黒い手は幸せを握っている
アシュアは呪われた子だった。
七つの時に手が黒く染まり、触れたものが灰に変わるようになったのだ。
温かいパン、銀の皿、絹のドレス、解呪の魔法具。
どんなものでも、アシュアが触れれば全て灰に変わる。
生き物と石だけは灰にならなかったが、触れられただけでなにもかもを灰にする娘に誰が触れたいと思うだろう。
魔術国家の貴族であったアシュアの家族は驚き、あらゆる方法で解決を試みたが、上手くいかない。
あらゆる奇跡を人間が行使することに重きをおくその国で、悪しき現象の解析も消去もできないと世間に知られれば、評判は地に落ちる。
かといって原因も分からぬまま殺せば、被害が拡散する恐れもある。
アシュアは表向き死んだとされ、石で作られた、日すら差さない地下牢に閉じ込められることになった。
――――――
それから数年、アシュアはずっと地下で暮らした。
話し相手はいない。
牢は地下水脈から引いた水を流すだけの小さな水路と、アシュアの身長の何倍もある天井についた蓋の他には窓もなく、食事は天井から固いパンを投げ込まれるだけ。暗闇の中では白いはずの己の腹すら満足に見えない。
パン以外のものが投げ込まれることもある。嫌な臭いのする泥や、腐臭を発する肉や、禍々しい気配をした壊れた魔道具など、世間ではゴミと言われるものだ。
アシュアもゴミが自分の側にあるのは我慢ができないので、意を決して自分の手で触れ、灰に変える。触った時に臭いや感触に気分が悪くなるが、灰になってしまえばそれも全てなくなる。
増えた灰はアシュアの寝床になったが、邪魔になれば水路に流した。水路は小さいが流れが早く、灰程度ならいくら流しても詰まらない。
が、しばらくすると量が増えた。
硬いもの、汚いもの、禍々しいもの。嫌なものが放り込まれる回数も一回の量も増えたのだ。
投げ込まれるものだけで生き埋めにされてしまうとアシュアが恐怖するほどだった。
アシュアはそれらを全部灰にした。
彼女は死にたくなかった。
アシュアは持ち物が全て灰と化し、裸で獣のように飼い殺しにされていても「もう一度外を歩きたい」と願っていた。
だから全てを灰に変え、溢れるほどの灰を水路に捨てて埋もれないように掃除し、落とされるパンを口と足で食いちぎって生き続けた。
それに慣れてきた頃には、幼い頃に貴族令嬢として培ってきたものなど、すっかり忘れ去っていた。
―――
それから更に数年が経ってある日、アシュアは天井の方が騒がしいことに気づいた。
パン以外のものが落ちてくる時は大抵騒がしくなるものだが、それを上回るほどに人の足音や声が響いている。頑丈な石造りの壁が揺れ、小石がぽふりと積もった灰に落ちる。
――天井が抜けたらお外が見えないかしら。でもそうなったら、わたし、つぶれて死んじゃうかしら。……その前に、お外が見れたらな。
以前より擦り切れた憧れを胸に、アシュアは石壁に身を寄せて縮こまる。
しばらくして、不意に天井の蓋が開いた。
「隊長! 発見いたしました! 灰の穴です!」
「公爵にお伝えしろ! おい! 中に誰かいないか!」
「明かりを降ろしますか?」
「いかん! 魔道具の廃棄場になっていたんだ。火を入れてどんな反応をするかわからん! おおい! 誰かいないか!」
初めて穴の中に呼びかけられて、アシュアは弾かれるように立ち上がった。
その勢いでふらつきながらも、穴の下を目指す。
だが、穴は小さく、地下牢は深く、差し込む光はあまりに微弱だった。
「誰かいないか! 我らは助けにきたのだ!」
穴の下のアシュアには気づかず、男は呼びかけを続けた。
柔らかな灰は裸足の足音など吸い込んでしまう。何年も声を出さなかった喉は錆びついて音を発せなくなっている。
アシュアはどうしても見つけてもらわなければならないのに、相手は自分が見えない。
――ここにいるわ! 見つけて! お願い見つけて!
もし見つけてもらえなかったら、本当に二度と出られないかもしれない。
恐ろしさに身体は震えるのに、喉はひくとも動かない。
焦れば焦るほど時間だけが無意味に過ぎる。
今にも蓋が閉められてしまうと感じる。
与えられた希望を奪われる未来を幻視し、精神すら軋み始めたアシュアを、ぱん、と乾いた音が現実に引き戻した。
穴に、人影の横から両手を出して、音を出したものがいた。
「中に誰かいるなら、このように手を打つんだ。足でもいい。体の何処かでもいい。手で打ちなさい」
アシュアは咄嗟に両手を打った。
痩せ細って力も肉もない手では出された音の半分も響かない音量しかないが、ぺち、と皮膚を持った人間でないと出せない音がした。
「よかった」
優しい声が降ってきた。
「すぐに縄を用意いたします!」
「それと女兵と石紬の衣だ。本当に神託の子でこのような扱いなら、服も朽ちているだろう」
やがて、縄を握って、白いワンピースを着て穢れよけの石の首飾りをした女が降りてくる。
女は素っ裸で全身灰にまみれたアシュアに絶句したが、すぐに我に返って持たされた衣を広げた。
「貴方様の衣です。お召しください」
それは、女が着ているのと同じようなデザインのワンピースだ。
自分が触れれば灰になってしまう、とアシュアは手を引っ込めて拒もうとしたが、女がその手を取って服を握らせる方が早かった。
服は、灰にはならなかった。
「ご安心ください。これも、私が着ているものも、貴方様の力では灰になりません」
「……」
「外に出るのに裸ではいけません。お召しください」
アシュアには「お召しください」の意味は分からなかったが、それ以外をまだ理解できるだけの知識は残っていた。
――外に出られる。
アシュアはおそるおそるもう一度衣に触れ、それから女に手伝われながら服を着る。
「縄で引き上げさせます。こちらへ来てください」
女は言う通りにしたアシュアを「失礼します」と抱き上げる。
あまりに軽すぎる体に女は息を呑んだが、アシュアは久々に感じる人の温もりと、外に出られるという興奮で気づきもしない。
そのまま二人は外へと引き上げられた。
―――
アシュアにとって、数年ぶりの世界は衝撃的なものだった。
眩しい。
何年もの闇は彼女の瞳から光への耐性をすっかり奪っており、アシュアは最初目を刺されたのだと思って、言葉にもならない悲鳴をあげて暴れた。
慌てた周りが医者を呼び、魔術師を呼び、遮光の魔術をかけて、ようやく余裕ができる。
アシュアを抱き上げた女が優しく話しかけた。
「他に、痛いところや、苦しいところはありますか?」
アシュアは首を振った。それが否定を示すこともまだ忘れていなかった。
「貴方様は、ホワイトベール家のアシュア様ですか?」
今度は頷く。
女の顔がわずかに痛ましい気持ちにこわばる。
「アシュア様はずっと地下にいらして足が弱っています。私が運んでもよろしいですか?」
アシュアは少し考えてから、こくりと頷いた。彼女は光に驚いたアシュアが暴れて叩いても、落ちないように辛抱強く抱え続けてくれていたのだ。
――優しい人だわ。それに私が転んだら、きっとこの人達はまた慌ててお医者様や魔術師様を呼んでしまうわ。
女は微笑んだ。
「私はユミーナと申します。アシュア様、しっかり腕を回してくださいね」
そうして、アシュアはユミーナに抱えられた。
誰かに抱きついていいと言われたのも、ユミーナが久しぶりだった。
地下牢の上にあった小屋は砦のように頑強な建物となっていた。記憶の中より広く大きな建物を歩きながら、ここは嫌な臭いがするなあ、と思っていた。
そこから出るとアシュアが暮らしていた屋敷があるはずなのだが、それは彼女の記憶の中よりずっと大きく立派になっていて――無惨に打ち壊されていた。
ガラスのはまった黒木の美しい窓はあちこちが割れ崩れ、つやつやの石壁は硬いものがぶつかったのか、傷がついたり欠けたりしている。花が散らされ踏み荒らされた庭が、殊更に哀愁を誘う。
美しく整えられていたのがアシュアから見ても分かるからこそ、その壊れぶりはいっそう際立っていた。古くとも傷がなかった頃の方が、貴族の住居としてふさわしい外見をしていただろう。
それは周りにいる兵がやったことなのだが、アシュアにはそこまで想像できなかった。
――お父さまやお母さまはどうしたのかしら。
そんな彼女の疑問は、すぐに解消される。
兵隊達に拘束された両親とアシュアの知らない少年が連れてこられたのだ。
記憶よりきらびやかな格好で丸みを帯びた体つきの両親は、その華美な衣装を乱されながら地べたに膝をつかされる。少年は兵に囲まれたまま、不安そうに周りを見ている。
顔をあげた両親はアシュアには目もくれず、隊長と呼ばれる男のそばの、立派な身なりの青年を見上げた。
「どうかお許しくださいハントール公爵閣下! 我らはあの娘を呪われた娘と思っていたのです! この国では呪いを防ぐことは貴族の義務なのです!」
「そうですわ! 行き違いがあったのです! 不幸な事故ですわ!」
それを聞いて、アシュアはユミーナの首に回した腕を見た。
明るい外へ出ても、肘から先は木炭でできたかのように真っ黒だ。
着せてもらった服こそなぜか平気だが、この腕から飛び降りてその手で周りの草木に触れて回れば、今まで灰に変えて水に流したもののように、それらは元の形を失うだろう。
また落ち込みそうになった少女を、しかし厳しい声が現実に引き戻した。
「そのような言い分が通るものか。貴様らが自分達の娘の呪いを散々に利用していたことは調べがついている」
目を使わなくなった分耳の良くなっていたアシュアには、それが部屋にいた自分に「手を打ちなさい」と優しく言ってくれた声と同じと分かった。
「処分の難しい魔術具の失敗作や欠陥品、呪われて使えなくなった武具防具などの処分で派手に儲けているようじゃないか。―彼女に始末させていたな?」
「公爵閣下。違法実験の検体を処分していた疑惑も――」
「それは後にしろ」
公爵の言葉が遮られたのをいいことに、父親が声を上げる。
「違います! それは我が家が独自に開発した秘伝の魔術なのです! 娘は関係ありません!」
「ではここに廃棄処理場にあったものを持ってこさせよう。魔封じの腕輪も外してやる。私の前で見事無害化、あるいは消失をさせたなら、言い分を認めてやろう」
適当になにか持ってこい、と指示をしようとする青年に、更に父親は声を張り上げた。
「そのような無体はいかに公爵閣下と言えど通りませぬ! 魔術の秘匿は国家間で定められた条約ですぞ!」
「条約! お前にそれを持ち出されるとは思わなかったぞ」
顔を真っ赤にして叫ぶ父親と頷く母親を、青年は鼻で笑う。
「確かに、マナーリア王国とギアス王国にはいくつもの条約がある。マナーリア国の貴族が代々受け継ぎ開発する特殊魔術について過度な詮索をしないことも条約に盛り込まれている」
「ならば――」
「今のはお前達への最後の慈悲だ。愚か者」
「は……」
なにを言われたか分からない、という様子で、両親達は青年を見た。
その前で、青年は兵の一人が持って来た紙の束を受け取り、これ見よがしに持ち上げた。
「近年、我がギアス王国の一部の領地で作物の不作が続いていた。最初は肥料のやりすぎかと思っていたが、調査の結果、灌漑に使っていた地下水脈の水質が不自然に変化していたことが発覚した。調査した人員は口を揃えて「灰を大量に溶かしたようだ」と言っている」
分からないながらも話を聞いていたアシュアは、自分が部屋が埋まらないようにせっせと灰を流していたことを思い出した。
「その地下水脈はマナーリア王国から伸びているものだった」
「そ、そのようなことがギアス王国でわかるはずない!」
「こちらの国王陛下も同じようにおっしゃった。なので国王陛下が選んだ水魔術師と、こちらが選んだ水魔術師に水脈の繋がりの調査をさせた。こちらの提出した調査結果とほぼ合っているとお墨付きをもらったとも」
「な――」
「こちらが計算や調査を重ねてすることを、魔力の行使とやらだけで察知できるのだから魔術師はすごいな。さて、そうなると困るのはマナーリア王国側だ」
貴族のほぼ全てが優秀な魔術師という魔術国家は周辺国からも尊敬や畏怖される存在だが、奇跡の行使が容易い分「あの国であればただ人では不可能なことでも可能なのでは?」などと邪推をされやすい。
そこに「自然現象に見える変化で隣国に不作をもたらした」などと噂を立てられては、後々に天災を理由に他国に攻撃の口実を与えることにもなりかねない。
ましてや自国の水質の問題である。今は他国にしか影響がなくとも、原因を放置すれば自国の農業にも影響が出る可能性は高い。
国の安全のため、諸外国に隙を見せぬため、ギアス王国の調査にマナーリア王国も進んで手を貸すことになった。
「――そんな経緯で、ホワイトベール領から何故か大量の特殊な灰が水に混ぜられて放出されていることは、既に我がギアス王国の科学、マナーリア王国の魔術、両方の観点から立証済み。これが証明書だ」
紙束から一枚取って青年が突きつければ、アシュアの両親は真っ青になった。
そこには調査の正当性を認めるマナーリア国王のサインと玉璽と共に「ホワイトベール家に咎があった場合、罪人はそれまでの地位を全て剥奪の上、処罰はギアス王国側に一任する」旨が記されていたからだ。
「最後に正直に白状するなら、神託の子の生家として最低限の体裁を保たせる道もあったが、お前達の口から出るのは虚言ばかり。もううんざりだ」
青年は書類を側にいた兵士に返し、宣言する。
「ギアス王国代表調査団への度重なる虚偽、妨害行為、そしてなにより、国家条約である「神託の子の誕生報告義務」の違反、および神託の子の監禁虐待。無知による水の汚染を差し引いたところでお前達は平民の重罪人だ。覚悟するがいい!」
「ひいっ」
父親は悲鳴をあげ、母親は泣き叫び、子どもは震えている。
一連の流れを、アシュアは目をまるくして見ているしかない。
難しい言葉は分からないが、貴族の義務の為にアシュアをあの部屋に入れた両親は、貴族でなくなってしまったらしい。
――お父さまとお母さま、どうなさるのかしら。
と、どこか他人事のようにアシュアが思っていると、突然父親が立ち上がり、兵士を振りほどいてアシュアの方へ向かってきた。
「アシュア! この忌み子め! お前が呪われて生まれてきたから――」
罵倒は最後まで続かなかった。
ずっと両親と話をしていた青年が、すれ違いざまに父親の足を払って転ばせたのだ。
受け身も取れないふくよかな男は、勢いよく倒れて顔面を地面に打ちつけた。ジャリ、と音がしたので、身につけた宝飾品のいくつかも傷ついたかもしれない。
「忌み子ではない。神託の子だ。正直に名乗り出ていれば、我が国の重要人物の生家として恩恵もあっただろうが、もはや望みはない」
青年は首を振り、それから呻くだけで動けない男を冷たく見下ろした。
「科学の無知は許されることもあろうが、貴族の無知は許されん。連れて行け」
父親は無理矢理立たされ、引きずられていく。
泣き叫んでいた母親は、ここで初めてアシュアを見た。
「アシュア! お母さまよ! このままでは二度と会えなくなるのよ! この方達にお願いして! 家族を助けてくださいと言って!」
アシュアはもう一度驚いてしまった。
確かに彼女はアシュアの「お母さま」であり、七歳になるまでは優しかった。
だが、腕が黒く染まってからは一度も会わなかったし、今になるまでちっとも自分の方を見ないので、もう忘れられたのだとばかり思っていたのだ。
そしてこうして話しかけられても、アシュアはどうしたらいいのか分からない。
困っていると、母親からアシュアを庇うように体の向きを変え、ユミーナが口を開いた。
「アシュア様は長年の監禁により言葉を喋ることもままなりません。公爵閣下への嘆願など無理な話です」
「あんたなんかに聞いてないわ! その子を返して!」
「お前はもはやホワイトベール家の女ではありません。口を慎まなければ更に罪が重くなりますよ」
着飾り肥え太り鬼の形相をした母親、自分と同じ服を着てアシュアを優しく抱えたままそれを見つめ返すユミーナ。
ユミーナから離れたくないと思ったアシュアは、母親から目を背け、ユミーナの肩に顔を埋めた。
「アシュア!」
「その女を連れて行け! いや、女と思うな! 罪人だ!」
母親の叫びに被せるように、青年が再度命令を出す。
ためらいがちだった兵士達はその言葉に従い、ドレスが破けるのも構わず母親を引きずっていった。
母親であったはずなのに、姿が見えなくなって、アシュアは心底安堵したのだった。
―――
アシュアは隣国であるギアス王国に行くことになった。
なぜだかはアシュアもよく分かっていないのだが、両親は罪人になってしまって行くところもないし、一人で生きていく方法も分からない。
ユミーナもギアス王国の人だと聞いて、アシュアはなら行きたいと頷いた。
青年が身なりの良い年嵩の男達と会話していたが、アシュアにはなんなのかさっぱり分からない。
服と同じ素材でできた手袋をはめられ、きれいな馬車に乗せてもらい、故郷を後にする。
途中途中で医者の治療を受け、きれいな空気を吸っているうちにアシュアは回復し、ギアス王国につく頃にはすっかり喉も治っていた。
言葉を話せるようになったことで改めて調書をとることになり、アシュアはハントール公爵と再会する。
二人はお互いに驚いた。
アシュアはハントール公爵の声しか覚えておらず、実際の人物が絵本の王子様のようだったことに。
ハントール公爵は痩せ細った獣のようだったアシュアが、まだ小さくとも可愛らしい娘になっていたことに。
側にいた供の役人の咳払いで、二人は我に返った。
「こうしゃくかっか」
「ハントールでかまわない、アシュア嬢。まだたくさん話すのは難しいと聞いている。短くしよう」
「はんとーるさま」
「……まだ長いな。私はハルディア·ハントールという名で、親しいものはハルと呼ぶ。それでどうだろう」
「はるさま」
「よし、短い」
そのやり取りに供の役人や控えているメイドは思わず目を剥いたが、互いに見なかったフリをした。
調書と言っても、ごく短いものだった。
アシュアは七歳の時に手が黒くなり、八歳間近になって死んだことにされた。それから八年もの間、あの地下に閉じ込められてから、放り込まれるゴミの量の他に変化などなにもなかったのだ。
調書を取る間、ハントール公爵は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、アシュアが「でも今は温かいものが食べられて、話し相手もいて、外を歩けるようになって嬉しい」と結んだのを見て表情を緩めた。
「はるさま。聞きたいことがあります」
「なんだろうか」
「しんたくのことはなんですか」
「おや。ユミーナに聞かなかったのかな?」
「ユミーナはこうしゃくかっかに聞いたほうがいいと言いました。ほかのひとも」
「まったく――仕方ない。神託の子とは、ギアス王国に時折生まれる恩寵の証――黒い腕を持つ人間のことだ」
ギアス王国は古くから炎の神を奉じており、神はその恩恵として、時折異能を持つ子どもを生まれさせてきた。
炎に愛され魔王を討つ聖剣を打った鍛冶師、疫病のみを焼き殺す火を操る聖女、水害で泥に沈んだ領地を干上がらせて救った王子――黒い腕を持つ人間の伝承はいくつも残っている。
「そして、八年前に「触れたものを灰に変える女」「灰を銀に変える男」の神託が降ったのだが、国内を探しても娘の方がいない。我が国の神は少し大らかなところがあってね。外国に神託の子が生まれることは時折あることなんだ」
真っ黒に焦げたような手を見て真っ当な人間として扱う者は少ないし、ギアス王国の外では与えられた恩寵を活かすことは難しい。なので昔からギアス王国は周辺国と条約や協定を結んで、神託の子が隠されないようにしてきたのだ。
「今回は隠された上に都合好く利用されてしまったのだがね……」
「じゃあ、わたしは銀を作るお手伝いをするのですか」
アシュアが言えば、ハントール公爵はなんとも言い難い微妙な顔をした。
「そうしたいのかな?」
「そうするために、はるさま達は、わたしをさがしにきたのではないのですか?」
十六歳とはいえ発育不全で十二歳でも通りそうな幼さの残る娘が、当然のように言って首を傾げる。持てるものの義務感や責任感からの言葉ではなく、世間はそういうものだと捉えているような、なら仕方ないかな、というような、小さな諦めが感じられた。
「違う、とは言えない。私はギアス王国の外交官として君を迎えに行ったから」
「なら――」
「けれど、それだけではない」
静かに、しかし力のこもった声で彼は言った。
「なら、どうして?」
アシュアはこの国に来るまでにも、この国に来てからも、様々なことを聞いた。
水質調査の結果が出て、ハントール公爵が隣国で神託の子が使われている可能性を指摘したこと。
神託の子とはいえただ灰を作るだけの娘のために国家間の問題にすることを渋った反対派を彼が説き伏せたこと。
さまざまな準備や根回しを経た上でマナーリア国王に謁見し、科学にまだまだ懐疑的なマナーリア王国から調査団の入国許可をもぎ取ったこと。
あの国における廃棄物処理の大部分を担っていたことが発覚したアシュアを引き止められないために、前もってホワイトベール領からアシュアの籍を抜く手続きを終わらせていたこと。
ホワイトベール家という貴族としての後ろ盾もなくなったアシュアの身の回りの一切を彼が世話してくれていること。
「触れたものを灰に変える女」と一緒に神託を受けた「灰を銀に変える男」こそがハルディア·ハントール公爵であるということ――。
「――どうして、そこまでしてくださったのですか」
「……君に、私と同じ思いをしてほしくなかったから、と言って、信じるかな」
「はるさまのいうことならしんじます」
「そう、真っ直ぐな目で言い切られてしまうと面映ゆい心地になるな」
公爵は貴族らしからぬ顔でくつくつ笑うと、姿勢を正して、改まった様子で彼はアシュアに言う。
「私の昔話を聞いてほしい」
「はい。はるさま」
彼の話は、世界的に見れば珍しいものではなかった。
彼はギアス王国の第三王子として生を受けた。
普通ならその地位に見合った生活を約束されているはずなのだが、側室であった母は彼が神託を受けた十三歳の時に逝去。「灰を銀に変える」力を我が物にしたい奸臣や、自分の子を次期国王にしたい他の側室や正妻が一斉に牙を向いた。神託の子であるために命を狙われることこそなかったが、後ろ盾になってくれるはずの母の生家すら敵となり、味方のいなくなったハルディアから生活のための予算や持ち物をかすめとる者すら現れ、彼は王子でありながら王宮の片隅の床で眠る生活を強いられたのだ。
「はるさまも、床で?」
ハントール公爵が本当に王子様であったことにも、そんな男が自分と同じように床で寝ていたことも、アシュアには驚くべきことだった。
「幸い私は三年ほどで兄上達に助けていただいたが、一人ぼっちで固くなったパンをかじるのは、とても心細く、悲しいものだった。だから、普通にものに触れることすら難しいだろう神託の子があの日の私と同じような日々を送っていると思うと……そう、耐えられなかった」
俯いてそう言った彼は、どこかが痛みを我慢しているような顔をしている。
アシュアは少しだけ考えて、立ち上がって公爵の手を取った。
「はるさ――いいえ、こうしゃくかっか」
たどたどしいながらも、アシュアは貴族のような言葉を選んで言った。
「わたしはいまやただのアシュアですが、こうしゃくかっか、ひいてはぎあすおうけのためにつくすかくごです」
そう言ってから、花開くように笑う。
「アシュアをあのへやからだしてくださったのははるさまです。わたしをすくってくださったのははるさまです。だからわたし、もういたくも、くるしくも、さびしくもありません。そうしてくださったやさしいはるさまなら、いままでとおなじ、ものを灰に変えるしごとでも、わたしにおなじおもいをさせることはないとしんじています。あなたをしんじています。はるさま」
途端に、ガタガタガタン! とすさまじい音がした。
伴の役人も、控えていたメイドも、あまりの光景に、ハントール公爵が娘の言葉にあてられて腰を抜かし、テーブルの上のものをひっくり返しながらソファから転げ落ちたのだと理解するのに数秒を要した。
「はるさま? こうしゃくかっか?」
そんな中で当の娘だけが、王子様のような人が床に滑り落ちたのを目の当たりにして、瞳を瞬かせていた。
ハントール公爵のとっさかつ必死の努力によって、彼女は彼の手を掴んだままでありながら、倒れた彼に巻き込まれずにその場に立ったまま首を傾げていた。
ハントール公爵は元々、アシュアに選択肢を提示するつもりでいた。
このまま神託の子として生きるか、自分と一緒に神に力を返上してただの人間になるか、だ。
本来なら一人でもできる儀式だったが、同時に神託を受けた二人は、二人一緒でなくてはならなかった。
確かに、彼女と自分の力があればいくらでも銀を生み出せるようになる。食器としても装飾品としても魔道具の材料としても人気な銀である。しかも銀にする素材は石でなければなんでもいいときている。間違いなく国に莫大な利益をもたらすだろう。
だが、そうなればアシュアをこの国に縛りつけることになる。
七歳で全てを奪われた娘なら喜んで従うだろうが、それでは洗脳と変わりがない、と公爵自身は思っていた 。
ならば臣下に降った自分が無尽蔵の財力を手にするわけにはいかないだとかなんとか理由をつけて、神託の子としての力をアシュアと共に神に返上し、今まで通り一外交官として働くのも手だ。
アシュアは力を返上したとしても神託の子だったことには変わりがないので、この国で無碍な扱いはされない。本人は幸い貴族という意識がなく働くことも好きそうなので、信頼できる筋に預けて仕事を習わせることもできる。
国からはどう言われてもいいが、自分と同じ神託の子であるアシュアに「自分を利用するために助けた」とは思われたくない、というのが彼の本音だった。
だというのに――当のアシュアから「私は既にこの国の人間です。あなたが国のために働くなら私もそうします。私の気持ちを裏切るようなことはあなたならしませんよね」と言われてしまった。とびきりの笑顔で「しんじています」と言い切られてしまった。
それは、必死にアシュアに手を伸ばしながら、心の内側では「自分がしているのは国を巻きこんだ自慰行為ではないのか」と煩悶していた彼にとって、最大級の殺し文句であった。
―――
数年後、神託の子である二人は結婚した。
無尽蔵の銀を生み出せる二人の結婚式は、国で二番目に豪勢な式として他国でも評判になったという。
―――
後の世で、歴史学者の中には二人の婚姻を王命によるものや策略によるものと考察する者が出てくる。
当時監禁されていたアシュアを救出する手際が公爵のみでなされたものとは思えないほど巧みであったことや、仲睦まじいとされる文献は数あれど二人に子がいなかったこと、なにより二人の力により国にもたらされた莫大な富の恩恵が根拠とされる。
監禁され無教養だったのをいいことに、アシュアを囲い込んだのではないかという意見も出る。
それをアシュア·ハントールが読めば、くすりと笑うだろう。
「先に好きになったのはわたしだけれど、「愛してる」は先に言われてしまったのよ」
それをハルディア·ハントールが見れば憮然とするだろう。
「アシュアは子を欲しがっていたが、彼女の身体では母子共に死ぬ危険があった。一代公爵の身であるし、私は恵まれなくてよかったと思っている」
アシュアの側仕えであったユミーナが見れば首を傾げただろう。
「本当に全部策略だったら、ハルディア様はずっとかっこよくて完璧なアシュア様の王子様でいられたと思うわ」
当時の国民が見れば手を叩いて笑うだろう。
「王国が全力で一人の娘を騙したなら、わざわざ大庭園なんて作るもんかね! もっとうまくやるだろうさ!」
――ギアス王国があった国の、ハルディア·ハントールが治めていた領地だった区画には、今でもたくさんの花が咲いている。
資料は焼失して残ってはいないが、領地の一角だった庭園には、崩れ行く枯れた花を抱きしめるアシュアの石像と、ハントール公爵夫妻が花の中で互いの手を握って寄り添う石像が残されている。
―END―
<サマーシンデレラ企画>という楽しい企画を26日に知り、
「触るもの皆灰になる女の子とそれで恩恵を受ける王子様が最後に恩恵放り投げて女の子を幸せにする話書こう!」で急ピッチ出力したら全然違うのが生まれました。自分のことながらAI生成イラストより謎すぎる。
秋月忍様素敵な企画ありがとうございます素敵な作品にたくさん巡り会えました。趣旨とずれていたらすいません