第5話 争いの理由
蔵の中。
夜の静けさの中で、焚いた小さな灯りが、揺れる影を壁に落としていた。
信長は、ぼろ布の上に座るハルの隣で、静かに膝を抱えていた。
ハルの肩や頬には包帯が巻かれている。信長が、手ずから巻いたものだった。
しばらく、ふたりは何も話さなかった。
けれどその沈黙は、冷たいものではなかった。
やがて、ぽつりとハルが言った。
「……ぼく、なにか……わるい、こと……したのか」
信長は少しだけ目を伏せたあと、ゆっくりと答えた。
「……しておらぬ。おぬしは、ただそこにいただけじゃ」
ハルはまた、ぽつりとつぶやいた。
「でも……みんな、こわい顔して……石を、ぶつけた……」
信長は火の明かりを見つめながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「人というものはな……“自分と違うもの”を見ると、まず恐れるのじゃ。
肌の色でも、言葉でも、目の色でも、髪の色でも……違うだけで、敵に見える。
知らぬものに手を伸ばすのは勇気がいるが、刃を向けるのは容易い。
弱き者ほど、先に石を投げる。怖さをごまかすためにのう」
ハルは信長の横顔を見つめていた。
その目は、言葉の意味をすべて理解してはいなかったが、何か大切なことを語っていると感じていた。
「……でも、ノブは、ぼくを……おこらなかった」
信長は少しだけ笑った。
「わしは怖くなどなかった。おぬしの瞳を見て、きれいじゃと思うたのじゃ」
ハルの赤い瞳が、灯りに照らされて静かに揺れる。
そして、小さく震える声で、ハルが言った。
「……ノブ。なんで……人は争うの?」
信長の表情が、すっと静まった。
どこか、遠くを見るような目をしていた。
しばらくの沈黙のあと――彼は低く、しかしはっきりと答えた。
「……奪うためじゃ。地も、金も、名も、命も。力ある者が、弱き者を支配する。
それが世の“理”じゃ。わしも、それを疑ったことはなかった」
ハルは小さく首をかしげた。
「でも……ノブは、ぼくを……たすけてくれた」
信長は、今度はまっすぐにハルを見つめた。
「そうじゃな。わしは――たしかに、助けた。……理由は、まだよう分からぬ。
だがのう、ハル。おぬしが今日、石を投げられてまで、なにも言い返さず……
それでも泣きながら、“なにもしない”と訴えていた姿を見て……」
信長は、手を強く握りしめた。
「この世は、何かが間違っておる気がしたのじゃ」
ハルは、何も言わなかった。ただ、そっと信長の袖に手を添えた。
その夜、ハルは夢を見なかった。
初めて、安心して眠れた夜だった。