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○○令嬢が婚約破棄を切り出されたなら

姉の役割に励む令嬢が婚約破棄を切り出されたなら ―婚約破棄された公爵令嬢は、かつて命懸けで幼き王子の盾となった。〜境界線を越えてまで救ったあなたは、もう私の手など必要ないのですね〜

作者: 空丘ジル
掲載日:2026/03/25

「アシュランド公爵家令嬢ソラリス。私は君との婚約を破棄し、新たにグレイポッド男爵家令嬢リリアーナと婚約することを、ここに宣言する」

十六歳の誕生日を祝う華やかな宴席。壇上で王太子ラファエルが言い放った言葉は、どこか自信なげに震えていた。その腕には、勝ち誇ったような笑みを浮かべるリリアーナがしなだれかかっている。

大広間に集った貴族たちは一斉に息を呑み、場は凍りついたような静寂に包まれた。

「殿下。……婚約破棄の件、謹んで承ります」

ソラリスの声は、驚くほど落ち着いて響いた。彼女は迷いのない所作で、しずしずと深く、完璧なカーテシーを捧げた。その脳裏には、彼との出会いの日――十三年前の記憶が鮮やかによみがえっていた。


 *


ソラリスが五歳、ラファエルが三歳の頃のことだ。

当時のラファエルは、最愛の乳母を事故で亡くしたショックから、ひどく荒れていた。誰が近づいても癇癪を起こして泣き叫び、食事も着替えも拒絶する。王妃やメイドたちですら手を焼く、孤独なあばれんぼうだった。


「ソラリス・アシュランドにございます。お目にかかれて光栄です」

宰相の父ダスティンと、元隣国王女の母クラシアに伴われ、ソラリスが初めて拝謁の場に立った時のこと。幼いながらも見事な挨拶を終えた瞬間、それまで不機嫌そうだったラファエルが、突然パッと顔を輝かせた。

「しょらりすー!」

彼は小さな椅子から飛び降り、彼女を目掛けてタタタッと駆け寄ってきたのだ。

「あ――」

ラファエルの足が、壇上の階段に掛かる。危ない、と思った瞬間、体が動いたのは親である国王夫妻でも、手慣れた従者たちでもなく、ソラリスだった。

二人のやんちゃな弟の世話で鍛えられていた彼女は、無意識に幼い子を庇おうと、階段下で両腕を広げて待ち構えた。

足をもつれさせ、階段から転げ落ちそうになったラファエルを、ソラリスはしっかりと受け止めた。

気がつけば、彼女は勢い余って二段ほど階段を駆け上がっていた。

そこは、壇上と広間を隔てるわずか五段の階段。しかし、王族と臣下を分かつ、決して踏み越えてはならない境界線だった。

「しまった」と思った時には、もう遅い。

ソラリスは腕の中のラファエルを抱きしめたまま、自分の心臓が激しく波打つのを感じていた。

直後、国王夫妻は無言で頷き合い、ソラリス一家には別室での待機が命じられた。


「お父様、お母様……ごめんなさい。私、とんでもないことを……」

静まり返った部屋で、ソラリスはさめざめと泣いた。幼心に、自分の犯した不敬の重さを悟っていたのだ。

「どうぞ、私を家から捨ててくださいませ」

泣きじゃくる娘を、両親は愛おしそうにぎゅっと抱きしめた。

「どうして、こんなに優しい子を捨てたりできるものか」

「大丈夫よ、ソラリス。大丈夫だから」


コトリ、と静かにドアが開いた。

父ダスティンと母クラシアは深く頭を垂れ、国王夫妻の入室を待った。五歳のソラリスも、両親に倣って小さく身を縮める。

「しょらりすー!」

だが、国王が口を開くより早く、弾んだ声が室内に響いた。小さな影がタタタッと駆け寄り、ソラリスの体にぎゅっとまとわりつく。

「こらこらラファエル、離れなさい」

「やでしゅ!」

父親の制止をはねのけ、ラファエルはソラリスの服を掴んで離さない。

「ふうむ……困ったものだ。いや、皆、楽にして着席してくれ」

国王はやれやれと肩をすくめ、苦笑まじりに促した。

ソラリスは、自分にしがみつく小さな頭に優しく視線を落とした。

「殿下、座らせていただいてもよろしいですか?」

鈴を転がすような問いかけに、ラファエルはコクンと頷いて、ようやく手を離した。

ダスティンがソラリスを抱きかかえてソファに座らせると、ラファエルもすかさず「いっしょにすわりましゅ!」とダスティンに抱っこをねだった。

「……そうしてやってくれ」

国王の許しを得て、ダスティンは「失礼いたします」と王子を抱き上げ、娘の隣にそっと置いた。ラファエルはもう、隠しきれないほどニッコニコである。

(それにしても、これほど好かれるなんて……)

ソラリスは不思議でならなかった。同い年の双子の弟たち、リアムとルカも、いつも「ねえしゃまー!」と彼女を追いかけ回している。今日も「一緒に行くぅ」と駄々をこねる二人を置いてきたばかりだ。どうやら自分には、小さな子を引き寄せる何かがあるらしい。


「ソラリス。この度はラファエルを助けてくれて、本当にありがとう。礼を言うよ」

国王の真っ直ぐな言葉に、ソラリスは恐る恐る尋ねた。

「いいえ、とんでもないことでございます。あの……お咎めは、ないのでしょうか?」

「いやいや、まさか! 息子を救ってもらっておいて、不敬などと咎めるわけがなかろう」

その一言に、アシュランド家の一同は心底ほっと胸をなでおろした。

「……時に、相談なのだが」

普段は臣下に命じる立場の国王が、珍しく言い淀むように切り出した。

「ソラリス、これからもラファエルに会いに来てはくれないだろうか。これほど息子が懐く相手は、乳兄弟のクリス以外にいないのだよ。どうだろうか」

ソラリスはすぐには答えず、両親の顔を見た。父ダスティンが代表して問う。

「それは……時折、拝謁の機会をいただくということでよろしいでしょうか?」

「いや、できれば毎日、君が出仕する際に同行させてはもらえないか。もちろん、ラファエルが落ち着くまでの間で構わない」

ダスティンとクラシアは顔を見合わせ、静かに頷き合った。そして父は、愛娘に優しく問いかけた。

「ソラリス。ラファエル殿下は、お心を痛めておられるのだ。私と共に毎朝登城し、殿下のお側でお力添えをしてさしあげられないだろうか?」

ソラリスは、自分の肩に頭を預けてくるラファエルの柔らかな髪をそっと撫でた。こうしてやると、弟たちはいつも喜んで甘えてくるのだ。

「はい。私にできることでしたら、精一杯務めさせていただきます」

その返答を聞いた国王夫妻は、深く感動していた。

五歳にしてこの賢さと落ち着き。父の誠実さと母の慈しみを受け継いだこの少女が、自分たちの息子にとってどれほど大きな救いになるか――。二人は感謝の念を抱きながら、小さな二人を見つめるのだった。


 こうしてソラリスは、父に伴って毎日登城することになった。

朝、ソラリスがラファエルの寝室を訪ねても、王子はまだ夢の中にいることがほとんどだ。その待ち時間を惜しんで、ソラリスは王宮の教師について学ぶようになった。

その間、およそ三時間。王宮が誇る超一流の教師を独占できるという贅沢な環境で、彼女は驚くべき速さで知識を吸収し、学力を高めていった。


勉強に少し疲れを覚え始める頃、ようやくラファエルが目を覚ます。

そこからは、彼のための時間だ。一緒に朝食をとり、庭を散歩し、積み木遊びに興じる。絵本を読み聞かせ、昼食を共にし、昼寝のあともまた日が暮れるまで遊び回る。

庭園で花を摘み、蝶を追いかけ、小川に流した葉っぱの舟で競い合う。宮廷で飼われている動物たちと戯れ、野鳥のさえずりに耳を傾け、時には生垣の迷路を二人で冒険した。

夕食は、国王夫妻と囲むことが多かった。ラファエルが片時もソラリスを離そうとしないからだ。ソラリスは、ラファエルが安らかな寝息を立てるまで、ずっとその傍らに寄り添い続けた。


一日の仕事を終えた父ダスティンが迎えに来る頃、ソラリスもまた疲れ果て、王子の枕元で眠りに落ちているのが常だった。

ダスティンは、愛娘の小さな体をそっと抱き上げる。

「……静かに出してくれ」

御者に低く命じると、すっかり帳の降りた夜道を、馬車は揺れを抑えて静かに進んでいく。眠るソラリスを抱く父の腕には、今日一日を懸命に務め上げた娘への、深い労わりと慈しみが込められていた。


 週末は、一家で過ごす休日だ。二人の弟、リアムとルカは、日頃忙しい姉にここぞとばかりにまとわりつき、一瞬たりとも離れようとしない。それもそのはず、平日のソラリスは弟たちが起きる前に家を出て、寝静まった後に帰宅する生活を送っているからだ。まともに顔を合わせられるのは週末だけ。だからこそソラリスは、休みの日はできる限り弟たちの相手をすると決めている。会うたびに少しずつ大きくなっていく二人。その成長を感じるたびに、今のうちにたくさん可愛がっておこうと、ソラリスは思うのだった。


 しかし、この週末、アポイントメントなしに王家の馬車がアシュランド公爵邸にやって来た。突然の訪問にアシュランド一家は騒然とする。取りあえずは総出でお出迎えだ。馬車から出てきたのは、乳兄弟のクリスと手をつないだラファエルだった。泣きながら馬車を降りる彼にソラリスは駆け寄る。ラファエルもクリスの手をぱっと話し、ソラリスに抱きついてわあわあ泣いた。


「突然のご訪問、誠に申し訳ございません。……陛下より、こちらを」

ラファエルに付き従ってきた従者が、慇懃に一通の書簡を差し出した。執事からそれを受け取った父ダスティンが、急ぎ目を通す。

書簡の内容は極めて簡潔だった。

――ラファエルが今朝から何も食べず、泣き続けていること。

――医師の診断では体に異常はなく、ただひたすらにソラリスを求めて泣いているということ。

――多大な迷惑を承知の上で、今日一日はそちらで遊ばせてやってほしい。許されるなら、一晩泊めてはもらえないか。

行間からは、途方に暮れた国王の親心が滲み出ていた。

ラファエルはソラリスの腰にしがみついたまま、堰を切ったようにわあわあと泣き続けている。

そのすぐ後ろには、所在なげに立ち尽くす乳兄弟のクリスの姿があった。ソラリスはラファエルをあやしながら、そっともう一方の手をクリスへと差し伸べた。

「おいで、クリス」

クリスはその手とソラリスの顔を交互に見つめ、大きな瞳にみるみる涙を溜めた。そして、吸い寄せられるように彼女の腕にしがみついた。

皆の関心は王太子であるラファエルにばかり向いているが、クリスだって、最愛の母――ラファエルの乳母を亡くしたばかりなのだ。その小さな胸が、寂しさで張り裂けそうでないはずがない。

ソラリスは、自分にすがりつく二人の幼い体温を感じながら、静かに、そして温かく二人を抱きしめるのだった。


ふと足元を見ると、ソラリスのドレスの裾をぎゅっと掴んだまま、今にも泣きだしそうなリアムとルカの姿があった。ソラリスが優しく微笑みかけると、それが合図だったかのように、二人は姉にしがみついてわあわあと泣き出した。幼い子供特有の「もらい泣き」だろうか。

結局、ソラリスは四人もの三歳児にしがみつかれ、一斉に泣かれることとなった。やがて泣き疲れた子供たちは、姉に身を預けたまま深い眠りに落ちていく。その小さな体は、父ダスティン、母クラシア、そして公爵家のメイドたちの手によって、そっと静かにベッドへと運ばれていった。


しばらくして目を覚ました彼らは、もう大騒ぎだった。何しろ三歳児だ。一人でも手に負えない嵐のような年頃が、四人も揃っている。しかし、公爵家の優秀なメイドたちは、二人一組で子供一人の担当を決め、完璧なサポート体制を敷いた。リアムとルカの世話で、幼児の扱いには慣れっこなのだ。

四人が邸内に嵐を巻き起こす前に、庭には手際よくピクニックの準備が整えられた。

「ねえしゃま、見て。あの鳥、きれーい」

リアムが空を指差した。

「本当ね、美しい鳥だわ」

「鳴き声も聞いてみたいものだな」

ラファエルがサンドイッチをもぐもぐしながら言った、その時だ。

「ビエエエエエ!」

およそ美しさとは程遠い鳴き声が響き渡り、全員が笑い転げた。

「姿は綺麗なのに、ひどい声だなあ」

ラファエルが笑えば、クリスも「そうでしゅねえ、殿下」と深く頷く。

「このしゃんどいっち、ぼくだいしゅき。ねえしゃまにもわけてあげる!」

ルカが自分の食べかけのクリームチーズとアスパラガスのサンドイッチを「むんず」とちぎり、ソラリスの口元へ突き出した。ソラリスは普段の澄ました顔を脱ぎ捨て、大きく口を開ける。そこへルカが、ちいさなサンドイッチをぎゅっと詰め込んだ。

「もぎゅもぎゅ……うん、とってもおいしい!」

にっこり笑うソラリスに、ルカは得意げだ。「でしょ!ぼくの言った通りでしょ!」

その様子を、ラファエルとクリスは呆然と眺めていた。王宮で見せる「淑女」の姿とは違う、あまりに気安く、温かなソラリス。その仲睦まじい光景が、二人の胸に羨ましさを灯した。

「……わたしのもやろう」

ラファエルは、一口残ったステーキサンドを差し出した。ソラリスは一瞬躊躇したが、すぐに「ありがとうございます」とまた大きな口を開けた。

「美味しいです、殿下」

その言葉に、ラファエルは至極満足げな顔をする。

「ねえしゃま、ぼくのもいいでしゅか?」

リアムもそっとゆで卵のサンドイッチを大きく開けた姉の口に放り込んだ。

クリスは自分の持っているサンドイッチをじっと眺めている。

「クリスは何かおすすめのサンドイッチはある?」

クリスはニッコリして

「はい、このハムとチーズのしゃんどいっち、とってもおいしいでしゅ。おきらいじゃないでしゅか?」

「ううん、大好き」

クリスはサンドイッチを半分ちぎってそっとソラリスの前に差し出した。ソラリスはあーんと口を開けて見せた。クリスは嬉しそうにそのサンドイッチをソラリスの口にそっと入れた。

「うん、とってもおいしい。ありがとう、クリス」

クリスはちょっと赤くなって、どういたしましてとほほえんだ。

次々と差し出されるサンドイッチを、ソラリスは「あーん」と受け止めていく。

「どれがいちばん、おいしかった?」

ルカの鋭い質問に、ソラリスは考え込むふりをした。どれを選んでも角が立つ。

「うーん……デザートを食べながら考えるわね!」

「まだ食べるのか!」

ラファエルの驚き混じりのツッコミに、またみんなでケタケタと笑い合った。

その後は、新緑の風の中をみんなで駆け回った。小川を覗き込み、野兎を追いかけ、丘から草そりで滑り降りる。

「ソラリスの家は、楽しいなあ……」

ラファエルのぽつりと溢した楽しそうな声が、なぜだかソラリスの胸に、静かに、深く響いた。


「ソラリスの家の子になりたいのでしゅ」

翌日、父である国王陛下にまみえたラファエルの第一声がこれだった。

「おや、ずいぶん楽しかったようだね」

「はい、とっても。今までで一番でしゅ。だから、ソラリスの家の子になりたいのでしゅ!」

「うーん……それは難しいなあ」

国王は苦笑いしながら即座に却下した。王家の一人息子を他家へ養子にやるなど、あり得ない話だ。

「ソラリスと、ずっと仲良しがいいのでしゅ」

ラファエルがソラリスの弟たちと遊び、その仲睦まじさを羨んだという報告は、従者や宰相ダスティンからも届いている。

(だがラファエルよ、お前は気づいているだろうか)

週日の大半、その仲の良い姉弟を引き離しているのは、他ならぬラファエル自身の「わがまま」が発端となった王命なのだ。国王は、息子が道理を理解する年になれば、少し厳しく言い聞かせねばなるまいと考えていた。

「そなただって、クリスと仲良しであろう?」

「はい、クリスと仲良しでしゅ。でも、ソラリスも一緒がいいのでしゅ!」

「いかんいかん、そんなわがままを言っては……」

国王が嗜めると、ラファエルの口元が「への字」にぎゅっと結ばれた。大きな瞳がみるみる潤んでいく。

せっかくのご機嫌を損ねてしまったか——。だが、この涙は単なるわがままではない。あの幸福な時間が限られたものであることを、幼いながらに本能で感じ取っているのではないか。国王はそう直感した。

その時、国王の脳裏にひとつの閃きが走った。

ソラリスは申し分ない娘だ。ラファエルより二つ年上だが、あの賢さと優しさ、そして細やかな気遣いができる逸材はそうそういない。家柄も筆頭公爵家であり、当主は信頼厚い宰相だ。

(……うん。いささか、いや、随分と早いが、出遅れるわけにはいかん。誰かに横取りされてはたまらんからな)

「ラファエル。ソラリスが好きかね? ずっと一緒にいたいのかね?」

「はい! いっしょにいたいでしゅ!」

弾んだ声を聞きながら、国王の頭には「婚約」の二文字がはっきりと浮かんでいた。

すぐさま王妃と宰相を呼びつけるべく、国王は力強く頷いた。


ラファエルとソラリスの婚約が整うのに、そう時間はかからなかった。

とはいえ、幼いラファエルにとって日常が劇的に変わることはなかった。ソラリスは相変わらず毎日登城しては学び、彼と遊んでくれた。ただ、そこに「王太子妃教育」という過密なスケジュールが加わり、彼女は以前にも増して多忙を極めるようになった。そんな姉のような彼女の存在に救われ、ラファエルはいつしか乳母を失った寂しさを忘れていった。


歳月が流れ、生活の形は少しずつ変化していった。ラファエルとクリスもソラリスと共に机を並べるようになり、やがてソラリスが王立学院へ入学する時期を迎えた。「出仕」という形での登城が終わることを知ったラファエルは激しく駄々をこね、結局、彼とクリス、さらにはリアムとルカまでもが同じ学院の幼年科へ入学することになった。週末にはラファエルとクリスがアシュランド公爵邸を訪れるのが、いつしか両家の決まり事となっていた。


やがてソラリスは十八歳で学院を卒業した。彼女は王妃のもとで、より実践的な公務の学習へと進む。残された四人はあと二年、学院での生活が続く。

王太子ラファエル、学園に通いながら宰相見習いを始めたリアムとルカ、そして王太子の乳兄弟であり側近としての道を歩み出したクリス。帝王学、内政、外交、戦略――それぞれが将来の職責を果たすべく研鑽を積む中、五人の絆は変わらず固いものと思われた。


しかし最近、その関係に微妙な影が落ち始めている。

卒業したソラリスに会えない寂しさを抱えながら学院で過ごすラファエルの前に、ひとりの令嬢が現れた。グレイポッド男爵家のリリアーナである。

当初、ラファエルは警戒していた。王太子に対し、許可なく親しげに接触するのは学院内といえど不敬にあたる。しかし、リリアーナは彼の姿を見かけるたびに無邪気に駆け寄り、屈託なく話しかけてきた。

いつしかラファエルはその「奇行」とも言える振る舞いに慣れ、あろうことか彼女との時間を楽しみにさえ思うようになっていた。

その様子に、クリス、リアム、ルカの三人は揃って眉をひそめた。

「……何かがおかしい」

彼らが感じ取ったのは、えも言われぬ「きな臭さ」だった。

報告を受けたソラリスは、直ちに国王夫妻へと相談。水面下でリリアーナの素行調査を開始するよう、密かに使用人たちへ命を下した。


そして迎えた、ラファエルの十六歳の誕生日。華やかな祝宴の席で、ソラリスは静かに告げた。

「殿下、婚約破棄の件、謹んで承ります」

あまりにあっさりとした快諾に、場が静まり返る。ソラリスは淡々と言葉を継いだ。

「ところで殿下。ご自身の『お立場』について、今一度どのようにお考えかお聞かせいただけますか?」

ラファエルはソラリスの瞳をじっと見つめた。長年の付き合いで分かっている。彼女がこのトーンで問いかける時、決して生半可な回答は許されない。

「……私は将来、この国を背負って立つ身だ」

「左様でございます。では、その隣に立つ『奥方』はどうあるべきでしょうか」

「もちろん王太子妃、いずれは王妃となる立場だ」

「では、その地位に最も必要なものは?」

「それは……王の正妃としての品格と教養だろう」

ソラリスは頷き、視線を傍らのリリアーナへと移した。ラファエルも釣られて彼女をまじまじと眺める。そこには——品格のカケラも見当たらない。

「品格などは、追々身につくものではないだろうか」

苦し紛れのラファエルの言葉に、ソラリスは薄く微笑んだ。

「王妃教育を受ければ、多少は改善するかもしれません。では『教養』はいかがでしょう。学問を通じて身につく教養を疎かにすることについては?」

「それは、あり得ない。王族たるもの、自己研鑽は当然の義務だ」

「同感でございます。……さて、そちらのご令嬢はいかがでしょうか」

「勉強しているところは……見たことがないな」

ラファエルの呟きに、ソラリスが冷徹な事実を突きつける。

「学年成績は最下位。教授陣の再三の勧告も無視し続け、学院側もすでに匙を投げました。近日中に退学処分が下ります」

ラファエルは呆然と口を開けた。周囲が将来のために血を吐くような努力を重ねる中、遊んでいた者が隣に立とうとしていた事実に、ようやく気づいたのだ。

「う、嘘よ! ソラリスさんたら、本当に意地悪なんだから!」

リリアーナの叫びを、ラファエルは冷たく切り捨てた。

「どちらが真実を述べているかなど、すぐに判明することだ」

ソラリスは小さく溜息をつき、最後の一撃を繰り出す。

「殿下、王妃にとって他に欠かせぬものは?」

「……血筋の継承だ。正当な王位継承者を産み育てることだろう」

「左様でございます。ところで殿下、その方と『一線を越えた関係』にございますか?」

「なっ……! あるわけないだろう! 未婚の女性に対し、そのような不誠実な真似を……」

「それは重畳。病を移されては一大事ですから」

「……病?」

「ええ。そちらのご令嬢には、現在進行形でお付き合いされている男性が、少なくとも八名いらっしゃいます」

「は、八人……!?」

「嘘よ! デタラメだわ!」

喚き散らすリリアーナを、ラファエルは冷徹な眼差しで射抜いた。

「ソラリスが、私に嘘をついたことなど一度もない!」

彼は自分に絡みついていたリリアーナの手を乱暴に振り払い、睨みつけた。

「……すでに、ご懐妊中でしたわね?」

ソラリスの言葉に、リリアーナの形相が劇的に変わった。

「こちらに、あなたが通う婦人科医の診断書がございます。守秘義務を盾に渋っておられましたが、国の正当な血筋が脅かされる危機だと申し上げたところ、作成に応じてくださいました。これによれば、複数の男性と関係を持ったため、誰の子かは特定不能とのことですが」

逃げ場を失ったリリアーナは、獣のような声を上げてソラリスに掴みかかろうとした。しかし、その体は即座に、背後に控えていたリアムとルカの兄弟によって、軽々と取り押さえられたのだった。


惨劇のようなパーティーが幕を閉じ、王宮の一室には静寂が落ちていた。

集まった五人の中心で、ラファエルは深く、深く頭を下げた。

「殿下、王太子がそのような姿を晒すべきではありませんわ」

ソラリスの静かな制止に、ラファエルは顔を上げられないまま絞り出すように答えた。

「……いや、こうせずにはいられない。本当に、すまなかった」

「いいえ。私の方こそ反省しております。百戦錬磨の悪女にとって、温室育ちの殿下を手玉に取ることなど、造作もないことだったのでしょうから」

自虐を含んだソラリスの言葉に、ラファエルは縋るような眼差しを向けた。

「……こんなことを言う資格がないのは分かっている。だがソラリス、私には君が必要だ。どうか、婚約者のままでいてはくれないだろうか」

その必死の願いに、ソラリスは悲しげに、けれど毅然と首を振った。

「殿下、申し訳ございません。……もう、お別れいたしましょう」

差し出された手を、ソラリスは静かに拒絶した。

こうして彼女は、崩れ落ちるラファエルを背に、王宮を去っていった。

その後、不真正な血筋で王家を欺こうとしたリリアーナには、国家反逆の重罪として冷酷なまでの裁きが下った。


 ――それから、二年の月日が流れた。

ソラリスは久しぶりにアシュランド公爵邸の門を潜った。

母の祖国への留学。陽光に恵まれ、美しい花々と美食に彩られたその国を彼女は愛し、一生あちらで過ごそうかと考えたこともあった。けれど、「リアムとルカの卒業式くらいは顔を出しなさい」という実家からの手紙が、彼女の足を故郷へと向けさせたのだ。

懐かしい家族や使用人たちに囲まれ、留学先の思い出話に花を咲かせていた時だった。

ガタガタと慌ただしい足音が響き、広間の扉が勢いよく開け放たれた。

「ソラリス……!」

そこに立っていたのは、肩で息をし、顔を上気させたラファエルだった。

「まあ殿下、先触れもなしにどうされたのですか」

「ああ、すまない。だが……君の居場所を、ここの家族は誰も教えてくれなかったんだぞ! 今日、卒業を控えたリアムとルカが、ようやく君の帰国を教えてくれたんだ」

弟たちの粋な計らいを知り、ソラリスはふっと表情を和らげた。

「左様でしたか。殿下、ご無沙汰しておりました」

「あ、私は……私は……」

言葉を続けようとしたラファエルの大きな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

必死に再会を待ちわびていた彼の姿に、ソラリスは幼い頃の面影を見た。

彼女は優しく微笑むと、二年前には拒んだその手に代わり、彼の柔らかな髪をそっと撫でてやった。止まっていた二人の時間が、新緑の風と共に再び動き始めた。


 アシュランド邸の庭園には、ソラリスが留学先から持ち帰った珍しい花の種が、柔らかな芽を吹き始めていた。

あの嵐のような再会から数週間。ラファエルは公務の合間を縫っては、しげしげとこの屋敷を訪れるようになっていた。

「ソラリス、今日も……その、庭の手入れか?」

「ええ、殿下。この花は異国の太陽を好みますが、ここの土にもようやく馴染んでくれたようですわ」

振り返った彼女の微笑みは、かつての「完璧に教育された王太子妃」のそれではない。好きな本を読み、土に触れ、自由を謳歌する女性としての、凛とした輝きを纏っていた。

ラファエルは、彼女の隣にそっと腰を下ろした。

「リリアーナの件では、国中を混乱させてしまった。君が去った後、私はようやく思い知ったよ。自分がどれほど君の知性と差配に守られていたかを」

ソラリスは手を休め、遠くの空を見つめた。

「あの方は、ただの『欲』の塊でした。けれど、それを見抜けなかったのは殿下だけのせいではありません。人は誰しも、信じたいものだけを見てしまう時期があるものですから」

「……君は、そんな私を許してくれるのか?」

ソラリスはふっと微笑むと、少し乱れた彼の襟元を、昔のように整えてやった。

「許すも何も、今の私はアシュランド家の自由な娘であり、一人の探求者です。殿下、もし私をもう一度『必要だ』とおっしゃるなら……それは契約や義務としてではなく、対等な友人として。あるいは――」

言葉を濁したソラリスに、ラファエルは力強く頷いた。

「ああ。今度は私が君を追いかける番だ。君が留学先で見た美しい景色を、今度は私と一緒に見に行ってはくれないだろうか」

「おや、殿下。今度は泣かずに言えましたね」

背後の木陰から、リアムとルカがニヤニヤしながら顔を出した。

「余計なことを言うな!」

真っ赤になって怒るラファエルを見て、ソラリスの鈴を転がすような笑い声が春の風に乗って響き渡る。

リリアーナという嵐が去った後の王国に、ようやく本当の、穏やかで幸福な時間が流れようとしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、「信じていたものに裏切られる絶望」と「圧倒的な事実による逆転」をテーマに描きました。

ヒロインのソラリスは、単に復讐に燃える女性ではなく、冷静に「何が王家にとって正解か」を判断できるプロフェッショナルな強さを持たせています。一方で、リリアーナという嵐に翻弄された王太子ラファエルは、少し頼りない面もありますが、自分の過ちを認めて頭を下げられる「素直さ」を残したキャラクターにしました。

個人的に気に入っているのは、緊密な連携を見せるリアムとルカの兄弟です。有能な協力者が周囲にいることで、ソラリスの孤独ではない強さが際立ったのではないかと思います。

リリアーナの結末は非常に厳しいものとなりましたが、国の根幹を揺るがす「血統」を軽んじた代償として描きました。その対比として、2年後のソラリスとラファエルの再会シーンでは、春の光のような温かさを感じていただければ幸いです。

一度壊れた関係が、義務ではなく「個人の意志」で編み直されていく。そんな二人の新しい始まりを予感させつつ、筆を置きたいと思います。


また別の物語でお会いできることを願っております。

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温室育ちのワガママな甘ったれ男のどこが良かったんでしょうかね。いっちょにいたいでち!よし婚約!じゃねぇのよ親父。 結局ワガママも甘ったれも治ってなさそうなんで、今後も似たようなことやらかすんじゃないで…
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