EP3 親が娘にしやがった件
(一)
ぎゅうぎゅうの地下鉄に揺られながら、東京二十三区の一つ・千代田区の自宅へ戻ったコーラは、心身ともにぐったりしていた。
頭の中は「なんで日本ってこんなに狭いくせに人が多いの!?」という疑問でいっぱいになり、うっかり乗り過ごしそうになる始末。
東京の地下鉄駅は中国本土の駅に比べると遥かに狭く、どこもかしこも閉塞感に満ちている。
改札はほとんど常時開いており、タッチによる改札通過はほぼ“自己申告制”。
監視役らしき職員はいるものの、この混雑の中で本当に全員見てるのかと疑いたくなるレベルだ。
エレベーター待ちなんてしていられなかった彼女は、ズボンの腰を片手で引っ張りながら階段を駆け上がり、そのまま駅を飛び出した。
今住んでいるのは駅から歩いて7〜8分ほどの場所。
もちろん、それは以前の身長と脚力の話で、今のこの短い足だと15分近くかかってしまった。
建物はタワー型のマンション。
月々の家賃は安くないが、すべて“ママ”が払ってくれている「基本生活費」に含まれているため、コーラ本人は気にしたこともない。
というか、月10万円以上の部屋に住まなかっただけでも、だいぶ良心的と言えるだろう。
なにしろ、コーラの家の経済力なら月10万なんて鼻くそレベル、月に100万払ったって水を撒くようなもんだ。
……まあ、それは“ママ”がその気になってくれればの話だが。
彼女が住んでいる部屋は小さい。
バスルームとミニキッチンを含めて、せいぜい15平米ほど。
一人暮らしならなんとかなる広さだが、異国から来た留学生にとってはなかなかに窮屈。
荷物は少ないはずなのに、帰宅するたびに「狭い……」とため息が出る。
「道も狭けりゃ家も狭い、こんなとこで一生暮らしてる日本人ってマジで気の毒……」
ぶつぶつ言いながら部屋のドアを開け、不釣り合いな大きなスリッパを玄関に蹴っ飛ばし、勢いよくドアを閉めてから、そのままベッドにダイブ!
ちっちゃな身体が“ボヨンボヨン”とベッドで跳ねて、小猫みたいにかわいらしく見えた。
「ああ……生き返る〜……」
コーラはごろんと寝返りを打ち、リモコンでクーラーを起動。
そして日本で買い替えたばかりのiPhoneで時間を確認すると、ぽいっと無造作にベッドサイドに放り投げた。
日本に来てスマホをiPhoneに変えたのは、Androidがこの国ではあまりにも不便だったからだ。
電車に乗るだけでもスマホで改札通れないし、使えない機能だらけ。
渋々iPhoneに買い替えたが、元のAndroid機は日本じゃ中古で売れもせず、今は引き出しでレトロゲーム機として余生を送っている。
「だめだ——」
目を閉じかけていたコーラは、もそっと起き上がり、汗でべたつく髪を振り乱しながら唸った。
「全身ベタベタ……やっぱシャワー浴びてから寝よう……昨日から一度も浴びてないし……」
合法な身分を取り戻したことで、ようやく精神的にも落ち着き、現状を冷静に見つめ直す余裕が出てきた。
なにかモヤモヤとした気分を抱えながら、コーラは明るく清潔で小さな窓付きの洗面所へと向かう。
鏡に映るのは、銀色の長い髪を汗でくっつかせた、どこか乱れた少女の姿。
真紅の瞳は宝石のように澄んでいて、整った顔立ちはわずかにベビーフェイス気味の可愛らしさを持っていた。
肌は白くてつるつる、傷一つない。
まさに“吹けば飛びそう”なレベルの陶器肌。
360度死角ゼロの美少女——
鏡を見つめながら、コーラは思わずニヤけた。
鏡の中の少女も、その笑みに応えるように無邪気な笑顔を浮かべ——その瞬間、我に返ったコーラは洗面台に突っ伏した。
「ちっくしょう! どストライクすぎんだろコレ! こんな彼女いたら、たとえ成金二世でも一生大事にするわ……くそっ、なんでだよ! なんで俺がこの姿なんだよ!!」
男だった頃、身長は190cm近くあった。
日本じゃまさに“歩くタワー”状態。
だけど顔はでかいし、鼻は低いし、肌も荒れ気味で、女子にモテる要素ゼロ。
彼女いない歴=年齢だった彼女(彼)は、いつだってこんな“理想の彼女”を夢見ていた。
でも今、その理想像が——
鏡の中にいるんだ。
“自分”として。
「血族になったことも、国籍を奪われたことも、百歩譲って我慢するけど……なんで女にならなきゃならないんだよ! 俺、まだ童貞だぞ!? じーさんよぉ、あんたそれでも心痛まないのか!? 天国行けねぇぞ!? ……いや、吸血鬼って天国行けんのか?」
大きくため息をついたあと、鏡をもう一度じっと見つめる。
赤い瞳——やっぱり綺麗。
怖いどころか、見惚れるほどの美しさ。
「コスプレイベント行ってもノーメイクで即参加できるな……」
コーラは舌打ちした。
見れば見るほどこの少女はかわいくて、心が痛くなる。
二次元オタクとしては、性転換モノや男の娘モノはもちろん網羅済み。
でもそれらを読むとき、いつも感情移入してたのは“主人公”じゃなく、主人公を落とそうとする“周囲のキャラ”だったんだよ!
もし、友達がこんなふうに女になっちゃったら——
絶対、からかったり、くすぐったり、あるいは……そのまま恋に落ちてみたかった。
なのに。
女になったのは、自分自身だった。
「……くっそじじい……お前の一族全員、男は全員女になれ……あ、ってそれ俺じゃん!!」
頭を抱えるコーラ。
「もー、どうでもいい……身体ベタベタなんだよ……とりあえずシャワーだ……」
すっかり投げやりになった顔で浴室に入り、シャワーヘッドを取ろうとして——
空振り。
見上げると、シャワーヘッドはとんでもなく高い位置に設置されていた。
爪先立ちしても、指先すら届かない。
「……え、前はこんな高かったっけ……?」
目をぱちくりしながら、記憶をたどる。
そういえば、前はシャワー中に頭が天井につきそうだったっけ。
今は、その天井がはるか彼方にあるように見える。
「絶対戻ってやる……じじいの遺書、全部読み直してやる……ワンチャン戻る方法書いてるかも……ああもう! 届かねえ!!」
銀髪の少女は何度もジャンプして、ようやく指先でシャワーに触れた——
が、その瞬間、足を滑らせて派手にすっ転んだ。
天井を見上げながら、コーラは銀の牙を食いしばる。
「じーさん……覚えてろよ。絶対、元に戻ってやるからな。俺の全部、取り返してやる!!」
……
(二)
清らかな水の音がシャワー室に響く。
身にまとうものをすべて脱ぎ去った血族のお嬢様——コーラは、ゆっくりと髪を洗っていた。
湯気に包まれながら、彼女はふと自分の体に視線を落とす。
少女らしい、ほどよくふくらんだ胸元と、引き締まっていながらも柔らかそうな腰つき。
小さな手がいつの間にか髪を離れ、すっとお腹のあたりへと滑っていた。
「……」
体が、内側からぽかぽかと熱くなっていく。
——無理もない。
だって彼女は、心はまだ処男なのだ。
そして今の姿は、まさに思春期真っ只中の花盛り。
こんなに完璧で魅力的な身体、反応しないほうがどうかしている。
病院に行くべきレベルだ。
なにより肌が、驚くほど柔らかい。
ふわっとした感触が、神経をくすぐるたびに、どこかうわの空になる。
ごくり。
唾を飲み込み、コーラの指は、まるで意思を持ったかのように——ゆっくりと下へと這い始めた。
「……ッ」
理性が警告を鳴らす。
やめろ、今ならまだ引き返せる、と。
だけどその理性を飲み込むように、欲望の火がどんどんと燃え広がっていく。
この肉体は、あまりにも甘美で。
あまりにも危険で。
——そして、あまりにも、抗えなかった。
水音は絶えず響き続ける。
シャワー室の曇ったガラスの向こうには、抜けるような青空が広がっていた。
……
(三)
それはまるで、冷蔵庫から取り出されたばかりのガラス瓶のコーラ。
くびれた美しいボトルの表面には、水滴がびっしりとついている。
小さな白い手が、瓶のくびれをなぞるように撫でていた。
水滴をぬぐおうとしているようで、なぜか触れれば触れるほど、水滴が次々と湧き出してくる。
瓶の中のコーラは最初静かだった。
だが、気泡が一つ、また一つと浮かび始め、やがて小さな泡が塊になっていく。
——ぷつ、ぷつ、ぷつぷつぷつぷつ……
瓶のフタはしっかりと閉じられていて、いくらコーラが暴れても、そこを突破することはできない。
それでも、中の気体と液体は膨れ上がっていく。
どんどん、どんどん、圧力が高まって……
ついに——瓶のフタがカタッと緩んだ。
次の瞬間——
「プシュッ!!」
弾けるような音とともに、炭酸が勢いよく吹き出した。
泡立つコーラは四方八方に飛び散り、床を濡らしていく。
手の持ち主は慌てて瓶の口を塞ごうとするが、コーラの勢いは止まらない。
指の隙間からすら、あふれ続ける。
そして——
ようやく一瓶分すべてが噴き出しきったそのとき、室内にはしばし、静寂が訪れた。
……
(四)
「はぁっ……はぁっ……」
シャワー室の床にぺたりと座り込んだコーラは、天井を見上げながら深く息をついた。
背中にはまだ微かに熱が残っており、床のタイルはどこかぬめっとしていた。
「……つかれた……」
呆けたように独りごちる。
もう何も考えられない。
頭の中は空っぽ。
体も力が抜けてしまって、立ち上がる気力さえない。
しばらくそのまま放心した後、ようやく気力を振り絞ってシャワーを再開。
一時間もかけてようやく風呂を終えた。
クーラーの冷風が心地よく肌を撫で、まるで体の内側まで洗い流されたような、そんな清々しさを感じた。
——まるで浄化されたかのように。
「色即是空、か……」
柔らかいベッドの上にだらりと横たわりながら、コーラはポツリとつぶやく。
今日の空は、いつもより白く澄んでいて、どこまでも青く感じられた。
ふと、ベッド脇のスマホに手を伸ばす。
チャットアプリのリストを開くまでもない。
一番上にあるあの名前——そう、彼女がママにつけた名前。
“太后”。
「また変なメッセージ送ってきてないだろうな……会社の社長なのに、いつまでたってもマーケティングのスパムに釣られてるし……」
呆れたように画面を見つめ、だらしない態度のままビデオ通話のボタンをぽちり。
——通話が繋がる直前、彼女は深呼吸をした。
「……もしもし?」
「もしもし!! ママ聞いてよ!! あのじじい、何しやがったんだよ! あのクソみたいな遺産のせいで、俺、女になっちまったんだぞ!? 元々190cmあったのに! 縮んだんだよ!? 全身がちんまりしちまったんだよ!? これ、精神的損害で一百万ドル……ううん、一千万ドルの補償要求するからな!」
ビデオ画面の向こうに現れたのは、若干の皺はあるものの、気品ある女性。
コーラの“ママ”だ。
彼女は手を組んで顎を支え、微笑とも皮肉ともとれる表情でじっと画面の中の娘を見つめ——そして言った。
「銀髪、赤い瞳……うん、間違いない。すべて、計画通りね。」
「はぁあああああ!?」