第6話 空玄
その夜、信長は屋敷に戻らなかった。
ひとを斬るでもなく、城を出るでもなく――ただ、蔵の戸を開けた。
「行くぞ、ハル」
そう言ったその顔は、怒っているようにも、何かを決めたようにも見えた。
ハルは何も言わなかった。ただ、頷いた。
夜道を、ふたりきりで歩く。
草の音、虫の声、風のにおい。
ハルはそれらを感じながら、信長の後ろをついていった。
「……わしは、わからなくなったのじゃ」
急に、信長がそう言った。振り返らずに、まっすぐ前を見たまま。
「人は、なぜ争うのか。奪い合うのか。正しいのは、強い者なのか。
それとも、ただ声が大きいだけの者なのか」
ハルは、信長の言葉の意味を全部理解してはいなかった。
でも、“ノブが困っている”ことだけは、よくわかった。
「……ノブ、わかんないとき、ある?」
「あるさ。あるから、こうして歩いておる」
森が開けると、小さな社が見えてきた。
その前に、ひとりの男が立っていた。
くたびれた法衣、長い髪、そしてこちらに向けられた、澄んだ眼差し。
「……おぬしら、夜更けにしては、妙に真っ直ぐな目をしとるのう」
男はそう言って、にやりと笑った。
それが――空玄との、最初の出会いだった。
「……おぬしら、夜更けにしては、妙に真っ直ぐな目をしとるのう」
そう言って男はあくび混じりに笑った。
白髪混じりの髪をゆるく結い、くたびれた僧衣の裾は草の露で濡れていた。
どこか頼りなげで、どこか底知れぬ。
その男は、信長とハルを見下ろすように、だが敵意なく立っていた。
「何者だ、おぬし」
信長が鋭く言い放つと、男は肩をすくめて応えた。
「名乗るほどの者でもないが……まぁ、坊主だ。名は空玄。
このあたりの神も仏も捨てられたような社を、ちょろちょろ掃除しとる」
「坊主……にしては、あまり拝まれそうにない面構えじゃな」
「ありがたいことに、拝まれたくもないでな。
世に祈ろうが祈るまいが、戦は起こる。誰かの首が転がれば、誰かが酒を呑む。
そんな国じゃ。つまらぬ」
信長は、空玄の目をじっと見た。
投げやりな言葉の奥に、どこか鋭い光を感じたからだ。
「――おぬしは、なぜこの場に立っていた?」
「見張ってたのさ。人間と鬼、どっちが先に倒れるかとな。
……ほれ、そこの子。赤い瞳が目立ってしょうがない」
ハルは空玄の視線にびくりと肩をすくめた。
信長が前に出る。
「こやつは鬼ではない。ただ、髪と瞳が人と違うだけじゃ」
「ふむ。そりゃまた、立派な“理由”だな。
人は違うものを見つけると、まず囲んで、石を投げる。
焼いたり、封じたり、なかったことにしたがる。
坊主の身から見ても、業の深い生き物だよ、人間ってのは」
空玄はぼりぼりと頭をかき、境内の丸太に腰を下ろした。
「それでもな――時々、おぬしみたいな変わり者が現れる。
鬼に手を伸ばして、怒られて、嫌われて、それでも諦めん奴が」
信長は言葉を返さなかった。
その沈黙を察したように、空玄は笑う。
「怒ったか? でもまぁ、わしからすればのう――
“争いのない世をつくる”なんてことを真顔で言うやつが、
いちばんタチが悪いと思っとる」
信長の目が細くなった。
「誰も、そんなことは……」
だが言いかけて、やめた。
ハルが、そっと袖を引いた。
「ノブ……おなか、すいた」
その声に、空玄が目を細めた。
「……ほれ、火はある。腹が減っていては、世も語れぬ」
空玄は立ち上がり、囲炉裏に火をくべ始めた。
静かな夜の中に、ぱちぱちと薪が爆ぜる音だけが響く。
信長はその火を見つめながら、ふと、自分の中で何かがくすぶり始めているのを感じた。