隣のカーテン
第1話 白いレースの向こう
新婚の部屋は、思っていたよりも匂いが薄かった。新品のカーテンと棚の接着剤の甘い匂い、夫が選んだ無香料の洗剤、私が慣れ親しんだ柔軟剤の花の香りは、この部屋に入った途端に互いを遠慮し合って、ほとんど混ざらなかった。私たちもそうだったのだと思う。互いの生活を持ち寄って、なるべく相手の匂いを汚さないように、距離を計っていた。
昼間は静かだ。窓辺にかけた白いレースが、外からの淡い光をほどいて、床に短い波紋を落とす。私はその波紋の上にコップを置いて、冷蔵庫から取り出した麦茶を注ぐ。氷がぶつかり合う音は、どこか遠くの教会の鐘のように聞こえた。鳴ったのか、鳴らなかったのか。私以外の誰も、それに気づかない。
向かいのマンションの窓は、私の座るソファから正面に見えた。角度と高さが、まるで舞台の観客席を選んだ人のように、都合よく整っている。そこに、夫婦がいた。男の人は背が高く、外から見える範囲ではいつも落ち着いていた。女の人は細く、髪を低い位置でまとめる癖がある。ふたりの間には、子どもがいる。小さな影。声は、あまり聞こえない。
初めて気づいたのは、ベランダの布団を取り込むタイミングだった。私がハンガーにTシャツをかける時刻に、向こう側でもほぼ同じ動作が起こる。ピンチを外す指先の速さ、シーツを半分に折る仕草、ベランダに出た足がいったん止まって何かを考える間。女の人は小さく息を吐いて――彼女の長い横顔が、レース越しに切り取られる。泣いているのかもしれないと、私は最初、思った。そう考えると、上唇のあたりの影までが、涙の跡に見えた。
「また見てるの?」
夫が土曜の昼、キッチンから声をかける。私が観葉植物の葉の埃を拭いているふりをして、窓の向こうに視線を固定しているのを、とうに知っている声だ。からかうでもなく、咎めるでもなく。ただ、少し困っている。
「うるさくないかなと思って。子どもの泣き声とか」
「聞こえないよ」
即答だった。夫はグラスを洗いながら、蛇口の下で水を跳ねさせる。音は軽く、短い。聞こえないという言葉は、彼がこの一年で何度も口にした言葉だった。私が不安を口にするたび、彼は一拍置いてから同じ調子で言う。聞こえない。見えない。気にしない。足りないのは、私のほうだ。
私は頷く。聞こえないのは、誰にとってなのだろう。コップの底に残った泡が、ひとつ、ふたつ、静かに弾ける。私は自分の鼓動が、その泡の小さな破裂音に同調していることに気づく。窓の向こう、女の人の口が動いた。何かを言っている。子どもがそれに従って、椅子に座った。スプーンが皿に触れる光が、レースのひだの間をすり抜けて、私の部屋の天井に小さな点々をつくる。
その夜、私は同じメニューを作ってみた。向こうの皿に見えたのは、多分、白身魚のムニエルと茹でたブロッコリー。レモンの黄色が濃く、皿の端で三日月になっていた。私はレシピサイトを開いて、バターの焦がし方を確認する。フライパンの上で、泡が均一なきつね色になった瞬間が肝心だと誰かが言った。レモンを絞ると、熱と酸が混ざって、鼻の奥が痛くなる。私はふと、隣のキッチンの匂いもこんなふうかと想像した。バターの香りは家族の匂いになる。そう教えてくれたのは母だった。母は私が八歳のときに家を出ていったから、あの言葉が本当かどうかを私自身で確かめることはできなかったけれど。
夫は一口頬張って、少し驚いた顔をした。「お店みたい」と彼は言った。褒めるとき、彼は少しだけ眉が上がる。そこを私は好きだと思ったし、好きだと言い聞かせた。同じ皿を、向かいの家でも食べているはずだと考えると、私の胸の奥の筋が緩んだ。知らないうちに固くなっていた場所。そこへ温かいものが流れ込んで、私は初めて新婚という言葉を体の内側から感じた。
翌日、私はエプロンを買いに行った。向こうの女の人が結んでいたのは、灰色がかった青に細い白線の入ったものだ。店員に似た柄を尋ねると、季節商品で今は在庫がないと言われた。私は似た色を選んで、鏡の前で結び目を作る。腰の後ろで結んだ紐の感触が、急に私を安心させた。彼女と同じ結び目。私は自分が彼女の生活に近づいていくことに、ほんの少しの罪悪感と、もっと大きな救いを感じた。
罪悪感は、最初は本当に小さかった。たとえば、時間。彼女の家の夕食が七時過ぎなら、私も七時過ぎにする。洗濯物を取り込むのが四時なら、私も四時に。ベッドのシーツを替える日も、たぶん同じ。私はノートの片隅に、彼女のリズムを書き写した。彼女のリズムは、私のリズムになった。夫は出勤のために朝七時に家を出て、夜九時に帰る。彼に合わせる形でずっと回してきた私の時間は、別の家族の影を迎え入れて、少しだけ軽くなった。私の中の歯車が、他人の家の歯車に噛み合ったときの、あの手応え。踏み外せばすぐに折れてしまうような、心許ない接続。
泣き声がしない。それだけが気になった。子どもは、転んだり、こぼしたり、眠くなったりしたら、泣く。私はそう思い込んでいた。テレビでは育児の特集をやっていて、夜泣きに悩む親の話が流れていた。夜泣きという言葉が、私の耳に刺さった。向かいの家は、静かすぎる。静けさが上等な毛布のように家を覆っていて、音は全部、毛足に吸い込まれてしまう。もしもそこに、声を上げるべき瞬間があったとしても。
「気のせいだよ」と夫はまた言った。テレビの音量を一つ上げながら。私はうなずいたふりをして、窓の向こうの影を追った。子どもは、スプーンを持ち替えるたびに視線を母親に走らせた。視線は、いちいち許可を求めるように短く跳ねて、すぐに戻る。声が出せないのか、出さないのか、それとも出す必要がないのか。必要がないというのは、誰が決めるのだろう。決める相手を間違えたら、声は永久に行き場を失う。
ある日、私は買い物袋を提げた彼女を見た。レースが光をほどいて、柄が読み取れないはずの紙袋に、片方だけの子どもの靴の形が透けた気がした。思い込みだ、と私はすぐに打ち消した。靴は普通、対で売られている。けれど、紙袋の口がひとつ息継ぎをするみたいに開いて、軽く閉じたとき、私はその中が片方分の重みしか持たないことを確信してしまった。確信には匂いがあった。ゴムの匂い。新品の靴底の、あの粉っぽさが、私の鼻先をかすめた。
その夜、私は夫に話してしまう。話すべきでないことを、口の中で転がしていると、舌の裏が痺れて、言葉が勝手に外へ出ていく。
「向かいの、ね。今日、靴を買ってたみたいで。……片方だけ」
夫は画面から目を離さない。「へえ」と言ったきり、次の言葉を探さない。テレビではバラエティ番組の笑い声が波のように寄せては返す。笑い声と、レース越しの静けさ。二つの波が、私の耳の中でぶつかって、砂の粒みたいな耳鳴りを生む。夫の「へえ」は、曖昧な小石のようにその上に乗って、すぐに沈んだ。私は自分の孤立を、初めてはっきりと自覚した。孤立という名の、個室。鍵は内側からしかかけられないし、開けるのも、私しかいない。
それから数日は、真似を加速させた。彼女のエプロンの色、髪のまとめ方、リップの色味。私は鏡の前で自分の顔を覗き込み、似ているところと似せたいところを仕分けした。頬の骨—少し出ている。口角—意識すれば上がる。目元の疲れ—隠す。私は化粧ポーチの中身を、向こう側の女の人の順番に並べ替えた。リップのキャップを閉めるとき、小さくカチと音がして、それがレースの向こうの部屋で鳴ったのか、こちらの部屋で鳴ったのか、わからなくなる瞬間がある。音は、ときどき境界を越える。
境界といえば、カーテンだ。昼間、風が入ると、レースはゆっくりと膨らみ、また萎む。ふくらみとしぼみの呼吸は、人の胸と同じ速度で、見ているうちに、私の胸もそれに合わせて上下する。私はカーテンに呼吸を合わせて生きていたのかもしれない。夕方、日が落ちると、レースの内側に重ねたいつものドレープカーテンを引く。向こうの家も同じ時刻に引く。ある夜、彼女の家のカーテンが、それまでより早く閉まった。ぴたり、と音を立てて。私は何かを失ったような気持ちになって、自分のカーテンを閉め忘れた。暗い窓に、私の顔が映る。顔は思ったよりも他人だった。私の顔をして、私の真似をしている誰か。
その翌朝、ベランダで植物に水をやっていると、下の階から誰かの話し声が聞こえてきた。「上、最近、覗いてるって噂だよ」—噂は、誰かがさも当然のことのように置いていく、汚れのないナイフだ。私は笑うふりをして、鉢の縁をなぞった。指先に土のざらつき。私は覗いてなどいない、と言い切る自信がないことを、自分の指の感触が告げる。私はただ、見ているだけ。見ることと覗くことの違いは何か。納得の問題だ。見られる側が納得すれば見ることで、納得しなければ覗きだ。境界は、相手が決める。
午後、夫からメッセージが来た。「今日、少し遅くなる」。絵文字のない文は、彼の体温を持たない。私は「わかった」と返してから、向こうの家の夕方を待った。カーテンのふくらみは呼吸だ。呼吸の間に、すきまが生まれる。すきまから、光が漏れる。光は、刃物のように鋭いときがある。日が完全に沈む前、斜めの光が部屋の奥に差し込む一瞬、その光に何かが反射した。長い、銀色の線。私はそれが包丁の刃だとすぐに思ったし、思った自分に驚きもしなかった。包丁はどこの家にもある。料理をすれば、光る。光ること自体が不自然なのではない。けれど、そのときの光は、必要以上に長く伸びて、まるでわざと、こちらのレースの目を一つ一つ辿るように、私の部屋の天井まで届いた。
私は、カーテンを閉めた。ゆっくりではなく、衝動の速さで。布は軌道を描いて、手の甲に当たり、静電気が走った。閉める音がやけに大きく、部屋の空気が一瞬、密閉された容器の中身みたいにぎゅっと縮む。私は自分の呼吸の音を聞いた。他人の家の呼吸に合わせてきた胸が、急に自分だけの速さで波打ち始める。私は台所に行って、引き出しを開けた。そこにも、包丁がある。刃は短く、使い込んだ痕が柄に残っている。私はそれを持ち上げて、蛍光灯の真下へ移動した。刃は光を弾き、白い天井に点々を転がせる。同じ光が向こうでも生まれていた。どちらが先だったのかは、わからない。
夜遅く、夫が帰ってきた。ドアのチェーンを外す音、鍵の回る金属音、靴が床に触れる鈍い音。私はソファに座って、テレビをつけていた。何を映していたのかは覚えていない。夫の顔は、疲れているようにも、いないようにも見えた。私は「おかえり」と言い、彼は「ただいま」と言った。言葉は行き交ったけれど、どちらも届かなかった。すれ違う二台の車が窓を閉めて、別々の道へ入っていく。そのときの一瞬のライトの交差だけが、私たちに残った。
寝室に入って、夫がシャワーを浴びている間、私はまた窓の前に立った。レース越しに外を見ても、もう何も見えない。見えないとき、人は想像で埋める。想像の素材は、これまで見てきたものの切れ端だ。切れ端は、時々、未来の形に似る。私は明日のニュースを想像する。白いテロップ、落ち着いたアナウンサーの声。「都内マンションで夫刺殺。妻を逮捕」。私の頭の中のニュースは、音が出ない。テロップだけが滑り、写真だけが、静止したままこちらを見る。写真の女の人の顔が、少しだけ、私に似ている。その「少し」を、どう扱えばいいか、私はまだ知らなかった。
寝る前、私はカーテンの裾に薄い染みを見つけた。朝、ベランダで水をやったときに跳ねたのだろうか。指で触ると、もう乾いていて、色が血の色に似て見えたのは、部屋の照明のせいだ。私は裾を持ち上げて、鼻に近づける。匂いはない。匂いがないものは、どちらにも転べる。無罪にも、有罪にも。
ベッドに入ると、夫は背を向けていた。背中の呼吸は、昼間のカーテンのふくらみと同じ速度だった。私はその背に手を伸ばす。触れられる距離にいる人に触れないという選択を、私がしているのか、彼がさせているのか。手は空中で止まった。私は手を戻して、自分の胸の上に置く。明日の朝、向かいの家のカーテンは、何時に開くのだろう。私は目覚ましを—彼女のリズムに合わせた時刻—にセットした。
眠りに落ちる直前、私は思い出す。結婚式の終わり、ブーケトスのときに私が見た自分の横顔。あの横顔は、他人だった。私は気づくべきだった。誰かの真似で自分をつくるのは、自分の未来を他人の窓に預けることだ。けれどそのときの私は、まだ、あの白いレースの優しさに甘えていた。レースは、視界から鋭さだけを取り除いて、世界を柔らかく偽装する。柔らかいものは、指が沈むまで、深さがわからない。
次の朝、目覚ましの前に目が覚めた。静かな胸騒ぎが、内側から壁を叩く音で私を起こした。レースをほんの少しだけ持ち上げて、外を見る。向かいの家のカーテンは、まだ閉じている。私は息を止める。耳鳴りの砂が、また流れた。
そのとき、遠くで、救急車のサイレンが鳴った。音はまだ小さく、何件も先の角を曲がったのか、空気の縁を撫でる程度。私は自分の未来が、私の知らないうちにカーブを曲がってこちらへ向かっている気配を、確かに感じた。感じたことを、否定しなかった。否定しなかったことを、後悔しなかった。後悔を後回しにするのが上手になっていくのが、大人になるということなのだとしたら、私は昨日よりも少しだけ大人だった。
サイレンの音は、少しずつ大きくなった。私はレースをそっと下ろす。布は指から滑り、また呼吸を始める。見ないことを、選べばいい。見ないことは、罪ではない。そう思おうとした瞬間、窓ガラスに薄く、私の顔が映った。映った顔は、あのニュースの写真に似ていた。少しだけ。少しだけが、また私の胸を押した。
「ねえ」
私は、まだ眠っている夫に声をかける。彼は返事をしない。私はもう一度、「ねえ」と言い、言葉を続けようとして、やめた。私が見ているものを、私の言葉で彼に渡すことが、急に怖くなった。渡した途端、それは現実になる。現実になってしまえば、もう戻せない。私は言葉を飲み込んで、喉の奥に置いた。置き場所のない言葉は、体のどこかの棚に勝手に並び、埃をかぶる。埃はいつか、火種になる。そんな気がした。
その日、私はいつもと違う道でスーパーに行った。違う道を選ぶことは、違う未来を選ぶことだと、どこかで読んだ。信号機の色が変わり、私は横断歩道の白い線の上を慎重に踏む。向かいのカーテンの色が、視界の隅で変わる。白いレースの向こうに、薄い影が動く。私は一歩、戻りかけて、やめた。戻らないことに、私は成功した。成功は、たいてい、小さくて、気づかれない。
夕方、私はいつもより少し早く料理を始めた。包丁を手に取る。刃先に、窓からの光が届く。光は刃物に似ている。刃物は正しさにも、間違いにも使える。私は人参を切りながら、音に耳を澄ます。とん、とん、とん。音は、向かいの台所からも返ってくる。とん、とん、とん。合奏のようだと思い、次の瞬間、戦いの足音だと思い直す。どちらも、同じ速度をしていた。
夜九時。夫から「今日はやっぱり遅くなる」と連絡。私は「了解」とだけ返す。絵文字は付けない。画面に映る自分の名前の横に、既読の文字がつく。世界はちゃんと反応する。私は一人で夕食を終え、皿を洗い、布巾を絞る。絞った水が、シンクの銀色の面に跳ねて、星みたいに散った。星は、見上げれば、見下ろしてくる。私はその視線の重みを思い出す。見られることを、私たちは恐れる。恐れながら、見られたいと願う。
十時を過ぎ、私はソファに戻った。テレビを消す。部屋は、冷蔵庫の低い唸りと、外を走る車の遠い音だけになった。私はカーテンの前に立った。手を伸ばし、ほんの少しだけ、布を開いた。そこには、いつもの窓があった。向かいの部屋の黒い四角。黒の中で、光が動いた。私は息を止める。光は、長い線になって、こちらのレースの目を辿る。私は、今度は閉めなかった。見ないことを選ばないことが、罪かどうかは、後で決めればいい。今はただ、見届ける。
光が消え、静けさが戻った。戻った静けさは、さっきよりも重い。私はそっとレースを戻す。布は何事もなかった顔をして、そこに掛かる。私はキッチンへ歩き、グラスに水を入れ、一気に飲む。水は喉に落ちて、胃の底に冷たい円を作った。それが、私の内側に落ちる錘になる。錘は、私をここに留める。留まって、見る。それが、今の私の選んだ仕事だ。給料も、肩書きもない。けれど、たしかに、役目ではある。
寝室に戻ると、夫はまだ帰っていない。私は枕に顔を埋め、目を閉じ、耳を澄ます。遠くのサイレンが、また聞こえた。今度は、さっきよりも近い。私は、明日の朝を思い浮かべる。ニュースのテロップと、女の人の顔。顔は、少しだけ私に似ている。少しだけ。少しだけが、いつも私を押す。私は押されて、未来のほうへ、ほんの一歩、進んだ。
レースは、夜の風にわずかに揺れた。揺れを見ているうちに、私は眠りに落ちた。落ちるとき、私は誰かの夢を踏んだ気がした。柔らかい布の上を歩くと、足跡は残らない。けれど、重さは、布を通して、どこかへ伝わる。伝わった先が、私の未来だとしたら。私が今踏んだ柔らかい何かが、明日の朝、硬い現実になって戻ってくるのだとしたら。
それでも、私は、見ていた。見ていたのは、他人の窓ではなく、自分の窓だということに、まだ気づかないふりをしながら。
第2話 音のない子ども
昼下がりのリビングは、やわらかいものに満ちていた。ソファの肘掛け、丸めた毛布、観葉植物の新しい芽。やわらかいものは、音を吸い込む。だから私はよく、テレビを消す。静けさの中で、向かいの窓に意識を合わせるためだ。
音はしない。昼も夜も、子どもの声は、しない。泣き声も、笑い声も。食器が触れ合う金属音や、大人の低い話し声は、たしかにレースを通って届くのに、そこに必ず存在するはずの「甲高い帯域」だけが、きれいに抜け落ちている。
私はその欠落に、指先で触れようとするみたいに、窓辺に近づく。レースは微風の呼吸をして、私に胸の上下を合わせろと促す。息を鎮めたとき、私の耳は階下の自転車のブレーキの擦過音や、遠くの救急車のほこりっぽいサイレンまで拾うのに、子どもの音だけは拾えない。拾えない音は、自分のほうが間違っていると告げてくる。間違っているのは、私の耳か、私の過去か、それとも私の願い。
その日、管理棟の掲示板に**「子育てサロンのお知らせ」が貼られた。見ないふりの得意な入居者たちが横目で流すポスターを、私は正面から受け止める。手作りのイラストの赤ちゃんは、口を丸く開けて泣いていた。泣き声の絵。音の見本。
受付の女性に声をかける。
「ここ、参加したら……泣き声とか、普通、しますよね」
自分でも意味のない質問だと思った。受付の女性は一瞬だけ眉をひそめて、「まあ、そうですね」とだけ返した。
私が聞きたかったのは“普通”のことじゃない。このマンションは、普通に泣いていい場所かということだった。けれど、その問いは、たぶんどの窓口にも置いていない。
エレベーターに戻る途中、小さな手形を見つけた。扉の内側、鏡の下の隅に、曇りガラスのようにうっすら残った掌のあと。指は細く、五本が平行に伸びていて、力を込めて押しつけた痕はない。私は反射的に自分の掌を重ね合わせる。重ならない。重ならないものに、自分を合わせるのが癖になってきた。
部屋に戻ると、夫からメッセージが来た。「今日は早く帰れる」。すこしだけ拍子抜けする。彼の予定は、私の「観察する時間」の刻みと重なっていないほうが、うまく回る。けれど、早く帰ると聞けば、夕食を丁寧にする言い訳ができる。私は冷蔵庫を開け、鶏肉を取り出し、塩と胡椒を両面にすり込む。テレビはつけない。台所の音だけが流れる。
まな板に包丁の腹を押し当て、にんにくをつぶした瞬間、ベランダのほうから薄い笑い声がした。私は反射的に顔を上げる。笑い声はすぐに切れた**。切れ目のあとの静けさは、誰かが息を止めている時間。笑いの痕は、空気に残らない。泣き声の痕だけが、湿り気みたいに残るはずなのに——ここでは、その湿度も見当たらない。
「陽菜」
後ろから夫の声。鍵の回る音に気づかなかった。私の肩は小さく跳ね、握っていた包丁の刃が一瞬だけ光る。
「早かったね」
振り返ると、夫はネクタイを緩めながら笑った。目元の笑い皺は、他人にも見える種類の優しさを持っている。私はその皺を、彼と私の結婚の証拠みたいに扱ってきた。何度も確かめないと不安になる証拠。
「なんか、いい匂い」
夫が靴を脱ぎながら言う。バターを焦がしかけた匂いと、にんにくの甘い蒸気。私は頷き、ふと彼に問う。
「ねえ、向かいの——」
言いかけて、やめる。数日前と同じ会話が再生されるのがわかったから。再生される会話は、記憶の磁気テープのように、同じ場所で同じノイズを出す。「気のせいじゃない?」という彼の台詞、そのあとの私の曖昧な笑い。台詞は、積み上がらない。
代わりに私は、テーブルクロスを丁寧に広げ、コップの位置を向かいの家の配置に似せた。ナイフは右、フォークは左。レモンは皿の上の二時の位置。夫は気づかない。気づかれないことに安堵する自分と、気づいてほしい自分の二人が、テーブルの下で脚をぶつけ合う。
食後、夫はソファで雑誌をめくり、私は洗い物をしながら、スマホのアプリを開く。ホワイトノイズや室内音を記録して睡眠の質を測るというもの。私はそれをベランダ側に置き、タイマーを十五分にセットした。
「何をしてるの?」
夫が背中越しに問う。
「睡眠のやつ。最近、眠り浅くて」
嘘ではない。浅いのは眠りだけじゃない。生活の底も、浅い。手を入れれば、すぐに底に触れる。そこに何か固いものが沈んでいる気がして、触るのが怖い。
十五分後、アプリは波形を見せた。台所の水音、外の車、私の足音。子どもの声は、ない。私は波形を拡大して、帯域の隙間を探す。探して見つかるのは、私の執着の輪郭だけだ。
「陽菜」
呼ばれて振り向くと、夫は雑誌を膝に乗せたまま、こちらを見ていた。「最近さ、ちょっと……張りつめてる?」
「そう、見える?」
「うん。俺のこと、怒ってるのかなって誤解しそうになるくらい」
怒り? 私の中には、怒りらしい形のものが見当たらない。あるのは、聞こえない音に対する不安と、見落としに対する恐怖。それから、私自身の将来の手触りのなさ。
「怒ってないよ」
私は笑い、食器を拭きながら、ふと口にする。
「赤ちゃんって、どれくらい泣くのが普通かな」
夫は少しだけ黙ってから、「陽菜の家は——」と切り出し、やめた。私が母のことを話題にするのを嫌うのを、彼は覚えている。思いやりの記憶。優しさの証拠は、ときどき、話題の空白として現れる。
「まあ、家それぞれじゃない?」
夫の答えは、優しい逃げ道だった。私はその道に入りかけて、引き返した。
翌日、私はゴミ置き場で向かいの妻とすれ違った。髪を低い位置でひとつに結い、灰色がかった青のエプロン。目が合う。彼女は一瞬、笑う準備をした顔をした。表情筋が笑顔の形を取る直前、目の奥はまだ整っていない。私は微笑み返し、彼女の持つゴミ袋の軽さに驚く。燃えるゴミにしては、軽い。
「こんにちは」
その一言で、彼女の顔が完成した。つくられた笑顔は、丁寧で、薄い。
「上のお部屋、引っ越してきたんです」
なぜか、言わなくてもいい自己紹介をする。彼女は頷き、「あ、うち、向かいです。子どもがいるので、うるさかったらごめんなさい」と言った。
うるさかったら。私は心の中でその言葉の輪郭をなぞる。うるさい音は、ここには存在しない。
「いえ、全然」
私は答え、喉の奥に乾いた粉のようなものが張りつくのを感じる。うるさくない、と言ったのは、事実なのに、嘘をついた気持ちになった。
その瞬間、彼女のスマホが震え、画面に表示された通知が、“保育園 一時”という文字をちらりと見せた。私はそこに安堵を感じかけて、足を止める。保育園に行っているから静かなのだ、と。けれど、夜も静かだ。泣き声の代わりに、テレビの音量が上がるタイミングがある。音量は、何かの穴を塞ぐためのものだと、体は知っている。
「お子さん、おいくつですか」
私の質問に、彼女は指を二本立てた。「二歳です」
二歳。走る。転ぶ。主語の多くが「自分」で、否定は直線的で、欲求は声になる。なるはずだ。
「また、どこかで」
彼女は会釈して去った。去っていく背中の細さが、風に折れそうで、私は咄嗟に手を伸ばす妄想をした。伸ばした手は空を掴むだけで、実際には何もしない。何もしないことは、いつから慎重という美徳に言い換えられるのだろう。
昼、私はベランダに小さな洗濯物干しを出し、レースの裾を少しだけ上げる。向かいの部屋の影が、動く。子どもと思しき影は、床から低い位置で、一定の軌道を往復する。走らない。跳ばない。靴下の片方を持ったまま、線を引くように動く。
私はふいに、音のない動画を見ている感覚に包まれた。音が切られた日常は、どんな惨事も鑑賞物に変える。鑑賞する私は安全で、冷静で、汚れない。汚れない観客は、たぶん、一番汚れている。
夕方、私はアプリをもう一度起動し、今度はベビーモニター機能のあるものをダウンロードした。レビューには育児中の親の切実な言葉が並ぶ。泣き声検知、夜泣きアラーム、音声のしきい値。私は説明を読みながら、他人の生活の中でうまく働く設計に感心しつつ、これを他人の生活の外で使おうとしている自分の手つきを観察する。境界線に、私は慣れすぎていく。
設定を終え、スマホを窓際に伏せて置く。通知は、来ない。来ない時間が積み重なって、来ない現実が完成に近づく。私は自分の呼吸を五つ数え、レースの影の形が床の木目と重なるのを眺める。木目の川を、光の葉脈が流れる。
その夜、夫は早々に寝室へ行き、私はひとり、リビングでイヤホンを耳に押し込んだ。ベビーモニターのしきい値を下げる。集音は、かすかな衣擦れまで拾い始める。私は他人の家の空気を耳の中に入れた。罪悪感は、小さな石のように喉に引っかかり、飲み込めば胃が痛む。
十分ほど経ったとき、イヤホンの中で微かな擦過音が増幅された。布が床を引きずる音。続いて、硬いものが一度だけ規則的に鳴る。コトン。私は体を起こす。コトン、コトン。靴の片方が、床を打つ連続。数は二十を数える前に止まった。沈黙。沈黙のあと、深い息。大人の、息。
私はイヤホンを外し、窓に近づいた。レースのひだが視界を細く切り分け、向こうの部屋の輪郭だけが並ぶ。
突然、こちら側のインターホンが鳴った。心臓が跳ね、足元の毛布が音を吸い損ねる。
画面を見ると、管理人だった。「すみません、今お時間いいですか」
玄関を開けると、管理人は少し汗をかいていて、控えめに私の背後を見た。
「さっき、下の階から苦情が出まして。夜分にすみません」
苦情。私は「え」と声を漏らし、自分の部屋を見渡す。テレビは消えている。夫は寝室。
「何の音でしょう」
「カーテンを、何度も強く閉める音、だそうです。——もし心当たりがあれば」
私は言われた文言の順番を頭の中で並べ替える。カーテン、強く、何度も。今夜、私は一度も閉めていない。酷く乱暴に閉めたのは、あの光の刃を見た夜だ。
「今日はしていません」
正直に答えると、管理人は短く会釈をして、「何かあれば……」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。言いたかったのはたぶん、『何かあっても、言わないひとがいる』、だ。言葉は飲み込まれて、彼の喉のどこかの棚に置かれた。埃をかぶって、いつか火種になる。
扉を閉めると、イヤホンの中で、かすかな音がまたした。トン、と床板が跳ねるような。私は背中を玄関の扉に預け、深呼吸をする。肺の奥の空気は、管理棟の受付で感じた印刷インクの匂いと似ていた。生活は、紙に似ている。折り目をつければ、そこから裂ける。
翌朝、エレベーターの鏡に、私の顔が映った。目の下に薄い影。口角は、意識しないと下がる。私は笑顔の準備をして、自分の顔を完成させる。向かいの妻が昨夜見せた完成の手つきと、私のそれが、同じであることに気づく。
郵便受けには、夫宛の健康診断結果と、スーパーのチラシ。私宛には、地域の子育て支援の冊子が入っていた。名前を登録した覚えはない。私が**“子ども”の周辺に居続けたから、名簿のどこかに勝手に追加されたのかもしれない。私は冊子を持ち帰り、ページをめくる。泣き止まないときの対処法、夜泣きのQ&A、「泣き声は成長です」という太字の見出し。ここでは、泣くことが前提になっている。前提は、現実を据える台座だ。台座がない彫像は、倒れる。
昼、私は雑巾を固く絞り、レースの裾の染みを拭いた。色は薄く、やっぱり血には見えない。見えないものを、見たい形に当てはめる訓練ばかりが上手になる。
ピンポン。今度は向かいの妻だった。ドアチェーン越しに見えた顔は、昨日より少し疲れている。
「すみません、ゴミ出しの袋、ひもが切れて——もしテープがあれば」
私は玄関の引き出しからビニールテープを取り出し、チェーンを外して渡す。彼女の手は冷たい**。
「ありがとうございます」
短い会話のあと、彼女はふと、靴の片方を見下ろすように視線を落とし、すぐに顔を上げた。私は訊かない。訊けば、境界を越える。越えないことが善だと思いたい。
「今度、子育てサロンに行こうと思って」
なぜか、私はそんな言葉を口にしていた。彼女は少し驚いた顔をし、「そうなんですね」と言った。
「もし、よかったら——」
続きの言葉を、彼女は口の中で畳んだ。畳まれた言葉は、もう広げられない形になる。
私はうなずき、彼女の背を見送った。ドアを閉める直前、向かいの廊下の床に、小さな車のおもちゃが転がっているのが見えた。タイヤは動かない。動かないものは、記号になる。子どもがここにいるという印。印は、音の代わりにはならない。
午後、私はサロンへ行った。集会室には、カラフルなマットと、紙コップのジュース、袋詰めのビスケット。数人の母親が輪になり、泣き声と笑い声が渦をつくっていた。私は端に座り、スタッフに「見学です」と伝える。スタッフは笑顔でうなずき、「どうぞ、気楽に」と言う。
こうして私は、やっと泣き声を聞いた。見知らぬ子どもの泣き声は、私の耳の中の空洞を埋めた。空洞が埋まる感覚は、安堵ではなかった。むしろ、向かいの窓の沈黙が濃くなる。比較が、色を濃くする。
帰り道、集会室のドアの小窓のガラスに、私の顔が映った。頬の赤み、汗の光。私は思う。私の未来は、どこで泣くのだろう。泣く場所を選ばなければ、泣き声は犯罪になる。泣く場所を選べば、泣き声は育児になる。ラベルの差だけで、音は変質する。
夕暮れ、ベランダに出たとき、向かいの窓のレースが一瞬だけ上がった。隙間から見えたのは、床に広げられた新聞紙と、その上に並ぶ小さな靴。片方ずつ。靴底に、誰かが鉛筆で数字を書いている。私は息を止め、数字を読む。1、2、3、4——。靴は、片足の分だけが、数えられていく。
光が走った。包丁ではなかった。爪切りの小さな刃が、夕日の筋を弾いたのだと、その後で気づく。子どもの爪を切る音は、柔らかい金属音で、すぐに消える。泣き声は、やっぱりしない。
私は思い出す。母が家を出る前の夜、台所で新聞紙を広げて、私の靴の泥を落としていたことを。新聞紙は便利だと母は言った。汚れは紙に吸い込まれ、証拠は翌朝の回収で運ばれる。家庭の秘密は、午前十時にトラックへ。私はベランダで、朝のトラックの音を想像した。想像の音は、現実の音よりも濃く、遠い。
夜、ニュースをつける。アナウンサーの冷たい声が、どこかの都市の事件を読み上げ、映像は淡々と流れる。私は音量を下げ、文字だけを追う。文字だけの世界は、安全だ。泣き声のない向かいの部屋の字幕を、私は空中に描く。
——『子ども 泣かない』
——『泣かせない しつけ』
——『静かな家庭』
——『静かすぎる 家庭』
——『静けさ は 礼儀』
——『静けさ は 暴力』
字幕は、私の手が勝手に打つ。打たれた言葉が、部屋の壁にぶつかって、反響しない。反響しない言葉は、私の中に戻ってくる。
寝室に入ると、夫はすでに眠っていて、寝息は規則正しい。私は枕元の健康診断の封筒を見つけ、宛名のところにある夫の名前のフォントに、異様な安心を覚える。印字された名前は、簡単に変わらない。私の生活で変わらないものは、もう数えられるほどしかない。
電気を消す前、私は窓の前に立つ。レースに、私の影が重なる。向かいの窓は黒く、鏡のようにこちらを映しているだけだ。私はそっと、レースの裾をめくる。裾の内側に、新しい糸が一本、縫い足されているのを見つけた。いつの間に。ほつれ止めのためだろう。私はその糸の色が、向かいの妻のエプロンと同じ灰青であることに気づいて、笑ってしまう。世界はときどき、親切に揃えてくる。揃えられた偶然は、暗示になる。暗示は、未来を柔らかく包む。
ベッドにもぐり、目を閉じる。耳の中で、靴の片方が床に触れる音が、微かに再生される。コトン。私はその音に番号を振る。一、二、三。数字が増えるたび、私の胸のどこかに小さな引き出しが増える。引き出しには、まだ言葉にならないものが詰まっていく。詰め込みすぎれば、いつか開かなくなる。開かなくなった引き出しは、別の形で開く。事件という名前で。
眠りに落ちる直前、私はぼんやりと確信した。あの窓の子どもは、泣けない。誰かに止められているのか、自分で止めたのか。止めた声はどこへ行くのだろう。声の行き場を、私は知っている。行き場を失った声は、カーテンのひだに溜まる。溜まった声は、風が吹いた拍子に、白い粉みたいに降ってくる。
レースが、夜の呼吸をした。私はその呼吸に合わせて、未来の声を吸い込んだ。吸い込みながら、心のどこかで、あり得ない想像をする。
もし、この黒い窓が鏡だったら。
もし、私が見ているのが他人ではなく、未来の私だったら。
その「もし」を、私はまだ、潰さない。潰さないのは、慎重か、共犯か。目を閉じた暗闇の中で、判断は保留になり、保留された判断は、明日の私の選択肢に加わった。
——明日もまた、音のない子どもの部屋の前で、私は耳を澄ますだろう。
耳を澄ますふりをして、実際には、自分の部屋の静けさを確認するために。
そして、確認するふりをして、実際には、自分の未来の泣き声がどこで鳴り始めるかを、探すために。
第3話 まねる女
最近、鏡を見るのが怖くなった。
怖い、というより、他人の顔が映る気がする。輪郭は私なのに、まぶたの上の皺も、口角の形も、どこか微妙に違う。あの人——向かいの奥さん——の顔を、私の皮膚の裏から覗いているような気がするのだ。
最初は、ほんの遊びのつもりだった。
エプロンの色を合わせ、同じ時間に洗濯物を干し、料理のメニューを真似してみた。彼女の生活をトレースすれば、自分の生活も正しい方向に進む気がしたのだ。
正しさというのは、多数派の習慣に寄り添うことだと思っていた。私は結婚してまだ一年、夫は多忙で家にいない時間が長く、日々の生活のリズムをどこに合わせればいいのかわからなかった。だから、向かいの奥さん——彼女の家のリズムが、私の目盛りになった。
それがいつのまにか、「観察」から「模倣」に変わっていったのは、たぶん気づかないうちだ。
買い物に行くとき、彼女が持っていたトートバッグと似たものを探した。
中に入れる野菜も、同じものにした。カゴにトマトが三つ、ピーマンが二つ、玉ねぎが四つ。数を揃えると、不思議と安心した。他人と同じ数だけ必要とされているという証明のように思えた。
夫は「いいじゃん。料理上手になった」と笑った。その笑顔に、わずかに安心する自分と、彼があの家の夫と同じ顔をしているように見えて、背筋が冷えた自分が同時にいた。
夜、ベランダのレース越しに、あの家のリビングが見える。
テレビの光が壁に反射して、女の人の髪が少し赤く光る。あの赤みを、私は自分の髪にも入れてみた。美容室で「ほんの少しでいいです」と言ったら、担当の女性は「地味すぎてわからないかも」と苦笑した。
でもいい。わかるのは私だけでいい。鏡の中のわずかな赤に、私は自分が彼女の生活の“続き”にいるような錯覚を覚えた。
しかし——人は、似せれば似せるほど、自分が薄くなるのだと、知らなかった。
夫がある夜、ふいに言った。「陽菜ってさ、最近、顔が違う気がする」。
「え?」
「うまく言えないけど……前より、優しくなった気もするし、怖くなった気もする」
私は笑ってごまかした。けれど胸の奥では、小さな鐘が鳴っていた。彼の言葉は、正しかった。私の中で何かが、別の人に入れ替わっていく音がしていた。
その夜、夢を見た。
私は向かいの家のリビングにいた。テーブルの上には、昨日の夕食の残り物。壁際のベビーチェア。床には転がった靴下が片方。
奥の部屋から、低い声がした。男の人の声。怒っているのか、泣いているのか判別できない。私は息を潜めて、声のする方を覗いた。
そこにいたのは、私の夫だった。
私は叫ぼうとして、声が出なかった。口を開くと、空気が逆流して喉が焼けた。
——そのとき目が覚めた。汗でシーツが湿っていた。
夢の残り香を抱えたまま、朝を迎える。
コーヒーを淹れながら、私はふと、夫のカップの色を隣の家のカーテンと同じベージュに買い替えようと決めた。
「気分転換だよ」と自分に言い訳しながらも、カップを手に取る指先は震えていた。何かを“再現”しているときの私は、まるで演技中の俳優みたいだった。台本はないけれど、場面の流れは知っている。次に起こるセリフも、きっと同じになる。
そんなふうにして、私は少しずつ他人の人生を借りて呼吸していた。
ある日、郵便受けに手を入れると、白い封筒が混ざっていた。宛名は達筆な筆文字で「○○様」。私ではない。部屋番号も違う。向かいの部屋の人のものだ。
差出人は「市立児童相談センター」。
私は一瞬、手を止めた。封筒の端が少し破れていて、中に紙の端が見えた。覗くのはだめだとわかっていた。だけど、「間違いを正す」という名目を掲げれば、良心の扉は簡単に開く。
——結局、開けてしまった。
中には、面会日の案内。児童福祉法第何条、保護観察、支援方針……
目が泳いだ。内容をすべて理解する前に、私は封筒を閉じた。
足元がふらつく。まるで誰かの秘密に触れた瞬間、自分がその秘密の一部になるような感覚だった。
封筒を封じ直し、向かいのポストにそっと入れ直す。
その瞬間、ドアが開いた。
「……あの」
声がして、私は肩を跳ねさせた。そこに、奥さんが立っていた。
彼女は私の手元を見た。白い封筒。
「うちの、ですか?」
私は慌てて頭を下げた。「間違って入ってたみたいで……」
「ありがとうございます」
彼女はそれだけ言って、封筒を受け取った。そのとき、彼女の手の甲に薄い青あざがあるのを見た。
青は、彼女のエプロンと同じ色だった。私は何も言えなかった。
家に戻ると、手の震えが止まらなかった。
夫が帰るまでの数時間、私はリビングのソファで、レース越しの窓を凝視していた。向かいの部屋の明かりが点く。影が動く。人の気配。
やがて、物を投げるような音が響いた。
私は思わず立ち上がり、カーテンに駆け寄った。
そのとき、電話のベルが鳴った。
心臓が跳ねる。
「はい」
「もしもし、管理人です。上の階の方から少し音が聞こえるとのことで……お部屋、大丈夫ですか?」
「うちじゃありません」
そう答える声が、震えていた。震えながら、どこかでその言葉を言いたかった自分がいた。
“うちじゃない”。
——けれど、もうすぐ、うちになる予感がしていた。
夜、夫が帰宅した。
「どうした?顔色悪い」
「なんでもない」
「無理すんなよ。……今日、ちょっと会社で嫌なことあって」
夫はそう言って笑い、ネクタイを外す。その仕草が、向かいの夫と同じタイミングでカーテンの向こうに見えた。
私の胸の中で、二つの光景が重なった。
カーテン越しの夫と、私の前の夫。
笑うタイミングも、吐く息の速さも、同じ。
まるで鏡合わせ。
私はその瞬間、どちらの側に自分がいるのかわからなくなった。
夜更け。
眠れずにベランダに出た。
風が止まり、空は濃い群青。
向かいの窓は真っ暗で、レースだけが月光を受けて淡く光っている。
その光の向こうに、ふと人影が立った。
細い首筋、髪の揺れ。——私だ。
私は息を飲む。
影は、ゆっくりと手を上げ、私と同じ動きをした。
まるで鏡の中。
違うのは、その影の手に包丁の刃があったこと。
私は固まった。
だが次の瞬間、光が消えた。
暗闇に包まれた窓には、もう何も映っていなかった。
翌朝、ニュースが流れた。
「昨夜、都内のマンションで住人女性が夫を刺し、現在意識不明の重体……」
私はテレビの前で立ち尽くした。映像のテロップの位置が、自分の住所と同じ区名を映していた。
体が震えた。夫が「おい、どうした」と声をかける。
私はテレビを指さしながら、「うちの向かい」と言った。
彼は驚いたように眉をひそめ、「まさか」と呟いた。
「だって、見てたの。昨日の夜。光が——」
「やめろよ、そういうの」
彼の声は低かった。
「関係ないんだから。お前、最近ちょっとおかしいよ」
その言葉は、刃物より鋭く響いた。私は口を閉ざした。
おかしいのは、どちらだろう。
警察車両がマンションの前に停まり、黄色いテープが張られる。
私はベランダからそれを見ていた。
風が吹いて、カーテンがふわりと膨らむ。その白い布に、赤い染みが一瞬だけ見えた気がした。
——いや、見間違いだ。
でも、指先に確かに感じた熱は、現実だった。
その夜、夫は無言だった。
私はベッドの中で、天井の影を見つめながら思った。
あの家の奥さんがやったこと。
それは、もしかしたら私がやるはずだったことかもしれない。
未来が少しずれただけで、今このベッドにいる私と、拘束されている彼女の位置が入れ替わる。
——「見ていた」のではない。
——「予告されていた」のだ。
次の朝、鏡の中の私は、髪を束ね、灰色がかった青のエプロンを身につけた。
「おはよう」と言うと、鏡の奥の彼女も同じ言葉を返した。
もうどちらが私なのか、確かめる気はなかった。
第4話 光の刃
黄色いテープは、朝の薄い風の中でゆっくりと震えていた。管理棟の掲示板には「関係者以外立入禁止」と大きく書かれ、エントランスの床は早朝のモップ掛けのせいか、いつもより白かった。白いものは、汚れを呼ぶ。視線という汚れ、憶測という汚れ、善意という汚れ。
私の部屋のレースは、相変わらず呼吸を続けている。昨日と同じ、しかし昨日とまるで違う速度で。向かいの窓には紙が貼られ、あの家の輪郭はニュースの中の黒塗りと同じ質感を帯びた。黒塗りは、守るための処置でもあり、見せないための処罰でもある。
午前十時過ぎ、インターホンが鳴った。ドアチェーン越しに見えたのは、私より少し若い、背の高い男の人だった。スーツの色は濃い灰、靴は磨かれていて、名札の文字は光を弾く。「○○警察署の——」と彼が名乗り、もう一人の女性警察官が後ろに立った。女性のほうが私の顔を見る角度は低く、声は柔らかい。「少しお話、よろしいですか」
私は頷いて、チェーンを外した。二人は玄関で靴をそろえ、レースの揺れを確かめるように短く目をやった。目は、どこを見ているときが一番正直なのだろう。見ていないふりをするときか、正面から見るときか。
「昨夜から今朝にかけて、何かお気づきのことがあれば」男の人が言った。声に色はない。色をつけないのが仕事なのだろう。
私は一呼吸おいて、用意していた台詞を言った。「夜、光を見ました。向かいのカーテンの隙間から、長い線のような」。言葉は、昨夜の私の恐怖ほど長くならなかった。線を短くしたのは、私の慎重さか、彼らの記録用紙の罫線か。
「光」女性が繰り返す。「どんな光でしたか」
「刃物に当たったような。包丁の反射、みたいな」
「時間は」
「二十二時を少し回った頃です」
男の人がメモを取り、女性が頷く。会話は丁寧だが、空気はわずかに乾く。乾燥は、ひび割れの前兆だ。「ほかに音は」と問われ、「悲鳴は」と問われ、「いいえ」と答えるたび、私の中で何かが小さく欠けた。欠けてできた隙間に、後悔が砂のように溜まっていく。
「ありがとうございました。念のため、こちらに連絡先を——」
用件が終わり、二人が帰ろうとしたとき、私は衝動に押されて聞いてしまった。「……あの、子どもは」
女性がほんの少しだけ表情を動かした。「ご家族のご事情があるので詳細は申し上げられません。ただ、保護の体制は整えられています」
整えられる保護。整えられる静けさ。私は頷き、扉を閉めた。閉まる音が、やけに大きい。音の大きさは、罪悪感の濃度で変わる。私は薄め方を知らない。
昼になっても、夫からのメッセージはなかった。いつもなら昼休みに「どう?」とか「今夜は何時」と短い文が届く。今日は、既読マークという証拠もない。証拠は、現実の腰に巻く帯のようなものだ。帯が緩むと、生活は落ちる。
私はキッチンに立ち、引き出しから包丁を取り出した。昨夜、蛍光灯の下で確かめた光の筋を、もう一度再現してみたかった。刃を天井に向ける。白い光が跳ね、天井に点が散る。点は動かない。昨夜、向こうの天井からこちらへ投げ込まれた長い線とは違う。私は角度を変え、リビングの端から端へ、光のルートを探した。窓から午後の光が斜めに差し込み、刃先に触れた。今度は細い帯が伸び、レースの目をなぞって、私の天井にもう一本、別の線を作った。
私は息を止めた。昨夜、見た長い線は——もしかすると、こちら側から生まれて、向こうに届いたのかもしれない。私が振った刃の、私の部屋の光の、私の手の震えの結果。もしそうなら、私は私の恐怖に私自身で照明を当て、向こう側の闇の中へ投射していたことになる。光は刃に似るが、影も刃に似る。切ったのは、どちらの側の空気だったのか。
窓辺に立ち、レースを指で摘んだ。布は薄く、清潔で、罪がよく似合う材質をしている。私はレースをほんの少しだけ持ち上げ、外を見た。紙が貼られた向かいの窓。ベランダの隅に置かれた新聞紙の束。そこに、子どもの靴らしきものがひとつ、裏返っていた。裏返った靴底のゴムの模様は、数字を刻むためのスタンプのように均一だった。私は思わず、昨夜のイヤホン越しのコトン、コトンを数え直す。片方だけの音は、計数の練習には向かない。計上できないものは、見落とされるか、別の名前で呼ばれる。
午後、管理棟で配られた「防犯協力のお願い」を受け取った。薄い紙に、薄い言葉。帰り際、管理人に声をかけられる。「大丈夫ですか」。私は「はい」と答えた。「何か気づいたら、すぐ」。頷き、エレベーターに乗る。鏡に映った私は、昨夜より少し別人だった。疲れではない。期待に近い緊張。何かに間に合おうとしている顔。
部屋に戻ると、夫からやっと連絡が来た。「今日は遅くなる」。文に句読点はなかった。私は「了解」とだけ返した。絵文字を付けないと、言葉は正しく立つ。正しさは、人を遠ざけることがある。
夕方、スーパーへ行き、黒い遮光カーテンを買った。レースの内側にもう一枚。二重にすれば、光は刃になれないはず。帰宅して袋から出し、ハサミで必要な長さに切り、カーテンレールに通す。作業の途中で指をかすり、血がにじんだ。にじんだ赤をレースで無意識に拭ってから、慌てて手を離した。白い裾に、細い痕が残る。光の線に似た、赤の線。私は手を洗い、指に絆創膏を貼った。レースを見て、何もなかったことにする。なかったことは、たいてい、あったことより鮮明だ。
夜。遮光カーテンを閉め、レースだけをわずかに揺らした。外は静かで、救急車の音はしない。ニュースでは、隣の事件の続報が流れ、アナウンサーは抑揚のない声で「近隣住民の話では」と言った。テレビの中の近隣住民は、ぼかし越しに「最近、物音がして」と答える。ぼかしは人を守らない。誰の声か、誰でもない声にしてしまうから。私の声もまた、誰でもない声になる日が来る。
夫が帰ってきたのは、二十二時を回ってからだった。玄関の鍵の音、チェーンの音、靴底の小さな砂の音。私はソファから立ち上がりかけたが、動きをやめた。遮光カーテンの内側で、私たちの生活は濃くなった。濃い生活は、薄い嘘を嫌う。
「ただいま」
「おかえり」
彼はネクタイを外し、キッチンへ向かった。コップに水を注ぎ、一息に飲む。喉仏が上下する動きを、私は目で追った。喉は、言葉の通り道だ。通らなかった言葉はどこへ行くのだろう。沈殿して、固まりになって、いつか刃の形を取るのだろうか。
「ニュース、見た?」と彼が言った。
「見た」
「怖いな。こんな近くで」
「怖いね」
会話は、すぐに途切れた。彼はソファに座り、私はキッチンのカウンターに背を預ける。沈黙が、部屋の形を変える。家具の隙間と隙間の距離が、昨日より広がる感じがした。私はその広がりに合わせて呼吸を長くし、彼は逆に短くした。呼吸が合わないとき、人は簡単に別の家族になる。
「ねえ」と彼が言った。「最近、カーテン、強く閉めすぎないほうがいいよ」
私は驚いた。「閉めてない」
「管理人さんから聞いた。苦情が来てるって」
胸が縮む音がした。「うちじゃ、ない」
「そうかも。でも、そういうふうに思われてるってこと」
思われている、という事実。事実は、やがて真実のふりをする。私はうなずきもしなかった。頷けば、認めたことになる。否定すれば、反論の声の鋭さで自分の薄さが露呈する。選べないとき、人は同意の形の沈黙に逃げる。逃げた先で、背中だけが増える。
彼はシャワーに行き、私は台所に立った。引き出しを開ける。包丁がある。柄に、小さなくぼみ。手に馴染むくぼみは、過去に何度も握られた跡。私は刃を持ち上げ、光の下にかざした。遮光カーテンのせいで部屋の光は人工的で、蛍光灯の白は刃の面で硬く砕け、細かい粒になって天井に散った。粒は星に似ている。星の位置で航海した時代は終わり、私はキッチンで迷子になった。
「何してるの」
背中から声がして、私は肩を跳ねさせた。振り向くと、濡れた髪の夫が立っていた。視線が、私の手の刃に吸い寄せられる。彼の顔に一瞬、警戒が走った。非常ベルが目の奥で赤く点滅し、すぐに消える。「危ないだろ」
私はゆっくりと刃を下ろし、シンクに置いた。ステンレスの音が短く鳴る。短い音は、弁明に似る。長い音は、言い訳に似る。どちらも、説得には足りない。
「光の具合を見てただけ」と私は言った。自分の声が、自分のものでない感じがした。録音を早回ししたみたいな速さで、言葉が口から出て、すぐにどこかへ消える。
夫は何も言わず、タオルで髪を拭いた。バスタオルは濃いグレーで、水分を吸って重くなった。重いものは、床に近いところで落ち着く。軽いものは、空中で迷う。最近の私は、空中で迷う時間が長い。
寝室に入る直前、彼が言った。「陽菜、しばらくカーテン、閉めておこう」
「ずっと閉めてる」
「そういう意味じゃない。……窓のほう、見るの、やめよう」
やめる、という言葉が、胸に突き刺さった。やめられるなら、もうやめている。やめられないから、私は今ここにいる。刃に光を当てて、何かの線をたどっている。線の先にあるのは、向こう側の部屋か、未来の私か。
その夜、私は布団に入っても眠れず、レースと遮光カーテンの隙間を指で探った。隙間はほとんどない。それでも、布は布で、完璧ではない。目と目の間の微細な距離から、外がわずかに覗く。黒のなかに、薄い金属の光が走ったように見えた。私は息を止める。もう一度。今度は見えない。見えたのは、内側の天井の角、照明カバーのプラスチックがわずかに反射しただけかもしれない。反射は記憶と似ている。いつ見ても、同じ形ではない。
翌朝、夫は出勤前に「今日は早めに帰れそう」と言って玄関を出た。ドアの閉まる音。私はコーヒーを淹れながら、昨夜自分が確かめた光の経路を、頭の中で辿り直した。窓からの角度、蛍光灯の位置、刃の傾き。物理の法則に救われたいと思った。心理学の曖昧さより、角度の確かさのほうが、まだ私を正しい場所に置いてくれる気がした。
昼前、またインターホンが鳴った。今度は管理人だった。「警察の方が、もう一度」と言うので玄関を開けると、昨日の女性警察官が一人で立っていた。手には小さなビニール袋。中には、金属片——爪切りの下の受け皿のようなものが入っていた。
「確認させてください。昨夜、二十二時頃、お部屋の中で、刃物のようなものに光を当てて確認されていましたか」
私の心臓が一拍抜けた。「……どうして」
「向かいのベランダ側の壁に、光の反射が走るのが確認されて。こちら側からも、同じ頃、天井に光の線が見えたと、他の住人の方が。誤解があるといけないので」
私は何も言えず、頷いた。「……すみません」
謝罪は、何に対してだろう。光にか。線にか。私の好奇心にか。彼女は首を振った。「いえ、確認ですので」。そう言ってから、声を落として続けた。「昨夜の件ですが、刃物の反射ではない可能性もあります。爪切り、鏡、ペーパーの金具。些細なものが、角度によっては長い線になります」
「でも、ニュースでは……」
彼女はニュースではと私が言い切る前に、静かに遮った。「ニュースは概略です。ご近所の方々が安心できるよう、過剰に繋げて考えないでください」
過剰に繋がない、という助言は、まっすぐで、やさしかった。私は頷き、扉を閉めた。閉まる音は、昨日より静かだった。静けさは、必ずしも善ではない。けれど、今日は少しだけ呼吸が通る。
午後、私は机に紙を広げ、鉛筆で線を引いた。窓、蛍光灯、包丁、爪切り、照明カバー、私。点と点を線で結ぶ。小学校の理科の授業のように、矢印を引き、角度を書き込む。線はやがて、私の顔の輪郭に似てきた。頬骨の角度、顎の曲線。私は鉛筆を置き、胸の奥で笑った。笑いは音にならない。音にならない笑いのほうが、長持ちする。
夕方、郵便受けからチラシを取り出すと、床に小さな箱が落ちた。白い小箱、ブランド名は聞いたことがない。宛名は消えかけの手書き。部屋番号は向かいの——。私は箱を持ち、エレベーターで降りて管理人に届けた。「預かります」と言った彼の手が、箱を包む瞬間、わずかに震えた。彼もまた、何かになり損ねた善意の重さを知っている人の手つきだった。
夜、夫は約束通り早く戻った。二人でテーブルにつき、簡単なパスタを食べた。ワインを一口ずつ飲む。アルコールが喉を通るとき、体の中のどこかが少しだけ燃える。燃えない部分との境界がわかる。燃えるほうが、まだ生きていると感じさせる。
「明日、カーテン買い替えない?」と夫が言った。「遮光、いいけど、なんか、重い」
「わかった」
会話が成立して、すぐに終わる。成立したことが、今日は救いだった。皿を洗い、布巾を絞る。水滴がステンレスに当たって星になる。私は台所の明かりを消し、リビングの間接照明だけにした。光は柔らかく、影は輪郭を失い、部屋は安全な絵のようになる。絵の中で人は傷つかない。額縁の外に出なければ。
就寝前、私はまた、ほんの少しだけレースを持ち上げた。習慣は、悪いことと良いことを同じ手つきにする。外は暗く、向かいの窓は黒い板のよう。黒はすべてを飲み込み、何も返さない。返さないことに腹を立て、私はレースを下ろした。下ろす速さが、ほんの少し乱暴だったかもしれない。布の裾が手の甲を打ち、静電気が走る。打たれた場所に、昨日の赤い細い痕がまだうっすらと残っていた。
寝室の電気を落としたとき、部屋のどこかで、金属の小さな鳴る音がした。カチ、と。私は止まり、耳を澄ます。もう一度、カチ。爪切りの音だろうか。私の部屋からか、隣からか。音は、境界に詳しい。どちらの側でも鳴ることを知っている。
ベッドに横になり、天井を見た。天井には、今日一日分の線が走っている気がした。光の線、音の線、言葉の線。線が交差する地点に、未来の印がある。そこに行けば、たぶん何かが起こる。起こるべきことが。起こるはずだったことが。
眠りかけたとき、スマホが震えた。画面を見ると、管理人からの一斉連絡。「明朝、警察の方が各戸のカーテンの点検(落下防止器具)を行います。ご協力ください」。カーテン。点検。私は微笑んだ。点検という名の、生活の触診。触られると、思っていたより痛いところがわかる。痛いのは悪いことではない。痛くなければ、壊れていることに気づけない。
目を閉じる直前、私はほとんど無意識に、胸の中でつぶやいた。——あの光は、たぶん、刃ではなかった。けれど、刃だったのは、私のほうだ。私が向けた視線、私が投げた線、私が擦り合わせた生活。全部、どこかを切ってきた。切った先に、血が出なかっただけだ。出なかった血は、レースのひだに沈み、朝の光で白く乾く。
朝。約束通り、点検の人が来た。男性が二人、レールのネジを確かめ、落下防止の小さな金具を追加する。作業の間、私は廊下に出て、向かいの扉の前を無意識に眺めた。扉の下の隙間から、ほんのすこしだけ、白い紙の角が覗いていた。風の振動で紙が震え、カーテンのようにわずかに呼吸している。私はしゃがみ込み、紙を指先で引き出した。封筒ではない。紙は、私の名前で始まっていた。——陽菜さんへ。知らない字でも、知っている字みたいに読めた。誰の書いた手紙かは、読まずとも想像がついた。未来からの投函は、常に投函後に気づく。
部屋に持ち帰り、テーブルに置いた。開くべきか、閉じておくべきか。開くという動詞は、いつだって刃物の気配を連れて来る。封を切らずとも、文字は刃だ。読む前から、傷はある。私は深呼吸をして、紙をめくった。
そこには、短い文が続いていた。——あなたは、見ていたのではありません。思い出していたのです。私はあなたの未来で、あなたは私の過去。光は、どちらからも来ます。刃物も、どちらにもあります。私は、あの線をあなたに返しただけ。あなたが先に、私に渡した線を。
最後の行に、震えた署名。見覚えのある名前。私の名前と、苗字だけが違う名前。私は手紙を置き、息を吐いた。吐く息の白さは見えないのに、胸の奥は冬だった。窓の外で、朝の光がレースを透かす。光は刃だ。刃は、こちらの指にも触れる。私はゆっくりと、レースを撫でた。布は柔らかく、罪は軽いふりをする。
——もうすぐ、第5話が来る。わかっている。タイトルは「わたしのカーテン」。わたしの、という主語が、ようやく正しい場所に立つ。立ったとき、誰かが倒れる。倒れるのが、私ではない保証は、どこにもない。だけど、私は今、線の上に立っている。光の、音の、言葉の。立って、見て、そして——見られている。
第5話 わたしのカーテン
朝の光が、カーテンの布を透かして、白い紙のように部屋を染めていた。
光は、いつもより穏やかに見えた。けれど、その穏やかさが、私には――怖かった。
テーブルの上に、昨日見つけた手紙がある。
“陽菜さんへ”
達筆でも拙くもない、年齢を感じさせない筆跡。まるで、文字が「誰でもない誰か」に書かせたような形をしていた。
私は、読むのを一晩迷った。
けれど、迷いは長く置いておくと、腐る。
だから、封を切った。
一
『あなたは、見ていたのではなく、思い出していたのです。
光は、あなたの部屋からも、わたしの部屋からも、出ていました。
違うのは、どちらが先だったかだけです。』
手紙の最初の数行で、指先が冷たくなった。
その文体を、私はどこかで知っていた。
思考の速度より早く、心臓の奥のほうが理解した。
“わたしの部屋からも出ていました”
——この「わたし」は、誰?
私は立ち上がり、レースに触れた。
昨日まで張られていた黄色いテープは、撤去されている。
事件の痕跡は、なかったことにされていた。
ただ、ベランダのコンクリートの隅に、雨に滲んだような黒ずみが残っている。
目を凝らせば、それは“何かを拭き取った跡”に見えた。
私は視線を戻す。
カーテン越しの鏡が、光を返した。
光は柔らかいはずなのに、鏡の中では硬く見える。
鏡は光の残酷な形見だ。
二
夫が帰宅したのは午後六時。
スーツの襟は少しよれて、ワイシャツに汗の線が見えた。
「暑かったね」と声をかけても、彼は笑わなかった。
私の声の温度が、彼にはもう合っていないのかもしれない。
「明日、引っ越そうか」
唐突に、彼が言った。
「引っ越し?」
「うん。ここ、もう落ち着かないだろ。……ほら、事件もあったし」
私は、頷けなかった。
逃げたい場所なのに、離れたくない。
この部屋には、まだ“終わっていない会話”が漂っている気がした。
引っ越したら、それが消える。
消えたものは、もう誰にも拾えない。
「少しだけ……考えさせて」
そう言うと、彼はうなずいた。
彼のうなずき方は、最近、他人の了承の仕方に似てきた。
三
夜。
眠れない私は、再びレースの裾を指で持ち上げた。
外の空気が冷たく、肌を切るように入ってくる。
風の向こうに、黒い窓がある。
向かいの部屋。
封鎖は解かれたが、明かりはつかない。
誰もいないのに、その窓は呼吸しているように見えた。
私はスマホのライトを点け、わざと窓の方へ向けてみた。
光はカーテンの布を透かし、細い筋になって走る。
ほんの一瞬、向かいの窓の内側でも、同じ光が走った。
まるで、鏡の反射のように。
「……いるの?」
声は、囁きのまま、空気に溶けた。
答えは、なかった。
だけど、レースがわずかに膨らんだ。
風ではない。——“呼吸”だった。
四
翌朝。
夫は出勤前に「カーテン、開けておいたら?明るくなるし」と言った。
私は「うん」と答えた。
でも、開けなかった。
彼が出ていくと同時に、私は手紙の裏を見た。
裏には、短くこう書かれていた。
『見られることを、許したのは、あなたです。』
私は、目を閉じた。
その瞬間、いくつもの映像が脳裏を過った。
——エプロンの色を真似た日。
——片方の靴を拾おうとして、指を止めた日。
——包丁の反射を「光」と呼んだ夜。
私が見ていたのは、他人ではなかった。
私がこれから行く先を、少しだけ先に歩いていた“わたし”。
彼女はあの日、刃を振るった。
そして、私は昨日、光を放った。
もしあの光が、彼女に届いたのなら——
私が“起点”だったのだ。
五
夜。
外で小さなサイレンが鳴った。
遠くの事故か、火災か、あるいは別の誰かの人生の崩れ落ちる音か。
私はベランダに出て、光の行方を見た。
カーテンを少しだけ開けると、室内の明かりが外に漏れる。
漏れた光は、コンクリートの壁に反射し、向かいの窓に届く。
そこには、もう誰もいないはずなのに、
カーテンが、ゆっくりと、わずかに——動いた。
私は息を呑み、立ち尽くす。
風のせい? それとも——。
レースの間から、白い紙がふわりと舞い込んできた。
ベランダの隅に落ちる。拾い上げると、見覚えのある筆跡。
たった一行だけ。
『もう、交代の時間です。』
手が震えた。
私は視線を上げる。向かいの窓のレースが、ふくらんだまま止まっている。
その白が、月明かりで淡く光る。
——あの光。あの線。
始まりは、やっぱりここだった。
六
夫が帰宅したのは、午前を過ぎてからだった。
酔っていた。玄関で靴を脱ぎながら、私を見て笑った。
「起きてたの?」
「うん、ちょっと眠れなくて」
「そういう夜もあるよな」
彼はソファに座り、ネクタイを外した。
その仕草が、向かいの夫と重なった。
私はゆっくりと、キッチンに向かう。
刃の位置を確かめる。
手紙の言葉が、頭の奥で繰り返される。
——交代の時間。
私は包丁を取り出し、光にかざした。
刃の反射が、天井に細い線を描く。
線は真っ直ぐに、夫の背中へ伸びた。
「陽菜?」
彼の声で、我に返る。
私は刃を下ろし、シンクに置いた。
音が、異様に大きく響いた。
「ごめん。手、滑っただけ」
彼は小さく息を吐き、「危ないよ」と言った。
その“優しい声”が、私を現実に戻した。
光は消え、線も途切れた。
だが、その途切れた線の余熱が、まだ胸の奥で燃えていた。
七
翌朝、私は決めた。
——カーテンを、外す。
レースを取り、遮光を外し、窓を全開にした。
風が入り、部屋中の紙が舞い上がる。
昨日の手紙も、その一枚。
風に乗って、向かいの窓の方へと飛んでいった。
白い紙が空を渡る瞬間、私ははっきりと見た。
向かいの窓の内側に、私がいた。
髪を束ね、灰色のエプロンをつけ、微笑んでいる。
——同じ顔、同じ姿勢、同じ目。
彼女は、レースを閉じた。
その動作に合わせて、私の部屋のカーテンも閉まった。
私は驚いて、後ずさる。
レールの音が、二つの部屋で同時に鳴った。
“交代の時間です”
耳の奥で、その声が囁いた。
八
翌日、管理人が各戸を回って言った。
「向かいの部屋、また新しい方が入るそうですよ」
私は頷きながら、笑顔を作った。
手のひらには、小さな切り傷。昨日の夜、包丁の刃先でついたもの。
それが乾いて、白い線になっている。
まるで、レースのひだのように。
夕方、私は新しいカーテンをつけた。
前のものよりも薄く、よく光を通す布。
光は、柔らかく、罪をぼかす。
その優しさに、私はもう、すっかり慣れてしまった。
夜。
カーテンの隙間から、向かいの新しい部屋の明かりが見える。
白いレースが揺れる。
あのときの私と同じ速さで。
中に、若い女の人の影。
その影が、私の方を向いた気がした。
そして、ゆっくりと手を上げ、レースの裾を持ち上げた。
終
世界のどこかで、またカーテンが揺れる。
風ではなく、呼吸で。
誰かが誰かの生活を覗き、真似し、入れ替わる。
その繰り返しのどこかに、私がいた。
もしかしたら、今もいる。
——このレースの向こうで。
〈終〉




