イブと銀の小さな箱
銀で周りを縁取りされた
両手の平ぐらいのサイズの小箱
上蓋にはデンティルがあしらわれ、
箱は幾何学模様のパーケットリーで飾られている
部屋の明かりが縁取りに触れて、銀色の光が輝く様がとても綺麗で、イブは小さな頃からこの小箱を眺めるのが好きだった。
普段は母が鍵のかかったケースの中に
大切にしまってある小箱だったが、それが母の化粧台の上に置かれているのを見つけ、イブは宝物を見つけたように目を輝かせた。
『この小箱はね、開けちゃダメなの』
母はいつもそう言って、小箱を触らせてはくれなかった。
イブは幼い頃からずっと、この箱の中に何があるのか、気になって気になって仕方がなかった。
『この小箱には、気持ちがいっぱい詰まってるの』
この箱の中には何があるの?
イブがそう問うた時、母は笑みを浮かべてそういった。
大事そうに、愛おしそうに、けれどどこか寂しそうに、小箱を撫でる母を見て、イブは小箱に少し妬いてしまったこともある。
中には何が入ってるんだろう。
気持ちがいっぱい詰まってるって、
どういうことなんだろう。
イブは小箱を前にして、1人うんうんと悩んでた。
開けて中は見てみたい。
でも、開けたら母は悲しむだろうか。
開けてはダメと言われた箱を
勝手に開けた私を見たら、
悲しい顔をするのだろうか。
小箱を見るときの母の表情は、いつも優しく微笑んでるのに、どこか悲しそうにしている。
この小箱には悲しい気持ちが詰まっているのかもしれない。
だから、開けてはダメだって、母はそう言うのかもしれない。
部屋の灯りに照らされて、光り輝く銀色は、とてもきれいに見えたけど、とても悲しそうにも見えた。
イブはそっと小箱に手を触れる。
開けちゃダメ、と静止する声と
開けてみたい、と急かす声
結局イブは欲求に負けて、小箱の蓋をそっと開けた。
小箱の中にはたくさんの封筒が詰まっていた。
一番上の一通を手にして宛名を見ると、そこには母の名があった。
裏を返して見てみたが、差出人の記載はない。
代わりに裏には蝋の印があり、けれど知らない印章だった。
封筒の上はペーパーナイフで切られていて、中には便箋と、赤いバラの花弁が挟まれた栞のような紙が入っていた。
赤いバラの花言葉を思い浮かべて、鼓動が少し早くなる。
この便箋を開いていいのか、中を見てはいけないのでは、とそう思いながら、便箋を開く手を止めることは出来なかった。
その手紙は、形式通りに季節の挨拶が述べられたあと、母の様子を気遣う言葉が綴られていた。
情熱的というよりは、優しくそよぐ春風を思わせる言葉が続き、差出人は女性であろうと思わせた。
こちらは木々が黄金色に染まり始め
風も冷たくなってきました。
あなたはお変わりありませんか。
そんな言葉から始まった手紙は、母の様子を気遣いながら、差出人の近況が伝えられていき、ごく普通の友人とやり取りを行う手紙にも見えた。
そうして手紙が半ばにも差し掛かる頃、突然イブの名前が出てきた。
どれほど大きくなっただろうか。
何が好きなのか。
どんな様子か。
以前に贈った服は気に入ってくれただろうか。
手紙に書かれた服のデザインは、イブが昨年、お気に入りでよく着ていた服のデザインによく似ていた。
今は少し小さくなったが、今でも時折着ることがある。
贈り物だとは聞いていない。
あれは父が買ったものだと、ずっとそう思ってた。
しかし、思い返してみれば、父が買ったものだとは、一言も言われたことはなかった。
ただ、プレゼントだと、そう聞いただけだ。
自分の体にピッタリ合うように採寸されて、動きやすいように気遣われていて、それでいて最新の流行が採り入れられた素敵なデザインが好きだった。
一通目の手紙をしまい、少し震える手で、ニ通目の手紙を読んでみる。
その手紙には、自らを悔いる言葉が延々と書き連ねられていた。
仕方がなかった。
許されなかった。
ここに居ては生けていけなかった。
自分の下では幸せになれない。
そんなことは分かっていても、
ちゃんと愛してあげたかった
と、悔いる言葉が綴られている。
何を後悔しているのかは、イブも未だ子供とは言え、もう幼いわけではないから、なんとなくは分かり始めていた。
『この小箱には、気持ちがいっぱい詰まっているの』
母の言葉が思い出される。
この小箱には確かに気持ちが詰め込まれていた。
悲しみ、苦しみ、自らへの怒り、渇望、罪への懺悔に自身への罰。
『この小箱はね、開けちゃダメなの』
母がそう口にしながら、浮かべていた笑みが悲しそうだったのは、確かに悲しみを感じていたからなのだ。
けれど、愛おしげにしていたのは…。
最後の手紙は、小箱の中の手紙の中で最も古い、多分一番最初の手紙。
そこには望まれざる子を宿してしまった後悔と、それでも日に日に育つ子を見て、同時に育つ愛情に、揺れ動く気持ちが綴られていた。
自分の下では幸せになれない。
けれど、この子を見捨てることも、自分にはとても出来そうにない。
親族に頼ることなど出来るはずもなく、頼ることが出来るのはあなただけ。
そう手紙には書かれていた。
寄宿舎で共に過ごした時間は5年と決して長くはないけど、感じた喜び、悲しみ、苦しみ、楽しさを分かち合えたあの日々は、今も消えない幸せなときだったから、と。
それから、先にはイブも聞いたことのなかった母の悩みについても記載されていた。
結婚した後も子供ができず、悩み、しかし、愛する父が他の誰かと夜を共にすることを考えると苦しく、笑って許すことができそうにない、と嘆いていた母を知っているから、と。
だから、と、差出人の女性は続ける。
あなたなら、きっとこの子を幸せにしてくれる。
それは自分の身勝手な願望であり、単なる希望でしかないと分かっていても、頼れるのはあなたしかいない、とそう綴られていた。
封筒を、一通一通、大切にしまっていく。
そうして、すべての封筒をしまい終えて、蓋をそっと閉めたところで、イブは初めて涙を零した。
何が悲しくて泣いているのか
そもそも悲しくて泣いているのか
知ったことへの後悔と
知ったことへの安堵と
様々な感情が心の中でぐちゃぐちゃに混ざって
溢れ出たものが水滴となり零れたような、そんな感じでもあった。
部屋に帰ろう。
家族と顔を合わせたときに、平気な顔をしていられるか、今はそんな自信はないが、それでもここにいるよりは、と化粧台の前の椅子から立ち上がり振り向くと、入り口の扉が微かに空いていることに気付く。
閉め忘れただろうか、と不思議に思いながら廊下に出ようとしたところで、そこに母が立っていることに気付いた。
イブは心臓が止まりそうになる程に驚き、思わず声を出しそうになったが、それよりも早く、イブのぐちゃぐちゃな感情ごと包むように、ふわりと母に抱き留められていた。
「開けちゃダメって言ったのにね」
そう言った母の声は、イブを責めるような声ではなく
「ごめん…なさい」
それでも約束を破ったのだから、と、イブは素直に謝った。
そうして、イブもまた、母の体をぎゅっと抱きしめる。
「いつか話そうと思っていたの」
イブを抱きしめたまま、母が耳元で囁くように語りかける。
イブは母の胸に顔を埋めたまま、小さく頷く。
「あなたが望むなら…」
「お母さん」
母の言葉を遮るように、イブは母を抱きしめる力を強める。
「愛してる」
母もまた、イブを強く抱きしめ返してくれるのを感じながら、イブはそっと瞳を閉じて、母の胸に体を委ねた。
本作の基となった詩「銀色小箱」
https://ncode.syosetu.com/n8684hv/
本作の前日譚の様な位置づけの作品となっています