社会に従順な羊になるのは悪いことなのか
前に他の方もエッセイで書いてらっしゃいましたが、学校の国語のテスト問題でこんなのありますよね?
『この時、作者は何を考えていたか、答えよ』
「早く書き終わらせて遊びに行きたいなと考えていた」がたとえ正解だったとしても、その正解は書いてはいけません。大きなバツを喰らいます。
「本人じゃないのでわかるわけがありません」などという正論をぶつけても、痛い罰が返ってきます。
授業をちゃんと聞いていればわかるはずなのです。
あの時、先生がこう話してたな。
それを覚えていれば、それを書けるように出来ています。
あるいは授業でそんなの話してなかったとしても今まで先生が教えて来た『要領』で解けば、正解できるはずなんです。
知らんけど。
たぶん、そう。
清水義範さんも確か書いてらっしゃいましたが、学校とは学問を教える場所ではなく、社会に従順な羊になるための要領を教える場所です。
教えられたことに従順に従っていれば、安定した社会生活を送れる人になれます。
いちいち反抗したり、正論をぶつけたり、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりすると、問題児とされます。
小説でも、いちいち主流に逆らったり、自分の好きなものを好きに書いたり、読者の意識を変えてやろうなんてしたりすると、多くの人に読んでもらえません。
自分独自の個性を押し通そうとしても、それがみんなの気に入るものじゃなかったら、『こういうのを書いて!』と言われるだけです。
ロックという音楽は元々マニアックなものだったと思います。
不良の聴く反社会的な音楽だとか、重度の中二病にかかった人が『俺、こんなものがわかるんだぜ』と自慢するための音楽だとか、自分は特別な人間だと思いたい人が聴く音楽だとか、昔々はそんなふうに言われていたようです。
ロックをやるミュージシャンのほうも、『聴く人が不快になるようなものがやりたい』とか『売れなくてもいいからわかるやつだけわかってくれればいい』とか、そんな姿勢だったように思います。
ニルヴァーナのカート・コベーンさんなんて、自分のバンドの大ヒットアルバムを『商業的なアルバムを作ってしまった』と嘆いてらっしゃったそうです。
もちろん彼が何を考えて自殺したのかは国語問題にでもならない限りわかりませんが……。
今、ロックは社会に従順な羊になったと思います。
明るく、良識的に、商業的に、ウケ狙いで、でもギターとベースとドラムでロックの音を出せばロックだと言われます。
私には三味線と和太鼓とEDMのバキバキ打ち込みベース音源で変な音楽を奏でたほうがよっぽどロックなように思えますが──
でもそれはみんなにとってロックではありません。
社会にとって『ロックとは』みたいなものはもう決まっているので、それに従順に、あるいは純真な心でそれを信奉していないと、ロックとは認められません。
やる側としては、もし三味線と(以下略)で新しいロックをやってやろう、形骸化しているロックをぶっ壊してやろうみたいな気概がもしあったとしても、
やっぱりやるからには聴かれたいですよね。
だから、自分のやりたいことと社会が求めているものが違っていたとしても、聴かれるためには社会に従順になる必要がある。
悪いことではないですよね。
聴いてほしいから音楽をやるんだから。
その姿勢を、高みから見下ろすような視線で、
「ほほほ! あやつはニセモノじゃ! エセアーティストじゃ!」
なんて、貴族みたいな物言いで貶される筋合いはないですよね。
たとえ生活がかかってるわけじゃなくても、音楽をやるからには聴いてほしい。
少数のマニアックな人たちにだけ聴いてもらえても、それも嬉しいかもしれないけど、どうせならなるべく多くの人に聴かれたい。
小説でも、たとえ『なろう作家』でも、書くからには読んでほしい。
わかるやつだけわかれみたいな姿勢もカッコいいとは思うし、真摯だとは思うけど、
でもどうせならなるべく多くの人に読まれたいと思うのも、悪いことではないですよね。
そのために、学校のテストでいい点を取るためには社会に従順な羊になることが必要なように、自分の考えとか正論だとかはそっちのけで、
みんなの気に入るようなものを書きたいと思うことも悪いことではないですよね。
それで失敗だったと思うような連載作品はことごとくエタらせたり、『俺たちの戦いはこれからだ!』的に自主的打ち切りにしたりして、
ウケる作品だけを続けようとすることも、悪いことではないですよね?