第0話 ――本能寺にて
火が、静かに燃えていた。
その炎はまだ、誰の命も呑んではいなかった。
だが、信長にはわかっていた。
――これは、終わりを告げる火だと。
「……ほんとに、逃げないのか?」
背後からかけられた声。
その響きは、十にも満たぬ日々に出会った、あの日のままだ。
「逃げぬ。これは、わしが望んで選んだ夜じゃ」
信長は振り返らずに言う。
「でも……死ぬんだろ。争いのない世をつくるんじゃなかったのかよ」
言葉に怒気はない。ただ、痛みのにじんだ静けさがある。
それを背中で受け止めながら、信長はほんの少し笑った。
「わしでは成せぬ。わしは、この世の憎しみを引き受ける器でしかなかったのだ」
「そんなの……ずるいよ」
信長はその言葉を受け止めるように、静かに目を伏せた。
「物語は、ここで終わらせぬ」
足元に、火の粉が落ちる。
信長はゆっくりと振り返り、赤い瞳の少年――いや、もはや青年と呼ぶべきその姿を見つめた。
「この先を、見届けてくれ。わしの志が、ただの妄執だったのか。それとも、わしの歩んだ道が、間違いでなかったのかを」
ハルは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと首を縦にふる。
その瞳に映る火は、悲しみではなかった。憎しみでもない。
――それは、静かに灯された意志の光だった。
信長は最後にそっと目を閉じる。
そして、物語は、あの日へと還る。
――三十七年前。あの赤い瞳と、出会った日のことから。