第12話 父の影
尾張・那古野城。
信長が戻ったのは、村での出来事から三日後のことだった。
空玄にハルを託し、ひとり馬を駆って故郷へと向かった。
迎えに出たのは、帰蝶だった。
風に揺れる薄紅の小袖。
凛とした目元に、どこか疲れを滲ませている。
「……久しぶりじゃな、帰蝶」
「無事に帰っただけでも、褒めて差し上げましょうか。
父上があなたを呼び戻したのは、“情”ではありません」
「承知しておる。“躾”の方じゃろう?」
城の奥。
信長は、父・織田信秀の居室へと通された。
その部屋は以前よりやや暗く、香の煙がうっすらと漂っていた。
だが、信秀の姿は――衰えてはいなかった。
鋭い目。背筋の伸びた座姿。
病を患っているという噂とは裏腹に、強者の気配は健在だった。
「来たか、小僧」
「ようやく、わしの顔が恋しくなったかと思うた」
信長の皮肉に、信秀は鼻で笑う。
「おまえの顔は、尾張の領民どころか、諸国の噂にまで響いておるわ。
“鬼を連れ歩く若武者”、とな」
重たい空気が、父子の間に立ち込める。
二人の男が交わすのは、情ではなく――政治と、戦と、理想。
「民の顔を見て、涙を流すような者に、国は治められぬぞ」
「わしは泣かぬ。ただ、声を聞く。
怒号ではなく、嘆きでもなく……ほんの小さな、願いの声をな」
信秀の眼が鋭く光った。
「ぬるい。甘い。そんな“祈り”で、何が変えられる」
「血で得て、血で支配してきた者には、見えぬ道もあろう」
ぴたり、と空気が凍った。
信長の言葉は、刃よりも冷たかった。
だがそこに込められていたのは、怒りではなく――静かな決意だった。
「わしは、力を持つ。戦もする。
だがそれは、誰かの命を繋ぐため。
わし自身が“鬼”になろうと――その果てに、争いのない世があるのなら」
信秀は、表情を崩さずこう返した。
「ならばせいぜい、理想の火で己れを焼くがよい。
この世で一番哀れなのは、“信じるものを守れぬ男”だ」
信長はうっすらと笑みを浮かべる。
「安心召されよ。わしは、焼かれようとも守るつもりじゃ。
――父上。道は違えど、わしは貴殿の背を見て育ったのだ」
そう言って、信長は背を向けた。
信秀は追わず、ただ一言もなく煙管に火を入れる。
その煙の香りは、戦のにおいがした。
だが、信長の背中から立ち上る気配は――それとは異なる、
燃え広がるような“契り”の炎だった。




