第7話 口元を見られて
理科室に入ると、どこかひんやりとした空気に包まれて、背筋が少し伸びる。
窓から射し込む光は柔らかいのに、ガラス器具の並ぶ棚や、壁に貼られた人体図が、普段の教室とは違う緊張感をつくっていた。
今日の実験は「唾液とでんぷんの関係」だった。黒板に「唾液の働き」と書かれているのを見て、クラスの男子たちが小声でクスクス笑っている。こういうテーマだと、どうしても照れや冗談が飛び交うのは仕方ない。
机の上に並んだ試験管を前に、あたしはほんの少し眉をひそめた。
「……唾液、直接垂らすの?」
隣に座る女子と顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。普段はきちんと口を閉じているのに、人前でだらしなく口を開けるなんて、考えるだけで恥ずかしい。
「それじゃあ、みんな。自分の唾液を試験管に入れてみてください」
先生の声に従い、あたしはでんぷんの入った試験管を口元に持ってきた。息を整えて、思いきって口を少し開ける。そして、そっと唾液を落とす。
その瞬間、視線を感じた。
――朋希くんだ。
彼は実験台を挟んだ向かい側の席で、器具を手にしながらも、ちらっとこちらを見ていた。慌てて顔を逸らしたけれど、遅かった気がする。きっと見られた。あたしの、普段なら絶対に見せない、間抜けな顔。
胸がドキリと跳ねた。
(やだ、変に見えたかな……)
けれど同時に、少しおかしくもなる。いつもは真面目に授業を受けている彼が、目を丸くしてあたしを見ていた姿が頭に残ってしまったから。
実験は順調に進んだ。ヨウ素液を垂らすと、唾液を入れた方の試験管だけが青くならない。それを見て「おーっ!」と声を上げる男子たち。あたしも「ほんとに消化してるんだ!」と素直に感心して、気持ちが盛り上がった。
授業が終わり、帰りの時間。昇降口で、あたしは偶然朋希くんの背中を見つけた。ちょっと恥ずかしかったけど、声をかけてみる。
「……あ、朋希くん。帰る?」
「う、うん。一緒に行こうか」
二人並んで歩き出す。放課後の西日が斜めに差し、あたしのツインテールの先が光を透かして揺れた。
「さっきの実験、面白かったね」
「そうだね。……でもさ」
彼が何か言いかけて口ごもる。あたしは首をかしげた。
「何?」
「いや……陽奈ちゃん、ちょっと変な顔してた」
「えっ!」
思わず足を止める。顔が熱くなるのを感じた。
「な、なにそれ! そんなにあたしの顔見てたの!?」
「いや、そういうわけじゃ……。ただ、普段の陽奈ちゃんの顔と、なんか違ってて」
彼が慌てて手を振る。その必死さに、あたしの頬の熱も少し和らいだ。
「……まあ、確かに。あんな顔、普段は見せないよね」
「うん。でも、それがなんか……」
言葉を探すようにして、彼は照れくさそうに視線を逸らした。
その横顔を見て、胸がくすぐったくなる。
(……もしかして、あんな顔でも見られて嬉しかったのかな、あたし)
歩きながら、自然と笑い合った。からかうように軽口を叩いて、また笑って。彼との帰り道も、ずいぶん賑やかになったな。
夕暮れの道、蝉の声が急に遠のいたように感じた。
話題が途切れ、二人の間に妙な沈黙が落ちる。
胸がドキドキして、でも何も言わないまま歩くのも落ち着かなくて、あたしは思わず口を開いた。
「ねえ……さっきの実験で思ったんだけど」
朋希くんが首をかしげる。あたしは自分の頬が熱くなっていくのを感じながら、早口で続けた。
「もし……もしキスしたら、唾液って混ざるのかな、って」
言った瞬間、顔から火が出そうになった。
けれど彼は一瞬驚いたような顔をして――すぐに、少し笑った。
「……実は僕も、同じこと考えてた」
どきん、と胸が跳ねる。
ふと見上げたら、彼の顔がすぐ近くにあった。
互いに引き寄せられるように、少しずつ距離が縮まっていく。あたしは、無意識のうちに目を閉じていた。
(――え? これって……)
頭の中が真っ白になる。息が触れ合って、唇が近づいているのがわかる。あたし、このまま――。
……ハッと目を開いた。
慌てて一歩下がり、笑ってごまかす。
「……まあ、まだ先のことだよね!」
声が上ずっていた。耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。彼が少し呆然とした顔をしているのが可笑しくて、あたしは先に歩き出した。
背中に夕陽を浴びながら、ツインテールがまた揺れる。
胸の奥がざわざわして、なんだか落ち着かない。けれど、不思議と嫌じゃなかった。
(“まだ”って言っちゃった……あたし、なに考えてるんだろ)
小さく笑いながら、あたしは赤い頬を隠すように俯いた。
家に帰って夜になってからも、気持ちが落ち着かなかった。
実験で口を開けたことよりも、唾液を垂らしたことよりも。帰り道のあの一瞬の方が、ずっと恥ずかしくて、ずっと心に残っていた。
(もし……いつか本当に、そうなったら……)
そんな未来を想像しながら、枕に顔を押しつけて寝転がる。
ふわりと揺れた、お風呂上がりの髪。淡い香りに包まれて、あたしは心地よい眠りへと落ちていくのだった。
次回は日曜の19時半ごろに投稿予定です。
(日曜の夜・金曜の昼に更新)




