6.僕の秘密
中学3年生の5月、前野湊の通う中学校に転校生がやってくる。龍崎空という、小柄で可愛らしい女の子だ。雨の日、傘を忘れた空に、湊が小さな折り畳み傘を差し出したところから、2人の距離は近づいていく。
お互いに悩みを抱えながらも、お互いを大切に思い、そして「小さな嘘」をつく。
第一章では、湊の目線から物語が進み、第二章では、空の目線から物語が回収されていく。
中学生という、大人でも子供でもない、そんな2人に起こる、心温まる奇跡の物語。
僕には、人には言っていない秘密がある。秘密と言っても、決してやましい類いのものではなくて、秘密にしても差し障りがなく、これまでの人生を生きてこれた。
「何だそんな事か〜」とか
「それは大変だね」で、あったり、
それを周りに知られる事によって、同情的な扱いを受けたり、
「普通の人とは違う変わった人間」だと、思われるのが怖かったのだ。
僕が、それに不信感を持ったのは、中学校に入学してからだ。これまでにあった事がない、同級生や先生達の名前一覧表を目の前にして、目がクラクラするような感覚に陥った。
入学して3ヶ月ほどたった頃、友達もできたし、クラスにもなんとなく馴染めていた。
小学生からの同級生の慎は、身長が低い事がコンプレックスの、スポーツ万能少年だ。給食を食べるのは、誰よりも早く、すぐ外に遊びに行きたがる。
「湊、律、サッカーやろうぜ!」
「待って、ノート写しきれなかった。見せてくれよ」
前の授業は移動教室で、僕はノートが写しきれないまま、教室に戻っていた。
酸素を作り出す実験で、水の中から酸素がブクブクと湧き出てくる。その酸素の塊が、光に照らされ、たまにキラッと光って見えたり、ボコボコと音をさせたり、そんな様が面白くてたまらなく、夢中になってみていた。
しかも、その酸素の塊は、瓶に入ると、誰が誰だか見分けが付かなくなり、みんなひとまとめに、O2酸素と呼ばれるのだ。
気がつくと授業は終わっていて、
後で誰かに写させてもらえばいいと思い、そのまま教室に戻って給食を食べた。
「律? 」
ノートを借りるため手を出したが、ノートが手元に来ない。
「ごめん、俺、後半写してないわ」
律は、頭をかきながらニカっと笑って見せた。
「マジかぁ〜、慎は? 」
「赤字しか、写してない」
「慎もかよ」
「借りたら良いじゃん! 」
慎は、隣の席の女子に目をやって言った。
「佐藤さん、化学のノート見せて」
と、言おうとして、僕は1度口を閉じて言い直した。
「ねぇねぇ、化学のノート見せて」
ノートを借りる時に、机の左上に張ってあるテープを確認した。「危ない、斉藤さんだ」
入学から3ヶ月も隣の女子の、名前にも確信が持てなかった事が、すごくショックだった。
毎日のように雑談はするし、別に初めて喋った訳でもない。なんなら、ちょっと可愛いなとさえ思っていた。
そんな子の名前を間違えて呼んでいたらと思うと、本当にゾッとした。
思えば、思い当たる事が今までもあった。
初めて会った同級生の名前はもちろん、担任の先生の名前がなかなか覚えられなかった。
名字は見ているだけで、頭が混乱してくる。漢字が2つ3つ並んでいる様が、気持ち悪くも感じてしまう。
僕もだんだんと学習した。人に話しかけたい時は、
「先生」「先輩」「ねぇねぇ」「あのさー」
のように、名前を覚えなくても何とかやっていけるのだ。
しかも、僕の場合は、あだ名はけっこう覚えられた。平仮名のあだ名は、特に覚えやすく、同年代の子は、あだ名呼びする事で、逆にすぐに打ち解けて仲良くなれた。
後になって思えば、小学生の時は、ほとんどの子があだ名呼びだったし、みんな漢字をそれほど必要としない。同じ「斉藤さん」でも、きっと僕の頭の中では、平仮名で「さいとうさん」で、記憶していたのだ。
中学生になると、なぜかみんな名字を呼び捨てにする。僕にとっては迷惑な話だ。
漢字テストも苦手だったが、名前を覚えるよりは容易く、とにかく、2文字から3文字の名字を、人の顔と結びつけて記憶することが難しかった。
スマホで検索すれば、心の中がスッキリするのかもしれない、ずっとそう考えてはいたが、実際に自分の症状について調べたのは、1年も終わりの頃になってしまった。
怖かったんだ。認めたくなかったんだ。自分が普通とは違うという事が、知られたくもないし、知りたくもなかった。
「発達障害」「心理的なストレス」「心のケア」そんな言葉達が、スマホの画面に映し出され、僕の小さな頭の中をいっぱいにしていた。
だからだ。だから、あの日なぜ、初めて会った彼女の後ろ姿を見て、戸惑うことなく
「龍崎空さん」と、呼ぶ事が出来たのか?
僕はあの瞬間、自分自身に驚いたのだ。
それはきっともう、初めから彼女は、僕にとって特別な存在。本当の初恋ってやつだったって事だ。
少しでもお楽しみいただけましたでしょうか?
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