第9話 六天ノ契
夜、寺の裏庭。
静まり返った境内に、焚き火の小さな炎だけが揺れていた。
空玄はいつものように粗末な木椅子に腰を下ろし、煙管に火をつける。
信長はその向かいに立ち、火のゆらぎ越しに、黙ってその横顔を見ていた。
「……“第六天魔王”とは、なんの比喩じゃ」
問うようで、探るような声だった。
空玄は軽く息を吐き、紫煙を宙へ解きながら言う。
「仏教ではな、人の欲望の最奥――欲界のてっぺんに棲む王の名だ。
争いを好み、人の心に憎しみと渇きを植え付ける……そう言われておる」
「では、あやつの力は“欲”そのものか」
「さあな。ただ……あやつが振るったのは、“生きたい”というただの祈りだ。
誰にも斬らせたくない、誰にも見捨てられたくない、ただそれだけの叫びじゃ」
火が、ぱち、と爆ぜた。
信長はその音に一度だけ目を伏せ、それから静かに口を開いた。
「……わしは、何者になるのかのう」
「なんじゃ、いきなり」
「このまま進めば、憎しみの中で生きることになるやもしれん。
人を斬り、民を従え、敵を蹴落とす。
その果てに、何が残るのか……わからぬ」
空玄は煙管を膝に置き、真っすぐに信長を見た。
「それでも、あやつの目を裏切りたくないのだろう?」
言葉に詰まりそうになる感情を、信長は喉の奥で押しとどめた。
拳を握り、炎をじっと見据える。
「……わしは、戦を知っておる。力を示さねば、誰もついてこん。
だが、あやつを守るには、その力の先に“争いの終わり”を見ねばならぬ」
「ほう……それはまた、ずいぶんと厄介な道を選ぶものよ」
空玄の目が、ほんの少し細められる。
そこにあるのは、嘲りではなかった。
「この世から争いをなくすなど――狂気の理想だと笑われるぞ」
「笑えばよい。……わしは本気じゃ。
たとえ、最後にこの身を焼かれようとも」
そのとき、背後からそっと現れた小さな影が、信長の裾をつまんだ。
「……ノブ……おれ……ごめん」
ハルだった。
怯えた顔で、うつむいたまま小さく震えている。
「おぬしが謝ることなど、何もない」
信長はすぐにそう言って、片膝をつき、ハルと目線を合わせた。
「なあ、ハル。わしがこの世の“間違い”をすべて引き受けたら……
その先に、“間違いのない世界”が作れると思うか?」
ハルは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりとつぶやく。
「……ノブ、つくれる。……ノブ、やさしいから」
その言葉に、信長の胸が熱くなる。
空玄はそれを見て、ふっと小さく笑った。
「……ならば、おぬしの道に名をつけてやろうか」
「名?」
「“六天ノ契”。地獄の果てに咲く、ただ一つの約束。
仏を超えて、鬼と共にある道じゃ。ぴったりだろう?」
信長は立ち上がり、夜空を見上げた。
星ひとつない、墨のような闇だった。
だが、闇の中を進む覚悟は、すでに胸の奥で燃えていた。
――この世の憎しみを、すべてこの手に集めよう。
争いのない世をつくるなんて、本気で言うから。
共に罪を背負う、それがわしの“契り”じゃ。




