第1話 紅き瞳の子
春の風が、尾張の山をそっとなでていた。
木の枝先にはちいさな若葉が顔を出し、冬の名残を押しのけるように、陽の光が地面を照らしている。
だけど、その穏やかな風景の中を歩く少年の足取りは、どこか不機嫌そうだった。
「……退屈じゃな。狩りというなら、もっと面白いものを見せてみい」
織田信長、十歳。
尾張の国を治める織田家の嫡男。けれど周りの者たちは彼を「うつけ」と呼び、誰も真っ直ぐには目を合わせようとしない。
それでも彼は気にせず、森の奥へずんずんと足を進める。
「若……これ以上奥へ行かれましては……!」
後ろから心配そうな声がかかったが、信長は振り返らない。
木々のざわめきと、鳥の鳴き声。自然の音にまぎれて、小さく――誰かが泣いているような声が聞こえた。
「……今の、泣き声か?」
信長は足を止め、耳をすませた。
かすかに、くぐもったようなすすり泣きが風に乗ってくる。
声のする方へ、信長は迷わず歩き出した。
低い草をかきわけ、薄暗い木陰を抜けたその先に――それは、いた。
小さな子ども。
裸足で、服は破れて汚れていた。髪は春の花みたいに薄い桃色で、ひざを抱えて、うずくまっていた。
そして、その子が顔を上げたとき――信長は目を奪われた。
目が、赤い。
真っ赤で、だけどどこか透き通っている。悲しみをたくさん吸いこんだような、そんな色だった。
「おい、そこの――」
声をかけかけたところで、子どもがびくっと震えた。
顔をこわばらせ、まるで逃げ場を探すように、きょろきょろと辺りを見回している。
「な、なんだあれは……!」
後ろから追いついてきた従者が、青ざめた声をあげた。
「鬼の子だ……! 鬼の血を引く者だって、昔の話にあった……!」
刀を抜こうとする気配。だが次の瞬間――
「やめい。殺すでない!」
信長が、低い声で言った。
従者の手を掴み、強く睨みつける。
「こやつは、わしが拾った。どうしても殺したければ、まずわしを斬ってからにせい」
その言葉に、従者は息を飲んで動けなくなった。
信長は子どもにゆっくりと近づき、しゃがみ込んで目線を合わせる。
子どもはまだ怯えていたけれど、信長の目をじっと見つめ返していた。
「名は……ないのか?」
子どもは首をかしげるだけで、何も言わない。
しばらく考えたあと、信長はぽつりとつぶやいた。
「春みたいな髪じゃな。よい、ハルと呼ぶとしよう」
子どもが、小さく口を開いた。
「……ハル……?」
初めて聞いたその声は、かすれていたけれど、しっかりと耳に届いた。
この物語は、織田信長と、一人の“鬼の子”ハルが共に歩んでいく、戦国異聞の物語です。
信長というと、「第六天魔王」と呼ばれる冷酷なイメージが先行しがちですが、
本作では“争いのない世をつくろうとする者”としての彼の姿を描いていきます。
一方、もう一人の主人公・ハルは、人のようで人ではなく、それでも人になろうとする少年。
言葉を覚え、心を揺らしながら、「信じたい」という想いで信長と絆を育んでいきます。
歴史に名を残す人間と、名前すら持たなかった存在。
交わるはずのなかったふたりが、なぜ「共に罪を背負う」のか――
その理由を、少しずつ紐解いていけたらと思います。
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