第百十八話
レオ達とシアンの戦いは佳境を迎えていた。しかし、今戦いを繰り広げているのは彼らだけでなく、マリアやバネッサ、イヴたち他の巫女一行。そして――
「ひ、ひっ」
安全と思われる城に避難しようとしていた、少しばかり丸っこい男性がダグと目を合わせてしまい、思わず悲鳴を上げて恐怖で身体を振るわせる。しかし、そのダグが男や一緒に逃げる人々を襲うような事は無かった。
何故なら別の男と交戦中で、そんな暇は無かったからである。何度かの斬り合いの後、ダグを切り伏せた男が肩に剣を担ぎながら歩いて近付いてくる。
「大丈夫かい、ジャンニさん」
「す、すみませんハイモさん、お世話をかけます」
彼らは以前、レオの剣を買った武器屋『スピリート』の店主ハイモと、レオ達と一緒に旅をした行商人ジャンニである。
ハイモの店を訪ねたジャンニはレオとエルザの事を伝え、世間話や取り扱う武器の事などを数日かけて話し合っていたのだ。そして、酒を飲み交わしながら談笑を交わす仲になった頃、ダグの襲来が始まったのである。
「アンタが謝るようなことはないさ。他の連中の避難も手伝ってくれてるしな」
彼らは店から城へと逃げる途中だったが、道中で見かけた避難民と一緒に行動していた。しかし、家々に声をかけて市民を助けながら避難できるほどの実力は、彼らに伴っていなかったのである。
ハイモも冒険者を引退して数年、そこまで高ランクでもなかった上に、怪我での引退だったので守りながらの戦いに不安があるのだ。
「こんな大規模に暴れる魔者と遭遇するのって二回目です」
「基本住み分けは出来てるからな。だが、こうして暴れてると昔を思い出すぜっ」
肩で息をしながらハイモは襲ってくるダグを蹴散らしていく。
種は人間以外の狼や馬、鳥などにも埋め込まれていたようで、人型がベースではないダグも暴れて人間を襲っていた。この動物は人間を魔者に変える実験ではなく、この時の為に戦力として増やしたものである。
「ちっ、次から次へと面倒くせぇ」
なので強さはそれ程では無いにしろ数が多く、ハイモは徐々に不利になっていく。特に鳥型は基本的に全てのダグが空を飛べ、大きさも小さいのだから厄介なのだ。
今、彼らと行動を共にしているのは店の近所に住む一般人、二十人ほどである。女子供を中央に、男達が棒や剣などを持って周りを囲んでいる。だが、城に着くまで全員を守りきれない、冒険者だったハイモは冷静にそう考え始めていた。
その時、やや赤みがかった闘気が軌跡を描き、空を舞っていたダグを一掃する。
「大丈夫ですか? もう直ぐ兵達がここまで来るので頑張って下さい」
飛んできた方向に視線を向ければ、そこには赤髪の女性。鎧の胸元には、こんな緊急事態だからこそ、王族を護る為にこの場に居るはずのない王家近衛兵を示す紋章。
「そいつは王家近衛の……」
「バレンティナ・ハイメスです」
現れた女性は、以前メイドとしてヨーセフ家に潜入調査を行い、マリア達と共にエンザーグドラゴンと戦ったウィズ。本来なら顔に火傷の跡が残っているのだが、普段は隠して生活しているので、今の顔は至って普通の肌をしている。
彼女の纏う闘気や近衛という立場から、ハイモは彼女の実力を把握し安堵のため息をこっそりと零すと、辺りを見回しながらウィズに話しかけた。
「こんな所にいて、お役目は大丈夫なんですか?」
「はい、王女から国民の避難を助けるよう仰せつかっています」
軽く言葉を交わすが、その間にも直ぐに新たなダグが湧いて出る。鳥獣型はかなり市街地に入り込んでいるようだ。ウィズとハイモは近付くダグを切り伏せていく。
「しかし、この魔者は何なんですかねぇ。変な声が聞こえてきたと思ったら、こんなんでしょ。新種の魔者にしちゃ数が多いような」
「それは私にも……ただ、もしかしたら巫女様方と魔王の戦いが、本格的に始まったのかもしれません」
ウィズはかつて同じ屋根の下で過ごしたマリア達を思い返す。そして、そこまで係わってはいないが、ジャンニもバネッサを相手に商売を行い、直接係わりを持たないハイモも巫女の顔と名前は直ぐに思い至る。
「それなら僕らも頑張らなきゃですね」
ジャンニの声に話しを聞いていた住人も元気よく返事を返した。
そして、非戦闘員は後から来た兵達と一緒に城へと逃げ込み、ウィズとそこまで戦えはしないが、ハイモも逃げ遅れた市民を見つける為に街中へと駆け出していくのだった。
◇
ダグはシアンが国王として治めていた、聖王国アゼラウィルの隣国カカイにも襲撃していた。
カカイの騎士団は防衛の為に国中へと散り、ここ王都では規模の小さくなった第一騎士団と第二、三騎士団が共に護りに就いている。その中で第一騎士団は主に斥候の役割を担っていた。
「クルト小隊、ただ今帰還致しました」
「ご苦労様です。外の様子はどうでしたか?」
以前、レオとエルザ、ジャンニと共にラザシールと戦った、クルトとアイナである。
相変わらずピアとパーラの姉であるアイナには、大きな机に向かっていても可愛らしく見えてしまうが、そんな事が頭を過ぎる余裕すらなくクルトは報告を続けた。
「いろんな魔者がウジャウジャと押し寄せてきてます。一応罠は仕掛けてきましたが、空を飛んでる奴もいたので効果は期待しないで下さい」
「進行を緩め、ある程度でも抑えられれば上出来でしょう」
「そう言って下さると助かります」
そして、詳しい報告を聞きながら机に広げられた地図に印を書き込んでいくが、アイナはクルトの頭の回転の良さや機転が利くなど、中隊長の地位を用意出来ない現状を悔やむ。
「貴方のように燻ぶっていた人達を引き上げるという、ライナス様のお考えは間違いではないと思うのですが……」
「あんな事が起これば、誰だって疑心暗鬼になるでしょうね」
ふぅと重たい息を吐き出すアイナに対し、クルトは軽いため息を吐き出してヤレヤレと肩を竦める。
出世の閉ざされていたクルトが小隊長になれたのは、ライナス王が礼法よりも実力を少しばかり優先したからである。ただそれだけなら問題ないが、シアンがライナス王に化けていたという点が問題なのだ。
つまり魔族の政策はカカイ王国にとって、人間にとって不利益な事をもたらそうとしたのではないか、ということである。
「まぁ、今どうしようもない問題は置いとくとして、人が魔者に変わったとの報告もありますが、やはり……」
「えぇ、クスタヴィ団長と同じかもしれません」
「あの魔族が去り際に言ったのは事実だったと言うことですか」
二人して考え込むように押し黙るが、実はそんなことは無い。あの時のシアンからすれば手下はそれほど必要なく、実力者で慕われているクスタヴィ一人居れば十分だったのだ。
なので実際は、クスタヴィの成功で気を良くしたルヲーグが、優先的に種をばら撒いたというのが正解である。
もちろんそんな事を知る由も無いアイナはそっとため息を吐き出し、頭を切り替えるように軽く左右に振った。
「ではクルト小隊は続いてこちらの偵察へ向かって下さい」
「了解しました」
休む暇も無く出された新たな任務にごねることなく、クルトは崩れた敬礼を行い執務室から出て行く。それと入れ代わり次の報告者が部屋に入る。それぞれがそれぞれの職務を全うしていた。
◇
監獄、罪を犯した者を閉じ込めておく施設。その中でもコーフニスタの砂漠の真ん中に作られた監獄は天然の拷問具にもなり、逃げ出したところで砂漠ではほぼ助からない、国内の重罪人が送られてくる施設である。
そして、ダグの襲撃は役人や犯罪者など区別することなく振るわれていた。施設の役人や新しく収監された何人かが変貌し、建物の内部から暴れていたのだ。
「先ほどの声は呪詛の類でしょうか」
施設内には阿鼻叫喚の声が轟き、ダグが来る前に逃げ出そうと、叫びながらドアに体当たりをしている音がどの部屋からも響いている。
だがそんな中にあって、くすんだ長い金髪を持つ女性は一人静かにベッドに腰掛けていた。その瞳には焦りや不安などというものは映っていない。
「魔王様が不甲斐ない私を処断なされようと言うのですね」
邪教徒であるミレイユは、ダグを魔王からの使者だと全てを受け入れていたのだ。
意識を取り戻した彼女はリカルドの取り成しを受けながらも、邪教徒ということで特に取り調べを受けることなく、国が引き取りに来るまでここに収監されていたのである。
「ぎゃあああぁぁぁ、たす、助けてええええぇぇーー。誰か、誰かああぁぁぁああ――」
近くの部屋で収容者が上げていた悲鳴が聞こえなくなった。
しかし、ミレイユは取り乱す事は無い。彼女は既に生に執着しておらず、己の死に直面しても容易に受け入れるだろう。それは年老いた上に辿り着く境地とは違い、全てを放り出したかのようなものである。
だが、果たしてそれは生きていると呼べるのだろうか。
「グルルルルル」
遂にミレイユの部屋のドアも外側から強引に開かれる。
ダグの右手には先ほど悲鳴を上げていた女性だろうか、血塗れの片足を掴んだまま引き摺っていた。既に事切れている死体をミレイユの眼前に強く叩きつけるが、彼女はその程度で何か変わるはずもなく、ただ静かに魔神からの罰が下される時を待っているだけだった。
「グウゥゥ」
しかし、ダグはそんなミレイユを人間と……生き物とは見なさなかったのか、そのまま部屋を出て行ってしまう。
それに対するミレイユの反応は、喜びでも落胆でもない。
「まだ、私にはやるべき事があると仰られるのですね」
神からの啓示である、と一人納得して受け入れたのだ。
そしてベッドから立ち上がると、身嗜みを軽く整えてから静かに監獄から姿を消したのである。
◇
監獄から遠く離れたコーフニスタの街では、ダグの被害はほとんど出ていなかった。他所から来る人や動物が少ない事もあるが、ルヲーグ達も好き好んで人が少なく環境の厳しい場所を、何箇所も回ろうとは思わなかったのだ。
「それじゃあ、親父とお袋をよろしくお願いします」
「はい分かりました。リカルドさんも気をつけて下さい」
街一番大きな屋敷の中で、リカルドとソフィアは向かい合って水を傾けていた。
リカルドは兄から救援を求められ、準備が出来次第王都へ向けて出発するところである。
「もちろんですっ、ソフィアさんを未亡人にはさせません」
二人はついこの間挙式を上げ、その関係で今もリカルドの実家で過ごしていた。ただ、言葉遣いはあの頃と同じで、変わるか変わらないかは今後の流れに任せるらしい。
リカルドの言葉で結婚した事を意識したのか、ソフィアは頬を少しばかり赤らめて、話題を変えるように咳払いをする。
「レオ君とエルザさんは大丈夫でしょうか」
「まあ、あの二人なら余程のことが無い限り大丈夫でしょう」
今も旅を続けている二人の身を案じるソフィアだが、リカルドの方はそれほど気にしてはいなかった。レオ達が魔者と戦う戦わないにしろ、どちらでも立ち回りの上手さを理解しているからだろう。
戦いの事は余り分からないソフィアだが、確実に自分より強い二人とリカルドの言葉。納得するように頷きながら窓の外へと視線を向け、静かにポツリと呟いた。
「早く平和になって欲しいです」
この街はそれほど変わっていないが、ソフィアもリカルドに付いて行くことは止められていて、世界規模で大変な事になっているのは知っていた。
リカルドも彼女の言葉に頷いて同意を示す。レオとエルザも居たが、二人の出会いと仲良くなったのは旅の道中で、今はそれが出来ない世情なのである。
「店に戻って仕事をしたいですから」
「……逞しいですね」
二人の関係が強まった旅を思い返したリカルドとは違い、ソフィアは商品を見ていた旅を思い返していたようだ。
実は二人とも一緒に何かしたいという気持ちは同じだが、微妙に食い違っていることにも気付いたソフィアは申し訳なさそうに顔を伏せた。
「こんな女性はお嫌いですか?」
「いえっ、そんな事はありませんっ。ソフィアさんの働く姿、輝いている姿が大好きですから」
少しばかり落ち込むソフィアを励まそうと、リカルドはソファーから立ち上がり力説する。その勢いに押されて顔を上げたソフィアは、じっと見つめるリカルドと視線が合い、しばらく無言で見つめ合った二人は静かに笑いあう。
ちなみに、リカルドの母が聞き耳を立てていたのを知るのは、もう少し先のことである。
◇
ミラノニアでは冒険者や兵士に加えて、アディルガン校の生徒もダグとの戦いに繰り出されていた。ただ、ダグを討伐する為ではなく、一般市民の避難誘導とその間の護衛としてである。
ギルドランクで待遇の違うアディルガンでは、この避難誘導であっても役割が分けられていた。学校平均より高ランクが襲ってくるダグと戦い、低ランクが避難民の誘導や道中の瓦礫を撤去するなどである。
その低ランクの生徒の中に、レオ達と一緒に旅をしたコンラド、プルム、テオドールの三人の姿があった。
「こちらですっ、押さないで下さいっ」
悲鳴や戦いの音の中でも、かなり遠くまで聞こえるコンラドの大きな声は非常に重宝されていた。しかし、それも戦いの場が徐々に近付いてくれば役に立たなくなってしまう。
「くそっ、ウゼェぞっこいつらっ」
いくらランクが高いとは言え、学生の内に多数の敵と長時間戦い続ける機会など無い。ましてダグは再生能力を持ち、確実に仕留めるまで戦い続けるのだ。ついにコンラド達の傍にまで押し込まれてしまったのである。
ダグの姿を見て避難民は一気にパニックになる。
「お、落ち着いて、下さぃ」
何とか避難民を落ち着かせようとするプルムの声は、悲鳴にかき消されて届いていない。
だが、それも仕方のないこと。単にダグが姿を見せただけでなく、数は多くないがこのまま押し込められて皆殺しにされてしまうと、簡単に想像出来てしまうほど戦況が劣勢だったのだ。
「くっ、おい大丈夫かっ」
「来んなっ、足手まといッ」
「お前等が来ると邪魔なんだよッ」
状況を確認しようと駆け寄ったリカルドに、最後列にいた魔術師二人がイライラとした、非常に余裕の無い声を張り上げる。かなり押し込められているのだから、自分たちより格下が来ると邪魔に思うのは仕方無いだろう。
だが、苦戦する学友と悲鳴を上げる市民に挟まれ、遂にプルムが二歩三歩と戦場に足を進めた。
「落ちこぼれ共は引っ込んでろって言ってんだろうがッ」
魔術師は苛立ち更に大声を上げる。同じ後衛で同じ授業を受けたことがあるので、こういった時にプルムが何の役にも立たない事は知っているのだ。
その圧に押されるように、プルムは半歩足を下げた。
「ぅっ、ぁ……確かに、その、私は落ちこぼれです」
しかし、下げたのはそこまで。プルムはそこで踏み止まると、杖を強く握り締めながら足を戻して相手を真正面から見詰め返す。
「――けど、落ちぶれるつもりはありません。ここを抜けられてしまったら、避難する人達にも危険が及びます。この状況を押し返すために、私にも手伝わせて下さい」
しっかりと相手の目を見て話すプルムに、普段の彼女を知っている魔術師はかなり驚くが、彼女の仲間の反応は違う。プルムの努力も頑張りも、そうなった経緯も理解しているのだ。ついでに言えば彼らも彼女に負けず劣らず、メーリとの出会いに気持ちを奮い起こしていたのである。
「よく言ったぁぁぁーーーっっ。あの人達は俺が全力で護ってみせるから、二人とも何の気兼ねも無く攻撃に集中して良いぜっ」
「うるさい、僕まで巻き込むな。……でもそうだな、今の僕の力を試してみるのも悪くない」
近くで聞こえる大声に眉を顰めながら、テオドールは杖を掲げる。ただ、彼らも優先順位は理解していて、市民の護衛を優先しながらも、今の逆境を跳ね除ける為に戦いに参加するのだった。
魔者との戦いは、巫女だけでなく世界各地に広がっていたのである。
◇◇◇
「グウウゥゥゥオオオオォォッ」
「ふふっ、レオって見た目と裏腹に結構激しいんだね」
レオとシアンは激しく斬りあっていた。
超重力によって地面に叩きつけられたシアンだったが、彼女は両腕と同じくヘイムの身体と部分的に入れ換えることで、そこから呆気なく抜け出したのだ。見えている範囲で両腕と両足に尻尾までついている。
「あっ、そろそろ止めないと不味いかな」
眼を入れ換えたシアンはリリーを見た後、バサリと純白の翼を広げた。
再びレオを飛び越えてリリーを狙うのだろう。そう考えたレオは宙へと飛び上がろうとするシアンに対処すべく、早めに視線を上げてしまった……が、シアンはそのまま尾っぽを振るい、レオの足を狙う。
「チッ」
予想とは違う行動に思わず舌打ちをしながら、レオは大きく飛び退いてかわす。しかし、シアンは身体ごとレオにぶつかり、そのままレオを盾にしながらリリーまで接近しようとしたのだ。
パーラとヘルヴィはレオが邪魔で魔法を使えない。……かと思いきや、ヘルヴィは何の躊躇もなく魔法を放った。大量の水を呼び出して、レオと一緒に押し流したのである。
「ぷふぁっ、確かに致死性は低いけどさ。レオって嫌われてる?」
「俺ごとやりたいほど、お前が嫌われてるんだろ」
水の左腕に換えて大量の水を吸収したシアンと、軽く冗談を言い交わす。
ただ、それも微かな時間でしかない。直ぐにシアンはレオの脇を抜けようと駆け出し、レオは両手に持った剣で力強く弾き飛ばすように振り抜こうとした。
だが、胴体にぶつかった剣は今までのように硬い物ではなく、反発性の高い物にぶつかり、レオは剣を強く振るった分だけ弾き返されてしまう。
「くっ」
そして、バランスを大きく崩したレオの横をシアンが駆け抜けた。
最前線であるレオが抜かれてしまったが、その次にパーラが立ち塞がる。先ほど放った岩に炎が纏う巨大な剣を、今度は剣先をシアンに向けて放ったのだ。
当然、シアンは周りの炎にも当たらないほど大きく横に跳ぶ。
「ヘルヴィさんっ」
「分かって、いるわッ」
掛け声に呼応してパーラの岩剣が鞭のように細く長く変わり、茨の棘をつけて炎を纏ったまま伸びてシアンの後を追っていく。
しかし、シアンはそれを軽快なステップで避けながら前に進み、避ける、避ける、腕で防ぐ。先ほどよりも向かってくる質量が減ったので、弾き飛ばされないと考えたのだろう。
だが、鞭がシアンの腕に触れた瞬間、ぐちゃりと岩が泥になり一気にシアン目掛けて流れ込む。そして、全ての岩だったものが移動すると、シアンは巨大な岩の球体の中に取り込まれてしまっていた。
「吹き飛べッ」
岩球を追い越したレオが魔法で弾き飛ばす。その勢いは硬い壁にめり込ませるような勢いだったが、壁に届く前に岩が崩壊して中からシアンが姿を現すのだった。
そして、服に付いた砂をパタパタと払い落としながら、一人納得するようにゆっくりと頷く。
「……弱いからって無視すると余計時間掛かるかも」
そして、顔を上げてレオを真正面から見詰めた。漸く、障害物程度には認識されたということなのだろう。
幾らシアンが戦闘に特化してないとはいえ、魔族である以上人間との壁は存在し、レオ達一人一人では簡単に殺されてしまうほど、実力の差はハッキリとしている。ただ、そこを数で補っているからこそ、シアンをここまで抑えていられるのだ。
「だから、一人ずつ倒していく方が早いのかな」
両拳から鉤爪を伸ばしたシアンは一気にレオとの距離を詰める。
当然、迎撃しようとレオは剣を突き出すが、その一撃は髪を掠める程のギリギリで避けられ、前へと突き出した左腕に深々と爪が突き刺さった。
「ぐぁっ」
だが、レオが苦痛の声を上げたのは一瞬だけで、直ぐに右手でシアンの腕を掴む。直ぐに行動しなければ、このまま腕を裂かれてしまう危険もあるのだ。
そして、そのまま脇の下に巻き込むように引き摺り倒そうとした……が、動かない。
シアンは左腕を引き上げ、レオは刺さった爪から腕を引き抜く。投げられない以上、逃げの手を打とうとしたのだ。しかし、レオが距離を取るより早く、殺意を持った鉤爪が振り下ろされてしまう。
『温かき大陽がゆりかごとなり、変化する大空が遊具となる』
その瞬間、神風の如く緑色の風がシアンの眼前を吹き抜けた。
「大丈夫、かしら? って事を前にもマリアに言ったような」
「エンザーグとの戦いでか?」
それは魔法陣の準備を終えたエルザだった。エルザは小脇に抱えていたレオを下ろし、自身が最前線に立つように一歩前に出る。
だが、シアンはエルザよりも、彼女の背後で庇われるようにして立つレオに視線を向けた。
「邪魔なのが戻ってきちゃったね。せっかくこれから二人で楽しいところだったのに」
「お前が一人で楽しんでただけだろ」
そして意味有り気に笑うシアンだが、レオは忌々しく思う内心を隠して素っ気無い言葉を返す。ほとんど攻撃が効かず、もう少しで殺されるところだったのだ。当然の反応だろう。
そんな事よりも、エルザがこの場にいる理由は一つしかなく。レオはシアンに聞こえないよう小声で話しかけた。
「準備は終わったのか?」
だが、エルザは返事をすることなくシアンを見据えて構える。シアンに聞かれてしまうのを警戒したのだろう。
ただ、レオにはその対応でエルザの考えがある程度理解出来た。
エルザの分の準備は終わり、構えを取った以上最終調整の為の時間を稼ぐ必要がある。そして、発動のタイミングを伝える必要が無いということは、巻き込まれない程度にシアンと離れればリリーが発動させるのだ、と。
「行くよ、レオ」
「あぁ」
接近戦を挑む二人だが、その中でも前衛をエルザ後衛をレオが務める。
エルザが殴り蹴り、背後のレオが魔法や剣で彼女を補助。パーラとヘルヴィが高威力の魔法によって二人を更に補助という形である。
後どれ位で魔法陣が発動するのかレオは知らない。
だからこそレオもエルザの反応を見逃さないよう、成るべく距離を取らずに近くで補佐するように戦い、それ程長くは無い時間が流れる。
そして、その時が来た。
リリーからある程度必要な時間を聞いていたのか、エルザは何の合図もなく戦闘中の自然な流れで距離を取ろうとしたのだ。その時にレオも一緒に離れるよう、初めて合図を送ったので発動の時間だと気付けたのである。
後はリリーが発動させるだけ。
だが次の瞬間、シアンが笑う。愉快そうにニヤリと笑う。
「あの子の傍から全員が離れたのは失敗だったね」
その声がレオ達に届くよりも早く、彼らの後方で爆発音が轟いた。当然、エルザには嫌な予感しかせず、勢いよく振り返る。
「リリーッ」
「さっきの分けた腕ね、実は更に細かく分ける事が出来てたりして。ほら、最初よりも私の腕、短くなってるんだよ」
そう言って両腕を伸ばして見せるシアンだが、短くなったのは指の第二関節ほどで、遠目に見て違いなど分かるはずもない。
リリーが居たはずの場所からは黒煙が上がり、地面に横たわる人影。
「――ない」
ふら付き血を流しながら立ち上がるリリーの両手は、魔法陣を護るように最初と同じく閉じられたまま。受身すら取っていなかったのだ。
「みんなが、稼いだ時間、無駄にしないっ」
煙を吹き飛ばすように風が吹き、リリーはシアンの足下を睨み付ける。
瞬間、魔法陣が光り輝きながら出現。
来た、と地面を蹴って避けるシアンだったが、最初に浮き出た魔法陣が形を変える。それは外輪に継ぎ足され真ん中が空いた輪。範囲を広げながら発動させるのではなく、先に発動させて効果範囲を変えたのである。
嵌められたとシアンが感じたのと同時に、彼女の目に飛び込んできたのは石造りの床……ではなく天井。つまり、彼女一人だけ距離を取らされたこと意味する。
『誕生とは死の為の旅路、死とは誕生の為の旅路』
『命とは受け継がれ広がり流るる無数の輝き』
『故にこの世とは永遠の始まりである』
『故にこの世とは永遠の終わりである』
『かくして生まれ育まれたコ(子/個/己/故/虚)、世界』
光すべてを飲み込んだかのように部屋中に暗闇が広がったかと思うと、リリーが魔法陣を発動させようとする地点にのみ小さな煌き。そして、それが一瞬で大きく広がる。
詠唱も無く発動した魔法陣はシアンを取り込み、周囲を見回せば地面だけでなく、前後左右斜めと彼女を取り囲んでいた。それらはバラバラに点在しているのではなく、魔法陣の端が全て重なり一個の存在になっているのだ。
複数の陣を重ね合わせる多重連結術印と、思い浮かべた陣を何処にでも瞬時に描ける夢想練成術印の二つを使えるリリーだからこそ発動出来る、青く光り輝く球体状の魔法陣なのである。
ここにリリー達の願い通り、新たな世界が誕生した。