第20話 言葉は剣か盾か
その夜、信長はいつもより遅く執務を終え、廊下を静かに歩いていた。
廊の向こう、座敷の縁にぽつんと腰かける影がある。
すっかり見慣れた後ろ姿だったが、今日はどこか違って見えた。
「……今宵は、飯を食わぬのか?」
声をかけると、ハルの肩がぴくりと動いた。
振り返る顔には笑みはなく、影が濃く差していた。
「……なんか、今日は喉が通んねぇや」
信長はすぐそばまで歩み寄ると、隣に座った。
春の夜はまだ少し冷えていたが、空気は澄んでいた。
「また、何かあったのか」
ハルはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……助けたのに、怒鳴られた。怖がられて……睨まれて。
おれ、やっぱり、ここの人間じゃねぇんだって思った」
信長は腕を組んだまま、宙を見つめていた。
夜風が廊下を抜け、竹の葉がさらりと音を立てる。
「人は、自分と違うものを恐れる。
それは弱さでもあるし、防衛でもある。
だが、その恐れを言葉にしてしまえば――それは、剣となる」
ハルはゆっくりと信長を見上げた。
「じゃあさ。おれの言葉は、なんになる?
守ろうとしたそれも、剣だった?」
「違う。おぬしの言葉は――盾じゃ」
信長の声には、一切の迷いがなかった。
「誰かを守りたくて発した言葉は、斬るための剣にはならん。
それは、傷つけられた者の前に立ち、風を防ぐ盾じゃ」
ハルは唇を噛んだ。
何も言えなかったが、その目がわずかに揺れた。
「言葉は剣に勝つか――わしも、よう考える。
だがなハル、わしは信じておる。
この世を動かすのは力ではなく、願いと、そのために発される“言葉”じゃと」
ふと、信長が立ち上がった。
「腹が減っておるのなら、台所へ行け。婆も、きっと待っておる」
ハルはゆっくりと立ち上がり、信長の後ろを歩く。
赤い瞳はまだ戸惑いの色を帯びていたが、歩みは確かだった。
――言葉で傷つけられるのなら、言葉で守る。
そう思えたのは、この夜が初めてだった。




