王太子の婚約者
玉座が燃えている。
いくら豪華な装飾がなされていようとも、煌びやかな宝石を外した素は所詮木材だ。パチパチと小気味良い音を立て、赤い火が脚を舐めるように上へ上へと立ち昇っていく。
それはあの頃、私の手を引いてくれた彼の赤毛のように鮮烈で──そんな余裕は残されていないというのに、僅かの間でも目を奪われてしまうほどに美しく見えた。
◇
一体どこから間違えてしまったのだろう。私の婚約者であった王太子殿下が、どこぞで見初めた平民の少女に特別な寵愛を与え始めた頃だろうか。
それとも公爵家に生まれた私が側妃としてひっそりと城に入り、平民の少女が正妃として盛大な結婚式を挙げたあの日だろうか。
『殿下。未処理の書類が溜まっているようですが』
『ソフィア……! お前はいつもいつもそうやって……見ろ、シャーロットは今俺の子を孕んでいるのだぞ! こんな大事な時にそんなくだらぬことをやっている暇などないと分かるだろう!』
『そうはおっしゃられましても……妊娠なされているのは正妃様であって、殿下ではないと思いますが』
『──チッ、愛しい妻が苦しんでいる時に側にいてやるのが夫の役目というものだ! お前などには生涯分からぬことであろうがな……!』
ドスドスと騒がしい足音を立て、殿下と正妃様が去っていく。更に増えたらしい公務のことを思いながら、私は執務室へ戻るべく踵を返した。
周囲からはクスクスと嘲笑の声が聞こえる。幼い頃から未来の国母として、厳しい教育を受けてきた気位の高い公爵令嬢が。貧相な平民の女に負け、愛されることもなく、家庭教師のように地味な装いで指先をインクに染め雑務をこなしている。あのように色気もなければ、例え正妃様が懐妊中であっても殿下のお渡りはないであろうとか。もう三年経つのに子が出来ないのだから、そもそもが石女だったのだろうとか。
どこから間違えてしまったのだろう? 王家から下された婚約の命を、お父様はなんとか覆せないか苦心して下さった。毎日部屋で泣き暮らす私に、お兄様は優しく寄り添って下さった。
それでも最終的に決断したのは私自身だ。貴族に生まれた者の責務として、王命に反することなど出来ようもない。ハワード公爵家はこの国の筆頭貴族であり、戦争のない今の治世において私が王太子殿下の婚約者に収まるのが最も混乱が少ないのだと分かっている。分かっているからこそ、諦めるのが辛かったのだ。
何も知らず、ただ笑って領地を駆け回っていた幼い日。いつだって力強く私の手を引いてくれた彼に恋をしていなければ、これほど辛くなかったのだろうか?
初めて顔を合わせた婚約者の王子様は、私を見て嫌だ嫌だと大声を上げた。僕より背が高い女など嫌だ。髪の毛が真っ直ぐなのが嫌だ。母上に似ていないのが嫌だ。目がキツくて怖そうなのが嫌だ。こんな女と結婚するなんて嫌だ、と。
王は綺麗な女の子に照れたのだなと笑い、王妃は王子を優しく撫でながら貴方は私の巻き毛がお気に入りだものねと笑った。周囲の人々は元気な王子が可愛らしいと誉めそやし、静かに頭を下げたままの私へは満足気に頷いて見せた。庭園の地面の砂粒を、私がどんな思いで見つめていたかも知らないで。
王は貴族の未亡人から年端のいかない平民の少女まで、見境なく気に入った者を連れて来ては後宮に住まわせている。避妊はしているのか子が出来る様子はないらしいけれど、それでも片手では足りない数の女たちにかかる費用は並大抵のものではない。一方王妃はかなりの派手好きで、数日おきに商人や仕立て屋を呼びつけて膨大な量の買い物をする。その二人の子である私の婚約者は両親に比べると浪費額こそまだマシと言えるものの、入れ上げているふわふわ巻き毛の少女に婚約者予算から分不相応の贈り物をしたり、毎日市井におりてデートと称した散策を繰り返しているそうだ。付き合わされている護衛騎士たちの負担も相当なものだし、私の王妃教育と同様本来彼にも帝王学の時間がとられているはずだ。しかし勉強と名の付くものが押し並べて嫌いな性質で逃げ回った結果、彼が修めるべき分野も全て私に回ってくることになったのだった。
私は分刻みのスケジュールで行われる教育に忙しく、彼らと関わり合う機会もほとんどないのだけれど。時折開かれる茶会や夜会の場で顔を合わせる親切な他人がとても楽しそうにあれこれと情報を囀っていくのだ。そんなことよりも、王家が我が物顔で食い潰していく予算の方が重要であろうに。数年に一度訪れる天災によっておきる不作や、飢饉対策の方が喫緊の課題だというのに。
『あの子ったらまだまだ子供みたいで……男の子って本当にそういうところがあるのよね。ソフィアがしっかりしていてくれるから、本当に助かるわ。どうかあの子の分まで、サポートをお願いね』
豪奢な扇子で口元を隠し、王妃は目を細めてうふふと笑った。
◇
成人を迎えた私はいよいよ城へ住まいを移すことになる。珍しく婚約者の王子が迎えに出てきたと思ったら、彼の腕の中には最近夢中だと噂されていた平民の少女がすっぽりと収まっていて。
『そちらの方は?』
『ああ、彼女は俺の正妃になるシャーロットだ』
『正妃……ですか?』
『ハッ、まさかお前、自分こそが正妃になれるなどと思い上がっていたんじゃないだろうな? 俺の愛は彼女にのみ捧げられている。全く気乗りはしないが……長年教育にかけた資金もあることだし、お前も一応は側妃として娶ってやろう。まあ精々役に立つようしっかりと働くんだな』
口端を意地悪げに歪ませ、顎をしゃくるようにした婚約者の姿を見た瞬間に私の中の何かがぷつりと切れた音が聞こえた。
そんな彼の腕の中で長いまつ毛をしばたかせていた小柄な少女はやっぱりふわふわとした巻き毛で、未だ彼の好みは変わっていなかったということなのだろう。ピンク色のフリルが幾重にも重ねられたドレスのスカートを重そうにもたつかせ一歩前に進み出ると、彼女は見た目に沿わず豊かな胸元できゅっと両手を組み合わせた。
『ソフィア様、ごめんなさい! あたし、王子様のこと好きになっちゃって……。でも、彼はあたしと居る時が一番休まるんですって。だから、難しいお仕事はソフィア様にお願いして、あたしが彼のこと癒して差し上げたらいいんじゃないかなって二人で相談して決めたんです! やっぱり王様だって、ゆっくり出来る時間は必要だと思うし……』
大きな瞳をうるうるとさせ、手をひらひらと忙しなく動かしながら訴えかけてくる様子はまるで不出来な芝居を見ているかのようだった。
『シャーロット……! 君はやはり愛らしく優しい、唯一無二の俺の女神だ!』
『ん……、っん……好き、すき、大好き……!』
抱き合う二人は熱い口付けを交わし、合間に愛を語り合っている。やっぱりこれは安い芝居だったのだろうか。
その後私の執務室へ届けられた王命という名の紙切れには、王太子と正妃様の結婚式を恙無く差配するようにとの指示が書かれていた。側妃として、だ。
大聖堂の鐘が高らかに鳴り響いたその日、私は変わらず執務室で文官たちと共にインクで指を汚しながら書類をめくっていたことを覚えている。




