第13話 紅の契り
火の村の空が、重く沈んでいた。
灰色の雲が垂れこめ、空気にぬめるような圧が満ちている。
空玄の寺に戻った信長は、ハルの寝顔を静かに見守っていた。
薫の話では、あれからずっと、人目を避けて物陰で震えていたという。
「……わしが、“あやつを守る”言うたのに、
あやつの方が、先に人を守ったわ」
信長の呟きに、背後で空玄が煙管を鳴らした。
「ふふん……守った、というよりは、“咄嗟に咆えた”という方が近かろう。
だが、そういう直感の火種は、やがて芯になる」
「芯……か」
信長は火のように赤い瞳を見た。
「ならば、わしは薪となろう。
あやつの火が、世を照らす光となるように」
その夜。
再び火の村が、揺れた。
残党と思われる野盗たちが、仲間の仇を討つと称して村を襲撃したのだ。
村の防人はわずか。大人たちも、焚き火を囲む子どもたちも、逃げ惑う。
「火をつけろ! 家ごと焼き払え!」
「子どもも女も構うな! 見せしめだ!」
信長が叫ぶ。
「皆、逃げろ! わしが前に立つ!」
刃を抜き、最前に立つ信長の姿を見て、村人たちは一瞬立ち止まる。
その目に映るのは、鬼よりも猛き“若き炎”だった。
「一人では無理――!」
薫が叫んだ、そのとき。
村のはずれから、風が吹いた。
ぞっとするような、冷たい風だった。
「やめて、って言ったのに……また、くる……また……」
小さな足音。
小屋の陰から、ハルが現れた。
赤い瞳が、泣いていた。
「また、こわがらせる……でも、でも……」
その小さな身体が、信長の横に立った。
野盗たちがざわめく。
「なんだ、あれは」「子ども……か?」「ちがう、あいつは……!」
ハルの声が震えていた。
「やめて、もう、だれも……こわがらせないで……!」
地が鳴った。
空が揺れた。
地面が割れ、野盗の足元が崩れる。
木々《きぎ》がざわめき、風が叫びのように吹き荒れる。
「やはり……鬼か!」
誰かが叫んだ。
ハルの周囲に、紅い光の残像が舞う。
その中心に立つのは、怯えてもなお、前に出た一人の子どもだった。
だが――
その手を、握る者がいた。
「おぬしの罪は、わしが共に背負う。
おぬしの炎は、わしが包む」
信長だった。
その手は、剣ではなく――ハルの手を、しっかりと握っていた。
「いいか、ハル。もう一人ではないぞ。
怖いなら、怖いままで進めばよい。
わしが傍にいる。何があろうと、わしがおぬしを“鬼”にはせん」
ハルの肩が、震えていた。
けれど、その手を――離さなかった。
次の瞬間、二人の前にいた野盗たちは、烈風に巻かれ、吹き飛ばされた。
残った者たちは、恐怖に駆られて逃げ出した。
戦いは、終わった。
村人たちは、ただ黙ってそれを見ていた。
誰も、声を上げなかった。
誰も、近づかなかった。
だが――誰も、石を投げなかった。
焚き火のそばで、薫がひとり、泣いていた。
「ごめん……ありがとう……」
信長はハルを見つめた。
その小さな手は震えていた。
だが、逃げることも、目を逸らすこともなかった。
「ハル」
信長は、自らの懐から短刀を抜いた。
「わしとおぬしの契りは、もう言葉だけでは足りぬ。
これより、血をもって証とする」
ハルは目を丸くした。
「ち……?」
「怖くはない。すぐに終わる」
信長は左手の親指を刀の刃でかすめた。
血が、一滴、にじむ。
続けて、ハルの手を取る。
「痛いかもしれぬ。だが、痛みを知るからこそ、人は契れる」
ハルは小さく首を振り、自ら親指を差し出した。
信長はその指にも、慎重に刃先を当てる。
小さな赤が浮かび上がった。
そして、二人の血を――重ねる。
ぴたりと、親指同士を合わせた。
赤と赤が、滲んで混じる。
血潮が交わったその瞬間――風が止み、空が静まった。
「これが、わしとおぬしの――紅の契りじゃ」
ハルの目が、ゆっくりと潤む。
けれども、それは泣くためではなかった。
瞳の奥に、静かに火が灯った。
それは恐れではない、憎しみでもない。
ただ――初めて知った、“自分が誰かと繋がった”という、安らぎの色だった。
村の子どもたちは、それをただ、見つめていた。
大人たちも、誰一人、声を上げなかった。
やがて、空の片隅に、一つだけ星が現れた。
信長とハルの契りは、血の契り。
人と鬼を隔てていた境界が、ひとつ、崩れ落ちた夜だった。




