第五十八話
アロイスが書き込んだ地図から、邪教徒による魔法陣ではないかと考えたエルザは、メーリ達の意見を聞く事にした。
彼女達に向けられた紙には、別段オドロオドロしい魔法陣は描かれていない。支点を繋ぐ線だけを書いた簡易魔法陣なので、知らない人が一目見ただけでは、何の変哲もない術印だと思うだけだろう。
「まあ、穿ち過ぎてるのかもしれませんけど」
手に持った紙をヒラヒラと揺らしながら笑う。
この世界では、女神以外の神は存在しないというのが常識で、それ以外を神とするものは認められていない。ただ、基本的に神を名乗る宗教は無く、大抵掲げるにしても位は女神より下に位置していた。
だが、一つだけ世界中にも存在を知られ、有名でありながら誰が属しているのか分からない宗教がある。それが魔王を崇める宗教、通称『邪教』である。
「うーん、でも可能性はあるよ」
「神殿に納めている、それだけでもここを狙う理由にはなるでしょうね」
メーリとテルヒも納得したように頷く。
邪教徒にしてみれば、魔王を倒そうとする女神や巫女は悪であり、それらを崇めている世界そのものが敵なのだ。
彼らの仕出かした事件はさまざまな記録に残っている。
街に火を放ち魔王に捧げた、子供達の血を使用して魔族に変化しようとした、妊婦を生贄に魔王を呼び出そうとしたなど。知れば知るほど吐き気と嫌悪感しか持たない存在である。
「これも何かの儀式なのかも」
魔法陣はそれらの儀式でも使われ、種類はさまざまなものが見つかっている。ただ、本格的な魔法陣を描く場合もあるが、そちらは手順や道具を揃えるのが面倒なのか、簡易魔法陣がよく使われていた。
そして、エルザの描いた今回の魔法陣の効果は、単純に『魔法陣の中に取り込んだものを魔王の元へと送る』というもの。貢物などの時に使われるものである。
「アタシ達をやり過ごさないのは、発動したら止まれない魔法なのか……」
「それともメーリも一緒に捧げるつもりなのか、ですね」
「えー、わたし嫌だよ」
心底嫌そうなメーリは、いつものからかいではなく真剣なテルヒの眼差しから逃げるように、アロイスの後ろに移動する。
犯人が邪教徒だとすると、狙われる可能性が一番高いのはメーリなのだ。
「狂信者ともなれば厄介だなぁ」
疲れたようにセストはため息をこぼす。先ほど上げた事件を起こしたのもこの狂信者と言われていて、その思考と実行力で非常に危険視されている存在である。
そして非常に厄介なのは、彼らは己の死すら恐れていない。死んだとしても魂は魔王の下へ行けると信じているからだ。
邪教徒のさまざまな凶行を知っているメーリ達には、心の沈む話題である。テルヒは沈痛した空気を変えるために、エルザの発案が正しいのか確認するための手段を提案した。
「まあ、まだこれが正解って訳でもないし、修院に地図を送って腐敗が支点の位置なのか調べてもらいましょう」
「そっか、もしかしたら犯人を待ち伏せ出来るかもしれないもんね」
ピョンと跳ねるようにアロイスの陰からメーリが飛び出す。
「でも、エルザちゃんの意見が正しかったら、内通者は邪教徒だってこと?」
当然、邪教徒は嫌われている。そんな彼らに味方するのなら、とメーリは思ったのだ。
「そうとも限らないわよ」
「邪教なら洗脳とかやってそうな気もするし」
また暗い話題になりそうだと感じたアロイスは、手を叩いて皆の注目を集めると、柔和な笑顔でエルザを褒める。
「でも、この魔法陣を良く知っていたわね。凄いわよエルザちゃん」
「あはは、これでも変な知識だけはあるんです」
力の宿る邪教の魔法陣を一般人に公開するはずもなく、それを知っていたエルザは誤魔化すように笑う。
これは巫女時代の知識ということもあるが、以前レオに邪教徒たちとの関係を聞いていたからこそ、思い出せたようなものだった。
それによると存在自体は知っていたが、供物などは全く意味がなく何の関係もないとのことらしい。
「とりあえず、アタシが伝えておくから。皆は先に休んでいて」
今後の作戦を立てるにしても、修院からの報告待ちということで、今日のところは解散となった。
ただ、休むよう言われたエルザはイデアと遊ぶ約束をしていて、結局はメーリとお目付け役のテルヒも一緒に遊ぶことになったのだった。
◇◇◇
翌日、修院からの報告が届く。結果はエルザの予想通り、今まで腐食していた場所は支点をバラバラに描いたものだった。昨夜のうちにどれだけ作られたかにもよるが、魔法陣完成まで残す支点は十二箇所。
「今朝、修院より連絡がありましたわ。結果は昨日伝えていた通り」
作戦会議はメーリ達と族長達以外にも多くの人が集まっていて、全員が見えるよう壁際には、天井から巨大な地図をぶら下げている。
族長たちには昨日アロイスが伝えていたようで、夜間巡回を減らして今日動ける人員を多く集めるようにしていたのだ。
「後は我らで残りの支点付近の監視を強化すればよろしいのぉ」
「ならば犯人は捕まったも同然ですな」
巨大な魔法陣を描こうとしている以上、支点の範囲は大きく詳細な場所までは分からなくとも、森の中を手掛かりも無く見回るよりも発見しやすい。
それが分かっているからこそ、側近達には笑みがこぼれる。
「今回から私達も探索に加わります」
「浄化するよりも、先に犯人捕まえちゃった方が早そうだもんね」
メーリとテルヒは、ここまで来れば犯人を先に止めた方が早い、と討伐組みに加わることを決めていた。これには族長達も賛同する。巫女の意向だからというだけでなく、メーリと同じ事を考えていたからである。
「こうして見ると、ほんとバラバラじゃの」
「待機している場所から一番離れた所に現れると、少々時間がかかりそうでございますな」
側近たちが懸念しているのは、最大戦力者たちが出現場所から離れた所にいた場合。カルリの戦力はバラけさせてもいいが、メーリ達を分けて配置など言いだせるはずもない。
「メーリ様方はこちらでお待ちいただいて、各地から発見の連絡が有り次第、そちらに向かうということで如何でしょう」
「うん、それでいいよ」
ここは支点の丁度中間というわけではないが、通信の本部を置くので情報が集まり、ましてや巫女に野外で待機など言えない彼らの案である。そして、側近の提案をメーリは迷う事無く受け入れた。
「ここ数日、犯行が増えていたのは、ただ自棄になったのかと思いましたが、連なった支点を続けて置いていたわけですね」
今回は最初から会議に参加している案内役の男性は、天井から吊るされた地図を見ながら納得したように頷く。
魔法陣完成の速度を優先し、それによってエルザに感付かれたのである。
「では、各員配置につくよう伝えよ。監視小屋も最小人数だけを残して、近くの場所へ移動するよう通達だ」
「はっ」
族長の言葉と共に側近達はメーリに頭を下げて部屋から出て行く。一人は直接部隊を指揮するために、一人は薬草など道具を揃えるために、一人は食べ物などを準備するために。
そして、出て行った一人の側近の指示で、巨大な連絡水晶が部屋に運ばれてきた。
カルリに置かれているのは、機密性の高い親機と子機だけを繋げる水晶である。通信を傍受される心配はないが、親と子だけでしか連絡が出来ず、子機同士では会話は出来ないのである。
彼らの作業をエルザ達は横目で見ることしか出来ない。むしろ何かを手伝う位なら、体調を整えていつ戦闘になっても良いように、気分を高めておく方が大事である。
戦に向けて気分を高める方法はそれぞれあるだろうが、エルザの場合は普段と変わらないように過ごすのが、昔から変わらない方法だった。
「これが終わったら、お兄ちゃんも家で眠れるようになるのかな」
ここでの日常、それはイデアと取り留めのない話をすることである。ただ、いつもはエルザお気に入りの場所で話をするのだが、今回は連絡待ちということもあり屋敷の中で話をしていた。
「あー、お兄ちゃんあんまり見ないと思ったら、監視小屋で寝泊りしてるんだ」
族長の家族は、ここにやってきた初日の夕食で紹介は受けたが、それ以降は夜間の見回りや監視小屋で宿直など、話しをする機会もなかった。
イデアは顔を伏せて寂しそうに背中を丸める。
「うん。最近はおじちゃんともあんまりお話してないよ」
「族長さんもオジさんも忙しそうだもんね」
お菓子を摘みながら、納得したように頷いているのはメーリ。エルザ同様、他にする事がなかった彼女たちも会話に参加していたのだ。
そして、物悲しげな少女のためにも早く解決させるのだと、強く決意をしながら、今は少しでも寂しさが紛れるよう、お茶を飲みながら楽しく話しをするのだった。
◇
怪しい人物の発見。その第一報がもたらされたのは、夕方になってのことだった。
早めに軽く食事でもという時間帯を狙ったのか、屋敷に残っていたメーリ達は果実と干し肉で軽く腹を満たしてから、不審者を追っている追跡部隊の連絡を受けて現場へと急いだ。
「もぉ、何もこんな時間に来なくてもいいのにー」
不満顔を隠そうともせずに怒るメーリは、夕食を食べられなかったことが気に入らないらしい。飛翔魔法を使いながら、地面を蹴って大きな胸を揺らしている。
そんな大きな胸よりも、メーリが転んで木に頭をぶつけないかが気がかりなエルザは、もう一つ気になっていることがあった。
「でも、ちょっと変じゃないですか?」
「何がかしら」
「だって内通者がいるのなら、支点の場所の監視を強めてることぐらい分かりますよね」
確かにエルザの言うことも、もっともである。だが、それは当初魔法陣に気付いた時にも話したように、止められないか止めたくない理由があるのかもしれない。
ただ、それにしても相手が何の細工もしないとは言えないのだ。
「罠の可能性もあるわね」
高速で距離を詰める木々を避けつつ、アロイスは進行方向を真剣な眼差しで見ながら、独り言のようにポツリと呟く。
罠、それは誰もが予想していることだろう。おびき寄せるのか、引き付けるのか……いずれにせよ不審者を捕捉することが先決である。
『不審者は第十八監視小屋方面へと移動中』
追跡している部隊からの情報が水晶から伝わり、先頭を走るアロイスは方向をやや東へと修正する。
そしてこれが、追跡部隊から伝えられた最後の情報になった。
今までは撒かれることはあっても、連絡が取れなくなるということはなかった。何らかの手段で通信を妨害しているのか、それとも連絡出来ない状態なのか。アロイスは族長達と相談した結果、最後の報告にあった第十八監視小屋へと向かうことにした。
主に狩猟で生活をするカルリ一族だが、彼らも野菜などを作る畑は持っている。そこに不審者が盗みに入らないよう、急遽道具置き場の横に寝泊りできる監視小屋を建てた。それが第十八監視小屋である。
当然、監視小屋には複数が詰めて日替わりで交代するなど、手引きした者に使わせないよう対策もとってあった。
「ッ、どうやら結界の中に入ったみたいだね」
「私達に入るまで気付かせない腕ってことか。くすっ、楽しみね」
地面近くを飛んでいたメーリとテルヒが、ある一点を過ぎて周囲を警戒するように視線を走らせた。エルザもアロイス達も気付かなかったが、敵の結界の中に入ったらしい。
「壊しますか?」
「今分析しているけど、おそらく通信遮断系みたいね。身体に悪影響もなさそうだし、とりあえずは先に進みましょう」
テルヒの意見に反対の声は出なかった。身体に影響があればアロイスが気付くだろうし、破壊するのも手間がかかる結界もあるからだ。
そして走り続けること数分。例え日の長くなってきた時期の夕方とは言え、光の遮られる森の中では暗く見えづらい。
ただ、木々の無い開けた場所では、上から沈みかけの太陽の光が届いて紅く大地を染め上げる。
「わざわざ待ってたらしいね」
その中で一人、ポツンと佇む黒い点。全身を覆う黒いローブを身に包み、フードを深く被っていては、表情どころか顔すら見えない。だが、胸には二つの膨らみが見て取れた。
逃げる気配すら見せない不審者に、メーリ達は周囲を警戒しながら近付いて話しかける。
「貴女が今回の犯人なのかな」
先ず話しかけたのはメーリ。彼女の前方をアロイスとセストが、後方をテルヒとエルザが固めている。そして話しかけられたことで、女が地面から顔を上げてフードを外す。
「その通りです。初めまして大海の巫女、メーリ様」
くすんだ長い金髪をローブから外に出すと、お辞儀をして挨拶を交わした。釣られてメーリも頭を下げて再び上がった時に顔を見る。
儚い、それがメーリの第一印象である。年齢は分かりにくいが三十前後の女性で、顔立ちは整っており、今も浮かべているどこか悲しげな笑顔は、全身を黒く覆うローブを着ていることで喪服を着た未亡人かと錯覚させる。
妙な色気を感じるが、グレーの瞳はメーリを見ているようで、今の世界を見ていないかのようだった。
「あの、お名前は?」
「あら私としたことが、失礼致しました。ミレイユ・セナ・ノスタリスと申しますわ」
己の失態を恥じるように頬を赤く染める姿からは、一般的に伝え聞く邪教徒には見えないだろう。
「え、えっと……信仰はどちらを?」
「はい、魔王様を多々」
メーリもそう思ったらしく一応確認してみるが、返ってきたのは予想通りの答えである。
しかし、ミレイユは何故そんなことを聞かれたのか不思議そうに小首を傾げた後、可笑しそうに口元を手で隠しクスクスと上品に笑う。
彼女に似合わしくも今の状況に似合わない笑い方に、テルヒは不愉快そうに眉をしかめた。
「何故、こんなことをしたのかしら」
「何故と申されましても……私は幼少の頃にこの森を外から眺め、作られた品物を見た瞬間から、魔王様に贈る品はこれしかないと考えておりました」
ミレイユは小屋の横に一本だけ残してあった、白い木を見上げる。
「しかし、私はそれで何かを作れる腕もなく、それならこの大地そのものを贈ろうと考えた次第なのです。そうであれば白滝の森と呼ばれる由縁となった、素晴らしい外観も楽しめますでしょう?」
その言葉で、なぜ支点に置いたのが腐食という、自動で広がる呪のようなものだったのか気付く。
メーリ達は腐食が横に広がっていることに危機感を持っていたが、ミレイユの狙いはむしろ縦。地中深く侵食させることで、大地ごと魔法陣の範囲の中に取り込もうとしていたのだ。
戦闘中だからか、いつもとは違い強い口調のセストが、槍を構えミレイユに問い質す。
「今回の犯行、貴女一人じゃないはずだ。他に仲間、手引きした人間がいるんだろう」
「……そうですね。ついでですからそちらもお話し致しましょう」
その言葉にエルザ達は表面には出さないが驚く。このまま隠していれば、もし捕まった時に脱出出来る可能性が高まるからだ。
それをしないということは、捕まらない自信があるのか、それとも捕まりそうになったら死ぬつもりなのか。
「先ず他の邪教徒の方はおりません。全て私が行ったことですわ。そして、私に手を貸してくださったのは……あら、ようやく来ましたわね」
エルザ達の背後を見ながらミレイユは手を振った。
ミレイユを警戒しながらもそちらに注意を送れば、確かに森の中から誰かが近付く足音が聞こえてきた。
そして、暗がりの向こうから無言で姿を現す。
「イデアちゃんのお兄ちゃん?」
そこに居たのはまだ幼い面影を残す、エルザより年下の少年。ほとんど会話のしていないイデアの兄、ナザリオ・カルリだった。