の御身に危険が及びます」
つい先日魔物が国内を暴れ回り、隣国にも魔者が居るとの噂があるのだ、王都の警備を薄くすることに周囲はざわめく。
だが、ライナスは片手を上げて周囲の声を抑えると、信の入った笑みを浮かべ、会議に参加している面々を見渡す。
「よい、ここには信頼できる者達が多く居るからな、多少兵士が減ろうと変わらんさ。それと、聖王国には抗議文とそちらも調査をするよう書翰を送れ」
王に信頼されてると言われ、誇りと興奮を胸に一同は大きく返事をする。
こうしてカカイのアゼラウィルに対する一応の処置は決まった。だが、全てはシアンの思惑通り。その事実を知る者はまだ少ない。
◇◇◇
互いの国の情報が集まらない内は、自国で起こったことの方が重要な事案となる。
カカイが国境でのゴタゴタを話し合っている頃、アゼラウィルではもう一つの人が死んだことに対する会議が行われていた。それというのも、被疑者が一般人で普通に死んだ訳ではないからだ。
死んだのは貴族であり、以前カカイから引渡し要求のあった大臣の政敵。つまり、魔族と係わりが有るとされた人物の敵が殺されたのだ。
しかも、遺体は肘と膝から先を引き千切られ、地面に残された両手足は骨が砕け散り、巨大な手跡と共に骨まで届く深い爪痕が残されていた。死ぬ直前の表情は苦悶と恐怖で引きつったままだったという。
「魔族の仕業に決まっておるっ」
力強く机に叩き付けられた拳は、怒りからか震えていた。皺の刻まれた手と顔に、怒りで少しばかり白髪が逆立っている老人は、渦中の引き渡しを要求された大臣である。
つまり今アゼラウィル内では、この老人が殺したのではないかとも噂されているのだ。
「落ち着け、そのような事は分かっておる」
聖王国の王であるアンセルム自ら制止させることで、大臣は震える拳を袖の下に隠し、他の参加者に頭を下げて無言で席に着いた。
ここに居る面子は政治の中心であるアンセルムや大臣、騎士団の団長達である。ただ、緊急に開かれた会議なので、全ての中枢がここに揃っている訳ではない。
その中で情報を集める部署の部長が、今回の件に関して調査した結果報告を行う。
「夜間でしたので目撃者は少なかったのですが、事件当夜に腕が四本あるように見えた人影が、屋根の上を走って移動していたとの情報を得ました」
「なぜ、そ奴はその時に通報しなかったのだ」
「申し訳ありません。通報自体はありました。しかし、当時その男が呂律も回らないほど酒に酔っており、緊急で正当性のある情報とは判断せず、普段通りの報告に留めたとのことです」
報告をする部長の頬は恥や怒りからか少々赤くなり、完全に隠しきれない怒りが溢れ出している。報告しなかった末端の部下だけでなく、自分にも向けられた怒りだった。
それが分かっているアンセルム王は、彼を気遣う言葉を掛ける。
「噂に振り回されるお前達の苦労は分かっておる。気にするなとは言わぬが、このような失態を無くすよう今後も務めよ」
「はっ、必ずご期待に添えるよう奮励致します」
王の言葉を胸に刻むように、部長は強く握り締めた右拳で胸元を叩く。
実はアンセルムの言う通り、今回の証言者のような魔者の目撃談はかなりの件数に上っていた。もちろん、その一つ一つを調査を行い、結果は勘違いやイタズラ、酔っ払いの妄想だったこともある。
そして、本当に魔者と関係あったのが、今回の一件だけだったのだ。最初の情報だけで判断が付くはずも無く、普通の証言と同じように処理したことを責めるのは酷というものだろう。
何せ彼らの元にやってくる情報源は、国民は当然として普段見かけない旅人からの情報だろうと、一応の調査をする必要があるのだから。
「魔族絡みとなりますと、件のヨーセフでしょうか」
「……カカイという線もありますな」
会議に参加している内の一人が発した言葉は、声を荒げたわけではないが全員の耳に届き、静寂が訪れる。誰もが微かな疑いは持ちつつも、それを口にするようなことはなかった。
「最近になって人が変わったかのような王。そして、魔者対策としての軍備増強や、我が国に対して挑発的な要求を行なう。確かに疑う余地はありそうだが……」
静寂を最初に破ったのは、王であるアンセルム。彼がカカイを疑う可能性有りとする事で、他の人達も様々な意見を言いやすくなるのだ。現に次々と隣国を検証する意見が飛び交う。
「魔者の噂を流し、我が国を混乱させる手だろうか」
「そもそも、我が国と魔者の繋がりなどと言い出したのは、他ならぬカカイではないか。奴らの方こそ疑わしい」
「しかし、あの国はラザシールの被害を受けたばかりだ。魔者と繋がっているのであれば、あの件はどう説明する」
「人が変わったような王。魔者に入れ知恵されているのか、操られているのか、本当に入れ替わったのか。何れにせよ、自国の民などという考えはないのかもしれん」
活発な議論は進み、午後からは謁見など王にも職務は残っている為、そろそろお開きという時間になった。アンセルムは手を叩き議論を中断させる。
「皆の活発な意見は参考になった。では、今日のところはヨーセフの周囲を引き続き見張り、カカイにも情報を集めるため密偵を出すように」
「はっ」
王の出した結論に異論など出るはずもなく、アンセルムが部屋から出て行くのを見送った後、それぞれが自分の職務へと戻っていく。もちろんその中には、先ほど会議で話された密偵の人選も行なわれるのだった。
◇
ある晴れた昼下がり、カカイの王都に一人の旅人が訪れた。やや汚れて痛んだ安物の服に、年季の入った茶色のリュック。中肉中背で、特にこれといって特徴のない無精髭の生えた中年の男性である。
ライセンスで身分証明を終わらせて門を潜ると、城下町をキョロキョロと見回しながら歩く。門番に聞いた安宿を取り、井戸で汚れを落とすと再び街へと繰り出す。
それというのも、彼には目的があるからだ。彼の正体、それはアゼラウィルからカカイの情報を集める為、派遣された密偵なのである。とは言え、任務自体はそれほど危険で難しいものでもない。
「ここらでいいかな」
彼の役目は旅費を稼ぐ振りをしながら、一般市民から情報を集めることだった。
肩から提げていた荷物入れを開いて道具を取り出し、道端に置いていく。折り畳み椅子が二つと小さな台。それとブラシに布やクリームなど、靴を磨く道具一式である。
靴磨きとは言え、立派な商売。ライセンス確認をした門番に、何か許可が必要かを聞いていて、その程度なら特に問題はないとのお墨付きを貰っている。
「暑くなってきたなー」
男はいつも通り、小さな椅子に腰掛けて客を待つ。
季節は暦の上では既に夏。にじみ出る汗を拭いながら彼が取った場所も、木陰になるような大きな木の根元だった。陣取った道の先には市場があるらしく、人通りは少なくない。
少しばかり暇を持て余した男が周囲を見回すと、近くには公園があり、眩しい太陽の煌きの下で子供たちが元気に走り回っている。
「やっぱり子供は元気が一番」
水筒を取り出し喉を潤す。中身は宿屋の井戸から汲んだばかりのものなので、まだ冷たく、食道を通り胃に流れ込むのを感じ取れた。
靴磨きは人が良く来るような仕事ではない上に、普段街で見かけない男がやっているのだ。こういった任務は長期的に考える必要があることを、何度も行なってきた男には分かっていた。
数時間後、結局初日は一人の客も訪れないまま日は落ち始め、街の喧騒も小さくなりつつあった。
「おじさん、何をしてるの?」
今日はこのまま店じまいかと思っていた男だったが、その思考を妨げるように話しかけてきたのは、まだ幼さの残る小さい少年。
ちょっとどころではなくぶかぶかの服は、誰かのお古なのか一度の買い物で長く使うという親の計算なのか、袖に手がすっぽりと隠れてしまっている。
「公園で遊んでた子かい? 遅くなったらお母さんが心配するよ」
「大丈夫、迎えに来てくれるのを待ってるだけだから。それで、おじさんは何をしてるの?」
少年は男の足元に置かれた商売道具を興味深そうに眺めている。
特に珍しい物ではないが、使い込まれた道具はそれだけで味があるもの。男の子ならそういうのが好きだろう、と少しばかり誇らしく思っていた。
「靴磨きさ、旅をしているからね。これで少しでも旅費を稼がないと」
「ふーん、そっかー。じゃあ今度はおじさんが何か聞いていいよ」
答えた後にそう返され、男は目蓋をパチパチと何度か閉じながら少年を見る。どうやらこの少年は、話をすることで時間を潰すことに決めたようだ。
「ん、おじさんもかい? それじゃあ……」
ただ、それは男にとっても好都合なことだった。
質問をする相手が子供だからと言って、何も知らない事は無いからだ。むしろ子供だからこそ知りえる情報もある。男は少年が後で親に言っても怪しまれないよう、質問をする内容に頭を巡らせた。
「おじさんは旅をしてるんだけど、この街の景気はどうかな?」
「ケーキ?」
顔を上げた少年は不可思議そうに小首を傾げる。その愛くるしい仕種に、男は思わず微笑みを浮かべた。
「んー、ほら君のお母さんが『最近物が高くなった』とか言ってたり、夕食のおかずが一品減ったとか」
「ううん、そんなこと無いよ」
「そっか。ならお客さんもその内来てくれるかな」
そう言って男は商売道具を片付けていき、向かいの客が座る用の椅子に腰掛けるよう少年に勧めた。薄暗くなってきた中で、少年の親が来るまで話に付き合うつもりなのである。
「じゃあ、次は僕の番だね。実は知り合いに頭が良くて、性格の悪い奴がいてさー」
「ははは、それは最悪だな」
男の同僚にも似たような人が居るので、少年の気持ちはよく分かった。おそらく少年と違う点は、その人物との仲が悪いというところにあるだろう。
「どうしたらそいつに一泡吹かせることが出来ると思う?」
「うーん、おじさんはその子のことを知らないからなぁ」
だからこそ、少年の提案に乗って相手を出し抜けるように頭を捻る。
ただ、相手も子供だろうし、そこまで厳しいことは出来ないと思った男は、同じ事をやり返されれば屈辱ではないかと思いつく。
「そうだ、次のおじさん番ということで、その子がどれ位頭が良いのか、実際にやってみた事を教えてくれるかい」
「あ、それなら分かりやすい話があるよ。だって――」
だが、尋ねてみたのは良いものの、少年の答えは男の耳に届かなかった。
突然、視界が周囲から薄暗く狭まっていき、目の前の少年の声も遠く、口を動かす速度も遅く感じてしまう。だが、それを男が意識する間も無く、意識は完全に闇へと閉ざされてしまった。
「おじさん達の行動もシアンの計画通りなんだから」
そう言って男と話していた少年、ルヲーグは静かに笑う。見た目通り、子供の様に純粋な笑みだった。