第3話 蔵の中の晩餐
ハルに与えられた寝場所は、屋敷の奥にある小さな古蔵だった。
薄暗くて冷たくて、壁には古びた壺や割れた道具が並んでいた。
人の気配も、ぬくもりも、そこにはなかった。
信長が「ここで暮らせ」と言ったのではなかった。
家臣たちが勝手に決め、誰も抗う者はいなかった。
ハルは何も言わなかった。ただ、蔵の片隅にちょこんと座り込み、じっとしていた。
誰かが通る足音がすると、身体をぎゅっと縮めて息を潜める。
食事も、誰も持ってこない。水も、声もない。
――ひもじい。
でも、それを口に出すことはできなかった。
この世界では、言葉を持たない者は、生きることすら許されない。
けれど、それでも。信長の手のぬくもりだけは、たしかに覚えていた。
*
その夜――。
蔵の戸が、きい、と軋んで開いた。
差し込んできた明かりの中に、見慣れた影が立っていた。
「おるな、ハル」
信長だった。片手に、小さな木の盆を持っている。
その上には湯気の立つ椀と、おにぎりが二つ。
その香りに、ハルのお腹が、きゅう、と鳴った。
信長は口元だけ笑って、盆をそのまま床に置いた。
「食え。湯が冷めぬうちにな」
ハルは、戸口から一歩も動かないまま、ちらりと盆を見た。
そして、信長の顔を見た。
疑っているわけではない。ただ、どうしていいかわからなかった。
「……わしの分もあるゆえ、心配いらぬ。毒など、盛っておらんぞ」
そう言って、信長はその場に座り込むと、自分のおにぎりを一つかじった。
それを見て、ようやくハルがそろそろと歩み寄る。
小さな手が、熱を持った椀に触れたとき、ほんの少し震えていた。
一口、口に運んで――目を見開いた。
それは、ちゃんと温かかった。ちゃんと、おいしかった。
ふいに、瞳に涙がにじむ。
「なんじゃ、熱かったか?」
信長が首をかしげた。
ハルはぶんぶんと首を振り、懸命におにぎりを頬張る。
言葉にならない。けれど、きっとそれでも伝わっていた。
信長は、しばらくその様子を見ていたが、ふと静かに呟いた。
「この世は、争いで成り立っておる。強き者が奪い、弱き者は奪われる。
――わしは、そのてっぺんを取る。それが武家の理というものじゃ」
その言葉の意味を、ハルがどこまで理解したかは分からない。
けれど、彼はその夜、誰よりもおいしい飯を食べて、初めて少しだけ安らかな顔で眠った。