第18話 うつけと鬼子《おにご》
那古野の町に、風が立っていた。
それは春の風ではなく、どこか冷たく、ざわめきとともに吹き抜ける風だった。
「うつけ、じゃと……?」
信長は家臣たちが去ったあとの座敷で、湯飲みを静かに置いた。
その目には怒りも焦りもなかった。ただ、ほんの少しだけ苦いものが宿っていた。
「わしが民の話を聞いたことが、そんなにおかしいか。
戦をせぬで済ませたいと言うたことが、戯れに聞こえるのか……」
政の場では、古き家中の者たちが口をそろえて反発していた。
若き主君が戦を嫌うなど、笑止千万と。情けをかけるとは女のすることと。
廊下の影から、ひょこっと顔を出した影がある。
「のぶながー。……また怒られてたのか?」
振り返れば、そこにいたのはハルだった。
いつもの赤い瞳は相変わらずどこかぼんやりしているが、口元にはにやりとした悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「わしは怒られたわけではない。聞かれたことに答え、わしの思う道を示したまでじゃ」
「ふーん。なんか、また『人の道』とか言ったんだろ。爺さんたち、頭かたーいしな」
「ハル、おぬしな……口が悪くなっておるぞ」
「へへ。のぶながに似たのかもな」
ハルは肩をすくめて、部屋の敷居に腰かけた。
裾を引きずるようにして座る様子は、以前よりも少し“人間らしく”なった。
だが、その背中はどこか気配を薄くしており、城の空気になじめていないことが伝わってくる。
「……さっき、台所の婆さんに“化け物のくせに食うな”って言われた」
声は小さかったが、笑いながら言おうとしていたのがわかった。
信長は黙って、湯飲みをもうひとつ取り出し、少しだけ茶を注いで渡す。
「それで、どうした?」
「んー……ちょっと怒鳴り返しそうになったけど、
“化け物だったら人を食うんじゃねぇの?”って、皮肉で返してやった」
信長はぷっと吹き出しかけたが、こらえて口元を引き結んだ。
「……それでこそ、ハルじゃな」
「えへん。……ばあさんのビビった顔、ちょっと面白かったぞ。
でもさ、あのばあさん、いつもなんだかんだ飯をくれる優しいやつなんだよな」
次の瞬間、ハルの目が少しだけ陰る。
「でも、まわりのやつら……こそこそ言ってんの、わかる。
ぼくのこと、“いつか何か起こす”って。……きもち悪いって」
信長はしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で言った。
「わしは、おぬしがいてくれて良かったと思っておる。
何を言われようとも、その想いは変わらん」
ハルは少し目をそらして、頬をかいた。
「そういうの……急に言うなよ。まじで、照れるだろ」
その横顔には、やはりどこか子どものような影が差していた。
強がりを装う笑顔の奥に、小さな不安と孤独が、静かに息を潜めている。
城の外では、春の雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
その音は、二人の間の静けさに、そっと染み入っていくようだった。




