プロローグ 「翡翠と薬莢」
翡翠。
カワセミとも読めるし、ヒスイとも読めるその石は、太陽の光に透かすと、木々から漏れた光のように、淡い緑を放つと言っていた。
翡翠の淡い緑は、ある時代に、またある場所では人々にとっては忌み嫌われる事件を彷彿とさせた――特に日本中を震撼させた、翡翠の森事件は。
急行列車から見える車窓は、物凄く暗い。
その窓を見つめながら、鉄岡修一は自分の今までを振り返っていた。
寂しい明かりで照らされている車内に、修一以外にいるのはスカーフを巻いた女、大きな紙袋を抱えた男、新聞で時事を確かめている坊主だけである。
急行列車から何度もすれ違った列車はどれも満員だった。ひょうきんな顔の輩もいれば、そこでじっと窓を睨みつけている者もいる。中には何らかの笑い話をして談笑している家族もいた。
自分が今まで生きていた中で見つけたのは、結局は友人や家族に対する絶望と裏切りであった。中には友人の本性を知って、その友人とは疎遠となった事もある。
……そんな中での、逃亡だった。
売店はなぜか開いていた。
その偶然に驚きながらも、丁度腹が減った修一はすぐさま売店に駆け寄る。とはいえ最低限の飯と飲料を取り扱っている程度の品揃えであるが、それでも金を払えば、終点に着いた旅人の喉や空腹を癒すぐらいはできる。
中に入ると、気性の荒い蜥蜴の顔をした主人がこちらを睨んでいる。修一は蜥蜴主人の目線を無視して、その場にあった日の丸弁当に手を伸ばす。こうなるとお茶が欲しくなるが、そんな金も無い。仕方が無いので修一は弁当だけで我慢する事にした。
手に握られた弁当を、カウンターに置く。古ぼけて黄ばんだレジの表示が四百円を指した。その結果を踏まえ、修一は五百円を財布から出す。主人は相変わらず気難しい蜥蜴顔で五百円を受け取った。相当釣銭を払うのが不服のようだったが、仕方なく百円を修一の手に渡す。
売店の会話は一切無く、修一は釣銭の百円を財布に入れると、そのまま売店を出た。
――かつて見た町の賑やかな灯は消え、光は街灯が寂しく照らすだけであった。車も音楽も、そこには無かった。
代わりとしての光景は、飽きるほど静かな町の音であった。限りなく無音に最も近い音――そんな無音を何時までも貫き通す町に、修一の足は立っていた。今夜はここで一泊する予定であり、その宿泊先へ向かうバスを待っていたのだ。
宿泊地までは数分も掛かるな……そう思いながらも、彼はバスを待つ事にし、ベンチに座ると先ほど買った日の丸弁当を食べ始めた。蒼い星空の元で食べる日の丸弁当は食欲にも迫力にも欠け、冷や飯が恨めしく感じられる。梅干も、付き添いの塩漬けも、蒼い星空の下では何かが抜けた味だった。
弁当をある程度食べ進めてゆくと、次第に米の淡白な味が甘味へと変わってゆく。その甘味は修一を包もうとするが、すぐに修一は飲み込んだ。
やがて古ぼけたデザインのバスが来た。ドアが開く。そしてバスの光の中に、修一は溶け込んでいった……