第七十六話
コーフニスタから旅立ったレオとエルザは、ギニワール帝国最後の町に訪れていた。ギニワールで唯一砂漠の中にあるこの町は、国境を警備や監視する兵士も詰めている。
規模は小さいながら水の湧き出るオアシスがあり、これから本格的に向かう砂漠最後の水分補給地である。もちろん、値段はコーフニスタよりも高い。
夏に近づきつつある今の時期、遮る物の無いここではギラギラと輝く日光が、容赦なく二人の身体に降り注ぐ。それを肌に当たらないよう遮るのは、コーフニスタで買った全身を包む外套。二人はそれぞれの身体を包むとフードも被り、乾いた風の吹き抜ける砂漠へと踏み出すのだった。
「あっつ~い」
二人が町を出たのは一日で最も暑い昼間が過ぎ、太陽が傾いてからである。それでも、熱を吸収した砂と地面からの照り返しを浴び、エルザは思わず言葉を漏らす。
そんな彼女の腰には、レオが牽いていたソリが繋がっていた。かなりの重量があるソリだが、予想通りレオよりエルザが牽いていた方が進む速度は速かった。
「暑いのは得意だと思ってたんだがな」
「まあ、お約束っていうかね。暑いけど湿気が無い分楽だし」
確かにそう言って笑うエルザは、嫌気や苦悶の表情は浮かべていない。むしろどちらかと言えば、楽しそうに笑っていた。
「うん、何か暑いとテンション上がるよねっ」
「はしゃぎ過ぎると途中でバテるぞ」
はしゃいで先を進むエルザは砂漠横断の経験があるが、後を追うレオにとっては始めての経験である。リカルドから貰ったのも砂漠関連の本で、最後の町では情報収集を欠かさなかった。それでも絶対の確信を持つはずもない。
「やはりというべきか、地方独特の魔法文化があるな」
「砂を固めて日よけにするのは前からあったよ。私は魔法担当じゃないから呪文とか覚えてなかったけど、やってもらってたからね」
直射日光を避ける為、砂のトンネルを作って移動したり、寝袋を砂に埋めて砂を被せ周囲を暖めて眠る方法などである。
エルザは最後に立ち寄った街の方角へと身体を向け、後ろ向きに進みながら街で聞いた噂のことを思い出す。
「巫女さんの噂は結構広まってたね。ちゃんとハイデランドに向かってるみたい」
「何であんな何も無い国にって感じだったけどな」
「まあ、巫女に何を依頼したか隠したい人だっているからね」
自身の経験からくるものなのだろう。エルザの表情には憶測だけではない、いろいろな疲れの色が見て取れる。ふぅと思わず軽く息を吐き出し、進行方向へ身体を向けなおす。そんなエルザの背中にレオが話しかけた。
「後ろ暗いことか?」
「んー、そんなんじゃなくて、意地とかプライドとか。こっちは関係ないのにって奴」
重いはずのソリを苦も無く牽きながら、エルザはふら付くことなく進んでいく。そんな中でふと足を止め、遠い彼方を見つめるように青く晴れ渡った、遮蔽物のない空を見つめる。
「今もどっかで、誰かが密談とかしてるんだろうな」
◇◇◇
レオとエルザが砂漠を越えている頃、カカイ王国では魔物に対する備えという名目で軍備増強を図っていた。しかし、これはある一人の人物が目的を隠し、着々と準備を進めていたのである。
今、カカイの王であるライナスの部屋では、シミ一つ無い真っ白なクロスの敷かれたテーブルを二人の男性が挟み、赤いクッションの効いた椅子に腰掛けて向かい合っていた。
一人はややこけた頬に髭を生やし、茶色のガウンを着て楽に過ごす部屋の主であるライナス。そしてもう一人は――
「こんな遅くにすまなかったな、クスタヴィ団長」
「いえ、お気遣い無く」
やや緊張した面持ちの四十台の男性。筋骨隆々な大男という訳でもないが、鍛え抜かれた身体は、しっかりと伸ばした背筋により、余計に大きく見える。金色の短髪に茶褐色の瞳、厳つい顔付きだが団長という職に就いているからなのか、細かな動作からも礼儀や品性が感じ取れた。
彼はカカイ王国の誇る騎士団の第一軍団団長、クスタヴィ・レゾン。以前、エルザと共に戦ったアイナの上司で、王子の側近として知られる人物でもある。
ライナスはクスタヴィの緊張を和らげるためか、軽く微笑んで世間話を始めた。
「貴公の副団長であるアイナはさすがだな。ラザシールを見事に仕留めてくれた。あのまま奴が進んでいたのなら、ここも危険であったろう」
「はっ、有り難きお言葉。陛下のお言葉と共に、今後も精進するよう伝えておきます」
礼を告げるクスタヴィは、嬉しさや誇らしさを抑えて引き締めた表情を隠すように頭を下げた。期待している部下が褒められ、嬉しいのだろう。
相手の気が解れていくのが分かり、ライナスは上機嫌に優しく微笑む。
「彼女は聖騎士の称号に相応しいだろうか」
「今はまだ未熟者ではありますが、その素養は十分かと思われます」
「ふむ、国民からの人気も高いからな。いずれ時が来れば、そうなるであろうな」
納得したように頷くライナスだったが、何かに気付いたのか顔を上げると、視線を脇へと逸らせて椅子から立ち上がった。
「あぁ、すまなかったな。飲み物すら出さず」
視線の先には最初から振舞う予定だったのか、飲み物などが置かれたワゴンがある。それを自ら取りに行こうとするのだが、王にそんな事はさせられないとクスタヴィは慌てて立ち上がった。
「いえっ、その様なことを陛下にやらせるわけには。私が代わりに――」
「良い良い気にするな。これはとある商人から手に入れた飲み物でな。まあこれの味を聞きたいというのも、今回呼んだ理由の一つなのだ」
ワゴンの上には氷がこぼれるほど入った容器と、そこで冷やされている茶色い瓶。そして、上部が少しすぼまった透明なグラスが二つ置かれている。
ライナスが氷を幾つかこぼしながら取り出した瓶の栓を抜き、並べられたグラスに注げば、薄いオレンジ色の液体が柑橘系の爽やかな香りが広がる。そして注いだグラスの一つをそっとクスタヴィの前に差し出す。
「さて、感想を聞かせてくれるか……うむ、よく冷えている」
先にライナスが飲んだのは、クスタヴィが遠慮する必要を無くしたのもあるが、それだけではない。派閥で言えば政敵とも言える関係の二人なので、毒殺などが無いようにと安心させるためである。
もちろん、そう考えているのはライナスだけで、クスタヴィが毒殺の心配をしているかは分からないが。
「では、ありがたく頂戴致します」
グラスを手にとって匂いを嗅ぎ、軽くグラスの中で回して一口飲み込んだ。
香りからも予想された柑橘系の少し酸味のある味に、プチプチとした弾ける炭酸入りで、甘過ぎず清涼感のある飲み物。これから暑くなる季節には良いと言えるだろう。
ただ、特別美味いとも不味いともなく、市場で売られる品物と同じようにしかクスタヴィには感じられなかった。
「美味しいです。これから暑くなれば、ベッドの脇にでも置いておきたいものです」
「ふふ、そうか。期待していたのなら悪いが、高級品ではないからな。軽く飲める」
やはりという本心を悟られないように、クスタヴィは『期待して』という部分を否定しながらもう一口飲む。それを信じたのかは分からないが、ライナスも笑みを浮かべてグラスを傾けると、テーブルにグラスを置いて居住まいを正した。
これからが本題なのだろう、そう思ったクスタヴィも手に持ったグラスをテーブルに置くと、表情を引き締めなおして背筋を更に伸ばす。
そして、一瞬の間を取った後、ライナスが本題に入った。
「さて、聖王国アゼラウィルの件は分かっているな」
「はっ、ヨーセフなる者が魔者と繋がりのある証拠が見つかり、彼と彼と付き合いのあった怪しい者達の引渡しを要求した件でございますね」
予め幾つかの予想していた話の一つで、クスタヴィは即座に答えることが出来た。
実は国が行った調査で、ラザシールが周辺国から入り込んだ目撃情報がなく、魔者……つまりヨーセフが絡んでいるのではないか、との見解があったのだ。それというのも、とある噂が広まっているからだ。彼が人工的に魔獣を創り出しているのではないか、と。
以前行われた議会でそれを聞いたライナスはヨーセフを激しく糾弾し、真実を知るために聖王国に彼の身柄の引渡しを要求したのである。もちろん、ラザシールに襲われた国民がそれに同調しないはずもない。
「確か先方より拒否されたと聞きました」
「うむ、それに対して我が国は、疑惑のある人物を対象に神聖樹による清めを依頼し、それもまた拒否された」
この辺りは何度か議会でも話し合いが行なわれ、そこに参加していたクスタヴィも知っていること。ヨーセフが豪商ということもあってか、疑わしいとされた人物の中には、聖王国政府の重鎮も含まれていたのである。
「……」
ライナスの言葉を聞いて、クスタヴィは何かを言おうとしたのか口元が微かに動く。しかし、それを発言していいのか迷い、結局常人では分からない程度の変化しか見せなかった。
ただ、それに気付いたライナスが「無礼講である」と続きを促すと、意を決したのか話し始めた。
「予想されたことです。多少の証拠はありました故に、女神様降臨の地を自負する国としての恥を捨てるのならば、ヨーセフ氏だけは引き渡されたでしょう。ただ、国の重鎮ともなれば、不可能かと思われます」
王に対して失礼な物言いではないのか、など気を配りながらの発言は緊張などから喉が渇くもの。そこまで話したクスタヴィは、ライナスに断ってジュースを一口飲んで喉を潤し、再び話し始めた。
「神聖樹による清めも、効果の副作用から長期の離脱が予想される以上、国の根幹を担う人物には使い辛いのでしょう」
クスタヴィが指摘した事はライナスも理解していたことで、驚きも不快感も示さず静かに頷く。だからこそ、意志の籠もった強い眼差しをクスタヴィに向けた。
「さて、本題だ。この件は未だ俺の中にしかない」
重く張り詰めた空気が部屋を包み、実戦を経験していても気後れしそうな覇気を叩きつけられ、クスタヴィは思わず喉を鳴らす。今の彼には、ライナスから轟々とした風が吹き荒れているような、そんな感覚に陥っているだろう。
「俺は神聖樹の奪還を考えている」
そして静寂。聞こえてきた言葉が、そのまま脳をすり抜けるような感覚になり、慌てて引き止めるが、思い返した言葉も最初と変わりがあるはずも無かった。
つまり、ライナスはアゼラウィルに対して戦争を仕掛けようと言うのだ。文献にはかつて神聖樹を巡って、周辺国で争いが起こったとされている。『奪還』と言うからには、そのことも持ち出すつもりなのだろう。
予想だにしなかったライナスの言葉に、クスタヴィは絶句するしかない。
「……が、これはあくまで俺個人の考えだ。そこで、第一軍団の団長であるお前の意見も聞いてみたい」
そう問われたところで、クスタヴィには難しい問題である。騎士団のトップでもなければ、政略に関わるような地位にもいない。何故その様な事を自分にと思いながらも、今なんと返答すべきかを考える。
「陛下がヨーセフ氏の容疑だけで、そのような事をお考えになられたとは思えません。愚鈍な私にも理解出来るよう、真意をお聞かせ願えないでしょうか」
「あぁ、確かにそれは重要だ。が、先ずは何も知らない状態で意見を聞かせてくれ。おそらくそれが一般市民の思惟に近かろう」
考えて出した結果は、先ずライナスの真意を聞こうというもの。だが、それには答えてもらえず、クスタヴィは急いで考えをまとめるように、机を静かにじっと見つめる。
考えをまとめるのに掛かった時間は本人からすれば長く、他人からすればある程度考えていたのではと思えるような時間。だが、他人がどう思おうと、ライナスが遅いと感じれば意味は無いのだ。
考えのまとまったライナスは、考え込む前と表情の変わっていないライナスを見つめ返し、口を開いた。
「我々は臣下でしかありません。陛下が行けと仰るのでしたら、魔城にも向かいましょう。しかし、ヨーセフと魔者の繋がりを示す証拠はありますが、真実であるとの確信を得られるほどではありません」
「うむ、それは俺も分かっている。人が魔者と通じているなど、信じる者も少なければ信じたくない者も多いだろう」
ライナスは腕を組み、同意を示すように頷く。
これには否定的な物言いから始め、内心失礼にならないかと危惧していたクスタヴィも、ほっと胸を撫で下ろす。とは言え、今ので全てを言い終えた訳ではない。
「それに今は魔王が現れております。巫女様方が退治に向かわれている中、自国の利益だけと思われるような行動を取れば、周辺国のみならず世界中の人民から非難されることとなりましょう」
そして、最後の意見は表情を顰めて、少し言い難そうに一度口籠もる。だが、誤魔化すことなく言葉を続けた。
「また、極端な行動を取ってしまっては、王子側の反発を強めるのではないかと」
クスタヴィ自身、王子の側近である。そんな彼の言葉を聞いて、ライナスは愉快そうに笑い声を上げる。
「はははっ、お前もその一人だろう」
「いえ、先ほども申し上げた通り、自分は陛下の臣下であることに変わりはありません。以上のことから、アゼラウィルに対する侵攻作戦は控えるべきと愚考致します」
笑われても冗談であり、嫌味な笑いではない。クスタヴィも表情を歪める事無く、ライナスの侵攻作戦に対して反対する意見を述べるのだった。
そして、クスタヴィの意見を聞いたライナスは笑いを引っ込める。ただそれは、自分の考えを否定され、腹を立てたのでもなければ不機嫌になったのではない。真面目に引き締めた表情で頷いたのだ。
「確かにお前の言う通りだ、進言に感謝する。さて、先ほど聞いた俺の考えだが、心配なのはヨーセフと魔者の繋がりが、そのまま魔王とも繋がっていることだ」
魔者で人と意思疎通が出来るのは魔族か魔獣だが、人間と協力や利用などといった考え方をするのは魔族のものだろう。そして、魔族はそして、魔族は魔界に住んでおり、魔王と共にやって来るとされていた。
このライナスの疑念は誰しもが持つだろうし、クスタヴィもそれは予想していたのだろう。驚くことなく頷いた。
「知っての通り、神聖樹には魔を払う効果がある。もしそれが、魔王に対しての切り札となった場合、ヨーセフの手回しで消失する可能性もあるのだ」
「しかし、あそこの警備は厳重です」
「そんな物、どうとでもなる。本当にヨーセフがラザシールを我が国に差し向けたのならば、同じことをアゼラウィルにも出来よう」
ラザシールの襲撃を報告でしか知らないクスタヴィだが、信頼の置けるアイナも討伐に出て重傷を負ったのだ。魔獣の討伐経験もあり彼は、魔獣の強さや危険性は認識していた。
「危険、ではありましょう。ですが、それだけの理由で攻め込むというのは、やはり早急かと」
「……まあな、俺もそう思っている。安心しろ、最初から行うつもりがあるのなら、先ず大臣達に話をつけている」
魔族の陰謀や他国への進攻など脳裏にさまざまなことが浮かび、クスタヴィ自身も気付かぬ内にしかめっ面をライナスへと向けてしまう。ただ、ライナスがそれを指摘することなく、逆に安心させるように笑って見せた。
「確かに……では、なぜ私にこの話を?」
「あまり立ち寄らぬ軍部側の意見も聞きたくてな。騎士団の総団長は前線を退いた者、やはり現場に近い方が一般兵の感情も分かるだろう。それにお前だけでなく、日を改めて第二、第三の団長にも話を聞くつもりだ」
これでライナスが聞きたかった話は終わったのだろう。話し始めの時にクスタヴィが感じた覇気はいつの間にか治まり、今はただ静かにジュースを飲んでいる。
クスタヴィも出されたグラス分のジュースを飲み干すと、ライナスに確認を取って椅子から立ち上がる。
「それでは、私はそろそろ失礼させて頂きます」
「うむ、ご苦労だったな。あぁ、このジュースは持ち帰って飲んでくれ。今日呼んだ安い報酬だ。とは言え、派閥間の引き抜きとも取られかねん、余り言い触らさぬようにな」
最後に冗談めかして笑ったライナスだったが、クスタヴィは真面目な顔で「はっ」と律儀に敬礼を行い、瓶を受け取って部屋から出て行った。
一人部屋に残ったライナスは、クスタヴィが出て行った扉を眺めながらグラスを掲げ、残ったジュースを飲み干す。そして空になったグラスを机に置くと、微かに笑い声をもらす。
「ふふふ――」
「何一人で笑ってるのさ、ばっかみたい」
「一人ではないさ、お前が居るからな」
ライナスしか居ないはずの部屋に声が響いたかと思うと、何もない空間からルヲーグが姿を現した。クスタヴィが来る前から姿を消して部屋に潜んでいたのである。
もはや彼の指定席ともなったベッドの上には、焼き菓子の入った皿が置かれてあり、お菓子の屑がこぼれても良いように、ベッドにクロスが敷かれてあった。
「あれ持ち帰らせちゃって、君がご執心な女の人も飲んじゃったらどうするのさ」
「その時はその時だが、奴は堅物だからな。誰にも言うなと言っておけば、誰にも漏らさぬさ」
自ら尋ねた質問だが、ルヲーグは「ふーん」と興味なさそうに答えると、軽やかに跳んで先ほど二人が会談していたテーブルに腰掛ける。
「それにしても、あの人も結構やり手みたいだけど、副団長の方が良いの?」
「奴は第一軍団の団長を務めるほどの人物だ、当然やり手ではある……が、機知はあれども奇知はなし」
先ほどまでクスタヴィが使っていた透明なグラスを見つめるライナスは、『グラスの中身も向こう側も見え、何の面白みもない』と鼻で笑う。
そして、自分が使っていたグラスを中指で傾けて何度か前後に揺らすと、そのまま指で弾き飛ばす。宙を舞ったグラスはクルクルと回転しながら、クスタヴィのグラスとぶつかり、テーブルの上から弾き落とす。
「俺が相手をするのには、つまらぬ男さ」
落下したグラスは柔い絨毯に落ち、割れる事無く床を転がるのだった。