第九十九話
ダムスミリィで魔族が暴れていると知ったレオ達は、再会したパーラの家にある転移装置を使い、無事ララインサル家の別荘に転移することに成功した。その瞬間、四人全員が何かを感じ取り、一斉に顔を見合わせる。
そして、急いで屋敷から出て庭に回ると、そこには予想していた通りの人物が、見覚えのない容姿で現れた瞬間だった。しかし間違うはずもなく、即座に駆け寄るエルザは彼女の名前を呼ぶ。
「ヨハナっ」
「お姉ちゃんっ」
こうしてエルザ達はヨハナと、マリア達はグウィードと再会を果たしたのだった。
エルザは今のヨハナの姿をじっくりと見つめる。赤茶色の瞳を持つパッチリと大きな目は、仲間達との再会で嬉しそうに輝き、薄水色のショートカットの髪は左前髪だけを三つ編みにしている。
前世ではまだ十四歳だったこともあり、エルザよりも小さかった体付きは、身長はほぼ同じ位、そして豊かに育った胸はエルザよりも大きい。
「いろいろと育っちゃって、お姉ちゃんは嬉しいやら悲しいやら……」
犬のように駆け寄ってくるヨハナから視線を外し、エルザはさめざめと見えない涙を流す。そして、何故そんな事を言っているのか理解出来ないヨハナは、不思議そうに小首を傾げた。
「ううん、何でもない。それよりその髪型」
「うん、前のお姉ちゃんと一緒」
そう言って笑いながら、左手の人差し指で三つ編みの部分を触って軽く揺らす。
今この街で起こっている現状から考えて、少し場違いな緩やかな空気が流れそうになるが、それを切り裂いたのは小さな身長に見合った細身の剣を、左右の腰から下げているパーラだった。
「お二人とも、のんびりとお話しをしている場合ではありませんわ。ヨハナ……えーと、今の名前は何と言いますの?」
「ん、リリー・ラウ」
ペコリと頭を下げるリリーに釣られ、パーラもスカートを摘んで「ご丁寧にどうも」と名乗り返した。そんな二人を微笑ましく見ながら、ヘルヴィも今の名を名乗って話を先に進める。
「リリーちゃん、今この街はどうなってるのかしら?」
「マリア、大地の巫女がどうなったか知ってる?」
「分からない……ただ、誰かが闘技場で戦ってた」
巻き込まれるまで昼寝をしていて、マリアがどうなったのか、どこに居るのか知らないリリーは、申し訳無さそうに首を左右に振った。
しかし、エルザ達からすれば、マリア達は戦いの中心にいるだろうと予想を立ててきているのだ。少し大きな街の中で一先ず向かうべき場所が決まったそこは、パーラにとっても思い出深い場所である。
「ともかく、闘技場に向かいますわよ。街の中心部にありますし、そこへ向かっていれば様々な情報も入ってきますわ」
だからこそ彼女が率先して動き、エルザが負けずに駆け出してヘルヴィも後を追う。そして、最後にリリーとレオの二人が走り出すが、リリーはチラリと横目でレオに視線を送る。
その視線は先ほどエルザに向けていた、親しげな感情は込められてはいない。当然と言えば当然である。
「魔王?」
「あぁ」
ただ、「ふーん」と確認しただけで、レオが魔王だということを余り気にしてはいない様子だった。その事に逆にレオが不思議がる。エルザもヘルヴィもパーラも、初対面の時は警戒や疑りの目、中には問答無用で襲い掛かってきたのだから。
しかし、リリーはそのどれにも当てはまらず、別段好意的な感情を抱くことはないものの、警戒した様子すら見せずに一緒に走っているのだ。
「何も聞かないのか?」
「お姉ちゃん達が一緒だったし――」
リリーは前を走るエルザ達三人に視線を送った後、「それに」と言葉を続けてレオをチラリと横目で見る。
「悪い人じゃなさそうだから」
そう言い切れるだけの自信がどこから来るのか、言われた当の本人であるレオも心当たりは無い。
こうして元巫女四人と元魔王を加えた一行は、一緒に闘技場へと向かうのだった。
◇◇◇
キルルキの放った魔柱によって街全域に被害を及ぼしたが、その中心地である闘技場は当然ながら最も被害が大きい。地面は抉られ壁や柱が壊れ、支える物の無くなった屋根に押し潰され、歴史的な価値のある建物は見るも無残な姿になってしまった。
いくつも瓦礫が折り重なり粉塵が舞う中、小さな爆発が起こって瓦礫が弾き飛ばされる。
「ゴホゴホっ、あー煙い」
現れたのは身体が薄汚れているものの、怪我らしい怪我を負っていないヘイムの姿。
ただ、先ほどと全く同じという訳ではなく、半透明でありながら何色かに輝く水晶のような物が、胸元から両肩に向かってVの字のように広がり、その端からは微かだが血が流れていた。
「ん、何だこれ?」
自分の胸に付いている物に気付き中指で軽く突付けば、澄んだ透明な音を響かせる。その音色や形、色が気に入ったのか、ヘイムはニンマリと頬を緩めた。
「カッコいいっ」
そして、幾つかのポーズを取って堪能した後、一息を吐いてからマリア達の去っていった方角に眼差しを送る。
「逃げた後を追う……何か狩りっぽい。おっ、これも良いな」
そんな事を言いながら、今まで手に持っていなかった巨剣を、わざわざ出現させて肩に背負って新たなポーズを取る。そのまま見つめる視線の先には、崩れ去った元街並みしか見えない。
だが、そちらをじっと見ていたヘイムはニヤリと笑う。
「見つけた」
爆発音と共にヘイムの姿が消える。リリーのように転移したのではない、自前の脚力で超高速の移動をしたのだ。
◇
市庁へと向かうマリア達が何かの接近に気付いたのは、三人が再会してから直ぐのこと。それはグウィードよりも速く、闘技場から離れる三人に即座に追いつく。
警戒の為に振り返れば、瓦礫を吹き飛ばしながら一直線に近付いてくるヘイムが、両足に力を入れて立ち止まる瞬間だった。
「何か強そうな奴が増えた。お前がそいつ等のボスか」
ヘイムが巨剣の切っ先を向けたのは、術者二人とイーリスを護るように背後に庇い、両手に持った大剣をヘイムに向けているグウィード。何かあった場合に備えてイーリスはタウノが背負い直し、真っ先に壁になれるようにしていたのだ。
「ボスって訳じゃないが、面倒は見ていたな。それで、キルルキはどうした」
マリア達にとって、今一番気になる点である。だが、ほぼ無傷のヘイムがここに居る以上、最悪の事態が脳裏を過ぎる。
「あの術師か。自分の魔法で身体が焼かれたり刻まれたりしながら、何とか魔法を制御してたみたいだったけど……死んだぜ、俺の目の前で」
キルルキの最後を語るヘイムの声色や眼差しから、多少なりとも敬意が払われているようには感じられた。しかし、そもそもヘイムが襲ってこなければ、死ぬ必要も無かったのだ。敬意を払っていようが、それが好意に転じることはない。
「うちの者が随分と世話になったみたいじゃねぇか」
「世話? そんなことしてないけどな」
二人が会話をしている間に、タウノは物陰にイーリスを避難させ、マリアとタウノも戦闘の準備を整える。
だが、先ほどの戦闘の疲労もあり、二人は万全の状態ではない。そして、それは相手も同じこと、と楽観視することが二人には出来なかった。
キルルキが逃げる時間を稼いで戦い、あの爆発の中ほぼ無傷で生き残り、再び襲い掛かるだけの力が残っているのだから。
二人は一先ずイーリスを避難させた事で、改めてヘイムに向き合えば、その胸元に先ほどまでは無かった水晶のような物に気付く。端が内側に食い込んでいるようで、外部から無理やりはめ込んだようにも見える。
それが何であるか、二人にはある程度の目星は付いていた。
「タウノさん、あれって」
「……はい、魔力の結晶化」
多量の魔力や魔法にかなりの圧力を加えると生成出来る、という理論は立てられていたが、実際には作り出すことが出来ず、ごく少量が地中から採掘される程度だった。それが先ほどまで無かったヘイムの胸元に付着している。
理由は一つしか思い当たらない。魔柱によってキルルキが作り出した物だろうと。
魔力の結晶は魔道具に使われるのはもちろん、魔力を超圧縮している物質である以上、それが破裂した時の威力は上級魔法以上の破壊力だとされている。
それはキルルキが残した最後の成果。ヘイム本人に自覚は無いかもしれないが、結晶はヘイムの体内にまで根を張っている。そこに魔力、魔法を叩き込んで破裂させることが出来れば……。
「グウィードさん、奴を食い止めて下さいっ」
「分かったっ」
グウィードは闘技場に現れた当初のヘイムの姿を知らないので、あれが魔族の自前かどうかは判断出来ないだろうが、これからの作戦を口頭で伝える訳にもいかない。
ただ、グウィードもマリア達を信頼している。即座に返事をしてヘイムとの距離を縮めた。これは移動中に聞いたヘイムとの戦いの内容から、巨剣から繰り出された光はいずれも切っ先を標的に向け、一瞬の間が必要となると判断しての突進。
「おぉっ、受けて立つぜ」
それにヘイムも応える。先ほどの戦闘では無かった、接近戦に燃えているのだ。
二人の大剣と巨剣がぶつかる。グウィードの剣も大きいが、ヘイムの剣は尋常ではない。大きさは重さになり、重さは威力になる。ただの鍔迫り合いも、一歩引けば即座に切り捨てられてしまうだろう。
「……ッ」
グウィードは恵まれた体格から繰り出される重い一撃によって、力だけが凄いと思われていた時期もある。
だが、当然そんなことは無い。上手く身体をずらして剣を引くと、巨剣を叩いて地面に叩きつけ、そのまま相手の剣の上を滑らせながら斬りかかった。
この時、グウィードは手加減などしていない。ヘイムの実力を測ろうともしていない。むしろキルルキの事があって、味方を危険に晒さないよう早めに終わらせようと、持てる力を最大限に発揮したのである。
だが、ヘイムは巨剣から手放した右手の甲で、その一撃を意図も容易く受け止めたのだ。青色の鱗はエンザーグのような鋼の様に硬い物とは違い、程よい柔らかさで衝撃を逃がす。
「――】。上っ、何かしてますっ」
タウノの声でグウィードが上空に視線を送れば、彼の頭上で光が瞬き、何かの形になろうとしているところ。咄嗟に飛び退けば、落ちてきたのは先ほど地面に叩き落した巨剣だった。
先ほどまでグウィードが居た場所に深々と突き刺さっている。
「オリャアアアァァーー」
「グウィードさん、乗ってっ」
ヘイムは地面から突き出た柄を逆手で握ると、地中から引き抜きながら三人まとめて範囲に入るほど巨大な衝撃波を放つ。
しかし、マリアの魔法によって術師二人の足元から土が隆起し、三人は蛇を模った背中に乗ってその場を離れた。衝撃波は三人に当たらず、そのまま街を縦断していく。
マリアの生み出した蛇は、胴体をうねらせながら地面を移動しているが、微かに浮遊していて瓦礫による急な段差も難なく移動し、高低の差を付けながらヘイムの周囲を回る。
「……何かお前ら『手足がない』のばっかだな。ちょっとは竜を模った魔法とかないの? 俺はそっち系の血が雑ざってるんだけど」
そんな戯言には耳を貸さず蛇が大きく口を開くと、ヘイムに向かって数百発もの土の固まりを発射した。
だが、ヘイムはそれをかわす。かわす。当たる。ただ、当たったところでよろけることも、ダメージを喰らった気配すら見えない。
そして、確実にマリア達との距離を縮めて、巨剣を振り下ろし蛇の胴体を切断。蛇はボロボロと崩れながらバランスを失い、高い場所にいた瓦礫から転がり落ちる。
当然、乗っていた三人も巻き込まれ、蛇の下敷きになってしまう。
「あらら……ってあれ?」
呆気ない最後に、少しばかり残念そうに蛇に潰された亡骸を見るヘイムだが、マリア達だと思われていたそれは、土の固まりに姿を戻す。
それと同時にヘイムの足元、地中からグウィードが飛び出した。
しかし、その動きを直前に察知したヘイムは、既に巨剣を振り下ろしていた。相手に先を読まれての奇襲失敗。だが、グウィードは焦ることなく、威力よりも速度重視の最小の動きで大剣を前方に回し、二つの剣がぶつかり合う。
「地中からの奇襲とか俺がさっきやった奴だっ」
「知るかッ」
一合交えただけでグウィードはその場から飛び退き、術師二人で併せた上級魔法がヘイムに襲い掛かる。だが、それすら光を纏った巨剣で簡単に切り払われてしまった。
グウィードは飛び退いたままマリアとタウノを後方に背負い、ヘイムから視線を切らすことなく二人に話しかける。
「確かに話しに聞いてた通り、強いな」
「どうします」
やはり戦況はヘイムの優勢で進む。例えグウィードが加わったところで、キルルキとイーリスが抜けた穴は大きいのだ。
結晶を破裂させるには、物理的な衝撃ではなく魔法や魔力によって誘爆させなければならない。その為の鍵がマリアとタウノなのだが、ヘイムも綺麗でカッコいいと思った結晶に傷をつけようと思うはずもなく、当然のことながら一発すら当たりはしなかった。
しかし、このまま無駄に魔力を消費し続ける戦いが続くかと思われた中、複数の気配が戦場に近付いてきているのに、この場に居る全員が気付く。
この街の兵士か別の場所の兵士か、戦力は少しでも欲しいという気持ちと、危険だから直ぐに離れて欲しいという気持ち。そんな背反する気持ちをマリアは抱きながら、再会の時は訪れる。
「ちょっとやり過ぎじゃないの、アンタ」
「……えっ、エルザさん?」
張り上げられた聞き覚えのある声に、マリアは思わず声の主を見る。そこには予想通りこの場には居ない筈の人物。エルザを先頭にパーラとリリーを加えた三人の姿だった。
残りの二人、レオとヘルヴィはここに来るまでに感じた戦闘の様子から、この戦いに付いていくことは難しいと判断し、別の役割を担うことになったのである。そのヘルヴィは物陰に隠されているイーリスを、もっと安全な場所へと移動させていた。
「どうしてここにっ」
マリアから眼差しを向けられ、エルザは一瞬視線をさ迷わせるが、軽く息を吐き出して強くマリアを見つめ返す。そこにはある種の決意が見て取れた。
「魔族が暴れてるって聞いてね」
「危険です、直ぐに離れてっ」
「……ごめんマリア。後でちょっと大事な話しがあるから」
マリアの警告を無視して、エルザは闘気を更に練り上げて戦闘態勢に入る。その洗練され莫大な闘気は、離れて旅をしている間に強くなったとは思えないほど急激な物で、大凡のことをマリアが察するには余り有った。
エルザは高く跳び上がってグウィードの傍に着地する。
「グウィードさん、いつ戻ったの?」
「ついさっきだ。本当なら、薬渡して世間話をするだけだったんだがなぁ。ところで、レオはどうした」
マリア、タウノとは違い、グウィードはエルザの登場や闘気に驚いた様子は見られなかった。
ただ、今のご時世、旅の最中に何が起こるかわからない。キルルキのこともあって、最悪の事も予想出来るので、グウィードは茶化すことなく真剣な眼差しをエルザに向ける。
「大丈夫、この街には来てるよ。今はちょっと別行動取ってるだけ……イーリスさんとキルルキさんは?」
「イーリスはエリクサーもどきを飲ませたから一先ずは大丈夫だ。だがキルルキは……」
鋭くヘイムを睨みつけ奥歯を噛み締めるグウィードを見て、エルザも事態を察する。
キルルキはマリア達との同行を邪魔されただけで、良い印象が全く無いエルザだが、だからと言って人の死を喜ぶような人間ではない。それにその間の旅は非常に有意義な物で、心身共に成長することができた。その点では契機をくれたキルルキに感謝もしている。
エルザは強く拳を握り締め、乱入者である彼女達一人一人に視線を送るヘイムを強く睨み付けた。
「レオが無事なら再会が楽しみだな……で、今回は顔に包帯巻かなくて良いのか?」
レオが無事だと分かり安堵したグウィードは、からかう余裕が出てきたようだ。表情を柔らかく崩し口元を緩めるも、そんな顔を向けられたエルザは、どこか罰が悪そうに眉を顰める。
「……気付いてた?」
「そりゃ、声色や戦い方を微妙に変えても、闘気だけは誤魔化せないからな」
魔闘士は闘気に慣れ親しんでいるので、エルザもティナが闘気を練り上げた時に正体がウィズだと気付けた。似たようなことは熟練の戦士や術師が、気や魔力で判断することが出来る。
ただ、分野が違えば個人を特定することは至難の技で、それだけグウィードの経験が豊富だということなのだろう。
「あっちの二人も戦えるか」
「パーラとリリーね。その為に来たから、私も」
パーラはマリア、リリーはタウノの傍に移動して簡単な自己紹介を交わす。
突然の乱入者に戦いの手を止めたのは、マリア達だけでなくエルザ達の強さを測っていたヘイムも同じである。だが、グウィード以上の実力者が居ないことは直ぐに分かり、楽しそうに笑うことも警戒する様子も見せないまま、エルザに話しかけた。
「おおぅ、助っ人か。ま、いくら増えても俺には勝てないけどな」
「言うねぇ」
エルザもヘイムの力を遠く離れた所から感じ取っていたので、敵の言い分が強ち間違っていないことは分かっている。だが、戦うにしろ逃げるにしろ、何か行動を起こす前に諦めるということはしたくない。
エルザは強く握り締めていた手を解いて軽く握り直すと、腰を落として余裕の表情を変えようともしないヘイムを見据えるのだった。
◇◇◇
そこには黒く塗りつぶしたかのような暗い闇だけが広がっていた。ただし、一定の闇ではなく、色むらがあるように場所によって濃淡の違いがあり、まるで空間が波打っているように見える。
そんな中でも微かに輝く小さい光。それは人の形、イーリスだった。周りの闇の大きさからすれば、ほんの小さな微かな灯火のような物で、非常に弱弱しく頼りない印象しか与えない。
「……ここは」
彼女も自身が重傷を負って意識が朦朧としていた事は覚えている。
今これが夢なのか死の瀬戸際なのかは分からないが、取り合えずイーリスは上下左右、この空間に視線を送りながら歩く。歩いているつもりだった。景色が変わらなければ、本当に歩いているのかどうかも分からないのだ。
それでも、彼女は早くこんな場所から移動しなければならなかった。ヘイムという脅威が近くにいる以上、マリアやタウノのことが気掛かりなのである。
「出口はどこだ……」
しかし、一向に探しても風景は変わらず、出口はどこにも見当たらない。更には霧や靄のような宙を漂う黒い物質が、腕や足などにまるでクモの巣かのように纏わり付く。
イーリスはそれを振り払う仕草をしながら、出口を探そうと足や目線を必死に動かす。その様子はまるで何かに追われて怯えているかのようで、強迫観念を抱いているかのように表情を歪ませている。
「くっ、離れろッ。私は早くここから出る。誓ったんだ、あの時のようなことは二度と……」
闇は足にも絡み、大きく足を振り上げて振り払おうとするイーリスだったが、何かに気付いたのか突然もがくのを止めた。
「……あの時?」
無意識に自然と零れた言葉を不思議がる。
この闇の中では外から侵食されていき、自分を見失いそうになる。イーリスはそんな感覚に陥り、頭を数度振って自分であることを認識しようと想いを馳せていく。すると、イーリス視点の物語を見るように、闇に過去の映像が映し出された。
最初に出てきたのは、つい先ほどのヘイムとの戦いの様子。
「この時に傷を負ったはずなんだが」
光獣が自身のわき腹に噛み付く映像を見て、表情を歪めるイーリスだが今はその痛みはなく、手で触ってみても傷口は見当たらない。
そうこうしている間にも、映像は過去へと遡る。
「レオとエルザも危険な旅を無事に終わらせ、他の巫女の協力を取り付けてくれたんだ。私がこんな所で終わるわけにはいかない」
病院の貴賓室で修員から吉報を聞き、マリアと一緒に喜んでいる場面だった。そんな光景を見たイーリスは、より前の出来事を思い出して笑みを浮かべる。
「ふふふっ、そう言えば別れて旅をすると決まった時、エルザにはレオの事を頼んでいたんだった。約束を守ってくれたんだな。……だが、タウノの言う通り、はしゃぎそうなエルザをレオに頼むのが普通なんだろうな」
闇に映し出される映像は、飛び飛びで音や色はほとんど無い。今もだいぶ間が飛んで、エンザーグとの戦いの最中である。強敵の出現にイーリスの表情が歪む。
「エンザーグか、強かった。戦いの後にはウィズにも迷惑を掛けた……そう言えば、あの時も『あの時』を口走っていたような」
彼女自身も覚えていないようで、余りハッキリとした言い方ではない。
当時とは違う観点で映像を見ることが出来るからなのか、戦いの時の映像は非常に役立ち、気付かなかった点にも気付ける。しかし、だからこそ逆に自分ではない、誰かの記録を見ているような錯覚にも陥るのだ。
「父上とレオ達が模擬戦を行った後か……あの時は何に引っかかりを覚えたのだろう。父上が前世を信じているのが不似合いだとは思うが」
その度に周りの闇が深くなり、彼女の身体に強く絡まっていくが、イーリスはその事に気付いていない。
しかし、それは闇が勝っているということではなく、マリアやグウィード、タウノを見れば彼女の輝きが増し、自然と闇を押し返しているのだ。
「これは二人と出会った時……ん、結界? こんな物有ったか? 見たことは無いと思うが、何故か知っているような気がする」
映像の主であるイーリスは、接近するエルザを警戒しながら注意深く見ている。だが、その視界の中には当時気付かない、様々な物が映し出されていた。
その中の一点に、何故か彼女の目は自然と惹かれる。
「レオ、何をそんなに驚いているんだ」
そこにはイーリスを見て目を見開き、立ち竦むレオの姿があった。