第百七話
魔法陣を改良していたレオとリリーの許に、イヴから様々な資料が届けられていたが、そんな事とは関係なく魔族であるルヲーグは世界中を飛び回っていた。それは文字通り空を飛び、辺りをキョロキョロと見回しているのだ。
「今回はあの町でいいかな」
深い山奥にある町を上空から見回してみれば、そこは鉱山の採掘仕事の為に出来た小さな町だと分かる。
そして、人影のない裏通りに降り立ったルヲーグは、手に持った杖を振りかざす。木彫りの杖は大きく、小さな彼が持てば頭一つ分ほど先が出ている。持ち手の上にある弧を描いた部分には、光り輝く結晶が宙に浮いて鎮座していた。
「準備準備っと」
杖を振るうと何もない空間から台車に乗ったタンクや、木製のテーブルに金属製のカップなどが現れ、ふよふよと表道の近くに並んでいく。テーブルの前には『冷えた果汁水』と書かれた紙が張られてある。
ルヲーグの目的。それはシアンがクスタヴィを魔者に変異させた事を、今度は自分の手で偶然ではなく理論立てて、成功させようとしているのだった。その為に、世界中を回り種を蒔いている最中なのだ。
「お疲れさまでーす、冷えてて美味しいですよー」
建物の日陰となって裏道は涼しいが、日の照ってる表道は暑い。普通の町なら売れていくであろう冷たい果汁水だが、この町に住んでいるのは鉱山で働く人やその家族がほとんどで、余所者のルヲーグは非常に物珍しく見られていた。
他所からも鉱山夫がやってくるのだから、完全に排他的という空気ではないが、小さな子供が一人で売り子をしていることに、不審がっているという状況だ。
「ボウズ一杯くれ」
誰もが一瞥して去っていく中、鉱山夫らしくガタイの良い、安物で丈夫そうな服を身に着けたスキンヘッドの男がやって来た。タオルを首にかけているが、手に持っているのは何故か発掘の道具ではなく、普通の武器である剣だった。
「はーい、ありがとうございます」
代金を受け取ったルヲーグは、背後に置いてあるタンクから果汁水をコップに注ぎ手渡す。炭酸入りなので一気に飲み干すことはないが、それでもそこそこの速さで飲み終えると、コップを勢いよく机に叩きつけるように置いた。
「くぅー、冷えててうめぇ。もう一杯だ」
男はお代わりを頼むと、今度は先ほどと違いゆっくりチビチビと口を付ける。視線はルヲーグだったり、裏路地へと続く向こうだったりと彼の周囲に走らせている。
「ボウズ、一人か?」
「うん、これでも一人前の魔術師だからね」
「へぇ、その歳でか。だがよ、こんな町に来ても遊ぶもん何かないぞ」
「旅の途中の路銀稼ぎだからね。こんな山の中に町があったのはついてたよ。知らない? いろんな所で出回ってるんだよ、この果汁水」
接客用という感じでもない自然な笑顔で、堂々と嘘を吐いているルヲーグだが、話している男は特に話の内容を聴いている様子もなく、気の抜けた返事を返すだけだった。
それから男は果汁水を飲み干すまで、ルヲーグと他愛もない会話を続けて立ち去る前にこう告げた。
「この町で余所者は目立つからな。さっさと出て行くことだ」
「はーい」
変なことはするな、という忠告を素直に受け取り返事をするルヲーグは、初めから長居するつもりはなかった。簡単なサンプル採取と、種が蒔ければそれで良いのだ。
それからもその場で果汁水を売り続けるルヲーグだったが、余所から来た子供が売っているという不信感もあってか、客足はほとんど無かった。それでも夕、夜と売り続け、深夜という時間帯。
「んー、鉱山夫なら、身体も鍛えられてるし良いと思ったんだけどなぁ。もうちょっと飲んで欲しいけど、果汁水だったのがダメなのかも。うーん、でもシアンが飲ませたのはこれだったし……」
ぶつぶつと呟きながら店を閉め別の町へ向かおうかと考えていると、一人の男が千鳥足で歌いながら道を歩いていた。ふらふらと道の横幅一杯に使う足取りは、ルヲーグの前に来ると勢い余ってテーブルに圧し掛かる。
そして、焦点の合わない眼差しでルヲーグを見上げた。
「なんらー、ボナんとこのガキられぇか。んなとこで何やってやがんだー」
「うわっ、酒くさっ」
ルヲーグを誰かと間違えているようで、馴れ馴れしく話しかけている。そこまで泥酔してしまっているのだ。男が喋る度に口からお酒の臭いが広がり、ルヲーグは顔を顰めてそっぽを向く。
「ぉ、なんりゃそりゃ」
そんなルヲーグには目もくれず、目聡く男が見つけたのはテーブルに立て掛けられた杖。夜の微かな光でも結晶が吸収し、幻想的に淡く光っている。
ただ、それを興味深そうに見る男の視線は酔いから余り定まっておらず、光の具合に気付いているかどうかは分からない。
「オモチャかぁ。へへっ、中々よくれきてるりゃねーか」
「これはお土産で貰った大切な物なんだから、触らないでね」
「みやげー? ボナんやつろっかいったか? おい、みせろよー」
杖を取り上げようと手を伸ばすが、非常にゆったりとした動きで無意味に手を前に突き出しているだけでしかない。ルヲーグが杖を手の届かないところに下げれば、それだけで問題は解決される。
そして、ルヲーグは杖を持っていない手で男を追い返す仕草をした。
「ダメだって、ほらもう店閉めるから家に帰りなって」
「家ったってよぉ、あのボロしゅくしゃだぜー。やってられっかー」
突然怒りだす男に、ルヲーグは少しばかりの物悲しさを感じていた。それはその脈絡のない会話やダメ具合っぷりが、亡くなったヘイムを思い出したからだ。
ただ、その事で強い怒りや悲しみは湧かず、むしろ満足出来るようなことをして死ねたことが羨ましくもあった。まあ、死んだとは言っても、シアンの一つとして生きていると言えなくもないが。
「はいはい、それじゃあこれでも飲んで――」
「おっ、酒かーっ」
ルヲーグがカップに注いだ果汁水を分捕るようにして取った男は、一気に飲もうとするも炭酸入りなので全て飲み干す前に咽てしまう。
「って酒じゃねー」
「そうだよ。全く急に飲むから」
「うるへー、いいからそいつを見せろぃっ」
テーブルの上に身体を乗せて再び杖を奪おうとするが、ルヲーグは呆れたようにため息をこぼし、杖で軽く男の頭を叩いて乗り出した身体を押し返す。
酔っていては踏ん張る事もテーブルに掴まることすら出来ず、男はそのまま地面に倒れて尻餅をつく。
「もう、いい加減にしつこいよ……そうだね、この町はもう終わりにするし、おじさんがサンプルってことで、【――】ワォブフラッガ」
ルヲーグが人語ではない何かを呟き、男は頭を振りながら身体を起こす。そこに変化が現れたのは直ぐ、男が立ち上がるよりも早く苦しみもがき始め、身体を抱きかかえるように両腕に爪を立てる。
「ぐっ、がっがぁぁ」
そして気や魔力などが体外に放出され、置いてあったテーブルがガタガタと揺れ動く。しかし、それに吹き飛ばすほどの力は無かった。
「ガアァァァァーーー」
「うん、まあ知ってた」
男の肌が茶褐色になり、耳が飛膜のように大きく変貌する。だが、人語を話せていないことから、ルヲーグは失敗作ダグの烙印を押すのだった。
そして、ダグを路地裏に引っ込めると、倒れることの無かったテーブルや果実水の入った容器などを片付ける。
「それじゃ一旦帰ろうっと。君のデータ取りもしなきゃだし」
そしてルヲーグは鉱山夫の男と一緒に町から姿を消した。
こうして世界各地で蒔かれた種は、芽吹く瞬間をただただ人間の中で静かに待っているのだった。
◇◇◇
様々な国や街があれば、昼間よりも夜に活気がある街も存在する。カジノが乱立し、勝者が肩で風を切って歩けば、敗者は肩を落とし恨めしそうに歩く。夜に出歩く人が多ければ、それを目当てにした商売も増える。
飲食などの物品販売もそうだが、それだけではない。
「ねぇ、そこのお兄さん」
薄暗い路地で建物に寄りかかっていた女性が、道を歩く背筋の伸びた男に話しかけた。
そこそこ歳を重ねているからか化粧は濃く、美人というわけではないが悪くもなく、肌の露出が多く豊満な胸元の谷間が覗けるほど、ゆったりとした薄手で丈の短い衣装は見えそうで見えないエロスを感じさせた。
人通りがない今の状況で、男は直ぐに自分が話しかけられたと理解する。お兄さんと呼ばれるほど若いとは思っていないが。
「我輩か」
「あら、我輩だなんて、もしかして良家の人なのかしら。どう、今夜一緒に過ごさない? 貴方のツキを私にも分けて欲しいの」
くすくすと艶やかな唇で弧を描いて笑い、誘惑するように眼差し柔らかく男を見つめる。男も予想はしていたが身体を売りにする娼婦のようで、女は指を立てて今夜の彼女自身の値段を告げた。余り相場には詳しくない男だが、予想よりは安いという程度だ。
ただ、決して安売りしている訳でもなく、道を歩く男の様子から何か良いことがあったと気付ける観察眼も良い。男は娼婦の提案を受け入れて頷いた。
「ちょいと待ちな」
しかし、男が娼婦の腰に手を回し、これから二人で繰り出そうとするのを呼び止める低く野太い声。二人が振り返れば厳つい男達が鋭い眼差しを娼婦に向け、二人を囲うように動いている。
「お前か? ここいらで無許可に身体売ってるってぇ女は」
最初に声を掛けた男が一歩前に出る。彼の腰からは剣がぶら下がり、いつでも抜けるように手を当てていた。
「ちょいと一緒に来てもらおうか」
かなり剣呑な雰囲気が辺りを包む。縄張りか何かの争いごとか、と男は娼婦の腰から手を離して深くため息を吐き出す。
「面倒になってきたな。我輩は失礼させてもらうよ」
「あらダメよ。今夜私と過ごすって約束してくれたじゃない」
「そうだな。そっちのお前からも話しを聞かなきゃな」
どうやら無関係と立ち去ることは出来なかったようだ。周囲から鋭い視線が送られるのを肌で感じ取り、男は無言で肩を竦める。
ただ、周囲の男たちが警戒していても、娼婦は最初から逃げ出すつもりなど無いらしく、肩に掛けているストールを直しながら、話していた厳つい男に一歩近付く。
「別に付いて行くのは構わないけど、こんな大勢の厳つい人達と一緒に行動する何て怖いわね。誰かそっちで抜けたいって人はいないの?」
「バカなこと抜かすな、んな奴は居ない。それより、そっちの男もさっさと付いて来な」
誰も娼婦の問いかけに答えることは無かったが、彼女が逃げたり暴れだそうという雰囲気もなく、周囲の緊張は僅かばかりに緩む。だがそれは一瞬のことだった。
「早く済ませて欲しいものだ。我輩には――」
「そうね、早く終わらせたいわよね。だから……早く私と一緒に生きましょうか」
次の瞬間、娼婦を中心に闇が地面を伝うように、そして人や物の影から現れるようにして周囲を覆っていく。自分を買おうとした男や厳つい男に周りを囲う人間、区別なく全てをこの世界から消し去ろうとする深い闇だ。
娼婦の発する狂ったような高い笑い声は、周囲の闇に飲み込まれ闇の外に声を漏らすことは無い。それは男たちの声も同じである。
「くっ、やはり貴様が連続失踪事件のッ」
「なんだっ、なんだこれっ、我輩は関係ないぞっ」
「関係あるわよ。だって貴方たち、私と『一緒』だって約束してくれたでしょ」
男たちは武器を抜いて暴れるが、闇は腕や武器を絡み取り動きを封じる。そして地面へと、いやそこに広がる深い闇の中へと悲鳴絶叫ごと身体が飲み込まれていく。
そして辺りを静寂が包むと、そこに立っていたのは一つの影だけ。
「くくく、我輩……というよりも、今はやられたヘイムの血肉とせねばな」
それはルヲーグ達と一緒に居た時のシアンの姿。娼婦の姿もまた、彼の変化した姿の一つだったのだ。
静かに笑うシアンは、この辺りに向けられている視線を感じ取っていた。先ほどの厳つい面々はおそらくこの街で起こっている、連続失踪事件の容疑者を確保しに来た兵士で、この視線の主は遠くからの監視連絡役だと検討をつける。
兵士たちを飲み込んだ深い闇は消えても、視線を感じていたシアンはまだ周囲を取り囲む闇は消していない。監視役の兵士には何かが起こったとは分かっても、何が起こっているのかまでは分からないだろう。
「それに奴の食事のこともある。もっと動きやすい街へと向かうか」
そして、シアンは周囲の闇ごとその場から消えた。
闇が晴れて監視役が見たのは仲間たちと一人の男、そして容疑者の娼婦も消えて、争いも無かったかのように綺麗な路地の姿だけだった。
◇◇◇
深い霧に包まれた魔城、日の光りが差し込むことはほとんど無く、内部の明かりは魔道具によってのみ保たれている。ただ、湿気のあるじめじめとした空気ではなく、城内でなら魔法も使用できるので、城の中に篭るだけならば特に問題は無かった。
「――巫女にやられたって話、本当なのか」
廊下では二人の男性魔族が向かい合って話していた。一人は蔦が絡まった植物のような腕をしていて、もう一人は両腕に鱗やヒレが付いている。魔王の側仕えであるユオンゼとスノの二人である。
「それでお前はどうする?」
「このまま逃げ帰る訳にはいかない……って思うんだけど、どうなんだろう大丈夫かな」
ユオンゼは熱意を込めるように両手を握り締めてはみたが、少しばかり不安げな視線をスノに投げかける。ただ、二人の立場に違いが無ければ、知っている情報もほとんど同じなのだから、大丈夫かと尋ねられてもスノに答えられるはずもない。
スノは腕組みをして少しばかり考える。
「ニライ様にでも相談してみるか?」
名前を挙げたのはクロウの友人であり、彼らよりも年上で立場も上のニライだった。
ユオンゼとしても彼女は素晴らしい人格に実力を兼ね備え、非常に頼もしい人物であることは分かっている。彼女に相談してみるのも悪い選択肢ではないだろう。
ただ、一つだけ些細な問題ではあるが、懸念が無いこともなかった。
「こんな事で煩わせたら、ネイルリに何て言われるか分からないよ」
それはもう一人の側仕えであるネイルリのこと。彼女はニライに対して非常に強い憧れを持ち、深く傾倒しているのだ。
ユオンゼは頭を左右に振りながら困ったように笑い、スノは良い考えでも浮かんだのか両手を叩く。
「なら魔王様に――」
「僕に死ねって?」
ここらの掛け合いは単なる冗談で、二人とも気楽な雰囲気で話していた。
しかし、スノは一つ咳払いをすると表情を引き締め、ユオンゼを真正面から見つめる。
「実際、お前はどうしたいんだ?」
「もちろん残りたいよ。こっちに来たばっかりなんだから、直ぐに帰るなんてことしたくない」
ユオンゼの気持ちは最初から決まっていたようで、スノも付き合いが長く大体分かっていたからこそ冗談を言えたのである。
再会の言葉を交わし終えた二人は、並んで魔城の廊下を歩く。これからゆっくりと飲み物でも飲みながら、外の話しを聞くことにしたのだ。
しかし、雑談をしながら歩いていると、ふとスノが足を止めて窓の外、白い霧しか見えない城外へと視線を送る。
「どうかしたの?」
「いや、誰かが来たような気がして……」
「スノの探知範囲に入ったってこと? ニライ様じゃないの?」
「いや、あの人が帰ってきたら直ぐに分かるから。一瞬だったし、そこまで強く感じたわけでもないが」
スノは困惑したように眉を顰めながら窓際に移動し、霧の向こうを強く見詰めた。
彼の探知能力の高さはユオンゼも理解していて、意識を研ぎ澄ませば一定の範囲内なら結界を張らなくとも、生物の侵入や動きを把握出来るのだ。そんな彼の曖昧な物言いを不可思議に思いながら、ユオンゼは今まで来た廊下を引き返すように踵を返す。
「巫女ならネイルリが大体の位置を把握してるし、近くまで来ていれば何か言ってくるはずだけど」
「あぁ、とりあえず聞いてみよう」
前回の魔王クロウが巫女に負けて死んだ。二人は魔城周辺の警戒を強める相談をしながら、ネイルリの許へと向かうのだった。
何らかの接近に気付いたスノの感覚は正しかった。しかし、その相手が彼よりも力量の高い人物で、気付かれないように行動していた場合、彼が精確に把握しきれないのも無理はないだろう。
魔城の前には一つの影が佇み、堅く閉ざされた門を懐かしそうに目を細めて見上げている。
「魔城か……ふっ、久し振りだな。見つかってごちゃごちゃ煩く言われる前に、さっさと用事を済ませるか」
ダナト、魔城に帰還。