第百一話
ヘイムとの戦いはキルルキの残した結晶をタウノが爆発させ、ヘイムの右半身を吹き飛ばしたのだが、それで決着とはいかなかった。しかも、そんな状態にあって、マリア達六人だけでは力負けしていたのだ。
そんな中、意識を取り戻したイーリス、彼女を診ながら魔力を蓄えていたヘルヴィ、そして様々な役割を担ったレオの三人も、マリア達の許へと集結。九人の力を合わせた最大級の一撃は、ヘイムの放った閃光よりも眩い光を放ち、彼ごと飲み込んで地平線の彼方まで続いたのだった。
「はぁはぁはぁ……」
死力を振り絞ったマリア達は、全員身体の力が抜けたかのように膝から崩れ落ちる。ただ、目線だけは確りと前へ。ヘイムがどうなったのか確認しなければならないからだ。
マリア達の放った一撃の跡には、地面が抉れて砂塵が舞い上がり、結晶の爆発した後ほどではないが小さな稲妻が射線上で瞬いている。
「ヘイムは?」
「……姿は見えませんが」
全員が辺りを見渡す。先ほどのように空高くにいるかと、視線を上に送ってみても見当たらず、ヘイムから姿を現すこともなかった。
「終わった?」
「勝った?」
一分ほど警戒を続けていたが、一行にヘイムが現れる様子はなかった。相手の性格から裏を掻こうとしているとは思えない。そこから更に一分が過ぎると、真っ先にエルザが地面に腰を下ろして寝転んだ。
「終わったぁぁーー」
一応、周囲を警戒しながら戦闘体制を解いたのだが、本当にヘイムからの襲撃はなく、彼女に追随してマリア達も腰を下ろす。後から参加した三人以外は、身体を支えて前を見ているのもやっとな状態だったのだ。
「倒せたのか逃げられたのかは分かりませんが」
「今は良いんだよ。取り合えず喜んでおこうぜ」
さすがのグウィードもヘイムほどの相手とは戦った経験はない。疲労からエルザと同じく地面に身体を投げ出し、両腕を大きく広げて空を仰ぎ見る。
「被害が凄まじいな」
周囲を見回して放たれたレオの言葉に、マリアは俯き苦悶の表情を浮かべる。
彼女たちの周囲は瓦礫もない更地となり、底の見えない巨大な穴が開いて今も稲妻が轟いている。それに最後の一撃による地面の抉れは、遥か遠くの地平線まで続いているのだ。この街を復興させることの難しさは容易に想像が付く。
「私達の攻撃による被害が甚大ですね」
もっと他にやりようが有ったのではないか、マリアは自身への怒りを表すように拳を握り締めようとするが、力の入らない今の状態では単に手を丸めるだけだった。
「反省や後悔は後だ。先ずはきちんとした場所で身体を休めないとな」
「あのっ、キルルキさんを……」
マリアは完全に崩れ落ちた闘技場の方角を見る。
しかし、闘技場のあった場所は魔柱によって抉れ、瓦礫が地面の代わりになるほど大量に埋もれている。キルルキが無事なら尚のこと、亡くなっていたとしても、早くあの下から出してあげたかったのだ。
だが、グウィードは力無く首を左右に振った。
「残念だが、今の俺達に瓦礫を掘り返して、キルルキを探しだすだけの力は残ってない」
「それに市長や住民の安全も確認しないといけません」
仲間の安否確認、救助よりも先にやることがあるのか。そう思うマリアだが、立場がそれを許さないことは理解している。今はタウノの言う通り、住民の無事や休める場所に向かうことを優先する事にしたのだった。
イーリスに支えられるようにしてマリアは立ち上がり、ヘルヴィはリリー、レオはタウノに力を貸す。疲労の大きい面々である。
そして、一行は市庁へ向かって歩いていく。途中、戦闘が終わったのを感じたのか、チラホラと見かける人々は歓声を上げて喜んでいる。大半の人がそうだろう。
しかし、中には極一部ではあるが、マリア達に怒りや悲しみの眼差しを向ける人達も居たのだった。
それは彼女たちの攻撃によって被害が甚大になり、負傷者が出たからというのもあるだろう。だが、それだけではなかった。
市庁には緊急時に発動する結界があったようで、近くの建物と比べても魔柱によって崩壊することはなかった。しかし、それでも被害が無い訳ではなく、今は応急処置を施しながら、マリア達は以前通された貴賓室へと案内される。
市長のヤヤンが来るまで、しばらく時間が掛かるらしく、先に入浴するよう勧められた。戦闘直後のマリア達は泥だらけで、他の服は他の荷物と一緒に宿ごと下敷きに。後で修院から送ってもらうとして、今は用意してもらった動きやすい服に着替える。
そして、数人ずつが一緒に入り、食事も運び込まれてしばらくしてから、ヤヤンとその妻で秘書のモニファが貴賓室へとやってきた。
「マリア様、ご無事でなによりです」
「ありがとうございます。ヤヤンさんも」
軽く言葉を交わして直ぐに本題に入る。事前にレオ達のことを協力者だと聞いていたのか、彼らに言及することはなかった。
「魔族が現れたとの報告はありましたが、一体何が……」
ヤヤンが情報を集めて知っていることは、魔族が街の外から無理やり進入し、マリア達がその迎撃をしていたことぐらいである。
「私たちも詳しいことは分かりません。闘技場を見学中にアイツが現れて」
「では、目的は分からないと」
その言い方に引っかかる物を感じたのか、イーリスは鋭くヤヤンを睨み付けた。
「魔族の目的がマリア様だったと言いたいのか」
「……そう考える人がいることも事実です。もちろん、そう考えたところで批判的な感情を持つ人は極少数ですし、マリア様に感謝している大多数の市民が戒めております」
魔族の襲来で死人が出ている以上、平常な精神ではいられず、誰彼と突っ掛かりたくなる人もいるだろう。しかし、巫女に当たるのはお門違いで、そんな人は市民の中でも冷たくあしらわれている。
だからこそ、避難民の空気が余計に悪くなってしまうのだ。
マリア達はこのまま何事もなければ、市庁の一室を借りようかとも考えていた。しかし、ヤヤンの言葉が事実だとすれば、それは新たな揉め事が起こる可能性もある。
寝泊りするのはなるべく離れていた方が良いのではないか。一行がそう考えていると、パーラから一つの提案が持ち上がる。
「それでしたら、わたくしの家に参りませんか。あそこでしたら、落ち着いて話しもできますわ」
「パーラちゃんの家は郊外にあったわね。確かにあそこなら、被害から免れていそうだし、部屋も十分にありそうね」
ララインサル家は街に何度も訪れていて、ヤヤンもパーラの顔も知っている。そして、別荘の規模も分かっているので、巫女を泊めるのに不便ではないか考えた上で、同意を示すように頷いた。
「たしかに、そうした方が宜しいかもしれません」
こうしてマリア達が体力気力を回復するまで、ララインサル家の別荘に滞在することが決まる。
そして、他にも最低限な情報交換が終わり、マリア達は軽く言葉を交わして部屋を出るつもりだったのだが、ヤヤンからの言葉は非常に重く悲愴なものだった。
「マリア様、お願いします。どうか魔王を倒して下さい。今回のような悲劇を繰り返さない為に……」
ヤヤンは両手を強く握り締めて深く頭を下げ、モニファは嗚咽を抑えながら涙を流す。この時、マリア達は正確な被害を聞いていないが、ヘイムの最初の一撃だけでもかなりの死者が出ていたのだ。ヤヤンの知り合いも亡くなっているだろう。
マリア達は二人だけでなく、市庁に来るまでに掛けられた民衆の声を強く受け止め、力強く頷いて市庁を後にした。
◇◇◇
郊外にあるララインサル家は、戦闘の被害を受けることなく無事だった。本家から呼び寄せた使用人がマリア達に食事を作り、同時に作った料理や日常品を市庁へと運び、気がつけば夜になっていた。
激しい戦闘によって疲労が溜まり、全員に眠気がある。直ぐにベッドに入り込んで眠りに就きたいだろうが、彼らにはそれが出来ない理由があった。
それは、戦闘で魔力の回復薬を使い過ぎたことの副作用で、精神が落ち着かずに眠気があるのに眠れない状態なのだ。例え寝付けなくても、身体を休める為にベッドで横になっていた方が良いのだろう。ただ、彼らは少しでも話をしたかった。
タウノとグウィードは、琥珀色のお酒の注がれたグラスを手に持つ。この場に居るのは男二人だけだが、テーブルにはお酒の注がれたグラスがもう一つ。
「キルルキに」
「あぁ、お疲れさん」
キルルキの死。それは未だ確認出来ていない。一応、パーラの使用人たちが闘技場の瓦礫を退かして探したのだが、彼の遺体が見つからなかったからである。
全ての瓦礫を退かして細かく探した訳ではないので、見落としている可能性もある。ただ、あの大規模な爆発の中心に居たと考えれば、遺体すら残らなかったと見て間違いないだろう。
「まさか結晶を生み出すほどの奴だったとはな」
「えぇ、凄いですよ彼は。本当に、凄い」
誰も持つ事の無いグラスを見つめていたタウノは静かに酒を呷る。
自棄になっているという事ではないが、これで明確にキルルキに勝つことが出来なくなってしまった。それが歯痒く、苛立ちや悲しみなどを深くさせているのだ。
「彼に身内で固まり過ぎだと、最後まで小言を言われました。どう思いますか?」
「そうだな……それは正しい」
そんなタウノを見つつ、グウィードは酒を飲みながら少し悩んで、キルルキの意見に賛同した。しかし、全面的な賛同ではないらしく、不満そうに人差し指で机を何度か叩く。
「ただ、近衛師団の団長を巫女が選ぶ以上、身内になるのは当然だろうし、これは修院が決めたシステムだ。本来、そうなっても大丈夫なように、候補生の頃や副団長が二人を教育していくのが筋なんだろうよ」
グウィードに関して身内という言葉は、揶揄ではなく団長のイーリスに当て嵌まる。義娘だからといって彼が手加減、手抜きをするということは無いし、甘くなるということもない。
だが、実際に教育は行き届いておらず、それを指摘された以上、そう見られても仕方のないことなのだ。
グウィードは机を叩く指を止めると、拳を握り締め「それより」と言葉を続ける。
「イヴとダル爺は見事に修院を掌握している。ここじゃ俺がそうすべき何だろうが、政事は良く分からんからな」
ため息を吐き出しながら拳を解き、罰が悪そうに申し訳なさそうに視線を落として頭をかく。そして、強く優しい眼差しをタウノに向けた。
「だからお前には期待してる。何れ俺の後釜になれるってな」
後釜、それが意味することにタウノは驚き、普段は細くて見え辛い目を見開いた。
「僕が副団長に、ですか? 期待してもらえるのは嬉しいですが、過分じゃないですか」
「何も今すぐやれってんじゃない。お前もまだ若いんだ、ダル爺を見ろよまだ現役だぞ。俺もあの人に比べりゃまだまだまだ若いし、分野は違うが見習わないとな」
重く湿っぽい空気を吹き飛ばすように、グウィードは大きな笑い声を上げて酒を飲み干し、再びグラスに注いだ。
彼は戦いで魔力を消費していない以上、魔力の回復薬を使っておらず眠ることも出来る。しかし、タウノに付き合い夜が更けても話を続けるのだった。
◇
二階にあるベランダでは、デッキチェアで横になったイーリスが柔らかな夜風の吹く中、一人夜空を眺めていた。そこにレオがやってくる。
「話してくれるか」
特に約束があったわけではないが、イーリスはレオが来るだろうと分かっていた。だから待っていたと言ってもいいのだろう。彼女は隣のチェアに腰掛けるようレオに進めると、上半身を起こしてレオに視線を送った。
そして、記憶が混濁している中で魔族の女性と話したこと、魔王が巫女と戦っている映像を見たことなど、あの時に起こった出来事を話す。
「それと彼女からの伝言、『私に気付いてくれてありがとう』だそうだ」
「……そうか」
全ての話しを聞いてレオはフゥと息を吐き出すと、疲れや緊張からか背中をどっかりとチェアに預けた。
レオと同じくイーリスも身体を預け、最初と同じように星空を眺める。しかし、昼間の戦闘で舞い上がった砂埃によって、星の輝きを幾分か曇らせていた。
肝心な話が終わったことで、二人の張り詰めた空気が流れて緩和されていく。その流れに乗るように、イーリスがポツリと言葉を漏らす。
「レオはレオなのか?」
それはレオという精神をクロウが乗っ取ったのか、という意味で、考えると恐ろしい質問である。これにはレオではなく、質問した本人であるイーリスが息を呑む。尋ねるつもりなど無く、本当に漏れてしまっただけだったのだ。
しかしレオは、彼女の問いに驚くことなく、言葉を噛み締めるようにゆっくりと目蓋を閉じた。
「……俺はイーリスみたいに来世や前世の自分と会ったことは無いし、あの頃が前世という感覚よりも過去に近い」
そして、そっと広げた手の平を星空に向けながら目蓋を開くと、幾千幾万もある輝きの中から一つの星を掴むように、軽く握り締めた。
「ただ、この空のように霞みがかっているから、今と昔の区別も付くし、今の両親に愛情を貰って感謝もしている」
当然、霞んでいようがいまいが星を掴めるはずもない。
レオにとって前世とはこの星空のような物なのだろう。話の合う人がいれば話すし、特に何も無ければ話さない。綺麗にも見えれば霞んでいたり曇っていたり、遠くで瞬いているその光は、遥か過去の光。
「もし自我が芽生える前に乗っ取ったのなら申し訳ないとは思うが、相手が誰だろうと言える。俺はレオ・テスティだとな」
「それはあの魔族の女性や前世の両親の前でだろうと?」
「もちろんだ」
悪辣な質問にもレオは力強く宣言する。そこに迷いは感じられない。
ここでイーリスは一つの情報を得る。とは言え、前世との混濁が起こってから、ある程度の予想は立てられたことで、それは魔王にも親が居るということ。
何を当たり前な、と思うかもしれないが、魔王に関する情報がほとんど無い人間側からすれば、それは新しい発見である。
「魔王は私達が伝え聞く魔王とは違うようだな」
「……」
ヘイムとの戦いでエンザーグの魔力の大半を放出したので、イーリスはもう前世の事を思い出すことは出来ない。
核心を突く問い掛けにレオは沈黙で返した。魔王の真実はエルザにも話していなかったこと、それを彼女に伝えるか悩んだのだ。再び記憶を見る可能性がないとも言えないので、先に話して口止めをするべきか。そう考えるレオよりも先にイーリスが口を開く。
「いや、言わなくていい。相手の事情を聞くと決心が鈍るかもしれないし、どちらにせよ私たちがやる事に変わりはないからな。ただ、レオが魔王の味方をするというのなら、容赦はしない」
内容事態はレオの裏切りを疑うようなものだが、眦も空気も緩やかに流れたままである。レオは軽く笑って頷いた。
「マリアの為にな」
「あぁ、キルルキの分まで私がマリアを支えなきゃならない。アイツのやり方を真似することはないが、私は私なりのやり方でな」
「そうだな。自分なりのやり方で進めばいいと思う。頑張れ、イーリス・ネルンスト」
イーリスはイーリスだと後押しするような言い方に、彼女の顔にも思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ。そうだ、最後にあの魔族の名前を聞いていいか」
「……ロフィリアだ」
「そうか、良い名前だな」
二人はそれ以上過去の話をすることなく、これからの事を話していくのだった。
◇
エルザとマリアはララインサル家の大きな湯船で、二人肩を並べて入浴していた。
風呂にはエルザから誘ったのだが、エンザーグ戦後にマリアと話した時を思い出し、それと同じ状況で話そうとしたのだろう。あの時は話しかけ辛い空気をマリアが出していたが、今回はエルザの方が重苦しい空気を纏っていた。
そして、中々切り出せないエルザの代わりに、先ずはマリアが話を切り出す。彼女もエルザに話したいことがあったのだ。
「キルルキさんが居たら、特定の貴族と仲良くなるのはダメだ、って宿屋に泊まってたかも」
「えっあっ、うん。そう、かもね」
話しかけられるとは思っておらず、エルザは驚きながらもキルルキの名前が出たことで、神妙に悲しげに頷いた。
淡々とキルルキの話題を振ったマリアだが、魔王討伐の旅を始めるまで、実戦経験はそれほどなかった。つまり、身近な仲間の死というのは、これが始めてなのである。
悲しみや後悔、恐怖に怒りに憤り。それら様々な感情が敵や味方、自分自身に死んだ本人など、誰に向けられているのか分からないほど、彼女の内心はぐちゃぐちゃに混じり合っていた。
「もっと、ちゃんと話しておけば良かった。あの人が何を考えてるのか、私が何を考えてるのか、目指す先や進む道……」
軽く息を吐き出し、立ち上る湯気を追いかけるように天井へと視線を移す。
「どちらかと言うと嫌いだったんだ。修院はお金集めて美味しいもの食べて、小言ばっかりで。そっち側に属して私を監視して、どうして嫌なことばかりするのかって」
そして、開かれた両手に視線を落とした。一つは自分たち、一つは修院たち。指を絡めれば女神に祈ることも出来る両手だが、今は交わらずに軽く握り締められた。
「分かるはず無いんだよね。だって話してないんだもん。嫌いで全部終わらせて、あの人を無視すれば嫌な想いをしなくて済むと思って。巫女失格だよね」
これがマリアという個人であったならば、特に問題は無いだろう。それは彼女自身も分かっている。だが、彼女は巫女であり、キルルキは組織の部下であり、修院という派閥の一人であり、共に旅をする仲間でもあった。
彼女は話しという最低限の意思疎通を怠っていたことを後悔しているのだ。
しかし、エルザは否定するように頭を振る。巫女だった頃の自分と比較して、マリアが頑張っているのは直ぐに分かるからだ。
「そんな事ないよ。マリアも一生懸命やってる」
「ううん……ヤヤンさんが言ってたでしょ、『魔王を倒して下さい』って」
だが、マリアはその言葉を否定した。彼女が自身を巫女失格だと思った理由は、キルルキのことだけではなかったのである。
「私、聖大神殿から旅立った時、集まった人達が『他人事のように思ってる』って軽蔑してた。もう魔王も何もかも終わったつもりで、私たちはこれから大変なのにって。私の苦労や恐怖が分かれば、そんな顔でいられないだろうって思ったのかもしれない。だから魔族が街を襲って……」
その願い通りにヘイムが街を襲ったとは、マリアも思っていない。しかし、一度でも脳裏を過ぎったことで、罪悪感に駆られてしまうのだ。
「願いが叶ったのなら、今のマリアは嬉しいの? 違うでしょ、そんな顔には見えない」
エルザから見えるマリアの表情は、苦痛や悲しみに押し潰されそうで、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。とても願いが叶った人には見えない。
「…………苦しい、悲しい。こんな事になる位なら、あの時のまま無関係でいてくれればよかった」
エルザの前世での魔王討伐は茶番であり、魔王による民衆への被害は出ていない。だからマリアの気持ちを完全に理解することは難しいが、マリアという一人の女性のことは理解出来ている。
「うん、知ってる。マリアがそんな事願うはずないって、私達が知ってるし信じてるから安心して。でも、もし間違えそうに……うん、間違ってしまったとしても、叩いて気付かせるから大丈夫」
マリアを安心させるように言い聞かせようとして、エルザは自身を振り返って頷いた。
彼女の場合、既に仲良くなる方法を間違って選んでしまったのだ。許す許さないはマリアに委ね、例え嫌われようが殴られようが、先ずは事実を話して謝ることと意を決する。
そして呼吸を整え、気合を入れ直して話し始めた。
「私、生まれる前の記憶があるの。前世ってのかな。その時の名前は…………リア・イシュア・カルリ。大空の巫女ね」
言った、遂に話した。エルザの決意を込めた言葉は、声を張っていなくても広い浴室に響き渡る。しかし、マリアからの反応は無かった。
天井に昇った湯気が水滴となって浴槽に落ちる音が、予想以上に響いたとエルザが思ったのは、それだけ周りが静かだからか、彼女が音に過敏になっているのか。
そして、その静寂に耐えきれずに、わざとらしく陽気な笑い声を上げる。
「あははっ、何言ってるんだって感じだよね。普通こんなこと信じるわけないよね」
「続けて」
短く発せられた声にエルザがマリアの表情を窺えば、そこには先ほどのような感情の色が削げ落ちたような顔。怒りや悲しみなど見えないことで、逆に恐ろしく感じるのだが、エルザは一つ息を吐き出して話しを続ける。
「始めて会った時、マリア言ってくれたよね、私達と一緒に行きませんかって」
横目でチラチラとマリアの様子を確認していたエルザだったが、出会った時の話になると思わず顔を伏せた。その声は微かに震え、今にも詰まりそうになるのを普段通り喋ろうとしているのか、所々掠れてしまっている。
「あれ、始めから狙ってたんだ。さっきマリアが民衆を軽蔑してたって話、私も経験あるから少しは分かってた。だから魔王の襲来を危惧した振りして、マリアの心に擦り寄ったの。心証良くすれば、私の願い通りに事が運ぶだろうって」
自然に浮かぶ涙は流れる前にそっと手で拭う。無意識でもなければ、涙を見せるのが恥ずかしいのでもない。泣ける立場に居ないと分かっているからだ。
「唯の野次馬根性、マリアが軽蔑してた人達と一緒……ううん、それ以上に自分勝手。本当、最低だよね」
「……嘘、じゃないみたいだね」
巫女や前世の記憶がどうとかの話しは置いておき、エルザが嘘をついて自分に接近してきたことを、彼女の雰囲気や態度からマリアは事実だと判断した。その表情は硬く、言葉はエルザ同様にか細い。
いつもの柔らかい表情を消してしまったこと、何かを耐えるような声を出させてしまったことに、エルザの胸はより締め付けられる。
「ごめん、私マリアの気持ちを踏み躙ってた。知ってて踏み躙った。許してもらえるかは分からないけど、ごめんなさいっ」
「……なんで、そのことを話したの?」
「黙っていられなかったから。マリアに許してもらえるなら、もう一度、ちゃんと友達になりたかった。そのためには最初から、嘘から始まった関係からやり直したいって思ったからっ」
顔を上げてマリアを強く見つめながら、自然と言葉尻が強まっていく。未だに瞳は潤み続けているが、意地でも涙は流さない。
そんなエルザの熱意を受けてか、マリアの表情が幾分か和らぐ。
「他に何か隠してることは?」
「それは……ある。けどゴメン、他の人も係わる問題だから話せない」
許してもらうには話した方が良いとは分かっているが、レオと魔王や他の巫女のことなど言うつもりはなかった。そちらもマリアと同じ位大事な友情と義理なのである。
しばらく見詰め合う二人だったが、エルザが口を開くことは無いと確信したのだろう。マリアはそっとため息をこぼした。それは緊張を解いた証でもある。
「でも、自分の事だったら大丈夫なんだよね、エルヴィラさん」
エンザーグ戦の時に名乗った偽名を出されエルザは驚く。
「気付いてたの?」
「戦いの後でグウィードさんが名前を挙げて、『人それぞれ色んな事情を抱えた奴がいるんだよな』って言ってたから。キルルキさんの事かなって思ってたけど」
どうやら完全に事情を理解していなくとも、グウィードが先に手を打ってくれていたようだ。エルザは内心で盛大な感謝をする。
「助けてくれてたんだね」
「黙って見てられなかったから。エンザーグ強かったし」
「うん、本当に強かった。エルザさんの助けが無かったら、私達あそこで死んでたかもしれない」
それにエンザーグだけでなく、今回の戦いでも命を懸けて一緒に戦ってくれた。本当に野次馬根性だけなら、逃げ出すか関係の無い場所で好き勝手に言っているだけなので、エルザが自分に都合の良いことを話すつもりが無いとマリアには分かっていたのだ。
「それだけじゃない。慰めてもらったり励ましてもらったり、魔法の考え方とか、それにリボンも。時々使ってるんだ」
「私もっ、マリアに貰った銀のネックレス、お守りとして大事に持ってる」
「……私はエルザさんに色んな物を貰ったけど、まだお返し出来ていないから。これからもずっと友達でいたい」
期待していた言葉にエルザはハッとマリアを見詰める。そこには優しく微笑みを浮かべて、静かに右手を差し出すマリアの姿。
「また私と友達になってくれますか?」
「ッ、うんっうんっ、ごめんねマリア。本当にごめんっ、ごめんなさいっ」
差し出された右手をエルザは両手で握った後、強くマリアに抱きつく。拭うものが無くなり、涙は頬を伝い落ちる。だが、それは悲しみや後悔の涙ではなかった。
「ううん、それよりもあの時みたいに言って欲しいな」
「あの時……?」
わざと曖昧に言ったのは、自分で思い出して欲しかったのかもしれない。あの時の言葉にマリアは救われていたのだから。
一瞬何のことか悩むエルザだったが、今の状況もあって直ぐに思い出す。そしてエルザはマリアから身体を離すと、満面の笑顔を浮かべる。
「ありがとう」
許してくれたことや友達になってくれたこと、戦って街や人々を護ったことなど、エルザはその一言に様々な意味を全て込めた。ありがとう。再び歓喜の涙が静かに頬を伝い落ちていた。
◇◇◇
日はすっかり沈み、辺りに明かりが無い山の奥底は深い闇に包まれていた。雨こそ降っていないが、厚い雲が月や星といった光源を覆い隠しているのが最たる理由だろう。
既に眠りに就いていたシアンは、何かが落ちてきたような大きな音で目を覚ます。
今この屋敷にはシアンと管理人だけで、魔族であるシアンは本来眠る必要は無いが、身体が人間の物だからか、気分の問題だからだろう。
「……何だ?」
シアンは欠伸をかみ殺しながら、外へと繋がる大きな窓を開けて物音がした場所へと向かう。普段なら物音など気にしないシアンが、この時直ぐに外へ出たのは何かしらの予感が働いたのかもしれない。
そして、地面に仰向けになって横たわる、巨大な影を見つけた。
「ヘイムっ、貴様がそれほどの傷を受けるとはっ」
そこに居たのはマリア達と戦い、右半身が吹き飛ばされたヘイムの姿。しかも、最後の一撃によって全身に穴が開き、火傷の痕が酷い。左腕や左足は千切れ掛け、今生きていることが不自然なほどである。
「くはっ、楽しかった」
それでも表情には満足の笑みが浮かんでいた。もし、ここに居たのがマリア達、いや元魔族のレオですら、彼の思考を理解出来ずに恐怖するだろう。
「よく戻って来られたな」
近寄って詳しく容体を診るまでもなく、ヘイムはもう直ぐ死ぬだろう。その生命力にシアンですら驚いている。
「土産を、頼まれてたからな」
ルヲーグが頼んでいたと、クスタヴィが言っていたことをシアンは思い出す。
愚直で単純でアホで、まるで子供のまま身体だけ大きくなったようなヘイムだが、そんな彼をシアンは嫌いではなかった。
「ルヲーグには何か知らんけど、綺麗なもの。爆発とかしたんだぜ」
そういって左手から零れ落ちたのは、自分の胸に張り付いていた魔力の結晶。爆発する直前に不味いと感じたヘイムが、右手で左半身の結晶を無理やり壊し、これはその時の破片である。
そして、力なく下ろされた左手が光り、地面に横たわるように巨大な剣が現れる。
「ダナトにはこの剣、シアンには俺の身体と命をやるよ。お前なら上手く扱えるだろ」
「……満足したのか?」
あぁ、と空気が抜けるだけのような微かな声と共に、ヘイムは笑う。眠りに就く直前のように力の抜けた、幸せそうな笑顔だった。
シアンは納得したように頷くと、周囲の暗闇よりも更に深い闇を纏う。ミドガの剣を受け止め、姿を変えた時に纏っていた闇である。
それをしたということは当然姿を変えたのだろうが、明かりの無い今の状況では、影が蠢いているようにしか見えない。そして、シアンの闇がグウィードへと伸び、彼の身体も包んでいく。
「おやすみ」
意識が朦朧とするヘイムの耳に最後に届いたのは、久しぶりに聞いた、高く澄んだシアン本来の声。そして、ヘイムの身体は闇へと飲み込まれていくのだった。